LOGIN─────あの日。
あの夜から“俺”の世界は変わった。もちろん、悪い意味でだ。
「あ、この発信機付きの首輪はいいな。すごくお前に似合いそうだ」
一般人ならドン引きもののマニアックな雑誌を広げながら、彼は微笑んだ。
深夜、高級ホテルに男二人で過ごすのは気分が悪い。
無駄に機嫌が良いのも薄気味悪い。とにかく、隣に座る青年が嫌で嫌で仕方なかった。
「ヴェルム、お前はどれが欲しい? お前が欲しい物も買ってやるから、遠慮なく選びな」
「生憎その本に載ってる商品で俺が欲しいもんはない」
楽しそうに笑うクリストとは対照的に、ヴェルムの気持ちは最大限まで沈んでいた。その原因は、クリストにある。
こんなはずじゃなかったのに、という言葉を何百回唱えただろう。無論、心の中で。
ヴェルムは窓際へ寄って、煙草を取り出した。そして過去の記憶を振り返る。
三日前、彼……クリストに出会った。
穏やかな雰囲気の、見るからに真面目な好青年で、その上肩書きのある完璧な人間だった。彼ならば、安心して店を譲れるかもしれないと淡い期待をした。
歩み寄っても今までの人間のように逃げないし、多少なりとも自分に好意を持っている様だったから。
……しかし結果は悲惨だった。
クリストは鬼畜で、そのせいで自分はかつてない屈辱を味わった。今や彼の奴隷といっても過言じゃない立場まで降格している。
「ヴェルム」
声掛けに振り返ると、かなり近い位置にクリストが立っていた。
「なに……」
「煙草」
言葉と同時に、ヴェルムは手に持っていた煙草を取り上げられてしまった。
「匂いがつくからやめろと言ったろ」
「誰のせいで吸う量増えてると」
思ってんだ。と、最後まで言い終わらないうちに唇を掠め取られた。
「……っ!」
両手を掴まれ、窓に背を預ける。逃げられないこの時間が未だに恨めしい。
どんなに美形だろうと、好きでもない相手と意味の無いキスはできなかった。
「……はぁっ」
やっと唇を離され、ヴェルムは呼吸を整える。
「なぁ。俺と初めて会ったとき、キスしてきたよな。あれは何でだ」
クリストの言葉に、ヴェルムは少し驚いていた。あえてそのことを訊いてくるとは思わなかったから。
「あぁ。……はっ、アレね……」
しかし吐き捨てるように言って、彼から乱暴に煙草を奪い取った。
「何でだったかな。……忘れた。でも結局はビジネスだよ。店を任したかっただけ、俺は金にならないことはしない主義だから。誰かとお近付きになるには必須の挨拶だろ」
ヴェルムは天井まである窓ガラスに寄りかかった。
「それより、アンタこそ俺をどうしたいんだよ」
「どうされたい?」
「どうもされたくない!」
クリストの横をすり抜け、ヴェルムは彼が読んでいた雑誌をゴミ箱に投げ捨てた。
「俺の今の要望はひとつだ。その……俺とセックスした後に撮った写真を、全て消せ」
そう。人身売買の告発はまずい。しかしもっと焦ってるのは、……あの時の淫らな自分の写真を盗撮され、彼に握られていることだ。あれは人生の失墜より人権に関わる気がしている。
だがクリストは涼しい顔でその要望を一蹴した。
「それは了承できないな。あの素敵な写真を消すなんて残酷なこと、俺には不可能だ」
「何が素敵なんだよ、馬鹿にしやがって……」
羞恥心はやがて明確な怒りに変わってくる。
この恨みは絶対に、どんな手を使ってでも晴らさねば。そう心に誓った。
彼と出会ってから起きたこと、全てが屈辱。その一言に尽きる。
「怒ったお前も中々良いな。少なくともいつもの無表情よりは断然いい」
くい、と顎を強引に持ち上げられる。
ヴェルムは身長は決して低くはないが、クリストが高身長の為に差があるように感じていた。
「でももう少し色気を出してほしいな。うん、最初に会ったときぐらいの」
「アンタに出せるのはもう殺気だけだよ。それにもう慣れて魅力なんかなくなったんじゃないか? 美人は三日で飽きるって言うし」
はぁ……自分で自分のことを美人だなんて言ってしまった。さすがに引く。
「大した自信だな。自分を美人って言うなんて」
案の定蒸し返されて閉口した。何故か彼といると駄目な部分ばかり見せてしまう。
他の人間なら、ここまでボロを出すことはない。もっと自分を殺すことができる。
感情的になるのは、彼を意識しているからだ。彼は誰にも見せたことがない自分の一面を知ってしまっているから。
「でも、まだ夢心地だよ。過程はどうあれ、お前を手に入れることができたんだし」
「見てくれさえ良ければ何でもいいのか? 俺は犯罪者だぞ。アンタが指摘した通り、子どもを売り買いしてたんだから」
────覚悟はしていた。
それでも実際に自分の口から説明すると、重い何かがのしかかる。
「……何か疲れた。もう帰る」
煙草を灰皿に押しつけ、前髪を乱暴にかき上げる。そのままドアへ向かおうとしたが、不意に腕を掴まれた。
「それなら泊まっていけばいいじゃないか。その為のホテルだし、……心配しなくても下心なんかない」
彼はそう言ってくれたが、最後の発言はかえって警戒心を煽った。本当に下心がないなら他にも場所があっただろう。
「心遣いどうも。俺は家でゆっくり寝る。大体部屋もシングルなんだから……」
そこまで言いかけたところで、視界が反転した。
身体が宙に投げ出される。瞬時に判断する。ベッドへ押し倒されたようだ。
「この……やっぱり下心あるだろ!」
「下心というか……自然な流れだよな。恋人と部屋で二人きりになったらやることは一つだろ?」
「知るか! 恋人じゃないし!」
ヴェルムは彼の胸を力ずくで押し返し、上体を起こす。ベッドの上に座り込んだままだが、それでもクリストには背を向けた。
「職業柄固定した恋人なんて持てないんだよ。第一俺には必要ない」
ついつい流れに乗って、言わなくてもいいことまで言ってしまった。
「逆にアンタは? 恋人とは続く方?」
「人並みかな」
人並みが分からないから訊いてるのに、相変わらず話の噛み合わない相手だ。だが変な世界に目覚めてしまった今の彼に付き合える人間は少ないだろう。
無論、自分も。自分に付き合える人間なんていやしないと、ヴェルムは内心舌打ちしていた。
「はぁ……」
力無くベッドに倒れる。
「どうした。ほんとに抱かれたいのか?」
クリストは冗談ぽく言ったが、ヴェルムは答えずに瞼を閉じた。
「スーツ、皺になるぞ」
「……」
多分、疲れていたんだろう。彼の台詞も遠く、意識と共にどこかへ消え去っていってしまった。
────熱い。
少し身体を動かした時、温かい何かに触れた。
……?
うっすらと見えた視界の先には見慣れた顔があった。
「わっ!」
「ん?」
目の前には、同じベッドに寝ていたクリスト。彼は、こちらの声で目を覚ました。
くそ、失敗した。起こさなければこっそり帰れたのに。
「ふう……何か、俺もつい眠くなって寝ちゃったよ」
「あ、そう」
スーツの皺を伸ばしながら、冷静に思い返す。
写真を握られてる以上は、結局どこにも逃げられない。
ならこっちから攻めればいい。彼について行くのではなく、彼を自分の方へ引き込み、ものにする。
自分はいつもそうしてきた。彼がどれほど有能な人物だろうと、今回だって例外じゃないはずだ。
時折、庭先で知らない車のスモールライトが光る。気にしたことはなかった。家の前は毎日たくさんの車が通り過ぎ、停車し、走り去っていく。それが日常風景……いや、背景だ。だからいつも庭でボール遊びをし、その合間に道路を見るだけだった。気に留めない。親にも話さなかった。ここ最近、黒のワゴンが家の近くに停まっていたことなんて。たくさんあるうちのひとつ。毎日遊んでいるボールだって、本当は見えちゃいなかった。あの頃持っていたのは何色のボールか全く思い出せない。俺は、色が見えない。突然……いや、必然か。両親が出掛けてすぐ、知らない男達が庭に入ってきた。叫ぶ前に口を塞がれた。転がるボール、真っ黒に染まる視界。腕を引っ張られ、どこかへ連れて行かれる。あの時から、俺の世界は色を失くした。◇「ヴェルム。眠れないのか」白光のライトが照らされる。眩さからヴェルムはベッド上で眉を寄せた。隣では恋人のクリストが横たわってこちらを覗いている。一度は明かりを消し二人でベッドに入ったのだが、何度も寝返りを打つヴェルムに気付いたのだろう。クリストは身を起こしてヴェルムの額に手を添えた。「汗すごいぞ。明日は休みだろ、シャワー浴びたらどうだ?」「あぁ。でも……どうせまた汗だくになるよ」どうして、と不思議そうに尋ねるクリストにヴェルムは夢のことを話した。連日の悪夢。幼い頃に誘拐された、あの忌まわしい過去を。全て聴いたクリストは苦しそうな顔をしていた。「何か温かいものでも飲むか」「いや、いい」「そう……」わずかに沈黙が流れる。しかしそれもすぐにかき消された。ヴェルムが被る白いシーツを押しのけ、クリストが微笑む。「じゃあ、気分転換に深夜のドライブに行こう」クリストの提案を聞いたヴェルムは怪訝そうに首を傾げる。寒い、怠い、色々な反応を返した。ところが強引に引っ張られ、ベッドから下ろされてしまう。「面倒だったら車から降りなくていい。それなら服も着替えなくていいしな」「つったって、着替えないと何か不安だっての。ちょっと待ってて」ヴェルムは渋々普段着に着替え、クリストの愛車に乗り込んだ。気分はどちらかというと不機嫌のルートに傾いている。それを前面に出せないのは、分かっているからだ。彼が自分を気遣って外へ連れ出してくれたことを。出掛ける寸前クリストは何かを後部座席に詰めていた
昨夜、ノエルは静かに息を引き取った。まだ若いのに。もっと早くに診てもらっていれば。そんな言葉を腐るほど聞いた。聞けば聞くほどに自分が許せないのと、やっぱり彼は凄かったんだ、とため息をもらした。今から五年前。ノエルは病を患い、余命宣告を受けていた。病魔は彼を蝕み、取り返しのつかないところまで進んでいたらしい。治療はもう意味を成さない。だが彼は病気のことなど一切口にせず、いつも笑って過ごしていた。独りになった家で考える。あの時、ノエルは何で自分を傍に置いたのか。命より大事な店を、自分に託したのか。訊いておけば良かった。そうだ、何でそんな当たり前のことを訊いておかなかったんだろう。気になっても「後」でいいなんて。その「後」は、絶対手の届かない場所にあったのに。ノエルが最後まで守った店はとうとう一つだけになり、俺が引き継いだ。それは彼が初めて開いた店で、絶対に失いたくなかった大事な店だから……そこだけでも存続して本当に良かった。後は続けるだけ。また誰にも頼らない、一人きりの人生が始まる。どんな事をしても、店を守る。視界がぼやける。白すぎて何も見えない。これだと、もう黒と同じだ。眼が、痛い。それでも頑張ろう。それで落ち着いたら、俺も……ちょっと休んでいいかな。それぐらいは許してくれるのかな。今はいない、あの人は。「……おい」冷たい空気が、肌に触れる。「おい、起きろ」その直後に、温かい指先が頬をつねった。「ヴェルム!」「っ!」頭上で掛けられた声に、心臓が止まりそうなほど驚いた。まだ頭の中でうるさいぐらい響き渡ってる気がする。「やっと起きた。家着いたぞ」ヴェルムはまばたきを繰り返した。愛車の中で、隣に座る青年の顔を見てホッとする。そこには、大事な恋人……クリストの存在があった。「悲しい夢でも見てたか?」「え?」「……泣いてる」彼の指が、そっと目元を撫でた。そしてすくいとるような仕草をする。そうか。いやに腑に落ち、頷いた。「すごく長い夢、見てた」自分でも乱暴に目元を擦る。やっぱりというか、袖はぬれてしまった。「なぁ、クリスト」「ん?」「……好きだ」そうだ……まだ休むわけにはいかない。俺の言葉に、予想どおり彼は笑った。「どうした。寝惚けてるのか」外食後、家へ向かってる途中に眠ってしまった。安着したもののク
居心地が悪くなければいくらでも留まれる。今までは居心地が悪い場所を転々として、少しでもマシな方へ逃げていただけだ。初めて、心から居心地が良いと思える場所を見つけた。ヴェルムはノエルの家に居候するようになり、早くも数ヶ月が経とうとしていた。「ヴェルム、卵もう少し火を通したらどう?」「じゃあ自分で焼けば」「冷たっ……! わかった、お前の好きな加減で良いよ」ヴェルムは家事をする代わりに、生活費込みで彼の世話になっていた。完全に打ち解けたわけじゃない。得体の知れない相手。だが彼にとっても、自分はそういう存在だ。素性の知れない者同士、不思議な同居生活を送った。ノエルは何故自分を拾ってくれたのか、それも正直分かってない。本当に、同情心なんだろうか。「いやー、飯はヴェルムが作ってくれるから助かっちゃうなぁ」食事を終えた後、食器を洗ってるとノエルは真横の壁に寄りかかった。「もうすっかりウチのお嫁さんだな」「病院で頭診てもらったら」「はは、怒んなって。でも俺は、その髪色が好きだな。……白って大好きなんだ」ノエルはまだ冗談を言って髪を梳くけど、途端に咳き込む。心なしか、血色も悪い。こちらの髪色云々より、彼の顔の方が青白く見えた。「……なぁ、ちょっと休んでれば」「あぁ、後でちょっと休ませてもらうよ。それより大事な話があってさ」「何」ヴェルムは洗い物を終えて手を拭いた。「もし嫌じゃなかったら……俺の店で働いてみないか?」それは思いがけない誘いだった。「今全っ然笑えない、マジ深刻な人手不足でさあ……! あと俺、お前は結構向いてんじゃないかと思うんだよね」「人手不足? じゃあどっか畳めば良いじゃん。何店も持ってんだろ?」後で知ったことだけど、ノエルはナイトクラブをいくつも経営している、この界隈では有名人だった。「簡単に言うねぇ。あまり大声で薦められる店じゃないのは事実だけど、本当に大事なんだぞ。……俺にとっては」普段見ない真剣な表情に、思わず見とれた。「あっそ。……まぁいいよ。どうせ職無しだしね」ヴェルムがあっさり了承すると、ノエルは笑顔で彼の頭を撫でた。「ホント!? ありがとな! その代わり、できる限り俺が現場ついて教えてやるよ!」「それはいいけど、少し休めよ。何か具合悪そうだし」少し強く言うと、ノエルは複雑そうにかぶりを振った。
名前を呼ばれて鼓動が速まる。身分証明をできるものなんて一つも持ってない。なのに名を知ってるということは、本当に自分から名乗ったようだ。それでも警戒してることが分かったのか、彼はまた困ったような表情で笑った。「一応、昨日のお前は乗り気でウチに来たんだよ? 俺のベッドに横になったらすぐ寝ちゃってさ。まっ、外で夜明かして風邪ひくより良かっただろ?」「……そりゃどーも。ベッド奪って悪かったね」手は、まだ腰をしっかり掴んでいる。「離してくんない? さっさと出てくから」「もう? シャワーぐらい浴びていったらどうだ」その言葉に、さらに警戒心が高まった。親切心で言ってるとは到底思えない。見ず知らずの人間を家に入れて、ここまで無防備にしてるなんて馬鹿のすることだ。もしくは、優しいフリをして拾った人間を食いものにする卑劣野郎か。「軽く泥がついたところは拭いといたけど、洗い流さないと気持ち悪いだろ。覗いたりしないから遠慮せずに入ってきな」……馬鹿の方かもしれない。ヴェルムが眉根を下げて黙ってると、彼はようやく手を離した。「悪い悪い、掴んでたら行けないよな。バスルームはリビング出て右側にあるから」「あのさ……知らない人間なんかさっさと追い出せば。そこまで親切にする義理ないだろ」「んー。確かに知らないけど、義理がないと親切にしちゃいけないのか。厳しいなぁ」思ったことを素直に言っただけなのに、彼は本当に困ったような顔を浮かべた。大体、何が厳しいと言うのか。……そんな顔をされたら、まるでこっちが悪いみたいだ。「じゃあ……本当に良いの?」ため息まじりに訊くと、彼はホッとしたような笑顔で答えた。「もちろん!」嬉しそうに頷く彼に、ヴェルムは首を傾げる。他人に優しくする事がそんなに嬉しいんだろうか。悪いけど一ミリも理解できない。体を綺麗にさせようとしてるのは、後で性交を求められる可能性もある。それでも何故か、強引に出て行こうととは思わなかった。身体が泥臭くて仕方ないので、結局シャワーを借りた。またリビングへ戻ると、彼は冷たい水を持ってきた。「色々とどーも」「どういたしまして。ところでお前っていくつ?」「さぁ。多分十六か、十七か、十八」ヴェルムは水を一口飲む。年齢が曖昧なのはふざけて言ったわけではなくて、本当に分からないからだ。数年前のことが途切れ途
記憶はいつも曖昧で、非力だ。どれほど頑張って手繰り寄せても、それが本当に正しいかどうか答え合わせができない。言語と同じだ。これだけたくさん言葉があるのに、本当の気持ちが伝わらない。人は無数、みんな奪い合って生きてる。─────強くないと。心が弱いと、何をしたって苦しく感じる。「君、こんな所で寝てたら襲われちゃうよ?」味方はいない。生きるために散々手を汚した。血の色、泥の色、たくさんの色に染めてきたんだ。今日だってそう。何人かと喧嘩して財布を持ち去った。結構金が入っていたから、久しぶりに酒を買って酔いしれた。次第に眠くなって、外で寝てしまったけど。「顔赤いから熱でもあるのかと思ったけど、酔ってるだけみたいだね」それはそうと、さっきから一方的に喋ってる奴がいる。声で分かるけど、男だ。起きるのも怠くて壁に寄りかかっていた。顔を上げるのも面倒。夜、じめっとした空気の路地裏で、知らない男の膝から下を眺める。けど一向に起きない俺に痺れを切らしたのか、彼は屈んで覗き込んできた。綺麗な金髪の男だった。彼は俺の顔の前で指を二本、宙に向かって突き立てた。「ひとつ選びな。風邪ひくのと襲われるのと、俺の家に来るの。どれが良い?」「……は?」投げ掛けられた質問は、火照った頭ではすぐに理解できなかった。まったくもって理解に苦しむ。それが俺にナイトクラブを譲ってくれた、ノエルという男の第一印象だった。◇怖い。知らない人。知らない場所。知らない言葉。手脚を硬い紐で縛られている。口にも何かをくわえさせられ、訴えることはできなかった。突然家の庭に入ってきた男達に、強引に車の中に押し込められた。それからずっと暗闇の中だ。どこへ連れて行かれるんだろう。お父さん、お母さん。助けて。────お願いだから、家に帰らせて。「……っ!!」心臓を握り締められた様な苦しさで目が覚めた。「はぁ……っ……はぁ……っ」全身が焼けるように熱い。滝のように流れる汗を乱暴に拭った。悪い夢を見ていたみたいだ。呼吸を整え、落ち着いてから辺りを見回す。知らない部屋のベッドに寝ていた。白い壁、何の変哲もない寝室だ。あるのはベッドとラック、それから壁に取り付けられたテレビ。静か……。音を立てずに部屋を出た。向かったのは、長い廊下を突っ切った先のリビング。とてつもなく大きい
彼と抱き合って、渇いた心が満たされる。渇いたら求めるからエンドレスにも思えるけど、これは多分とても壊れやすいものなんだろう。当たり前だと思っちゃいけないなにか。その正体は、自分にはまだ分からない。「ヴェルム」「……うん?」融けきった頭と身体。あおい部屋とあかい体温。全部俺の世界だ。────白ではない。「愛してる。これからも、ずっと……」そして大事な人の声は、とても心地良く俺の鼓膜へと響いた。愛されてる。何だか不思議な言葉だ。愛してる、とは全然違う。ただ受動的ではいけないもの。それだけは忘れないように、俺もこれから応えないと。「ありがと。俺もアンタのこと……愛してる」そう。忘れかけてたこの熱を忘れない為に。また一眠りする。長い長い夜が明けて、太陽が昇る頃にヴェルムは目を覚ました。「ん……」そしてすぐ、現実に引き戻される。テレビを点けて時間を確認し、なるべく穏やかに、隣で寝ている彼を起こす。「クリスト、もうそろそろ起きた方がいんじゃないか? 七時過ぎてる」「うーん……」身体を揺さぶってみるも、彼はなかなか目を覚まさない。昨日やりすぎたせいだ。でも俺は止めたけど。少しため息をついて、ヴェルムは寝ているクリストの唇を奪った。「起きないと遅刻するぞ」「……」ここでようやく彼は目覚めた。「キスで起こすなんてズルい技だな」クリストは怠そうにシャツを羽織り、身を起こす。「何がズルいんだよ。アンタが遅刻したら困ると思って優しく起こしたんだぞ」「はは……ありがとう」そのお返しというように、今度は彼がヴェルムにキスをした。「シャワー浴びてくる」クリストはベッドから起きて、部屋を出て行った。ヴェルムもそれに合わせて、キッチンへ向かう。自分は今日も昼に出勤だから楽勝だ。クリストはそういうわけにもいかないので、ヴェルムは彼を起こす役割で同じ時間に起きていた。「お、今日も美味そうだな」クリストがシャワーから出ると、テーブルには出来立ての朝食が並べられていた。「もう完璧主夫だな」「俺も働いてるんですけど」ついつい反論してしまうけど、実際のところ彼に作ってやれるのは休日以外だと朝食だけだ。夜が仕事のヴェルムは、基本朝しかクリストと食事ができない。だからこそ守りたい、大事な時間でもあった。「一年か。何だかもっと経ってるような気







