地下水路での一件以来、アメリアの足首は腫れあがり、しばらくは侍女の仕事もままならなかった。レイモンドは、アメリアが痛む素振りを見せるたびに、まるで自分のことのように心を痛め、夜中にそっと薬を塗りに来てくれたり、氷で冷やしてくれたりした。彼の、普段の冷徹な仮面の下に隠された優しさが、アメリアの心に深く染み渡る。彼が自分のために見せたあの焦り、怒り、そして悲痛なまでの愛情を思い出すたび、アメリアの胸は甘く締め付けられた。
(私……レイモンド様のことが……)
アメリアは、自分の心に芽生えた感情を、もう否定することはできなかった。それは、尊敬や同情といった生半可なものではない、熱い恋心だった。彼が間一髪で自分を救い出してくれた時、その腕に抱かれた瞬間に感じたのは、何よりも深い安心感と、彼の存在そのものへの切なる希求だった。この人は、自分にとってかけがえのない存在なのだと、魂が震えるほどに確信したのだ。
しかし、同時に、胸の奥底に、ちくりと痛みが走る。アメリアはただの貧しい侍女だ。対してレイモンドは、王家にも近い名門貴族の嫡男。身分はあまりにも違いすぎる。そして、何よりも、彼らの関係は「秘密の契約」によって成り立っているのだ。彼が抱える問題が解決すれば、この契約は終わりを告げる。そうすれば、彼は本来の場所へ戻り、自分はまた、元の侍女の生活に戻るだけだ。
(きっと、レイモンド様には、身分に見合ったお相手がいらっしゃるはず……)
そう思うと、アメリアの心はきゅっと締め付けられた。この感情は、決して彼に伝えるべきではない。伝えることで、彼を困らせてしまうだけだ。アメリアは、恋心を自覚すればするほど、彼との間に横たわる、決して越えられないであろう見えない壁を痛感し、切ない気持ちになった。
一方、レイモンドもまた、アメリアへの特別な感情を自覚していた。地下水路でアメリアが危険に晒された時、彼の胸を突き上げたのは、任務の失敗に対する苛立ちだけではなかった。アメリアを失うかもしれないという、言いようのない恐怖と、激しい後悔だった。彼女の無事を確認した時、彼の感情は、自分でも制御できないほどに揺さぶられた。
(アメリア……)
彼女の健気さ、芯の強さ、そして何よりも、自分を信じ、支えようとしてくれる純粋さに、レイモンドの閉ざされた心は、少しずつ溶かされていた。彼女の笑顔を見るたび、胸の奥が温かくなる。彼女の優しさに触れるたび、心が安らぐ。それは、彼がこれまで感じたことのない、穏やかで満たされた感情だった。
だが、彼は貴族の嫡男だ。背負うべき責任がある。家名を立て直し、陰謀を暴き、失われた名誉を取り戻す。それが、彼に課せられた使命だ。そして、そのためには、いずれは身分に見合った女性と結婚し、家を継がなければならない。アメリアを巻き込んで、これ以上危険に晒すわけにはいかない。ましてや、彼女にこれ以上深く踏み込ませることはできない。
彼は、アメリアへの想いを自覚すればするほど、その感情を必死に押し殺そうとした。彼女を守るためには、自分から距離を取るべきだと、理性が叫んでいた。
ある夜、アメリアがレイモンドの傷の手当てをしていると、二人の間に沈黙が流れた。普段なら、今日の情報収集の成果や、今後の計画について話す時間だ。しかし、この日は、二人とも言葉が見つからなかった。
アメリアは、彼の包帯を巻きながら、彼の指先に触れてしまった。その瞬間、互いの体がびくりと震えた。レイモンドの視線が、アメリアの顔に注がれる。アメリアは、彼の瞳の中に、自分と同じ熱を帯びた感情が宿っているのを感じた。
「……レイモンド様」
アメリアは、思わず彼の名を呼んだ。その声は、自分でも驚くほど震えていた。彼に、この胸の内を伝えてしまいたくなる衝動に駆られる。しかし、言葉は喉の奥に引っかかって、出てこなかった。
レイモンドもまた、何も言わなかった。ただ、アメリアの顔を、じっと見つめているだけだった。彼の瞳は、感情を抑えつけるように硬く、そして、深い悲しみを湛えているように見えた。
その夜以来、二人の間に流れる空気は、これまで以上に濃密で、切ないものになった。言葉を交わさずとも、互いの視線が交わるたびに、募る想いが伝わってくる。しかし、身分差と契約という、見えない壁は、依然として二人の間に立ちはだかっていた。
アメリアは、彼を想う気持ちを胸に秘めながら、いつか来る別れの日に怯えていた。レイモンドもまた、アメリアを守るため、そして自分の責任を果たすため、秘めた想いを押し殺す日々を送っていた。
互いに惹かれ合いながらも、口に出せない想いが募っていく。それは、甘く、しかし、あまりにも切ない時間だった。彼らの秘密の契約は、終わりへと向かっている。その先に、二人の関係は一体どうなるのだろうか。アメリアは、ただ、彼の隣にいられる、このかけがえのない時間を、大切にしたいと願うばかりだった。
地下水路での一件は、アメリアの心に深い傷痕と、それ以上にレイモンドへの確かな想いを刻み込んだ。激しい痛みで腫れあがった足首は、アメリアが侍女としての務めを果たすことを困難にしていた。しかし、その不自由な日々の中で、レイモンドはこれまで以上にアメリアの傍にいてくれた。毎晩、人目を忍んで彼女の部屋を訪れ、慣れない手つきで薬を塗ったり、氷で熱を持った部分を冷やしてくれたりした。彼の指先が触れるたび、アメリアの胸は温かい甘さに満たされる。普段の冷徹な仮面の下に隠された、不器用ながらも深い優しさに触れるたび、アメリアは彼への恋心を募らせるばかりだった。 ある日の夜更け、手当てを終え、いつものように沈黙が二人の間に流れていた。しかし、その夜の沈黙は、普段とはどこか違っていた。重く、そして、何かを予感させるような緊張感が漂っていた。レイモンドは、窓の外の闇を見つめるように虚ろな瞳で、ぽつり、ぽつりと言葉を紡ぎ始めた。その声には、深い苦痛と、そして、これまで誰にも明かすことのなかった、重い過去を背負っている者の影が宿っていた。「アメリア……俺が抱える『重大な問題』について、お前に話しておかねばならないことがある」 アメリアは、彼の言葉に、ごくりと唾を飲み込んだ。彼女は、彼がどれほどの重荷を背負い、どれほどの闇を抱えているのか、その深淵を覗き見る覚悟をした。彼の瞳が、この部屋のどこでもない、遠い過去を見つめているようだった。「俺の一族、ヴァルター家は、古くから王家に仕え、国の根幹を支える役割を担ってきた。特に、父は代々受け継がれてきた『古文書』の守護者だった。その古文書には、この国の建国の秘密と、王家の血筋にまつわる、極めて恐るべき情報が記されている」 レイモンドの言葉は、まるで古い物語のようだったが、その背後にある真実の重みに、アメリアは息を呑んだ。古文書とは、単なる書物ではない。この国の運命を左右するほどの、計り知れない力を持つものなのだ。「しかし、その古文書の存在を知った、ある勢力がいた。彼らは、国の秩序を裏から操り、自分たちの都合の良いように変えようと画策していた。父は彼らの目論見を阻止しようとしたが、彼らは巧妙な罠を仕掛けた。父は、国家反逆の濡れ衣を着せられ、無実の罪で監
地下水路での一件以来、アメリアの足首は腫れあがり、しばらくは侍女の仕事もままならなかった。レイモンドは、アメリアが痛む素振りを見せるたびに、まるで自分のことのように心を痛め、夜中にそっと薬を塗りに来てくれたり、氷で冷やしてくれたりした。彼の、普段の冷徹な仮面の下に隠された優しさが、アメリアの心に深く染み渡る。彼が自分のために見せたあの焦り、怒り、そして悲痛なまでの愛情を思い出すたび、アメリアの胸は甘く締め付けられた。(私……レイモンド様のことが……) アメリアは、自分の心に芽生えた感情を、もう否定することはできなかった。それは、尊敬や同情といった生半可なものではない、熱い恋心だった。彼が間一髪で自分を救い出してくれた時、その腕に抱かれた瞬間に感じたのは、何よりも深い安心感と、彼の存在そのものへの切なる希求だった。この人は、自分にとってかけがえのない存在なのだと、魂が震えるほどに確信したのだ。 しかし、同時に、胸の奥底に、ちくりと痛みが走る。アメリアはただの貧しい侍女だ。対してレイモンドは、王家にも近い名門貴族の嫡男。身分はあまりにも違いすぎる。そして、何よりも、彼らの関係は「秘密の契約」によって成り立っているのだ。彼が抱える問題が解決すれば、この契約は終わりを告げる。そうすれば、彼は本来の場所へ戻り、自分はまた、元の侍女の生活に戻るだけだ。(きっと、レイモンド様には、身分に見合ったお相手がいらっしゃるはず……) そう思うと、アメリアの心はきゅっと締め付けられた。この感情は、決して彼に伝えるべきではない。伝えることで、彼を困らせてしまうだけだ。アメリアは、恋心を自覚すればするほど、彼との間に横たわる、決して越えられないであろう見えない壁を痛感し、切ない気持ちになった。 一方、レイモンドもまた、アメリアへの特別な感情を自覚していた。地下水路でアメリアが危険に晒された時、彼の胸を突き上げたのは、任務の失敗に対する苛立ちだけではなかった。アメリアを失うかもしれないという、言いようのない恐怖と、激しい後悔だった。彼女の無事を確認した時、彼の感情は、自分でも制御できないほどに揺さぶられた。(アメリア……) 彼女の健気さ、芯の強さ、そして何よりも
王都の地下水路。そこは、王宮の裏側に広がる、秘密の通路が張り巡らされた場所だ。レイモンドは、古文書の手がかりが、その水路のどこかに隠されていると睨んでいた。そして、その探索の任務は、アメリアに託された。「ここは、非常に危険な場所だ。もし、少しでも異常を感じたら、すぐに引き返せ」 レイモンドは、いつも以上に真剣な顔でアメリアに告げた。彼の表情は硬く、アメリアを危険な目に遭わせることへの葛藤が垣間見えた。しかし、時間がないこともアメリアは理解していた。彼が追う陰謀は、日々進行している。 アメリアは、手燭と、レイモンドから渡された小さな合鍵を手に、地下水路へと足を踏み入れた。湿った空気が肌を包み込み、鼻を突くカビと土の匂いが充満している。ひんやりとした空気が肌を這い、薄暗い水路の奥からは、得体の知れない音が響いてくる。アメリアは、恐怖で心臓が脈打つのを感じながらも、レイモンドの指示された場所へと進んだ。 細く曲がりくねった通路の壁には、びっしりと苔が生え、足元は滑りやすい。水路の底を流れる水は冷たく、その上を歩くたびに、靴が濡れる。アメリアは、耳を澄ませながら、壁のわずかな窪みや、崩れかけた石積みの中に、手がかりを探した。 どれほど歩いたのだろうか。レイモンドから聞いていた場所は、古びた扉の向こうにあるはずだった。アメリアは、地図と照らし合わせながら、ようやくその扉を見つけた。合鍵を差し込み、ゆっくりと回す。重い軋みを上げて、扉が開いた。 扉の向こうは、さらに狭い通路だった。カビ臭さが一層強くなり、薄暗い空間の奥には、わずかな光が見える。アメリアは、その光に誘われるように、一歩足を踏み入れた。 その瞬間、背後から、ひやりとした殺気を感じた。「そこを動くな、小娘」 低い声が、背後から響いた。アメリアは息を呑んだ。振り返ると、そこには、フードを深く被った男が立っていた。男の手には、鋭く光る短剣が握られている。アメリアは、心臓が凍りつくのを感じた。「貴様、何を探っている」 男は、ゆっくりとアメリアに近づいてくる。アメリアは、後ずさりながら、震える声で言った。 「何も……何も知りません」
レイモンドの傷はほぼ癒え、物置小屋での潜伏生活も終わりを告げようとしていた。彼が完全に体力を回復したことで、二人の秘密の契約は、新たな段階へと移行する。これまでアメリアが担っていた情報収集は、より本格的で、危険を伴う任務へと変わっていった。 ある夜、アメリアはレイモンドから、一枚の地図と、古い金貨を渡された。 「この地図の示す場所へ潜入し、この金貨を持つ男を探せ。彼は、俺が追う古文書の手がかりを知る人物だ」 レイモンドの指示は、これまでの買い出しや簡単な情報収集とは、比べ物にならないほど危険なものだった。地図が示すのは、王都でも治安が悪いと噂される旧市街の、さらに奥まった場所にある酒場だった。そこは、日中でも薄暗く、ならず者や裏社会の人間が出入りすると言われている場所だ。アメリアは、その説明を聞いただけで、全身の血の気が引くのを感じた。「しかし……そこは、危険な場所では…?」 アメリアは、恐る恐る問いかけた。彼女はただの侍女であり、そんな場所へ足を踏み入れたことなど一度もない。 レイモンドは、アメリアの不安を見透かすように、静かに答えた。 「ああ、危険だ。だが、信頼できる伝手は限られている。お前の侍女という立場は、彼らには盲点となる。目立つ行動はするな。何があっても、俺の名を出すな」 彼の瞳は、感情を読み取れないほど冷徹だった。アメリアは、彼が自分を危険な目に遭わせようとしているのだと感じた。しかし、同時に、彼が自分を信頼し、この重要な任務を任せようとしていることも理解した。彼を支えたい。その一心で、アメリアは覚悟を決めた。「……承知いたしました」 翌日。アメリアは、屋敷の主人から頼まれた急ぎの買い出しを装い、旧市街へと向かった。古びた外套を深く被り、なるべく目立たないように振る舞う。大通りを外れ、路地裏へと足を踏み入れると、一気に空気が変わった。生ごみの腐敗した匂いと、言い知れない混沌とした匂いが混じり合う。薄暗い路地には、昼間だというのに、怪しげな男たちがたむろしていた。彼らの視線が、アメリアの体を品定めするように突き刺さる。アメリアは、怯える心を必死に抑えつけ、俯きがちに歩いた。 目的の酒場
レイモンドが自身の過去と、背負うべき重い運命の核心を語ってくれた後、物置小屋の中の空気は、以前よりも温かいものに変わっていた。アメリアは、彼がどれほど過酷な状況で生きてきたのかを知り、彼への尊敬と共感の念を一層深くした。そして、彼の話を聞いたことで、アメリアもまた、自分の心の内を彼に語りたいという衝動に駆られていた。 ある夜、アメリアがレイモンドの傷の様子を確認している時のことだった。彼は静かにアメリアの顔を見上げた。その瞳には、以前のような警戒心はなく、穏やかな光が宿っている。「アメリア、お前は……なぜ、この屋敷で侍女を?」 彼の問いは、アメリアの個人的な領域に踏み込むものだった。しかし、彼の声には、好奇心よりも、純粋な関心と、彼女の過去を知りたいという静かな願いが込められているように感じられた。アメリアは、ためらいつつも、ゆっくりと口を開いた。「私は……この王都の、ずっと北にある小さな村の出身です。父は木彫り職人で、母は…」 アメリアは、幼い頃の思い出を語り始めた。両親とのささやかながらも温かい日々。小さな木彫りの鳥を見せて、父がどれほど器用だったかを話した。母の優しさや、故郷の豊かな自然のこと。彼女の声は、語るにつれて、懐かしさと、そして、微かな悲しみを帯びた。「でも、私が幼い頃に、疫病が流行って……。両親を、一度に亡くしてしまいました」 その言葉を口にすると、アメリアの目には、薄く涙の膜が張った。レイモンドは、アメリアの言葉を、ただ黙って聞いていた。彼の視線は、アメリアの顔から離れることなく、その感情の変化を、全て見守っているようだった。「身寄りがなくなり、村にいることも難しくなって……。一人で、この王都まで出てきました。何とか、生きていくために、この屋敷で、侍女として雇ってもらって…」 アメリアは、自身の孤独な境遇を語り終えた。彼女の人生は、レイモンドのような壮大な使命とは程遠い、ただ生きるための戦いだった。しかし、彼女の言葉には、決して諦めない強さと、ひたむきな努力が滲み出ていた。 話し終えると、小屋の中に、深い静寂が訪れた。レイモンドは、アメリアに何も言わなかったが、彼の瞳の奥に、深い共
物置小屋での秘密の生活が、一週間ほど続いた。アメリアは昼間は侍女として働き、夜になればレイモンドの元へ通い、彼の看病と情報収集の任務に当たった。レイモンドの傷は、アメリアの献身的な介抱の甲斐あって、少しずつ回復に向かっていた。熱も下がり、顔色も以前よりは良くなっている。だが、彼は依然として小屋の中に潜伏し、外界との接触を避けていた。 アメリアが持ち込む食事を口にするレイモンドの視線は、以前の刺すような鋭さから、わずかに和らいでいるように感じられた。彼が時折見せる、深い思索に沈むような横顔を見るたび、アメリアの胸には、彼の背負う重みが伝わってくるようだった。 ある夜のことだった。アメリアが、その日集めた情報をレイモンドに報告し終えると、小屋の中に沈黙が訪れた。雨音はもう止み、夜空には星が瞬いている。小屋の小さな窓から差し込む月明かりが、レイモンドの顔をぼんやりと照らしていた。「……アメリア」 レイモンドが、静かにアメリアの名を呼んだ。その声は、いつもより少しだけ、感情を含んでいるように聞こえた。アメリアは、彼の言葉を待った。「お前は、なぜ、俺を助けた」 彼の問いに、アメリアは少し戸惑った。理由は、単純なものだった。 「貴方が、このままでは死んでしまうと思ったからです。それだけです」 アメリアがそう答えると、レイモンドはアメリアの瞳をまっすぐに見つめた。その琥珀色の瞳の奥に、何か複雑な感情が渦巻いているのが見て取れた。「……この世界で、見知らぬ人間に、そこまで手を差し伸べる者は少ない。ましてや、危険を冒してまで、だ」 レイモンドの言葉は、彼の過去に、何か深い影があることを示唆しているようだった。アメリアは、彼がこれまでにどれほどの裏切りや冷酷さに触れてきたのだろうかと、想像した。彼の孤独な境遇に、アメリアの心は深く同情を覚えた。「私は……ただ、貴方が、生きていてほしいと、そう思いました」 アメリアは、自分の正直な気持ちを伝えた。彼の言葉の通り、彼女はごく普通の侍女で、特別な力など持たない。しかし、目の前で苦しむ人間を見過ごすことはできなかった。それが、彼女の信じることだった。