アメリアは、手燭の光をわずかに高く掲げた。裏口の扉を押し開くと、冷たい雨粒が容赦なく顔に叩きつけられた。風が強く、手燭の炎は今にも消えそうだ。闇が深く、視界はほとんど効かない。しかし、彼女の鼻腔を刺激する、あの奇妙な匂いは一層強くなっていた。生々しい鉄の匂い。紛れもなく血の匂いだ。
心臓が早鐘を打ち、全身から血の気が引く。恐怖がじわりと背筋を這い上がってくるが、アメリアは後戻りできなかった。何かに導かれるように、足元の泥濘も気にせず、音のした方へと進む。庭の奥、大きな木が雨風に晒されてざわめくその影に、何かがある。
手燭の光が、その影の輪郭を捉えた瞬間、アメリアは息を呑んだ。
庭の隅にある大きな樫の木の下で、何かが横たわっていた。それは人間だった。しかも、銀色の鎧を身につけている。騎士だ。雨に濡れた鎧は鈍く光り、その下には濃い色の布地が見え隠れしていた。しかし、その布地はひどく濡れており、そして、夥しい量の血で黒く染まっていた。流れ出した血は、雨水と混じり合い、地面を赤黒い澱のように広がり、不吉な模様を描いていた。
男性はうつ伏せに倒れており、身じろぎ一つしない。死んでいるのか。それとも──。恐る恐る、アメリアは数歩近づいた。足元は滑りやすく、泥が靴底にまとわりつく。手燭の小さな灯りが、彼の顔の半分を照らした。端正な横顔は青ざめ、苦悶に歪んでいる。黒い髪が額に貼りつき、冷たい雨粒が頬を伝っていた。そして、かすかに聞こえる、荒い息遣い。か細く、今にも途絶えそうな、生命の音。
生きている。だが、その息は途切れ途切れで、生命の灯火が今にも消えそうだった。彼の背中には、おそらく剣によるものだろう、大きく深い傷が開いている。そこから流れ出た血が、まるで地面に描かれた不吉な模様のように広がっていた。冷たい雨が、容赦なく彼の体を打ち続ける。
アメリアは呆然と立ち尽くした。誰かに見つかれば、大変なことになる。夜中に屋敷の裏庭で倒れている騎士など、尋常ではない。屋敷の主人に知られれば、自分まで巻き添えを食らい、この唯一の居場所を失うかもしれない。それは、身寄りのないアメリアにとって、何よりも恐ろしいことだった。だが、このまま放っておけば、彼は確実に死ぬだろう。この場で死なせてしまえば、アメリア自身も、その罪悪感に苛まれることは想像に難くない。
(助けなければ……!)
理屈ではない、純粋な衝動がアメリアを突き動かした。恐怖よりも、目の前の命を救いたいという感情が勝った。彼が誰であろうと、なぜこんな場所で倒れていたのかも分からない。それでも、アメリアは、この騎士を見捨てることはできなかった。
彼女は震える手で、彼の肩に触れた。鎧はひどく冷たく、彼の体温はもはや感じられないほど低い。皮膚を通して伝わる冷たさに、彼の命の危うさを実感した。どうやって、この大男を運べばいいのか。途方に暮れたが、時間は刻一刻と過ぎていく。彼は重い鎧を身につけている。まず、その鎧をどうにかしなければ、動かすことさえ難しいだろう。アメリアは必死に頭を回転させた。
幸い、ここは裏庭の隅だ。屋敷の窓からは見えにくい場所。そして、すぐ近くには、普段はめったに使われない物置小屋がある。古びてはいるが、雨風はしのげるはずだ。アメリアは意を決し、彼の鎧の留め具を探した。冷たくて硬い金属の感触。慣れない作業に手こずりながらも、何とか胸当てと肩当てを外し、重い鎧を脇に押しやる。彼の体が、少しだけ軽くなった。
「うっ…ぐ、ぅ……」
僅かに漏れた彼の呻き声に、アメリアは息をのんだ。意識が、まだある。その事実に、アメリアの胸に希望の光が差し込んだ。彼女は彼の腕を自分の肩に回し、必死に体を支えようと試みる。しかし、男性の体は想像以上に重く、アメリアの細腕ではなかなか持ち上がらない。ずぶ濡れの体が、地面の泥濘で滑る。ずるずると地面を引きずるようにして、少しずつ物置小屋へと移動させた。何度も足がもつれ、転びそうになる。そのたびに、彼の生命が今にも消えてしまいそうな錯覚に襲われた。
全身に力が入り、息が上がる。雨と汗で、アメリアの服も髪もぐっしょり濡れていた。肩には彼の重みがずっしりとのしかかる。泥と血の匂いが鼻をついた。何度か諦めそうになったが、彼の荒い呼吸が聞こえるたびに、アメリアは歯を食いしばって力を振り絞った。このまま、彼を死なせるわけにはいかない。強い意志が、彼女の体を動かす。
ようやく物置小屋の扉を開け、彼を中へ引きずり込む。薄暗い小屋の中は、埃とカビの匂いが充満していた。だが、雨風は防げる。アメリアは彼を古びた干し草の山の上にそっと寝かせると、その場にへたり込んだ。全身の力が抜け、膝が震える。
荒い息を整えながら、アメリアは手燭の光で彼の顔を改めて照らした。ひどく血の気が失せているが、やはり端正な顔立ちだ。黒い髪が額に貼りつき、冷たい雨粒が頬を伝っていた。彼の呼吸は依然として浅く、いつ止まってもおかしくないほどだった。微かに開いた唇から、乾いた息が漏れる。
(早く、手当てを……早くしないと、このままでは……!)
アメリアは立ち上がると、震える足で急いで屋敷へ戻った。誰にも見つからないよう、細心の注意を払う。台所の棚から清潔な布を数枚、使用人用の薬箱からわずかな薬草と、消毒用の真水を用意した。再び物置小屋へ戻った時には、アメリア自身の体の芯まで冷え切っていたが、そんなことよりも目の前の命の方が重要だった。
震える手で彼の傷口を丁寧に拭い、薬草を塗る。血が止まることを願いながら、しっかりと布で巻きつける。触れるたびに彼の体が熱く、傷口からは熱気が伝わってきた。痛みに彼は僅かに身動ぎしたが、意識が戻ることはなかった。アメリアは彼の額に触れる。ひどい熱だ。熱い体が、冷たい雨に打たれ、さらに悪化している。このままでは、熱病で命を落としてしまうかもしれない。
アメリアは、自分の外套を脱ぎ、彼の体の上にかけた。少しでも体を温めてあげたい。そう願いながら、彼女は彼の傍らに座り込んだ。時計の針は、もう夜中の2時を過ぎているだろう。屋敷の中はしんと静まり返り、聞こえるのは雨音と、彼のか細い呼吸音だけだった。
「生きて……どうか、生きてください」
アメリアは、意識のない彼の頬にそっと触れた。冷たさの中に、わずかな温もりを感じる。この命を、自分は確かに拾い上げたのだ。彼の素性も、なぜこんな場所で倒れていたのかも分からない。もしかしたら、大きな厄介事に巻き込まれてしまうかもしれない。それでも、アメリアは、この騎士を見捨てることはできなかった。それは、彼女の心が、そう命じたからだ。
外では、まだ雨が降り続いている。物置小屋の小さな窓から差し込む月明かりが、かろうじて二人の姿をぼんやりと浮かび上がらせる。誰にも知られてはならない、秘密の夜が、静かに更けていった。その夜から、アメリアの平穏だった日常は、今までとは違う、予測不能な道を歩み始めることになった。彼女の小さな手の中に、見知らぬ騎士の命運と、そして、未来への扉の鍵が握られていることを、この時のアメリアはまだ知る由もなかった。
王都の街角は今日も行き交う人々で賑わいを見せている。石畳の道を軽快に駆ける辻馬車の蹄の音、市場の商人たちの威勢のいい呼び声、そして人々の笑い声が混じり合い、活気に満ちた旋律を奏でていた。 そんな喧騒から少しだけ離れた路地裏に、リリアの花屋はひっそりと佇んでいた。店先に並べられた色とりどりの花々が、灰色の石壁の街並みに柔らかな彩りを添えている。リリアはこの場所で、朝露に濡れた花びらを一枚一枚丁寧に拭き、訪れる客のために小さな花束を作るのが日課だった。 彼女のささやかな日常の中で、心の支えとなっている物語がある。 それは、今や王都で知らぬ者のない「公正なる侯爵とその妻の物語」。かつて一介の侍女だったアメリア様が、名門ヴァルター侯爵家の嫡男レイモンド様に見初められ、多くの困難を乗り越えて結ばれたという、まるでおとぎ話のような実話だ。 身分違いの恋。それは、この国では決して許されることのない禁忌。しかし、彼らは真実の愛の力で、その分厚い壁を打ち破った。レイモンド様はアメリア様ただ一人を愛し抜き、その誠実さで周囲を動かし、ついには国王陛下からの祝福さえも勝ち取ったのだ。 リリアは仕事の合間に、客から聞くその物語の断片を胸の中で何度も反芻した。侯爵様が、いかにアメリア様を慈しみ、守り抜いたか。アメリア様が、いかに健気に、そして強く侯爵様を支え続けたか。その一つ一つの逸話が、リリアの心に温かい光を灯す。「いつか私にも、あんな素敵な出会いが訪れるだろうか……」 そんな淡い夢を抱いてしまうのは、仕方のないことだった。もちろん、自分が高貴な殿方と結ばれるなどという大それた望みを抱いているわけではない。ただ、レイモンド様のように、一人の女性を心の底から大切にしてくれる人が、この世界のどこかにいるのなら。そう思うだけで、平凡な毎日が少しだけきらめいて見えるのだ。 その日も、リリアはいつもと同じように店先で花の世話をしていた。春の柔らかな日差しが、店先に並んだゼラニウムの赤い花びらを鮮やかに照らし出している。その時だった。 からん、と店のドアベルが軽やかな音を立てた。「いらっしゃいませ」
あの日、王宮から発せられた布告は、王都に大きな衝撃を与えた。平民の侍女が、名門侯爵家の嫡男と婚姻を結ぶ。それは、厳格な身分制度の中で生きる人々にとって、前代未聞の出来事だった。しかし、レイモンド・ヴァルター侯爵の類稀なる功績と、国王陛下の強い意志が、その不可能を可能にしたのだ。 そして、その布告から数週間後、王都の教会で、レイモンドとアメリアの結婚式が執り行われた。質素ながらも温かい式には、王室関係者や有力貴族、そして、アメリアがかつて仕えた屋敷の侍女たちも招待された。レイモンドは、白い軍服を纏い、誇らしげにアメリアの手を取った。アメリアは、手作りのシンプルな白いドレスを身に纏い、幸福に満ちた笑顔で、レイモンドの隣に立っていた。二人の瞳には、互いへの揺るぎない愛と、共に困難を乗り越えた者だけが持つ、強い絆が宿っていた。 それから、数年の月日が流れた。 王都の一角にある、小さな、しかし温かい侯爵邸には、アメリアとレイモンド、そして彼らの間に生まれた二人の子供たちの賑やかな声が響いていた。長男はレイモンド譲りの琥珀色の瞳と、アメリアの情熱的な赤毛を受け継ぎ、好奇心旺盛な男の子に育った。そして、末の娘は、アメリアに似た優しい眼差しと、レイモンドを彷彿とさせる凛とした佇まいを持つ、愛らしい女の子だった。 アメリアは、侯爵夫人となった今も、かつての侍女時代と変わらず、質素で勤勉な日々を送っていた。高価なドレスを身につけることはあるが、彼女はそれを飾るものとは考えておらず、日々の家事や子育てにも積極的に関わった。彼女は、自ら庭の手入れをし、子供たちのために手料理を作り、そして、夫であるレイモンドの帰りを温かく迎えることを何よりも大切にした。 レイモンドは、ヴァルター侯爵として、以前にも増して多忙な日々を送っていた。彼は、国の行政改革に尽力し、民の生活を向上させるための政策を次々と打ち出した。彼の公正な判断力と、民を思う心は、王宮内外で高く評価され、彼は「公正なる侯爵」として、多くの人々に慕われる存在となっていた。 どんなに忙しい日でも、レイモンドは必ず、夕食の時間には家に帰った。彼の帰りを待つのは、温かい食事と、愛する妻と子供たちの笑顔だ。書斎で疲れた一日を終え、リビングに戻
レイモンドが自身の家族と貴族社会の重鎮たちにアメリアへの真実の愛を打ち明け、猛烈な反対に遭いながらも、彼の揺るぎない決意は、少しずつ周囲の心を動かし始めていた。旧友や元部下といった協力者の存在、そして、失われた古文書から見つかった「功績による身分の向上」という歴史的先例。それらの光が、レイモンドとアメリアが共に歩むための、新たな道筋を照らし始めたのだ。 レイモンドは、父親であるヴァルター侯爵との連日の話し合いを続けた。侯爵は、息子の頑なな態度と、彼が示す揺るぎない決意に、徐々に根負けしていく様子を見せ始めた。特に、古文書に記された先例と、レイモンドの類稀なる功績を前にしては、侯爵も反論の余地がなくなっていったのだ。「レイモンド…そこまで言うのなら、もう好きにするがいい。だが、この選択が、お前自身の首を絞めることにならぬよう、肝に銘じておけ」 侯爵は、まだ完全に納得したわけではなかったが、息子の強い意志を認めざるを得ない状況だった。それは、侯爵にとって、息子への信頼と、ヴァルター家の未来への懸念が入り混じった、複雑な決断だった。 レイモンドは、父親の言葉に深く頭を下げた。「ありがとうございます、父上。必ず、父上の期待を裏切りません」 侯爵家からの理解を得る見通しが立ったことで、レイモンドは次の段階へと進んだ。彼は、王宮に正式な謁見を求め、国王陛下に直接、アメリアとの婚姻を願い出たのだ。 謁見の間で、レイモンドは、国王陛下と、その場に居合わせた有力貴族たちの前で、アメリアへの真実の愛を、そして、彼女が自らの命を顧みずに彼を支え、国家の危機を救う手助けをしてくれた功績を、全て語った。そして、古文書に記された「功績による身分の向上」という先例を提示し、アメリアに貴族としての身分を与えることを懇願した。「陛下。彼女は、王宮の侍女という身でありながら、私と共に国家の危機を救うため、命の危険を顧みずに行動してくれました。彼女の献身と勇気がなければ、国家の秩序は揺らぎ、多くの民が苦しむことになったでしょう。この功績は、如何なる貴族にも劣らぬものと信じております」 レイモンドの声は、謁見の間に響き渡った。彼の言葉には、アメリ
レイモンドが自身の家族と貴族社会の重鎮たちに、アメリアへの真剣な想いを打ち明けて以来、彼が直面する反対と抵抗は、日を追うごとに激しさを増していた。侯爵家は、ドール公爵家との縁談を強引に進めようとし、王宮内の貴族たちも、レイモンドの行動を「身分違いの恋に現を抜かす愚行」として非難した。しかし、レイモンドの、アメリアを守り抜くという強い意志は、何者にも揺るがなかった。 レイモンドは、日中は貴族としての職務をこなしながら、夜はアメリアの件で父親や縁談相手の使者との議論に明け暮れていた。彼の疲労はピークに達していたが、その瞳の奥の決意は、少しも曇ることがなかった。「父上、何度申し上げればお分かりいただけますか。私が結婚するのはアメリアだけです。他の女性と婚姻を結ぶなど、ありえません」 侯爵邸の書斎で、連日繰り返される父親との押し問答。侯爵は、息子がここまで頑なであることに、苛立ちを隠せない。「レイモンド!貴様はヴァルター家の嫡男だぞ!私情で家名を貶めるような真似は許さん!」「家名を貶めるのは、私情に流されることではございません。愛のない婚姻を結び、心を偽ることこそ、家名を汚す行為です!」 レイモンドの声は、侯爵に負けないほどの強い意志に満ちていた。彼の言葉は、貴族社会の常識とはかけ離れていたが、そこには真実の愛を貫こうとする、騎士としての揺るぎない魂が宿っていた。 その頃、アメリアは、レイモンドが激しい戦いの渦中にあることを肌で感じ取っていた。屋敷の侍女たちの噂話は、日を追うごとにレイモンドの縁談話と、その進捗に関するものへと変化していった。どうやら、レイモンドがその縁談を頑なに拒否しているらしい、という情報も、アメリアの耳に届くようになった。(レイモンド様…) アメリアは、彼の苦悩を思うと、胸が締め付けられた。自分が、彼にどれほどの重荷を背負わせているのか。それでも、彼女は彼を信じ、遠くから彼の無事と成功を祈り続けていた。彼女にできることは、直接彼を助けることではない。しかし、彼が自分を愛してくれているという事実を胸に、強く、そして健気に日々を過ごすことが、彼への最大の支えだと信じていた。 そんなレイモンドの努力と、アメリアの献身的な支えが、少しずつ周囲の理解を得始める兆候が現れ始めた。 ある日、レイモンドの旧友であり、彼がかつて命を救った騎士の
互いの真実の愛を確かめ合い、身分差という大きな障壁を共に乗り越える覚悟を決めたレイモンドとアメリア。レイモンドは、アメリアとの未来のために、貴族としての地位を捨てることも辞さないとまで言い切った。その彼の決意は、アメリアにとって何よりも心強く、彼女もまた、どんな困難な道であっても彼と共に歩むことを誓った。しかし、彼らの愛が直面する現実の壁は、想像以上に高く、そして冷酷だった。 レイモンドは、アメリアと未来を誓い合った翌日、すぐに行動に移した。彼は、自邸に戻ると、多忙な公務の合間を縫って、父親であるヴァルター侯爵に面会を求めた。書斎に足を踏み入れたレイモンドの表情は、いつも以上に真剣で、彼の決意が滲み出ていた。「父上。申し上げたいことがございます」 ヴァルター侯爵は、息子が何か重要な報告に来たのかと思い、資料から目を上げた。彼にとって、レイモンドはヴァルター家の再興を成し遂げた誇り高き息子だった。「何だ、レイモンド。改まって」 レイモンドは、深呼吸をした。 「私には、結婚を望む女性がおります」 侯爵の表情が、一瞬にして凍りついた。彼は、ドール公爵家との縁談が順調に進んでいることを知っていたからだ。「何を言うか。お前には、ドール公爵家のご令嬢との婚約話が進んでいるはずだ。この期に及んで、何を戯言を…」「戯言ではございません、父上。私は、ドール公爵家のご令嬢とは結婚できません。私が愛しているのは、別の女性です」 レイモンドの言葉に、侯爵は激怒した。彼の顔は、みるみるうちに赤くなった。 「馬鹿なことを言うな!どこの出の女だ!?まさか、あの侍女の娘ではあるまいな!?」 侯爵の言葉に、レイモンドは身構えた。やはり、アメリアの存在は、既に嗅ぎつけられていたのだ。「…はい。彼女の名はアメリアと申します。彼女こそが、私が愛し、生涯を共にしたいと願う女性です」 レイモンドの言葉に、侯爵は、持っていた書類を音を立てて机に叩きつけた。「ふざけるな、レイモンド!お前は、ヴァルター家の嫡男だぞ!この家が、どれほどの苦境を乗り越えてきたか、忘れたとでも言うのか!?
互いの真実の愛を確かめ合ったレイモンドとアメリア。危険な裏路地の倉庫で交わした告白とキスは、彼らの心を深く結びつけた。レイモンドの「溺愛」が契約とは関係のない真実の愛であることを知り、アメリアもまた、彼への揺るぎない想いを伝えたことで、二人の間に横たわっていた壁は、一度は取り払われたかのように思えた。しかし、彼らの愛を阻む、もう一つの大きな障壁が、依然として存在していた。それは、彼らの間に厳然と存在する「身分差」だった。 夜が明け、王都に朝の光が差し込む頃、レイモンドはアメリアを連れ、再び人目を忍んで隠れ家へと戻った。倉庫での夜明けは、彼らにとって、新たな未来の始まりを告げるかのようだったが、同時に、現実の厳しさを突きつけるものでもあった。 隠れ家に戻った二人の間には、昨日までの切なさとは異なる、静かで、しかし確かな温もりが満ちていた。レイモンドは、アメリアを腕の中に抱き寄せ、その髪を優しく撫でた。「アメリア…」 彼の声は、昨夜の激しい感情とは打って変わり、落ち着いていたが、その中には、アメリアへの深い愛情が溢れていた。 「昨夜は…混乱させてしまってすまなかった」 アメリアは、彼の言葉に顔を上げた。 「いいえ…レイモンド様のお気持ちを知ることができて、私は…本当に嬉しかったです」 アメリアの瞳は、まだかすかに赤く、だが、その奥には、彼への真実の愛が輝いていた。 レイモンドは、アメリアの頬にそっと触れると、深呼吸をした。 「愛している。それは、決して嘘偽りのない、俺の本心だ」 彼の真剣な眼差しに、アメリアの心臓は大きく鳴った。 「はい…私もです」 二人の間に、再び静かな時間が流れる。互いの存在を確かめ合うように、強く抱きしめ合った。しかし、この幸福な瞬間にも、レイモンドの頭の中では、現実の問題が巡っていた。 レイモンドは、アメリアを抱きしめたまま、静かに語り始めた。 「お前を愛している。だからこそ、俺は、お前との未来を諦めるわけにはいかない」 アメリアは、彼の言葉に、胸が高鳴るのを感じた。「だが、お前も知っている