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この16歳の少年は、18年後、世界を手に入れる。
金融、医療、情報通信。各国の財界人が彼の決断を待ち、巨大企業の命運がその一言で変わる。
それでも、たった1人の女性に愛されることだけは、自分に許すことができなかった。
広瀬凌司(ひろせ りょうじ)が、そこまで上り詰めた理由はただ1つ。
4歳の令嬢・宮原芽里(みやはら めり)を、もう二度と傷つけさせないためだった。
すべては、銃声の響くあの夜から始まった。
****
「その子を置いていけ。そうすれば、お前だけは見逃してやる」
銃口を向けられた凌司は、腕の中の少女を抱き直した。
まだ4歳の芽里は、彼の首にしがみつき、小さな身体を震わせている。白いワンピースの裾は泥で汚れ、片方の靴はどこかで脱げてしまっていた。
「聞こえなかったのか? その娘を渡せ!」
男が怒鳴った瞬間、凌司は迷わず身を翻した。
銃声が響く。
背後の壁が砕け、破片が頬をかすめた。それでも凌司は振り返らなかった。芽里の頭を胸に押しつけ、薄暗い廊下を全力で駆け抜けた。
宮原家の屋敷が襲撃されたのは、ほんの20分ほど前のことだった。
突然、屋敷のあちこちで爆発が起こり、警報が鳴り響いた。警護責任者からの指示は途絶え、武装した男たちが次々と屋敷へ侵入してきた。
凌司はまだ見習いの護衛だった。
まともな家族もなく、幼い頃から危険な組織の管理下で育った彼にとって、命令は絶対だった。
宮原家へ配属されてからも、決められた持ち場を守り、指示された仕事をこなすだけの日々を送っていた。
襲撃が始まったとき、上官から下された命令も同じだった。
『お前は正門へ向かえ。東館には近づくな』
だが、凌司はその命令に従わなかった。
東館には、宮原家の小さな令嬢がいる。
いつも庭で遊んでいると、彼を見つけて手を振ってくる少女。凌司が無愛想に頭を下げても、気にせず笑いかけてくる少女。
つい昨日も、芽里は彼の制服の袖を引っ張って言った。
『りょうじお兄ちゃん、明日もいる?』
『……仕事だからな』
『じゃあ、明日も会えるね!』
あの無邪気な笑顔が、どうしても頭から離れなかった。
凌司が芽里を見つけたのは、東館の奥にある小部屋だった。
少女は長椅子の陰に隠れ、膝を抱えて泣いていた。母親にここから動かないようにと言われたらしい。
「りょうじお兄ちゃん……?」
凌司の姿を認めた途端、芽里は立ち上がった。
「ママは? パパはどこ?」
凌司には答えられなかった。
屋敷のあちこちで悲鳴が聞こえていた。何が起きているのか、どれほどの人間が無事なのか、まだ何も分からなかった。
ただ1つ、分かっていることがあった。
ここにいれば、この少女は殺される。
「芽里お嬢様、俺につかまってください」
「ママも一緒?」
少女の大きな瞳が、不安そうに揺れた。
凌司は喉の奥が詰まるのを感じた。
「……まずは、お嬢様を安全なところへお連れします」
そう言って抱き上げると、芽里は彼の首に両腕を回した。
その小さな身体は、驚くほど軽かった。
****
追手の足音が近づいていた。
凌司は使用人専用の階段へ飛び込み、3段ずつ駆け下りた。途中で銃弾が肩をかすめ、焼けるような痛みが走ったが、足を止めるわけにはいかなかった。
「お兄ちゃん、痛い?」
腕の中から小さな声がした。
「痛くありません」
「でも、血が出てるよ」
「大丈夫です。怖かったら、目を閉じていてください」
「……うん」
芽里は素直に目を閉じた。
その直後、背後で激しい音が響き、階段の窓ガラスが砕け散った。
凌司は咄嗟に少女を庇った。
鋭い衝撃が頭を襲う。
視界が白く弾け、左耳の奥で甲高い音が鳴り続けた。額を伝った温かいものが目に入り、階段が一瞬、傾いて見えた。
それでも凌司は壁に肩をぶつけながら踏みとどまった。
腕の中の芽里は無傷だった。
それを確かめ、ようやく息を吐く。
「……よし」
自分の身体がどうなっているのか、考える余裕はなかった。
裏庭へ通じる通用口まで辿り着くと、凌司は扉を蹴り開けた。
外は土砂降りだった。
冷たい雨が傷口に降り注ぎ、血に濡れた制服が身体に張りついた。
背後から追手の怒鳴り声が響く。
凌司は庭を突っ切り、屋敷の裏手に広がる林へ飛び込んだ。
枝が顔を打ち、濡れた土に足を取られる。頭の傷から流れる血で、片目はほとんど開かなかった。
それでも、腕の中の少女だけは離さない。
「お兄ちゃん……」
「はい」
「寒いよ……」
凌司は自分の上着を脱ぎ、芽里を包んだ。
「もう少しです。すぐに暖かいところへ行けますから」
本当は、安全な場所までどれほど距離があるのか分からなかった。
追手が何人いるのかも、味方がまだ生きているのかも分からない。
ただ、走るしかなかった。
やがて芽里が、小さな声で尋ねた。
「お兄ちゃんも、一緒に来る?」
その問いに、凌司は思わず足を緩めた。
「……え?」
「芽里と一緒に、行く?」
凌司は答えられなかった。
お嬢様を安全な場所へ送り届けたあとのことなど、考えたこともなかった。
誰かを守って命を落とすのは、護衛として当然だと教えられてきた。自分の帰りを待つ人間もいない。
それなのに、この子は自分も一緒に来るのかと聞いている。
芽里は彼の首にしがみついたまま、もう1度尋ねた。
「お兄ちゃん、いなくならない?」
凌司の胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。
「……いなくなりません」
「ほんと?」
「はい」
その約束をした途端、不思議なことに、死ぬのが怖くなった。
この子を安全な場所へ送り届けるだけでは駄目なのだ。
自分も生き延びなければならない。
この小さな少女が、明日も自分に会いたがっているのだから。
凌司は歯を食いしばり、再び走り出した。
****
どれほど走ったのか分からなかった。
林を抜けた先で、ようやく宮原家の警護車両を見つけたときには、凌司の足はほとんど感覚を失っていた。
車から数人の警護員が飛び出してくる。
「広瀬! お前、その怪我は!」
「お嬢様を……」
凌司は芽里を抱いたまま、よろめいた。
「先に、お嬢様を……」
警護員が少女を受け取ろうとしたが、芽里は凌司の首にしがみついて離れなかった。
「やだ! お兄ちゃんも!」
「芽里お嬢様、大丈夫です。この方たちは味方です」
凌司はできるだけ優しく声をかけた。
「もう怖くありませんよ」
「お兄ちゃんは?」
「俺も……すぐに行きます」
その瞬間、膝から力が抜けた。
凌司は地面に崩れ落ちた。
雨水が頬を打つ。
遠くで誰かが医師を呼べと叫んでいる。
だが、凌司にはもう、その声がはっきりと聞こえなかった。
身体がひどく冷たい。
眠ってしまえば楽になれる。
そう思ったとき、小さな手が頬に触れた。
「お兄ちゃん……?」
芽里だった。
警護員の腕から身を乗り出し、必死に手を伸ばしている。
「お兄ちゃん、痛い?」
凌司はかすかに首を横に振った。
「……痛く、ありません」
「うそ。いっぱい血が出てるよ」
少女の目から、大粒の涙がこぼれた。
「お兄ちゃん、死んじゃう?」
凌司は動かなくなりかけた指を、必死に伸ばした。
芽里の小さな手を握る。
自分の手は血と泥で汚れていた。
こんな手で触れてはいけないと思ったが、少女は離さなかった。
「……死にません」
「ほんと?」
「はい」
息をするたび、胸の奥が痛んだ。
それでも凌司は、少女に聞こえるよう、ゆっくりと言葉を続けた。
「お嬢様が……大きくなるまで、俺は絶対に死にません」
芽里は涙を拭いながら頷いた。
「約束だよ?」
「……約束です」
「大きくなっても、一緒にいてね」
凌司はかすかに笑った。
自分にそんな未来があるなど、考えたこともなかった。
それでも、今はその未来が欲しかった。
この子が大きくなるところを見たい。
笑っているところを、何度でも見たい。
もう怖い思いをしなくて済むように、誰よりも強くなりたい。
いつか、世界中の誰も、この子を傷つけられないほどに。
その願いを胸に、凌司はゆっくりと目を閉じた。
芽里が泣きながら彼の名前を呼ぶ声だけが、意識の遠くに残っていた。
****
18年後。
東京。
都心の超高層ホテル、その最上階に設けられた特別会議室には、世界各国の企業経営者が集まっていた。
議題は、総額数兆円に及ぶ国際的な投資計画。
誰もが慎重に言葉を選び、会議室の中央に座る男の表情をうかがっていた。
広瀬凌司、34歳。
金融、医療、情報通信、警備、不動産。
数えきれないほどの企業を傘下に収めた広瀬グループの社長。
彼の決断1つで、巨大企業の命運が変わる。
かつて血まみれで林を走っていた16歳の少年は、今や誰もが恐れる男になっていた。
「広瀬社長。どうか、もう1度ご検討いただけませんか」
向かいに座る年配の経営者が、額の汗を拭った。
凌司は手元の資料を閉じた。
「条件は先週お伝えしたはずです。これ以上、同じ話をするつもりはありません」
冷たい声だった。
相手が何を訴えても、その表情は少しも変わらない。
会議室に重い沈黙が落ちた。
そのとき。
凌司の携帯電話が震えた。
普段、彼の会議中に直接連絡できる人間は、ほとんど存在しない。
隣に座る黒川慎吾(くろかわ しんご)が、反射的に画面へ目を向ける。
そして、すぐに背筋を伸ばした。
画面に表示されていたのは、たった2文字。
芽里
凌司の指が止まった。
次の瞬間。
それまで氷のように冷たかった男の目元が、信じられないほど優しく緩んだ。
数日後、芽里はホテルの控室で、鏡の前に立つ凌司を見つめていた。今日は宮原家と縁の深いホテル経営者の娘の結婚式だ。祖父の重隆が急用で出席できなくなり、芽里が代わりに招かれていた。広瀬グループとも取引のある家で、凌司も招待を受けている。「凌司さん、ちょっとこっち向いて」「どうした?」「ネクタイ、曲がってる」凌司が鏡を見るより早く、芽里は彼の前へ歩み寄った。「動かないでね」そう言って両手を伸ばし、結び目を整える。背の高い凌司に届くよう、少し爪先立ちになった。彼は息を止めた。いつもの芽里なら、髪に落ちた葉を取ってほしいと頼み、転びそうになればためらわず腕をつかんでくる。触れることは珍しくなかった。けれど今、鼻先に彼女の髪が揺れ、ほのかな香りがしただけで、身体が強張ってしまう。「……芽里。自分で直せる」「あと少しだから」芽里は真剣な顔で結び目を引いた。凌司は視線を落としかけ、慌てて壁の時計を見た。彼女はもう子供ではない。自分が不用意に近づいていい相手ではないのだ。「できた!」芽里が一歩下がる。「凌司さん、顔が赤いよ。暑い?」「……いや。何でもない」凌司は手を上げたものの、結び目には触れなかった。せっかく彼女が直してくれたものを、崩したくなかった。****式場には白い花が飾られ、柔らかな音楽が流れていた。披露宴が始まると、主賓席の凌司には挨拶が絶えなかった。有力企業の経営者たちは彼と数分話すために列を作り、芽里にも名刺を差し出してくる。「広瀬社長、ぜひ後ほどお時間を」「今日は祝いの席だ。仕事の話は別の日にしてくれ」凌司はにべもなく断った。ところが芽里が「新婦さんのドレス、近くで見てみたいな」と囁くと、すぐに立ち上がる。「案内しよう」「凌司さんも一緒に?」「嫌か?」「ううん、嬉しい」彼はその一言で、今までの冷たい表情を忘れたように微笑んだ。少し離れた場所で見ていた慎吾は、挨拶に来た取引先へ「社長は本日、商談をお受けしません」と丁重に告げた。もう理由を説明する必要もない。その取引先の会長は、凌司が芽里の椅子を引く姿を目で追った。「広瀬社長が女性を気遣うところなど、初めて見たよ」慎吾は曖昧に笑った。女性だからではない。芽里だからだ。凌司はこれまでも、出張先からわざわざ彼女の誕生日に帰国し、海外にしかない画材を探し回っ
「ママ、待って!」伸ばした手は、誰にも届かなかった。炎が廊下を赤く染めている。遠くでガラスが割れ、誰かが自分の名を叫んだ。母の白い服が扉の向こうへ消える。追いかけようとしても足が動かず、代わりに近づいてきたのは、黒い服の男たちだった。次の瞬間、身体がふわりと浮いた。『目を閉じていてください』聞き覚えのある声。雨の冷たさ。耳元で乱れる息遣い。自分を抱いた少年の頬から、赤いものが落ちてくる。『お兄ちゃん、血が……』彼は答えず、ただ走り続ける。やがてその腕から力が抜け、芽里は暗い地面へ落ちていった。「凌司さん!」自分の声で目が覚めた。見慣れた別邸の寝室だった。ベッド脇の時計は午前2時を少し回っている。窓の外は静かで、廊下から物音ひとつ聞こえない。芽里は胸元を押さえた。夢だと分かっているのに、心臓が激しく脈打ち、指先の震えが止まらなかった。帰国してから、昔の屋敷や庭を見て、懐かしい気持ちになった。その分、遠ざかっていた夜の記憶まで呼び戻してしまったらしい。母の最後の顔は思い出せない。それなのに、血に濡れた凌司の手だけは、夢の中でもはっきり見えた。枕元の携帯を取る。画面にある「凌司さん」の名前を見つめ、芽里はためらった。今は深夜だ。彼は今日も仕事をしていた。自分はもう22歳で、怖い夢くらい1人でやり過ごせるはずなのに。それでも、あの手が離れていく感触が消えない。芽里は通話ボタンを押した。呼び出し音は、1回も鳴り終わらなかった。「芽里? どうした」眠そうな声ではない。いつもと変わらない、落ち着いた声だった。「……起こしちゃった?」「起きていた。何があった?」その優しさに触れた途端、こらえていたものが溢れた。「怖い夢を見たの。昔の……あの夜の夢」電話の向こうで、短い沈黙があった。「怪我はしていないな? 今は部屋にいるんだな?」「うん。私、大丈夫。でも、凌司さんが……」最後まで言えなかった。再び涙がこぼれ、声が詰まった。「分かった。今から行く」「えっ? 待って、こんな時間に――」「無理に話さなくていい。電話は切らなくてもいいから」凌司はそう言い、上着をつかんだ。****広瀬邸の書斎では、青いマグカップがまだ机の中央に置かれていた。凌司は通話をつないだまま廊下へ出る。警備責任者に車の準備を告げると、玄関で待ってい
「本当に、私が遊びに行ってもいいの?」翌朝、芽里が念を押すと、凌司は電話の向こうで小さく笑った。「昨日もそう答えただろう。車を迎えに行かせる」「今日は自分で行けるよ。場所も教えてもらったし」「……分かった。気をつけて来い」電話を切った凌司は、すぐに慎吾を呼んだ。「午後の予定を空けろ。客が来る」「お嬢様ですね。すでに応接室の準備を進めています」「応接室?」「はい。庭が見える、一番明るい部屋を」凌司は首を振った。「芽里は、俺がどう暮らしているのか知りたいそうだ。取り繕う必要はない」慎吾は一瞬だけ目を見開いた。海外の首脳級の客人ですら案内したことのない私的な居住区へ、芽里を招くつもりなのだ。「承知しました。では、普段どおりに」「……いや、待て」凌司は机の上を見回した。積み上がった書類、冷めたコーヒー。昨夜も眠らずに仕事をしていたことが、一目で分かる。「コーヒーは片づけてくれ」慎吾は笑いをこらえて頭を下げた。****広瀬邸の門が開いたとき、芽里は思わず足を止めた。長いアプローチの奥に白い石造りの邸宅がそびえ、噴水のそばには高級車が並んでいた。ホテルと見まがう豪華さだった。けれど、玄関に迎えに出た凌司の姿を見た途端、そのすべてが気にならなくなった。「凌司さん!」「迷わなかったか?」「うん。すごいお家だね! でも、本当に1人で住んでるの?」「使用人はいる。ほかに家族はいない」当たり前のような答えだった。芽里は昨日買った紙袋を抱え直した。中には、遥と一緒に選んだ青いマグカップが入っている。「今日はね、渡したいものがあるの」「俺に?」「あとでのお楽しみ」凌司はそれ以上聞かず、彼女を中へ招き入れた。大理石の床には一筋の傷もない。天井には大きなシャンデリアが輝き、壁には有名画家の作品が並んでいた。「美術館みたい……」「気に入ったものがあれば、持って帰っていい」「そういうことじゃないよ!」芽里が笑うと、凌司は少し困ったように眉を下げた。その顔を見て、芽里は胸が温かくなった。世界的な企業グループの社長なのに、自分の冗談にはどう返せばいいか分からないらしい。****屋敷を案内されるうちに、芽里は奇妙なことに気づいた。客間には季節の花が飾られているのに、凌司の書斎には一輪もない。廊下の美術品も、どれも取引先からの
「凌司さん、今日はお願いがあるの」朝の電話で芽里がそう切り出した瞬間、凌司は署名しかけていた書類から顔を上げた。「何が欲しい?」「物じゃないよ。今日、遥と2人で出かけたいの」留学中に親しくなった水城遥(みずき はるか)が、帰国祝いに街を案内すると言ってくれたのだという。久しぶりに友達と買い物をして、行きたかった店でお茶を飲む。芽里は楽しそうに予定を話した。「車を出そう。護衛も2人つける」「……そう言うと思った」電話の向こうで芽里が小さく笑った。「今日はね、普通の女の子みたいに出かけてみたいの。友達と電車に乗って、お店を見て、帰りも自分で帰る。駄目?」凌司の手が止まった。4歳の芽里を抱いて雨の中を走った夜から、彼女の安全を他人任せにしたことはない。どこにいても助けられるよう、車も人員も確保してきた。「今はまだ帰国したばかりだ。土地勘も戻っていないだろう」「大学の間は、ずっと自分で出かけてたよ」「それは分かっている」「じゃあ、信じて。私、もう22歳だよ」彼女の声に、甘える響きはなかった。凌司は窓の外に目を向けた。昨日、芽里に言われたばかりだ。何でも先回りして決めないでほしい、と。守ってやりたい。だが、自分が作った安全な世界に閉じ込めたいわけではない。「……分かった。楽しんでこい」「本当?」「ただし、困ったときは必ず連絡しろ。迎えが必要ならすぐに行く」「うん! ありがとう、凌司さん!」電話が切れたあとも、凌司はしばらく携帯を置けなかった。****「警護車両は何台ご用意しましょう」慎吾の質問に、凌司は書類を閉じた。「必要ない」「……はい?」「今日は友人と2人で出かけるそうだ。尾行もするな」慎吾は珍しく聞き返した。「よろしいのですか。18年前の襲撃以来、警護の方針は厳格にしてきましたが」「緊急時に動ける態勢だけ整えておけ。本人には干渉するな」言い切った凌司自身、胸の奥は落ち着かなかった。もし何かあったら。人混みではぐれたら。昔の敵が姿を現したら。考え始めれば、危険などいくらでも思いつく。それでも、芽里の望みをなかったことにはしたくない。あの夜は彼女のために、他人の人生を動かそうとした。今日は逆に、自分が芽里を守るという役目から、ほんの少し手を離さなければならない。それがこれほど難しいとは思わなかった。慎
朝7時を回ったばかりだというのに、広瀬グループ本社の最上階には、すでに灯りがついていた。慎吾が執務室へ入ると、凌司は昨夜のままの姿勢で資料を読んでいた。机には冷めたコーヒーが置かれ、窓の外では朝日が高層ビルのガラスを照らしている。「社長、まさか一晩中……」「城崎の件は?」「既存の共同事業は継続できます。新規投資の見合わせも撤回可能です。ただ、城崎家の当主から、息子を事業責任者から外すと連絡がありました」凌司は報告書に目を落とした。直哉の父親は、息子の不始末を詫びるため、朝を待たずに何度も連絡してきたらしい。「取引は予定どおり進めろ。あの男には芽里へ直接謝罪させるな。謝罪状だけ、本人が受け取るかどうか決めればいい」「承知しました」慎吾は報告書を閉じた。昨日なら凌司は、会社がどれほど損をしようと決定を変えなかっただろう。「……お嬢様のご意見ですか」「違う。あいつは何も悪くない人間を巻き込むなと言った。俺が、そこまで考えていなかった」凌司は淡々と答えたが、書類を持つ指先に疲労が滲んでいた。昨日、芽里の目に涙が浮かんだ瞬間、彼には相手を許すという選択肢が消えた。18年前、血まみれの少女を抱いて逃げた夜からずっとそうだった。だが、芽里はその選択を望まなかった。彼女が傷ついた事実を消せない以上、今さら何をしても遅いのかもしれない。携帯が震えた。『凌司さん、今日はお昼に来られる? お庭でお茶しながら話そう』凌司はすぐに返信した。『行く』それから画面を見つめ、もう一文を打った。【昨日は、怖い思いをさせてすまなかった】送信までに、ずいぶん時間がかかった。****芽里は庭のテラスで彼を待っていた。昨日のドレスとは違い、淡い色のカーディガンを羽織り、テーブルには2人分の紅茶が並んでいる。「凌司さん、早いね。まだ約束の30分前だよ」「待たせるよりいい」「私だって凌司さんを待たせてみたかったのに」芽里が笑うと、凌司はようやく肩の力を抜いた。「……昨日の件だが」「うん。私もそれを話したかったの」凌司は向かいの椅子に座った。「城崎との取引は続けることにした。あいつは事業の担当から外れる。ほかの社員には影響が出ないようにする」芽里はほっとしたように息を吐いた。「よかった。ありがとう」「礼を言われることじゃない」「でも、凌司さん
「宮原のお嬢様、ずいぶん立派な護衛をお持ちですね」休憩室から戻った芽里に、男が声をかけた。城崎直哉(しろさき なおや)、32歳。国内有数の不動産グループの御曹司だ。「広瀬社長が直々に靴の世話までなさるとは。随分と大切にされているようで」笑顔の奥に皮肉が透けていた。芽里は礼儀正しく微笑む。「凌司さんには、昔からお世話になっているんです」「宮原家も、いい人材を拾いましたね。あれほどの男を護衛にしていたとは」拾った。その言い方が引っかかった。凌司は今、少し離れた場所で海外企業の代表と話している。芽里が「もう大丈夫だから、お仕事に戻って」と送り出したばかりだった。「凌司さんは、私たちにとって大切な方です。そういう言い方は控えていただけますか」「失礼。もっとも、今では宮原家のほうが彼に守られている立場でしょう? 昔の勢いもなくなったと聞きますし」「経営のお話でしたら、祖父にお願いします」芽里は穏やかに答えて立ち去ろうとした。だが、直哉はさらに声を落とした。「そういえば、ご両親はあの襲撃事件で亡くなられたとか。あれほど警護の厳しい屋敷が襲われるなんて、よほど恨みを買っていたんでしょうね」芽里の足が止まった。銃声。炎。母の声。4歳のあの夜の記憶が、不意に胸を締めつける。「……両親のことを、そんなふうに言わないでください」「お気を悪くされましたか? 昔の事件について、少し感想を述べただけですよ」男は悪びれる様子もない。芽里は言い返そうとしたが、喉が詰まった。父も母も、どんな思いで自分を守ろうとしたのか。この男は何も知らない。周囲にはほかの招待客もいた。誰かが気づいているはずなのに、誰も口を挟まない。相手は大手グループの跡取りで、今夜の宴席では有力な客の1人だった。芽里は父と母の顔を思い出そうとした。けれど記憶の中の2人は、いつも遠い。どうして、知らない人にまで大切な思い出を踏みにじられなければならないのだろう。悔しさに視界が滲んだ、そのとき。「今、何と言った?」背後から低い声が響いた。****直哉が振り向くと、凌司が立っていた。「ひ、広瀬社長……!」「芽里に何と言ったのか、聞いている」凌司の視線が芽里に移る。彼女は慌てて目元を拭ったが、赤くなった目を隠すことはできなかった。「凌司さん、何でもないの。私なら大丈夫だから」







