تسجيل الدخول「芽里?」
広瀬グループの社長、凌司の声が変わった。
つい先ほどまで、数兆円規模の投資案件を巡って各国の経営者を震え上がらせていた男とは思えないほど、柔らかな声だった。
「凌司さん! 今、日本に着いたよ!」
電話の向こうから聞こえてきた明るい声に、凌司の口元がわずかに緩む。
「おかえり。長旅だったな。疲れていないか?」
「全然! 飛行機でもぐっすり寝ちゃった。ねえ、凌司さん、今忙しい?」
凌司は目の前に広げられた契約書を見た。
会議室には、各国の大企業を率いる経営者たちが10数人、彼の決断を待っている。
今回の交渉がまとまらなければ、すでに動き始めた巨額の投資計画が白紙に戻る可能性さえあった。
「いや。どうした?」
隣に座っていた慎吾が、思わず顔を上げた。
忙しくない?
今、世界中の財界人が、この男の一言を待っているというのに。
「よかった! あのね、凌司さんに会いたいなって思って」
凌司は手元のペンを置いた。
「……今、どこだ?」
「まだ空港。迎えの車は来てくれてるんだけど……」
芽里は少し言いにくそうに声を落とした。
「やっぱり、最初に凌司さんに会いたくなっちゃった。駄目?」
「駄目なわけがないだろう」
凌司は即答した。
「そこで待っていろ。俺が迎えに行く」
「えっ、本当に? でも、仕事は?」
「心配するな。すぐ行く」
通話を終えた凌司は、すでに立ち上がっていた。
「慎吾、車を回せ」
「社長……まさか、今から空港へ?」
「ああ」
「しかし、こちらの会議はまだ――」
「残りはお前に任せる」
慎吾は口を閉じた。
こうなると、凌司を止めることは不可能だった。
向かいに座っていた海外企業の会長が、慌てて立ち上がる。
「広瀬社長! お待ちください。この契約には、我が社の今後10年が懸かっているのです!」
凌司は足を止めた。
会長は安堵したように続ける。
「どうか、あと30分だけでもお時間をいただけませんか?」
凌司は相手を見た。
「条件はすでに提示した。受け入れるかどうかは、そちらで決めればいい」
「ですが……!」
「俺がここにいなければ決められないのなら、今回の取引は見送っても構わない」
その言葉に、会議室が静まり返った。
凌司はそれ以上説明することなく、扉へ向かった。
背後から会長の声が追いかけてくる。
「一体、何がそれほど重要なのですか!」
凌司は振り返らなかった。
「俺にとって、何より大切な用事だ」
そのまま会議室を出ていく。
残された経営者たちは、しばらく誰も口を開けなかった。
****
残る交渉を担当役員へ引き継ぐと、慎吾は凌司とエレベーターに乗り、手元の端末を確認した。
「社長、お嬢様のお車はすでに到着ロビーで待機しています。そちらでお待ちいただくよう手配しましょうか」
「そうしてくれ」
「それにしても……今回は、お嬢様ご自身が迎えは不要だとおっしゃっていたはずですが」
凌司は頷いた。
4年間の留学を終えて帰国する芽里は、数日前、電話で嬉しそうに話していた。
『もう子供じゃないんだから、空港から家までくらい、自分で帰れるよ』
凌司は迎えに行きたかった。
本当は、帰国便が決まったその日から、すべての予定を空けておくつもりだった。
だが芽里が自分で帰りたいと言うのなら、その意思を尊重したかった。
だから直接迎えには行かず、車だけを用意していたのだ。
その芽里が、今になって自分に会いたいと言った。
ならば、迷う理由などなかった。
「慎吾」
「はい」
「到着ロビーに人が多ければ、芽里を車の中で待たせろ。長旅で疲れているはずだ」
「承知しました」
「飲み物も用意しておけ」
「そちらも手配済みです」
凌司はようやく満足したように頷いた。
慎吾は、そんな彼の横顔をそっと見た。
1分で何百億円もの資金を動かし、世界中の経営者に頭を下げさせる男が、今は迎えの飲み物を気にしている。
慎吾はもう驚かなかった。芽里が風邪を引いたと聞いて、凌司が海外出張先から帰国したこともある。
ただ、今日の彼はエレベーターの階数表示から目を離さなかった。
『凌司さんに会いたい』
その一言を聞いてから、空港までの時間さえ惜しいらしい。
芽里を守るために築いた地位だ。彼女より優先する理由など、凌司にはなかった。
****
空港に着いた凌司は、車が完全に止まるのも待ちきれない様子で外へ出た。
慎吾の部下が案内しようとしたが、凌司は片手を上げて制した。
「場所は分かっている」
芽里は、到着ロビーに近いラウンジで待っていた。
大きな窓のそばに座り、手元の携帯を眺めている。
長い黒髪が肩から流れ落ち、淡いクリーム色のワンピースが、白い肌によく似合っていた。
凌司は、その姿を見た瞬間、足を止めた。
芽里。
18年前、片腕だけで抱き上げられるほど小さかった少女。
転べば泣き、眠くなれば彼の制服の裾を握りしめていた少女。
いつの間に、こんなに大きくなったのだろう。
画面から目を上げた芽里が、凌司に気づいた。
「凌司さん!」
花が咲いたような笑顔だった。
芽里は立ち上がると、まっすぐ彼のもとへ駆け寄ってきた。
凌司は反射的に両腕を広げかけた。
幼い頃から、芽里が駆け寄ってくれば、いつもそうして受け止めてきた。
ところが、あと数歩というところで、凌司の手が止まった。
目の前にいるのは、もう幼い少女ではなかった。
彼が知らない4年間を過ごし、自分の足で未来を選べるようになった、大人の女性だった。
そんな凌司の戸惑いなど知らず、芽里は勢いよく抱きついてきた。
「会いたかった!」
柔らかな髪が彼の胸元に触れた。
凌司は一瞬、呼吸を忘れた。
「……芽里」
「凌司さん、久しぶり!」
芽里は嬉しそうに顔を上げた。
凌司はようやく我に返り、彼女の肩をそっと支えた。
「おかえり。元気そうで安心した」
「うん! 凌司さんは?」
「変わらない」
「本当? ちょっと痩せたんじゃない?」
芽里は心配そうに彼の顔を覗き込んだ。
その仕草も、幼い頃と少しも変わっていなかった。
凌司は自然に微笑んだ。
「お前こそ、ちゃんと食べていたのか?」
「もう! 帰ってきたばかりなのに、お母さんみたいなこと言わないでよ」
「心配なんだ」
あまりにも当然のように答えるので、芽里は思わず笑ってしまった。
「凌司さんは、ずっと変わらないね」
凌司も笑った。
だが、その胸の奥には、言葉にできない感情が広がっていた。
芽里に笑っていてほしい。その願いは、18年間変わらなかった。
けれど、昔のように頭を撫でようとすると、手が止まる。
さっき抱きつかれた感触が、まだ胸元に残っていた。
その戸惑いを隠すように、凌司は芽里のスーツケースへ手を伸ばした。
「荷物を持とう」
「いいよ、自分で持てるから」
「分かっている」
凌司は静かに答えた。
「だが、俺に持たせてくれ」
芽里は少し驚いたあと、嬉しそうに笑った。
「じゃあ、お願いしちゃおうかな」
凌司はスーツケースを受け取り、芽里の歩幅に合わせて歩き出した。
普段なら、何人もの秘書や警護員を従え、自分の荷物を持つことさえない男。
その彼が今、嬉しそうに笑う1人の女性のために、スーツケースを引いている。
周囲の視線など、まるで気にしていなかった。
****
車に乗ると、芽里は窓の外を眺めながら、楽しそうに留学先での出来事を話し始めた。
友人たちのこと。
卒業式のこと。
最後に訪れた小さなカフェのこと。
凌司はその1つ1つに耳を傾けた。
この4年間、芽里とは何度も電話で話していた。
それでも、直接会って聞く彼女の声は、まるで違って聞こえた。
「そうだ、凌司さん」
「何だ?」
「今日、本当に忙しくなかったの?」
凌司はわずかに目を細めた。
「どうしてそう思う?」
「慎吾さんから、すごく大事な会議があるって聞いてたから」
凌司は内心でため息をついた。
慎吾には、あとで少し話を聞く必要がありそうだ。
「問題ない。仕事はほかの人間にも任せられる」
「でも、わざわざ迎えに来てもらっちゃって……」
「芽里」
凌司は彼女の言葉を遮った。
「俺に会いたいときは、遠慮するな」
芽里が顔を上げる。
「いつでも?」
「ああ」
「夜中でも?」
「構わない」
「海外にいても?」
「迎えに行く」
あまりにも迷いのない返事に、芽里は声を上げて笑った。
「もう、凌司さんったら! 私がわがままになっちゃうよ」
「なればいい」
凌司は真顔で答えた。
「お前のわがままくらい、いくらでも聞いてやる」
芽里は笑いかけたまま、少しだけ黙った。
昔から、凌司は自分に甘かった。欲しいものを用意してくれて、どんなに忙しくても約束を守ってくれた。
けれど、今も尋ねるのは芽里の望みばかりだ。
彼自身はどうしたいのか。それだけは、いつも聞けずにいた。
芽里は少し考えてから、そっと尋ねた。
「ねえ、凌司さん」
「ん?」
「私が帰ってきて、嬉しい?」
凌司は一瞬、言葉を失った。
この4年間、どれほど帰国を待ちわびたか。
毎年、誕生日には直接会って祝いたかった。体調を崩したと聞けば、今すぐ飛んでいきたかった。
今朝も、到着の報告を受けるまで落ち着かなかったのだ。
だが、そのまま伝えたら、芽里はどんな顔をするだろう。
凌司はゆっくりと窓の外へ目を向けた。
「……嬉しくないわけがないだろう」
芽里は満足そうに笑った。
「よかった。私もね、凌司さんに会えるのが一番楽しみだったの」
その言葉に、凌司の胸が不意に強く脈打った。
彼は思わず芽里を見た。
しかし、彼女はすでに窓の外へ目を向けていた。
無邪気に景色を眺める横顔。
幼い頃から何度も見守ってきた、大切な少女の面影がそこにあった。
それなのに、今は何かが違う。
凌司は再び視線を逸らした。
18年間、彼女のそばにいることを迷ったことなど、1度もなかった。
その彼が初めて、芽里をまっすぐ見つめられなくなっていた。
数日後、芽里はホテルの控室で、鏡の前に立つ凌司を見つめていた。今日は宮原家と縁の深いホテル経営者の娘の結婚式だ。祖父の重隆が急用で出席できなくなり、芽里が代わりに招かれていた。広瀬グループとも取引のある家で、凌司も招待を受けている。「凌司さん、ちょっとこっち向いて」「どうした?」「ネクタイ、曲がってる」凌司が鏡を見るより早く、芽里は彼の前へ歩み寄った。「動かないでね」そう言って両手を伸ばし、結び目を整える。背の高い凌司に届くよう、少し爪先立ちになった。彼は息を止めた。いつもの芽里なら、髪に落ちた葉を取ってほしいと頼み、転びそうになればためらわず腕をつかんでくる。触れることは珍しくなかった。けれど今、鼻先に彼女の髪が揺れ、ほのかな香りがしただけで、身体が強張ってしまう。「……芽里。自分で直せる」「あと少しだから」芽里は真剣な顔で結び目を引いた。凌司は視線を落としかけ、慌てて壁の時計を見た。彼女はもう子供ではない。自分が不用意に近づいていい相手ではないのだ。「できた!」芽里が一歩下がる。「凌司さん、顔が赤いよ。暑い?」「……いや。何でもない」凌司は手を上げたものの、結び目には触れなかった。せっかく彼女が直してくれたものを、崩したくなかった。****式場には白い花が飾られ、柔らかな音楽が流れていた。披露宴が始まると、主賓席の凌司には挨拶が絶えなかった。有力企業の経営者たちは彼と数分話すために列を作り、芽里にも名刺を差し出してくる。「広瀬社長、ぜひ後ほどお時間を」「今日は祝いの席だ。仕事の話は別の日にしてくれ」凌司はにべもなく断った。ところが芽里が「新婦さんのドレス、近くで見てみたいな」と囁くと、すぐに立ち上がる。「案内しよう」「凌司さんも一緒に?」「嫌か?」「ううん、嬉しい」彼はその一言で、今までの冷たい表情を忘れたように微笑んだ。少し離れた場所で見ていた慎吾は、挨拶に来た取引先へ「社長は本日、商談をお受けしません」と丁重に告げた。もう理由を説明する必要もない。その取引先の会長は、凌司が芽里の椅子を引く姿を目で追った。「広瀬社長が女性を気遣うところなど、初めて見たよ」慎吾は曖昧に笑った。女性だからではない。芽里だからだ。凌司はこれまでも、出張先からわざわざ彼女の誕生日に帰国し、海外にしかない画材を探し回っ
「ママ、待って!」伸ばした手は、誰にも届かなかった。炎が廊下を赤く染めている。遠くでガラスが割れ、誰かが自分の名を叫んだ。母の白い服が扉の向こうへ消える。追いかけようとしても足が動かず、代わりに近づいてきたのは、黒い服の男たちだった。次の瞬間、身体がふわりと浮いた。『目を閉じていてください』聞き覚えのある声。雨の冷たさ。耳元で乱れる息遣い。自分を抱いた少年の頬から、赤いものが落ちてくる。『お兄ちゃん、血が……』彼は答えず、ただ走り続ける。やがてその腕から力が抜け、芽里は暗い地面へ落ちていった。「凌司さん!」自分の声で目が覚めた。見慣れた別邸の寝室だった。ベッド脇の時計は午前2時を少し回っている。窓の外は静かで、廊下から物音ひとつ聞こえない。芽里は胸元を押さえた。夢だと分かっているのに、心臓が激しく脈打ち、指先の震えが止まらなかった。帰国してから、昔の屋敷や庭を見て、懐かしい気持ちになった。その分、遠ざかっていた夜の記憶まで呼び戻してしまったらしい。母の最後の顔は思い出せない。それなのに、血に濡れた凌司の手だけは、夢の中でもはっきり見えた。枕元の携帯を取る。画面にある「凌司さん」の名前を見つめ、芽里はためらった。今は深夜だ。彼は今日も仕事をしていた。自分はもう22歳で、怖い夢くらい1人でやり過ごせるはずなのに。それでも、あの手が離れていく感触が消えない。芽里は通話ボタンを押した。呼び出し音は、1回も鳴り終わらなかった。「芽里? どうした」眠そうな声ではない。いつもと変わらない、落ち着いた声だった。「……起こしちゃった?」「起きていた。何があった?」その優しさに触れた途端、こらえていたものが溢れた。「怖い夢を見たの。昔の……あの夜の夢」電話の向こうで、短い沈黙があった。「怪我はしていないな? 今は部屋にいるんだな?」「うん。私、大丈夫。でも、凌司さんが……」最後まで言えなかった。再び涙がこぼれ、声が詰まった。「分かった。今から行く」「えっ? 待って、こんな時間に――」「無理に話さなくていい。電話は切らなくてもいいから」凌司はそう言い、上着をつかんだ。****広瀬邸の書斎では、青いマグカップがまだ机の中央に置かれていた。凌司は通話をつないだまま廊下へ出る。警備責任者に車の準備を告げると、玄関で待ってい
「本当に、私が遊びに行ってもいいの?」翌朝、芽里が念を押すと、凌司は電話の向こうで小さく笑った。「昨日もそう答えただろう。車を迎えに行かせる」「今日は自分で行けるよ。場所も教えてもらったし」「……分かった。気をつけて来い」電話を切った凌司は、すぐに慎吾を呼んだ。「午後の予定を空けろ。客が来る」「お嬢様ですね。すでに応接室の準備を進めています」「応接室?」「はい。庭が見える、一番明るい部屋を」凌司は首を振った。「芽里は、俺がどう暮らしているのか知りたいそうだ。取り繕う必要はない」慎吾は一瞬だけ目を見開いた。海外の首脳級の客人ですら案内したことのない私的な居住区へ、芽里を招くつもりなのだ。「承知しました。では、普段どおりに」「……いや、待て」凌司は机の上を見回した。積み上がった書類、冷めたコーヒー。昨夜も眠らずに仕事をしていたことが、一目で分かる。「コーヒーは片づけてくれ」慎吾は笑いをこらえて頭を下げた。****広瀬邸の門が開いたとき、芽里は思わず足を止めた。長いアプローチの奥に白い石造りの邸宅がそびえ、噴水のそばには高級車が並んでいた。ホテルと見まがう豪華さだった。けれど、玄関に迎えに出た凌司の姿を見た途端、そのすべてが気にならなくなった。「凌司さん!」「迷わなかったか?」「うん。すごいお家だね! でも、本当に1人で住んでるの?」「使用人はいる。ほかに家族はいない」当たり前のような答えだった。芽里は昨日買った紙袋を抱え直した。中には、遥と一緒に選んだ青いマグカップが入っている。「今日はね、渡したいものがあるの」「俺に?」「あとでのお楽しみ」凌司はそれ以上聞かず、彼女を中へ招き入れた。大理石の床には一筋の傷もない。天井には大きなシャンデリアが輝き、壁には有名画家の作品が並んでいた。「美術館みたい……」「気に入ったものがあれば、持って帰っていい」「そういうことじゃないよ!」芽里が笑うと、凌司は少し困ったように眉を下げた。その顔を見て、芽里は胸が温かくなった。世界的な企業グループの社長なのに、自分の冗談にはどう返せばいいか分からないらしい。****屋敷を案内されるうちに、芽里は奇妙なことに気づいた。客間には季節の花が飾られているのに、凌司の書斎には一輪もない。廊下の美術品も、どれも取引先からの
「凌司さん、今日はお願いがあるの」朝の電話で芽里がそう切り出した瞬間、凌司は署名しかけていた書類から顔を上げた。「何が欲しい?」「物じゃないよ。今日、遥と2人で出かけたいの」留学中に親しくなった水城遥(みずき はるか)が、帰国祝いに街を案内すると言ってくれたのだという。久しぶりに友達と買い物をして、行きたかった店でお茶を飲む。芽里は楽しそうに予定を話した。「車を出そう。護衛も2人つける」「……そう言うと思った」電話の向こうで芽里が小さく笑った。「今日はね、普通の女の子みたいに出かけてみたいの。友達と電車に乗って、お店を見て、帰りも自分で帰る。駄目?」凌司の手が止まった。4歳の芽里を抱いて雨の中を走った夜から、彼女の安全を他人任せにしたことはない。どこにいても助けられるよう、車も人員も確保してきた。「今はまだ帰国したばかりだ。土地勘も戻っていないだろう」「大学の間は、ずっと自分で出かけてたよ」「それは分かっている」「じゃあ、信じて。私、もう22歳だよ」彼女の声に、甘える響きはなかった。凌司は窓の外に目を向けた。昨日、芽里に言われたばかりだ。何でも先回りして決めないでほしい、と。守ってやりたい。だが、自分が作った安全な世界に閉じ込めたいわけではない。「……分かった。楽しんでこい」「本当?」「ただし、困ったときは必ず連絡しろ。迎えが必要ならすぐに行く」「うん! ありがとう、凌司さん!」電話が切れたあとも、凌司はしばらく携帯を置けなかった。****「警護車両は何台ご用意しましょう」慎吾の質問に、凌司は書類を閉じた。「必要ない」「……はい?」「今日は友人と2人で出かけるそうだ。尾行もするな」慎吾は珍しく聞き返した。「よろしいのですか。18年前の襲撃以来、警護の方針は厳格にしてきましたが」「緊急時に動ける態勢だけ整えておけ。本人には干渉するな」言い切った凌司自身、胸の奥は落ち着かなかった。もし何かあったら。人混みではぐれたら。昔の敵が姿を現したら。考え始めれば、危険などいくらでも思いつく。それでも、芽里の望みをなかったことにはしたくない。あの夜は彼女のために、他人の人生を動かそうとした。今日は逆に、自分が芽里を守るという役目から、ほんの少し手を離さなければならない。それがこれほど難しいとは思わなかった。慎
朝7時を回ったばかりだというのに、広瀬グループ本社の最上階には、すでに灯りがついていた。慎吾が執務室へ入ると、凌司は昨夜のままの姿勢で資料を読んでいた。机には冷めたコーヒーが置かれ、窓の外では朝日が高層ビルのガラスを照らしている。「社長、まさか一晩中……」「城崎の件は?」「既存の共同事業は継続できます。新規投資の見合わせも撤回可能です。ただ、城崎家の当主から、息子を事業責任者から外すと連絡がありました」凌司は報告書に目を落とした。直哉の父親は、息子の不始末を詫びるため、朝を待たずに何度も連絡してきたらしい。「取引は予定どおり進めろ。あの男には芽里へ直接謝罪させるな。謝罪状だけ、本人が受け取るかどうか決めればいい」「承知しました」慎吾は報告書を閉じた。昨日なら凌司は、会社がどれほど損をしようと決定を変えなかっただろう。「……お嬢様のご意見ですか」「違う。あいつは何も悪くない人間を巻き込むなと言った。俺が、そこまで考えていなかった」凌司は淡々と答えたが、書類を持つ指先に疲労が滲んでいた。昨日、芽里の目に涙が浮かんだ瞬間、彼には相手を許すという選択肢が消えた。18年前、血まみれの少女を抱いて逃げた夜からずっとそうだった。だが、芽里はその選択を望まなかった。彼女が傷ついた事実を消せない以上、今さら何をしても遅いのかもしれない。携帯が震えた。『凌司さん、今日はお昼に来られる? お庭でお茶しながら話そう』凌司はすぐに返信した。『行く』それから画面を見つめ、もう一文を打った。【昨日は、怖い思いをさせてすまなかった】送信までに、ずいぶん時間がかかった。****芽里は庭のテラスで彼を待っていた。昨日のドレスとは違い、淡い色のカーディガンを羽織り、テーブルには2人分の紅茶が並んでいる。「凌司さん、早いね。まだ約束の30分前だよ」「待たせるよりいい」「私だって凌司さんを待たせてみたかったのに」芽里が笑うと、凌司はようやく肩の力を抜いた。「……昨日の件だが」「うん。私もそれを話したかったの」凌司は向かいの椅子に座った。「城崎との取引は続けることにした。あいつは事業の担当から外れる。ほかの社員には影響が出ないようにする」芽里はほっとしたように息を吐いた。「よかった。ありがとう」「礼を言われることじゃない」「でも、凌司さん
「宮原のお嬢様、ずいぶん立派な護衛をお持ちですね」休憩室から戻った芽里に、男が声をかけた。城崎直哉(しろさき なおや)、32歳。国内有数の不動産グループの御曹司だ。「広瀬社長が直々に靴の世話までなさるとは。随分と大切にされているようで」笑顔の奥に皮肉が透けていた。芽里は礼儀正しく微笑む。「凌司さんには、昔からお世話になっているんです」「宮原家も、いい人材を拾いましたね。あれほどの男を護衛にしていたとは」拾った。その言い方が引っかかった。凌司は今、少し離れた場所で海外企業の代表と話している。芽里が「もう大丈夫だから、お仕事に戻って」と送り出したばかりだった。「凌司さんは、私たちにとって大切な方です。そういう言い方は控えていただけますか」「失礼。もっとも、今では宮原家のほうが彼に守られている立場でしょう? 昔の勢いもなくなったと聞きますし」「経営のお話でしたら、祖父にお願いします」芽里は穏やかに答えて立ち去ろうとした。だが、直哉はさらに声を落とした。「そういえば、ご両親はあの襲撃事件で亡くなられたとか。あれほど警護の厳しい屋敷が襲われるなんて、よほど恨みを買っていたんでしょうね」芽里の足が止まった。銃声。炎。母の声。4歳のあの夜の記憶が、不意に胸を締めつける。「……両親のことを、そんなふうに言わないでください」「お気を悪くされましたか? 昔の事件について、少し感想を述べただけですよ」男は悪びれる様子もない。芽里は言い返そうとしたが、喉が詰まった。父も母も、どんな思いで自分を守ろうとしたのか。この男は何も知らない。周囲にはほかの招待客もいた。誰かが気づいているはずなのに、誰も口を挟まない。相手は大手グループの跡取りで、今夜の宴席では有力な客の1人だった。芽里は父と母の顔を思い出そうとした。けれど記憶の中の2人は、いつも遠い。どうして、知らない人にまで大切な思い出を踏みにじられなければならないのだろう。悔しさに視界が滲んだ、そのとき。「今、何と言った?」背後から低い声が響いた。****直哉が振り向くと、凌司が立っていた。「ひ、広瀬社長……!」「芽里に何と言ったのか、聞いている」凌司の視線が芽里に移る。彼女は慌てて目元を拭ったが、赤くなった目を隠すことはできなかった。「凌司さん、何でもないの。私なら大丈夫だから」







