Masukアパートに着いた真子は、階段の前で足を止めると、ため息をついた。 決意を新たに社長室を出たはずなのに、時間が経つにつれて気分はどんどん沈んでいった。 どうやって身を守りつつ、司の交渉がうまくいくように立ち振る舞おうか。 そのことばかり考えていたせいで、正直、今日の仕事をどうやって終わらせたのかも覚えていない。 (こういうところがまだまだなんだよね…) はあ。 真子がもう一度ため息を吐いた、その時だった。 「そこ、退いてもらいたんすけど」 低く心地よいが、どこか掠れたようなその声に、真子は「あっ」と言うと、慌てて道を譲った。 「すみません」 真子は謝りながら相手に振り返る。 「あっ…」 例のオネエ…いや、高校生だった。 相変わらず、彼の目は長い前髪に隠れていてよく見えない。 しかも今日の彼は黒いマスクをしていて、長い前髪と相まって、顔の大半が隠れていた。 彼は、真子が道を譲ると「っす」と、例の挨拶をして、階段を上がっていく。 そこで、真子が「あのっ!」と声をかけると、彼は階段の途中でゆっくりと振り返った。 「…はい?」 どこか迷惑そうな彼の返事に、真子は少し怯んでしまう。 だが、 ちゃんと謝らないと! そう思った真子は、彼に向かって頭を下げると、 「この間はすみませんでした」 真子の唐突な謝罪に、高校生はしばらくの間黙っていたが、 「何のことっすか?」 さっさと立ち去りたいーー そんな高校生の思いを察した真子は、 「この間、廊下で庇ってもらった後のことなんですけど。あの時、あなたの唇のピアスを見て、咄嗟に目を逸らしてしまったことを謝りたくて。大変失礼な態度だったと反省しています。すみませんでした」 早口にそう謝罪すると、真子は勢いよく頭を下げた。 数秒後、真子は今度は勢いよく頭を上げて、 「あ、っと。すみません、以上です。あの…おやすみなさい?」 いやいや、おやすみなさいって…まだ夕方の6時なんですけど… 高校生に、やっと謝ることができたのはよかった。 ただ、その後の言葉を何も考えていなかった真子は、自分で自分が言った言葉の可笑しさに気付くと、気まずさのあまり目を泳がせる。 「ぷっ」 真子が驚いて顔を上げると、階段の上で高校生が
逃げ道は与えた。 それなのに、何でお前はーー 震える声で「やります」と答えた真子に、司の胸が締め付けられる。 痛い、苦しい。 真子がここに来る前に、散々心を殺そうとしたのに、また、うまくいかなかった… ダメなんだ。 真子を選んじゃダメなんだ。 司は額に手を当てると、真子から見えないようにその目を隠した。 隠された瞳が、悲痛に揺れる。 その間、呼吸を整えていた真子は、最後にふうっと息を吐き出すと、 「話は以上でしょうか、門脇社長」 覚悟を決めたような真子の声に、司は思わず顔を上げた。 「本当に、それでいいのか?」 つい、思ったことが、そのまま口をついて出た。 司のその言葉に、真子が反応する。 前にも、こんなふうに彼に問われたことがあった。 それは司が真子の妊娠を知ったときだった。 「その子らはお前の子であって、俺の子ではない。育てるのは勝手だが、俺の目の届かないところでやれ」 真子は俯いていた顔を上げて、一言、 「もちろんです」 そう言ってから、 「産むことを許してくださりありがとうございます。決して、門脇社長にも、門脇社長のご家族の皆さまにも、ご迷惑をおかけするようなことはいたしませんので」 「ーーーー」 真子から目を逸らし黙りこくる司に、真子は深々と頭を下げた。 司はその姿を目にし、たまらず、その場から立ち去ろうと踵を返す。 だが、ふいに立ち止まると、 「本当に、それでいいのか?」 真子はゆっくりと頭を上げ、 「もちろんです」 司の背中に向かってもう一度、そう答えた。 真子の答えを耳にして、司はそれ以上何も言うことなく、早足にその場から去っていったーー 以前の記憶を思い出して、真子は苦笑すると、 「他に、何か方法があるんですか?」 もちろんです、とは言わず、そう尋ねてみる。 瞬間、司の顔に苦しさと悲しさが混ざったような表情が浮かんだ。 それを自覚した司は、慌てて顔を下に向けると、 「話はもう済んだっ!さっさと出ていけっ!」 そう言って、顔を下に向けたまま、社長室のドアを指差した。 司に何かを期待したわけじゃない。ただ、前とは違う言葉を言いたかっただけーー 真子は司に向かって「失礼しました」とお辞儀をすると、し
真子はギラついたおじさんが苦手…嫌いだった。 その元凶となったのが、他でもない葉山幸助(はやま こうすけ)だった。 あからさまな視線は、毎度ねちっこく身体に絡みつくようで、とにもかくにも気色悪い。 千田も似たような部類だが、まだ触ってこないだけマシだった。 だが、葉山は違う。 あの男は、お金と権力に物を言わせてやりたい放題だったのだ。 あの頃のことを思い出した真子は、ゆっくりと目の前の司に目をやった。 あの時、息を荒げて迫ってくる葉山から救い出してくれたのが司だった。 けどーー そんなあなたが今回は、葉山に私を差し出すんですね? 皮肉めいた笑みを浮かべて見つめてくる真子に、司は眉間にしわを寄せた。 「何がそんなに面白いんだ?」 真子は首を振ると、 「何でもありません」 「じゃあなぜ笑っている?」 真子は顔を上げると、真っ直ぐに司を見つめた。 「どんな罰だろうと甘んじて受けると言ったのは私です。だからもちろん、受け入れます。ただ…」 真子はギュッと唇を噛み締めて、溢れそうになる涙を必死にこらえる。 真子のその姿に、司はグッと奥歯を噛み締めた。 彼は真子から目を逸らさずに、 「…やめるか?」 真子は驚いたように司を見つめ、それから、静かに首を横に振った。 司は目を細めると、 「イヤイヤやられたんじゃこっちも迷惑だ。やめたいのなら、はっきりとそう言え!」 いつもなら、司が接待のお供に連れて行くのは彩花だった。 だが、今回はその彩花が渋ったのだった。 「彩花、門脇家の嫁になるなら、接待も大事な仕事の一つなんだ。頼むよ、俺と一緒に行ってくれ」 だが、彩花は目を潤ませて、 「葉山さんだけは嫌!あの人の視線、思い出しただけでもゾッとする」 「彩花…」 眉を下げる司を、彩花は責めるように見つめ、 「好きな女が他の男にイヤらしい目で見られても、司はそれでも平気なのっ?」 「君には指一本触れさせない。約束する」 彩花は、自分で自分の肩を抱くと、 「…私の代わりに、真子ちゃんを行かせてよ」 司は目を見開いた。 「な、に?」 彩花はキッと目を上げると、 「真子ちゃんに行かせればいいじゃない!真子ちゃんは葉山さんのお気に入りなんだもの!葉山
「だとしても、こんな所で話すつもりはない」 司は身体を起こすと、ツカツカと社長室へと向かって行った。 真子は、ふう、と息を吐いて、彼の後に付いていく。 司は社長室のドアを開けると、 「入れ」 そう真子に命じた。 真子が入ろうとすると、 「それは置いていけ!」 真子は手の中の掃除用具を見つめると、社長室のドアとは反対側の床の上に、それらをきれいに置いた。 「ふっ」 真子は驚いたように目を見開くと、すぐさま勢いよく振り返った。 すると、無表情に自分を見下ろしている司と目が合う。 「何だ?」 司が目を細めた。 真子は司から視線を逸らすと 「何でもありません」 そう言って、立ち上がった。 気のせいかーー 真子が社長室の前まで歩み寄ると、司は、入れ、というようにあごで促す。 真子は「失礼します」と、司の脇をすり抜け社長室へ入っていった。 司はその場で一度視線を落とした。 だが、すぐに視線を戻すと、ドアを閉めながら中へと入る。 真子は部屋の中央に立ったまま、床を見つめていた。 そんな真子を一瞥すると、司はゆっくりと社長机の前まで歩いていった。 彼は椅子にドサリと腰掛けると、はあ、と疲れたようにため息をつく。 真子はただ、静かに司の言葉を待っていた。 だがーー (え?何で何も言わないの?) 真子が視線を上げて司を見ると、彼は机に頬杖をついて、自分の指の爪を眺めていた。 真子の口があんぐりと開く。 しばらく司を眺めてみたが、彼は何がそんなに興味深いのか、爪から目を離さない。 真子はゆっくりと口を閉じた。 前世で麗子が倒れるなんてことは、真子が知る限りではなかった。 だから、ここまで疲れている司を見るのは久しぶりだった。 以前にもこんな姿を見たことがあったなあ、と真子はぼんやりと思い出していた。 確かあの時が、彼に心底嫌われた瞬間だったっけな…生まれ変わってからのイレギュラーな出来事の多さに、正直、どう対処すればいいのか何もわかっていない。 だから、そう。 なるようにしかならないということだ。 真子は、ふう、と小さく息をはくと、 「門脇社長、お話というのは一体何のことでしょうか?」 司はちらりと真子を見上げたが、フイッと視
司の会社に着いた真子は、裏口にある外注用の駐車場に車を停めると、シートベルトを外した。 ここに来る前、真子は千田に対してはっきりと断ってやったのだが、その時の千田の憤慨した顔を思い出した真子は思わず笑ってしまう。 「まるで茹で上がったタコみたいだったなあ」 真子はクスクスと笑うと、掃除用具を手に、車から降りた。 掃除用具はいつも通り重いはずなのに、心はなんだか軽かった。 司の会社は、地上28階、地下3階の高層ビルで、真子の担当エリアは1階から20階。 21階からは重役たちのフロアとなっているため、真子が立ち入ることはない。 また、各階を隅々までではなく、あくまで共用部分である廊下やトイレ、階段の掃除とあって、慣れてしまえば思ったより苦ではなかった。 真子はいつも通り、20階まで上がろうと階段へ向かう。 すると、 「ちょっとよろしいでしょうか?」 と、裏口の受付担当の男性に呼び止められた。 「はい、何でしょうか?」 「門脇より、社長室へ来てほしいとの伝言を預かっております。何やら、あなたに話があるそうで…」 真子は一瞬固まった後、 「門脇社長、今日はいらっしゃるんですか?」 真子のその質問に、男性は少し訝しむように、 「ええ、はい…門脇は今日は出勤しておりますが?」 真子は慌てて手を振って、 「変なことを聞いてしまい申し訳ありません。えっと、では、すぐ門脇社長の元へ向かわせていただきます。失礼します」 危ない、危ない。 部外者である自分が、司が母親の看病のために最近会社に来ていなかったことを知っているなんて、どう考えてもおかしい。 けど。 「今日は」ってことは、悠介くんの言った通り、麗子さんのことで会社を空けてたってことだよねーー 変に勘付かれる前に、一刻も早くこの場から離れようと、真子は早足に階段へと向かった。 「あ!ちょっと!」 再び男性から呼び止められた真子は、緊張した様子で振り返った。 「階段ではなく、社長室直通のエレベーターを使用するようにとのことでしたよ!」 真子は鳩が豆鉄砲を喰らったような顔になった。 「私が使っていいんですか?」 男性は苦笑すると、 「門脇より、そのように言付かっております」 真子はしばらく呆然としていたが、
確かに行くべきではない。 門脇会長からは、とことん嫌われている。 けれどーー 麗子さんには恩がある。 彼女の家庭を壊してしまったという、罪悪感もあるーー だが、小森はどうやら、それすら読んでいたらしい。 続けて小森からメッセージが届く。 『真子ちゃんの気持ちはわかるよ。会長に恩義を感じているんだよね?』 『けど、今は時期が悪いかな。会長、高梨さんのお見舞いに病院来てたみたいなんだけど、そこで倒れたらしいんだ』 『だから処置が早かったんだけどね。その点は良かった。ただ、高梨さんの入院の理由を会長は知っていることになる』 真子はそこでうつむいた。 『それに何より、会長が倒れたことで司くんがまいってる』 真子の胸が、鷲掴みされたように痛んだ。 前にも一度、司のその姿を見たことがあったからだ。 あんなに大きな逞しい背中が、あの日だけは、あまりに脆く、弱々しく見えた。 「お前になんて、出逢わなければよかった…」 絞り出すような声で、司からそう言われたことを思い出す。 ピコン メッセージの受信音に、真子は再びスマホに目をやった。 『司くんにも会長にも、高梨さんが付いてるよ』 真子は、フッと笑った。 部外者の出る幕はなし。了解です。 真子がメッセージを打つ。 『止めてくれてありがとう、悠介くん。危うく場違いなことをするところだった』 すぐさま小森から、 『そんなつもりで言ったんじゃないよ。だから、自分を責めないで』 小森の思いやりに、真子は、ふっと笑った。 『それに、僕にお礼もいらないよ。僕はただ、真子ちゃんの傷ついた姿を自分が見たくないってだけだから』 『そろそろ着くから、またね』 真子が『うん、ありがとう。商談、がんばってね』と送ると、小森からガッツポーズをした白猫のスタンプが送られてきたのだった。 ーーーーーーーーーーーーーーー 次の日。 真子は予定通り仕事に復帰した。 いつも通りに仕事道具を車に詰め込んでいた時、真子の会社の社長である千田(せんだ)が話しかけてきた。 「清川さん、身体はもう大丈夫?」 真子は千田に頭を下げて、 「はい、もう大丈夫です。一週間も休みをいただいてしまって申し訳ありませんでした」 千田は、いやいや、と







