LOGIN遮るように電話がなる。その無機質な電子音は、今この場に漂っていた言いようのない空気を強引に引き裂いた。私は反射的に身を固くし、スマートフォンの画面に視線を落とした。「…あ、すみません」気まずさが這い上がり、喉の奥がキュッと締まる。大切な話をしていたはずなのに、タイミングの悪さに申し訳なさが募る。「いいよ。出ておいで」その声はどこまでも優しくて、今の私の迷いを見透かされているような気がした。むしろ良かったのかもしれない。私は今、壱馬さんに自分の本当の気持ちを、危うくすべて伝えてしまうところだったから。私は小さく頷き、スマホを握りしめた。「はい…」重い足取りでリビングから出る。ドアが閉まる音と、静まり返った廊下の冷たい空気が肌に触れた。画面に表示された「樹」の名前を見つめる。樹の存在は、いつも私の心の奥底に沈めたはずの未練を容赦なくかき乱す。大きく一つ深呼吸をして、震える指で通話ボタンをスライドした。「もしもし」自分の声が、静かな廊下に頼りなく響く。「もしもし花澄?今大丈夫?」受話器越しに届く、聞き慣れた樹の声。一度会って言葉を交わしてしまったからこそ、声を聞くだけで彼の表情が、その場の空気感が、ありありと思い浮かんでしまう。「うん。樹、どうしたの?」平然を装おうとしても、どうしても声が上擦ってしまう。「会ってちゃんと話したいと思って」心臓がドクンと大きな音を立てた。あの日、短い言葉を交わしただけでは、私たちの心は到底整理なんてできていなかった。後悔、期待、そして不安。ぐちゃぐちゃに混ざり合った感情が視界を白くさせる。「ちゃんと」という言葉の重みが、私たちの間に残されたままの何かを浮き彫りにする。このまま逃げてはいけない。彼と向き合うことは、私自身と向き合うことでもあるから。「…私も、話がしたい」中途半端な幕引きは、結局誰も幸せにしない。「花澄の家の近くのカフェはどう?」「カフェ…」その単語を聞いた瞬間、今日起きたあの光景がフラッシュバックする。莉沙さんの冷ややかな視線、振り上げられたカップ、焦燥感と恐怖。喉の奥までコーヒーの苦い香りがせり上がってきて、呼吸が浅くなる。「もしかして、他の所がいい?」この察しの良さは、付き合っていた頃から変わらない。断りたい。でも、場所を変えてほしいと説明すれば、今
「迷惑なんて思ったことないよ」 壱馬さんの言葉はあまりにも真っ直ぐで、胸にすっと入り込んでくる。けれど、私の心は簡単には軽くならない。 「ここに来てから、私が湊さんのためにできたことなんて一つもない。いつも助けてもらってばかりで…」 声は震え、胸の奥が痛む。思い返せば、ここに来てからずっと壱馬さんに助けられてばかりだった。 「そんなことない。花澄が気づいてないだけで、俺はたくさんのものをもらってるんだよ」 そんなこと、本当にあるんだろうか。壱馬さんは優しいから、私を安心させるためにそう言ってくれているだけかもしれない。 私が何もできていないことは事実で、彼に助けてもらってばかりなのに、もらってると言われてもどうしても信じ切れない。 「時々、不安になるんです。私、本当にここにいていいのかなって」 心の奥にある不安を吐き出すと、胸が締め付けられる。 壱馬さんの隣にいることが幸せなのに、同時にここにいていいのか迷ってしまう。 自分の存在が重荷になっていないか。そんな思いが繰り返し胸を叩く。 声は小さく震え、俯いたまま彼の反応を待つ。 「…電気がついてるだけで嬉しいんだ」 その言葉に、思わず顔を上げる。 「え?」 何を指しているのか分からず、心臓がどくんと大きく鳴る。 壱馬さんの言葉の真意を知りたくて、私は壱馬さんを見つめ続ける。 「一日の終わりにマンションを見上げて、部屋に灯りがついてると、なんか救われるんだよね。花澄が待っててくれるんだなって実感して、それだけで幸せになれる」 壱馬さんの言葉は、私の心を深く揺さぶる。まるで、私の存在そのものが彼の支えになっているようだった。 思い返せば、壱馬さんはそうだった。 私に何かを求めることはなく、ただ好きなことをして過ごせばいいと言ってくれた。私が幸せでいるだけで十分だと、真っ直ぐに伝えてくれる人だった。 「そんなふうに、思ってくれていたんですね」 声はかすかに震え、胸の奥から溢れる感情を抑えきれない。 「だからさ、離れていかないでよ」 その言葉を聞いた瞬間、胸が強く締め付けられた。心からの願いなのだと思った。 壱馬さんがいちばん望んでいることは、私が何かをして役に立つことでも、完璧に隣にふさわしい存在になることでもない。 ただ、私と一緒にいること。そばにいて、日々を共に過ご
「前にも夕食を作らせてしまったことがあったので、その…」 壱馬さんが仕事を休んでまで私のそばにいてくれた日。嬉しかったけれど、同時に申し訳なかった。夕食を作らせてしまったことが、私の中でずっと引っかかっていた。 「しまったって、別にどっちがするなんて決まってないんだから」 壱馬さんにとっては些細なことなのだろう。夕食を作ることも、私のそばにいることも、きっと負担だとは思ってない。 そう、分かっているけれど。 「それでも、私が…」 頼りにはなれなくても、少しでも支える側でありたい。そう思うほどに、視線は揺れ、彼の顔を見たいのに見られない。 「できる方がすればいいんだよ」 壱馬さんの言葉は優しくて、私を気遣ってくれているのが伝わる。けれど、それはいつも私のことだった。 私は常に家にいて、壱馬さんのように外で働いて疲れて帰ってくるわけじゃない。 それに、あの家にいた時は、当たり前のように私が全てをしてきた。料理も掃除も洗濯も、誰かに任せるなんて考えもしなかった。疑問に思ったことすらなく、それが自分の役割だった。 「壱馬さんは働いてくれてるじゃないですか。だから、私がしないといけないんです」 言葉を吐き出した瞬間、胸の奥がじんわりと痛む。視線は床に落ちたまま。 「花澄、」 名前を呼ばれ、私は恐る恐る顔を上げた。 けれど、壱馬さんの表情は悲しそうで、私の心を強く揺さぶった。どうしてそんな顔をするのだろう。 「せめて、家のことくらいは私がちゃんとやらないと」 私はただ、壱
「んっ…」目を覚ました瞬間、頭に鈍い痛みが走る。沢山泣いたせいで瞼は重く、視界がぼんやりと霞んでいる。記憶を辿ろうとしても途切れ途切れで、気づけばソファーに横たわっていた。「あ、起きた?」壱馬さんの声が耳に届き、心臓が跳ねる。「私いつの間に…」戸惑いながら呟く。自分がいつ眠りに落ちたのか分からないことが恥ずかしくて、胸の奥がざわめく。「泣き疲れて寝ちゃったみたい」壱馬さんはそう言って微笑んだ。その笑みは、責めるでも呆れるでもなく、ただ優しく包み込むような温かさを帯びていた。怒っていないと理解していても、どうしても自分を責める思いが拭えなかった。「すみません」泣いて困らせたうえに、眠ってしまったことが申し訳なかった。視線を落とし、指先をぎゅっと握りしめる。「どうして謝るの?」壱馬さんの問いに、胸がざわめく。「壱馬さんの前で泣いて、困らせて、その上そのまま寝てしまうなんて」大人なのに、感情を抑えられず泣きじゃくって眠ってしまった自分が情けなかった。今までこんなこと一度もなかった。感情に操られるなんて、自分の人生ではあり得ないことだと思っていた。それなのに、よりにもよって壱馬さんの前で…。「俺は嬉しかったよ」その言葉に、思考が一瞬止まる。「え?」「俺に気を許してくれたのかなって思えたから」その言葉に、胸が揺れた。私が気を許すことが、壱馬さんにとって嬉しいことだなんて。「気を許して…ます」小さな声で告白する。心臓が痛いほどに高鳴り、頬が熱くなる。壱馬さんの前だからこそ、抑え込んできた感情を素直に言葉にできたのだと思う。弱さを見せることが怖くて仕方なかったのに、その優しさに触れると、自然と心の扉が開いてしまう。「良かった。やっぱり目腫れちゃ
自分でも、こんなことを聞いてしまうのはズルいと分かっている。壱馬さんの気持ちに正面から向き合う勇気もないくせに、それでも…願ってしまう。矛盾だらけの自分が情けなくて、でも壱馬さんに嫌われたくなくて、どうしようもなく好きでいてほしいと願ってしまう。「もちろん」その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなり、張り詰めていた心が一気に緩む。怖かった問いに、迷いなく返された答え。壱馬さんの真剣な声が耳に残り、涙がまた込み上げてくる。「…すみません」私は涙を隠すように俯いた。心臓は痛いほどに高鳴り、涙を隠す仕草さえも自分の弱さをさらけ出しているようで、胸が苦しくなる。「泣きたい時は泣いていいんだよ。我慢する必要なんてないんだから」壱馬さんはそっと手を伸ばし、私の頬に触れた。その指先は驚くほど温かく、震える心を静めるように優しく撫でる。涙を隠すために伏せていた顔が、彼の手に促されるように静かに上がっていく。壱馬さんと目が合った瞬間、心臓が痛いほどに高鳴った。逃げ場を失った涙が視界を滲ませるけれど、その瞳はまっすぐに私を見つめていて、弱さも情けなさも丸ごと受け止めてくれるように感じられる。「私、今まで誰かの前で泣いたことなんてなかったんです」震える声で告白する。幼い頃から涙を見せることは恥ずかしいことだと教え込まれてきた。だから人前で泣くことは自分に許されないと思っていた。「それは…あの人達が泣くなって?」壱馬さんの問いに胸がざわめく。記憶が蘇り、心臓が痛いほどに高鳴る。「無様な姿を、人に見せるなと」その言葉を口にすると、胸が締め付けられる。幼い頃に刻まれた言葉が、今も心を縛りつけている。「…何それ」壱馬さんの声には驚きと怒りが入り混じっていて、眉がわずかに寄せられる。自分にとっては当たり前だった過去の言葉が、彼にとっては理不尽でしかないみたいだった
「…バカにしてますよね」頬が熱くなり、視線を逸らしながら小さく呟く。壱馬さんの笑顔が温かいものだと分かっていても、弱さを見せた直後の自分にはそれを素直に受け止める余裕がなかった。「してないよ」即座に返ってきた否定に、心臓が跳ねる。迷いのない声に少し安心するけれど、まだ疑いは消えない。「もう壱馬さんの前では泣きません」強がりの言葉が口からこぼれる。本当は、泣いてばかりの自分を見せるのが恥ずかしくて、嫌われるのではと怯えているだけだった。「駄目。泣くなら俺の前で泣いて」その言葉に胸が締め付けられる。それは拒絶ではなく、受け止めたいという強い意志だった。「どうして、」声が震える。どうしてここまで自分を受け止めようとしてくれるのか理解できなかった。幼い頃、涙を流すとあの人たちに冷たい目を向けられた。泣くたびに、ため息をつかれたり、冷たい視線を浴びたり、時には「うるさい」「泣いても仕方ない」と突き放された。幼い私はただ不安や寂しさを伝えたかっただけなのに。「好きな女の子を一人で泣かせる男がどこにいるの」壱馬さんの真剣な眼差しに射抜かれ、心臓が痛いほどに高鳴る。再び涙がこぼれそうになるのを必死に堪える。「面倒さいって、思わないんですか」不安が口をついて出る。壱馬さんの言葉はいつも真っ直ぐで、私の心を温めてくれる。けれど、その優しさに甘えてばかりいる自分が、どうしようもなく情けなく思えてしまう。泣いて、弱音を吐いて、強がってもすぐに崩れてしまう。そんな姿を見せ続ければ、いつか彼を失望させてしまうのではないかという恐れが消えない。「思うわけないでしょ」即答に、胸がじんわり温かくなる。「壱馬さんの前で情けないところばかり見せてしまっているので、その…」言葉が
「どうしたの?」白シャツの袖に血がついているのを見て、壱馬さんの表情が一瞬で曇った。「ほんとにごめん」声は低く、申し訳なさが滲んでいた。普段なら軽く笑って済ませるような場面でも、彼は真剣に謝ってくる。こんなことで、謝らなくていいのに。私がこれまで過ごしてきた場所では、誰かに謝られることなんてほとんどなかった。失敗や傷は自分のせいにされ、耐えるしかなかったから、謝罪の言葉を受け取ることに慣れていない。「…仕方ないですよ」そう返すと、壱馬さんの肩の力が少
「壱馬さん?」背後から抱きしめられている感覚に、思わず声が漏れた。包み込むような温もりが背中に広がって、心臓が落ち着かなくなる。料理をしている最中なのに、意識は包丁ではなく彼の体温に奪われていた。呼吸が浅くなり、心臓の鼓動が早まるのを自覚しながらも、振りほどく勇気は出なかった。「ん?」壱馬さんの返事は軽く、まるで何も気にしていないようだった。私の困惑を理解していないのか、それとも分かった上で甘えているのか。「動きずらいです…」必死
「相変わらず優しいんですね」その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が少し熱くなった。優しいと言われることは、決して悪いことではない。けれど私にとっては、それは褒め言葉というよりも、自分の弱さを隠すための仮面のように感じられることが多かった。「自尊心が低いだけですよ」そう返した声は、少し硬くなっていた。優しさを否定するつもりはないけれど、それが自分の本質ではないと伝えたかった。「それは…あの時も、すみませんでした。ただの八つ当たりです」莉沙さんの声は震えていて、後悔が滲んでいた。
起きて冷蔵庫を開けると、そこにはほとんど何も残っていなかった。壱馬さんが目を覚ます前に、朝食の準備を整えておきたい。その思いが背中を押すように強くなり、私は急いで外へ出た。外の空気はまだ少し冷たく、頬を撫でる風が眠気を吹き飛ばす。必要な材料を買い揃え、袋を抱えて家へ戻る道を急ぐ。朝の街はまだ静かで、通り過ぎる人々はそれぞれの一日を始めていた。袋の中で食材が揺れる音が、私の鼓動と重なって響く。「花澄さん?」背後から呼び止められた瞬間、胸が大きく跳ねた。足が止まり、振り返るとそこに立っていたのは莉沙さんだった。朝の冷たい空気の中で彼女の声は少し弾んでいて、けれどどこかためらいも含







