Masuk俺の発表が終わると、例の如く機材の片づけから始まり、香月先輩が入れた珈琲をお供に四人で円卓を囲む形となった。
「さて、ここで会長特権を使わせてもらおう」
皆が珈琲に口を付けた後、いの一番に口を開いたのは香月先輩だった。
「会長特権?」
首を傾げて疑問を投げた朝山先輩に対し、香月先輩はコクリと頷く。
「妃那美も怜菜も、岩倉君に質問したい事があるのは分かっているが、ここは会長特権を使わせてもらう。つまり……質問は私からだ」
「えー、なんだそれー。ずるいぞー!」やんややんやと文句を言う朝山先輩を無視して、香月先輩は俺へと視線を向けた。
ちなみに神崎はというと、親指ってそんな速さで動くのかと驚かざるを得ない速度で、スマートフォンを弄っている。
また、何か調べているのだろう。
「まずは岩倉君、発表お疲れ様。とても……本当にとても興味深い内容の発表だったよ。シナスタジア、私もその言葉自体は知っていたけどね。君の発表からは私の知らない新しい知識が沢山得られたよ。特に共感覚の知覚現象の例や、君自身に生じている現象については、とても興味深いね。なんというか、私達人間の感覚、知覚と呼ばれているものは想像以上に複雑で奥深く、どこか神秘的とさえ感じた」
そう話す香月先輩は、どこか楽しそうだ。
その瞳からは楽しい、関心といった感情の色が見えた。
「さて、私からの質問だが、君は他人の目から感情の色が見えると言っていたね。いま私の目からも、その色が見えるのかな?」
「はい、見えますね」 「どんな感情の色が見えているんだい?」 「今は黄色と橙色なので、楽しい、もしくは嬉しいかな。後は興味、関心といった感情の色も混じって見えます」 「……ふむ、当たっているね。私自身の今の感情として、それが正しいと思う。楽しい、嬉しいと言った感情は喜びに付随するものだから、同じ色に見えるということかな。興味、関心に関しても類似した感情と言える……感情と色の結びつきについて、もっと詳しく聞きたいな。分かる範囲で教えてもらえるかい?」 「香月先輩の言うように、嬉しいや楽しいといった喜びの感情は黄色、悲しみは紺色、怒りは赤、恐怖は緑、驚きは青、嫌悪が紫、興味が橙色、信頼が黄緑色……ざっと俺が把握している中では、大体こんな感じです」 「なるほど……それ以外の色が見える事はあるのかい?」 「いえ、見える色はこれで全部です。全部で八色ですね」 「ふむ、そうか。うーん、その色の組み合わせ、どこかで見たことがあるような……」何かを考えこむように、香月先輩は口を閉じる。
その隙にと言わんばかりの勢いで、朝山先輩が手を上げる。
「はいはーい、次は私から質問!」
「あ、はい。どうぞ」 「えっとねー、私が気になったのはね、岩倉君が見える感情の色っていうのは、岩倉君がそう認識した感情の色であって、実際にその感情をその人が持っているかどうかは分からないってことだよね?」この人、実は普通に頭が良いのではないだろうか。
普段はぽやぽやーとしているが、先ほどの俺の発表だけで、そこまで理解してくれているという事実が俺をそう思わせた。
「はい、その通りです」
「なるほどなるほどー。例えば私が岩倉君の事、本当は凄く大好きなのに、岩倉君の事なんか大嫌いーって嘘を吐いたとして、岩倉君がその嘘を本当の事だと認識したら、その時には嘘の感情の色が見えるってことだよね」 「まあ、そう……ですね」全くもってその通りなのだが、なぜこの人はそういう例を出すのだろうか。落ち着かない気持ちになるからやめてほしい。
「でもそっかー。岩倉君って、なんとなくそういうのが分かっちゃう人のイメージあるー」
「そういうの?」 「なんていうのかなー、心の機微ってやつ? さっき小夜子の感情も当てていたし、そういうのが分かっちゃう人なのかなーって。なんとなく、私のイメージなんだけどねー」そうなのだろうか。自分では、人の心がよく分かるなどとは思っていない。
寧ろ人の心や感情など、簡単に分かるものではないのではとさえ思っている。
だからこそ、俺はこの共感覚現象に対して、絶対的な信頼を寄せているとは言えない。
あくまで、俺がそう認識しているだけのこと。
そこは絶対的なものとして、日常を歩んでいるつもりだ。「岩倉君は、EQが高いのかも」
今までずっと黙っていた神崎が発した言葉だった。EQとは、聞き覚えのない言葉だ。
「EQってなにかな?」
朝山先輩が、俺の疑問を代弁してくれた。
「EQっていうのは、心の知能指数のことです。自分や他人の感情を理解して、それを適切に管理、調整する能力のことで、EQが高い人は他人の気持ちに敏感で、対人関係でもうまくコミュニケーションがとれるって言われています」
「あー、それかもねー! 岩倉君はEQが高いんだ!」初めて覚えた言葉を、楽しそうに口にする子供のようにニコニコ笑顔な朝山先輩。
そんな朝山先輩の姿に和みつつも、EQという指数については正直計測したこともないので、高いかどうかは分からないよなというのが正直な感想だった。
「まあ、岩倉君のEQが高いかどうかはさておき、人の目というのは人間の部位の中で一番感情を反映する部分とも言われているからね。目は口ほどに物を言う、目は心を映し出す鏡とまで言われているほどだ。目から感情を読み取るというのは、そう珍しいことではない。そこに色を認識するかどうか、それが共感覚を持っている岩倉君と、共感覚を持っていない私達との違いなのだろうね」
香月先輩の言う通り、俺と他人の違いなんてその程度でしかないのだ。
何も特別なんかではない、ただ色が見えるだけだ。
きっとここにいる三人は、それを理解してくれているのだろう。
普通の人とは違う部分がある、そんな事で俺への態度を変えるような人達ではやはりなかったのだ。
ただの杞憂だったなと思いながら、俺はカップに少しだけ残った珈琲を飲み干した。
◇ ◇ ◇
全員が珈琲を飲み終えたのを合図にするように、その日の活動は解散となった。
帰り支度を済ませたところで、不意に制服の袖を軽く引かれる。
見ると、神崎がすぐ隣に立っていた。
何か話があるらしい。
俺が無言で廊下の方へ視線を向けると、神崎もまた小さく頷き、そっと手を離した。
部室に残った先輩たちへ挨拶を済ませ、俺たちは並んで部室棟の廊下を歩き始める。
人気のない廊下には、俺たちの足音だけが静かに響いていた。
「で、話って?」
「うん。ちょっと、聞いてみたいことがあって」 「研究発表のことか?」 「それもあるけど……昔のこと」昔。
その言葉だけで、なんとなく察してしまう。
神崎と初めて話した、あの日のことだ。そこから先は、お互いに口数が減った。
廊下を抜け、部室棟の外へ出る。
西日が、やけに眩しかった。 思わず足を止める。目を細める俺とは対照的に、神崎は夕焼けの中をそのまま歩いていく。
その後ろ姿を見た瞬間、不意に記憶が重なった。中学一年の秋。
駅前の本屋。
夕暮れ。
そして。
神崎怜菜の瞳。
あの日、初めて見た時から、ずっと違和感があった。
綺麗だった。
でも、それだけじゃない。
あの目は、何か別のものを見ていた。
数歩先を歩いていた神崎が、ゆっくり振り返る。
夕日を背負ったその姿に、一瞬だけ息を呑んだ。
神崎の瞳が、多彩な色を宿している。
多くの感情が、混ざり合っている。
「私と初めて話した日のこと、覚えてる?」
「……ああ、覚えてるよ」 「岩倉君の発表を聞いて、気になったから教えてほしい。あの日、私の目からはどんな感情の色が見えた?」 「……橙色、青、黄色、黄緑、緑」そう、そもそもおかしな話なのだ。
初対面ではなかったにしろ、初めて話をする人間に、そこまでの多種多様な感情を向けることなどあるだろうか。
そもそも、なぜ俺が今現在においても、神崎の瞳からそのような色を認識しているのかが分からない。
「うん、当たってると思う」
「……は?」 「岩倉君はやっぱり、人の感情を読み取る力に長けているんだと思う。あの時の私の感情の発露はそれで合っている。言語化するなら、そう……驚嘆、信頼、容認、敬愛、恍惚、喜び、警戒、期待、関心、不安、そして恐怖」そんなのおかしいだろうという言葉は、何故か口から出てこなかった。
夕日を背景に様々な色を見せる、彼女の瞳から目が離せない。
その虹彩の美しさに、見惚れてしまう。
「私はあまり、感情を表に出すことが得意じゃない。でも貴方の存在を認識すると、冷静ではいられなくなっている自分にも気づいている。感情がごちゃ混ぜになって、胸がドキドキとして……貴方の事をもっと知りたいって思う」
まるでそれは、言葉だけを取り出せば告白のようにも聞こえた。
でも何なのだろう、この感覚は。
未知の領域へと、足を踏み込んでいってしまっているような不安感。
そういった感覚が、どうしても拭えない。
「ありがとう」
神崎は小さく笑う。
「聞きたかったこと、聞けたから」
それだけ言うと、彼女は俺へ背を向けた。
夕焼けの中へ伸びる長い影。
俺はその背中を、しばらく見つめ続けることしかできなかった。
俺が見ていたのは、本当に感情だったのだろうか。
神崎という存在の前では、その認識がズレているような、そんな気がした。
万物研究会の部室へと向かう途中、廊下の端で男子生徒が三人集まり、何かを話していた。 声までは聞こえない。 そもそも、聞く気もなかった。 ただ、こちらを見ながらヒソヒソと言葉を交わしているその様子は、正直あまり気分の良いものではない。 気にせず通り過ぎれば良いだけのこと。 それでも胸の奥に、小さな不快感が芽生えてしまう。 貴方からの視線だったら、こんな風には感じないのに。 そんなことを、また考えてしまった。 何もしていないのに、人の視線を集めてしまうことは昔からよくあった。 以前の私は、それが怖かった。 他者の視線に怯え、家から出ることすら出来なくなってしまったほどに。 あの頃に比べれば、少しは強くなれたのだと思う。 こうして不躾な視線を向けてくる相手を、睨み返せる程度には。 三人の男子生徒は私と目が合うと、罰が悪そうに視線を逸らし、そのまま足早に立ち去っていった。 私がこんな風に変われたのも、きっと貴方のおかげだ。 そう考えてしまう自分に、小さく苦笑する。 もう一カ月以上、岩倉君から観測者の視線を感じ取っていない。 その事実が、胸の奥に得体の知れない空白を作っていた。 次はいつ、私を見てくれるのだろう。 そんなことを考えながら、私は校舎の外へと出た。 六月。 梅雨入りしたばかりの空は、重く垂れ込めた灰色の雲に覆われていた。 湿った空気が肌にまとわりつき、吹き抜ける風はぬるく、生温い匂いを運んでくる。 校庭を横切るたび、足元の土がじっとりと水分を含んでいるのが分かった。 地面を踏みしめる度にわずかに沈む感触が伝わり、乾ききらない土の匂いがふわりと立ち上る。 部室棟までの距離はそう長くないはずなのに、雨が降り出す前の静けさが、時間そのものを引き延ばしているように感じられた。 頭上の雲がさらに厚みを増し、今にも雨粒が落ちてきそうになる。 私
プルチックの感情の輪について知ったのは、俺が共感覚についての研究を初めてから、数か月が過ぎた頃の事だった。 俺が感じ取れる感情と色についての説明を受けた香月先輩が、思い当たる節があると調べてくれたのが、それを知れるキッカケとなった。 あの人の知識の深さには、いつも驚かされるばかりだ。 説明によると、プルチックの感情の輪というのはアメリカの心理学者であるロバート・プルチックが提唱した、感情の理論に基づく視覚的なモデルの事らしい。 八つの基本感情に基づいていて、それらの感情がそれぞれ色で示されている。 その感情モデルを図解した画像を見たとき、俺はそれを初めて見た気がしなかった。 小さい頃に、どこかで見たことがあるような。 そんな、デジャブのような感覚に陥ったのだ。 もしかしたら、その感情モデルが俺の共感覚という現象の、ルーツとなっているのかもしれない。 なぜなら、俺が共感覚で感じ取る目の色と、プルチックが提唱した感情モデルが指し示している感情の色は、その全てが一致していたからだ。 それは、もし俺が万物研究会に入っていなかったら、絶対に知りえなかった事だろう。 こんな感じで、俺の研究に対する進捗については周りの助けもあり、悪くはないと言った所だった。 俺以外のメンバーが進めている研究についても、俺が分かっている範囲で少し触れて置こうと思う。 朝山先輩は、幽体離脱に対しての理解をもっと深めていこうと思っているらしい。 この前聞いた話では、変性意識と呼ばれる状態について調べているということだった。 変性意識は通常の意識状態とは異なる、意識の変化した状態を言うらしい。 なんでも、幽体離脱中はこの変性意識の状態にあるという事が分かったので、変性意識についての知識を足がかりに、幽体離脱への理解を深めていくと話していた。 いつか、彼女が宇宙の果てへと辿り着ける日は来るのだろうか。 それは、正直分からない。 だが、彼女が幽体離脱を用いて宇宙の果てへの到達を望み続ける限り、俺はこれ
「つまり、小夜子先輩は、観測者をラプラスの悪魔みたいな万能の存在だと思ってるってこと?」「多分な。少なくとも、俺にはそう聞こえた」 中間考査を終えた週の日曜日。 俺は神崎に誘われ、以前にも立ち寄った駅前のファーストフード店へ来ていた。 本を買いに行きたいから付き合ってほしい。 理由はそれだけだった。 呼び出されたのが十一時過ぎだったこともあり、先に昼食を済ませてから本屋へ向かう流れになっている。 窓際のカウンター席。 前と同じように、神崎は両手でハンバーガーを持ちながら、小動物みたいに少しずつ食べ進めている。 その様子を眺めていた俺の視線に気づいたのか、神崎がこちらを見た。 そして、 静かに二度、瞬きをする。 観測者がいる。 最近では、その合図にも随分慣れてしまった。 その瞬間だけはいつも、神崎の瞳がほんの少しだけ遠くを見る。 俺ではない何かを。「小夜子先輩は私なんかより、全然思考が深い人だから」 神崎が紙コップを指先で回しながら言う。「だから、そう思ったってことは、きっと私達が気づけてない何かに辿り着いたんだと思う」「かもな。でも、俺にはさっぱり分からん」 俺は自分の目元を軽く指差した。「神崎の仮説だと、観測者って俺の顕在意識を通して世界を見てるだけなんだろ?」「うん」「だったら、なんで全知全能みたいな話になるんだよ。考えれば考えるほど意味分からん」 神崎は少しだけ考え込むように視線を落とした。「……小夜子先輩、他にも何か言ってなかった?」「他?」 香月先輩とのやり取りを思い返す。そういえば、妙に引っかかる言葉が他にもあった。「確か、箱の中がどうとか言ってたな」「箱?」「ああ。箱の中の猫であり続けるつもりはないとか」 神崎の表情が僅かに変わる。「…&hel
今日はバイトがあるから研究会には顔を出せない。小夜子のこと、よろしくね。 そんな言葉を最後に、朝山先輩とは別れた。 あそこまで言われてしまえば、流石に無視はできない。 放課後、俺はそのまま部室棟へ向かっていた。 途中、神崎からメッセージが届く。【今日は中間考査の勉強するから研究会へは行けない】 流石は優等生だ。俺なんて、勉強しないとなと思っているだけで一日が終わるタイプだというのに。 そんな現実逃避じみたことを考えているうちに、万物研究会の部室前へ辿り着く。 扉を開けると、室内には既に香月先輩の姿があった。 香月先輩は窓際に立ち、ぼんやり外を眺めていた。 夕暮れ前の曇り空。ガラスには室内が薄く反射している。 その姿が妙に静かで、一瞬声を掛けるのを躊躇った。 俺に気付いた香月先輩が振り返る。「やあ、岩倉君。お疲れ様」 笑っている。けれど、どこか無理に口角を上げているようにも見えた。「お疲れ様です」 香月先輩の瞳を見る。紺色。沈んだ色だった。 悲嘆。 疲労。 諦念。 そんな感情が薄く混ざっている。「珈琲を淹れよう」 そう言って立ち上がろうとした香月先輩を、俺は軽く手で制した。「今日は俺がやりますよ。先輩、座っててください」「おや、気を遣わせてしまったかな」「そういうわけじゃないです」「ふふ。では、お言葉に甘えよう」 香月先輩は再び椅子へ腰を下ろす。 俺は棚から器具を取り出し、珈琲を淹れ始めた。 豆を挽く音が、静かな部室へ広がる。その間も香月先輩は窓の外を見ていた。 いや、 正確には窓に映るこちら側を見ているようにも思えた。 朝山先輩の言っていた通りだ。どう見ても様子がおかしい。 二人分の珈琲を淹れ終え、紙コップを差し出す。 香月先輩は「ありがとう」と小さく呟いた。
全くもって非日常的な存在である観測者の存在に一歩近づけたとはいえ、日常に何かしら劇的な変化が起きるわけでもなく、日々は淡々と過ぎていった。 気がつけば、あっという間に四月も終わり、五月になっていた。 体力テストや開校記念日といった学校行事を終え、中間考査を翌週に控えた日の昼休み。 俺は購買でパンを買い、教室に戻って昼食を摂ろうと、校舎内を歩いていた。 一年の教室がある三階への階段を登ろうとしていた矢先、ばったりと朝山先輩と遭遇する。「あれー、岩倉君だー。やほー。これからお昼かな?」 声を掛けて来た朝山先輩の手には、同じ購買で買ったと思われるパン数個と飲み物があった。 俺は先輩に一度頭を下げた後、言葉を返す。「はい、これから教室に戻って、お昼にしようかと」「そっかそっかー。もし他に約束がなければ、一緒に食べない? ちょーっと、話したい事もあるし」 先輩の誘いを、無下に断ることもできない。 それに、朝山先輩が話したい事というのが何なのかも気になった。 俺は朝山先輩の誘いに頷いて答えると、その後に付いていく事にした。 辿り着いた先は、体育館と校舎を繋ぐ渡り廊下、その横に位置する屋外ベンチだった。 朝山先輩はベンチに腰かけ、その隣に腰かけるよう、ポンポンとベンチを叩いて俺に促してくる。 誘われるがまま、俺は朝山先輩の隣に腰かけた。「えっとね、実はお昼一緒に食べようって言うのは口実なんだ。私ね、ずっと前から岩倉君のこと……」「え?」「なーんて、冗談! ここを進んだ先の校舎裏ってねー、人が来ないからたまに告白する場所とかになってたりするんだよねー」 悪戯な笑みでニコニコしたまま、朝山先輩は手に持ったメロンパンの袋を開け始める。 最初こそかなりドギマギとさせられたが、朝山先輩とのこういったやり取りにも、少しずつ耐性がついてきたように思う。 俺は「そうなんですね」と返事をしながら、購入したコロッケパンの袋を開けて、それに噛り付い
観測者について話している内に、気付けば辺りは夕暮れに染まっていた。 研究会で過ごす時間は、妙に短く感じられてしまう。 香月先輩と朝山先輩は隣町から通学しているため、活動後はバス停方面へ向かう。 一方で、俺と神崎は徒歩圏内だ。 だから自然と、帰り道は二人になることが多かった。 校門を出ると、夕日が街全体を橙色へ染めていた。「皆には感謝してる。あの実験のおかげで、観測者の正体を解明するという私の目的に、かなり近づけたんじゃないかなって思うから」 確かに、観測者について判明した事実は多いだろう。 今回の実験結果は、その正体を解明するための足がかりとするには、及第点といった所ではないだろうか。 とりあえずは、一歩前進したと言える。 神崎もそう思っているから、満足そうにしているのだろう。 俺は今回の結果を受け研究会のメンバーで考察を重ねていけば、やがて観測者の正体を解明出来る日が本当にくるのではないかと、そんな気持ちにさえなっていた。 しかし、現時点においては、その存在の正体は未だ分からぬままだ。「考えれば考える程に、訳の分からない存在だよな。この観測者ってやつは」 隣を歩きながら、俺の言葉にコクリと頷く神崎。 俺の言葉には全くもって同意だと、その目が告げていた。「見ているのに、視覚から情報を得ていないっていうのが、一番意味が分からん。じゃあ、何で見ているんだよって話だろ」「岩倉君の顕在意識を読み取れるのであれば、そもそも見る必要はない。視覚から得た情報の処理については、岩倉君に任せれば良い。だというのに、観測者はこちらを見ている」「……観測者は、窓越しに香月先輩の姿を見たんだよな?」「うん。あの日は外が暗かったから、反射した姿は私達にもハッキリと視認できた」「うーん……そもそも、人間とは構造が違うって可能性はないか?」「というと?」「つまり、《《人間の目は窓に反射した姿を視認で
入学式が終わり、配属された一年三組の教室。 五十音順に割り振られた座席に座り、HRの時間が始まった。 俺の苗字は岩倉なので、不幸な事に廊下側最前列の席となってしまった。 どうやらこのクラスに(あ)から始まる生徒はいないらしい。 そして、どうしても意識してしまう背後からの存在感。 このクラスの名簿は、最初に(い)から始まり、次は(か)が続くようだった。 担任の先生から今後のスケジュールについて記載されたプリントが手渡され、俺はそこから自分用のプリントを一枚だけ引き抜く。 それから背後を向き、手元に残ったプリントを後ろにいる生徒……神崎怜菜へと渡した。 プリントを受
入学式の日。 体育館の壇上に立つ神崎怜菜を見ながら、俺は彼女と初めて出会った日のことを思い出していた。 彼女の瞳。 俺を見ているようで、俺ではない何かを見ていた、あの気味の悪い虹彩。 俺が神崎怜菜との過去を回想している間、件の人物は壇上で優等生であることを証明するかのような落ち着いた佇まいで、新入生代表挨拶の文章を読み上げていた。 今日は俺が入学する事になった、家から徒歩十分もかからない場所にある県立高校の入学式だった。 新入生たちが詰めかけた体育館は、春の陽光が差し込むにも関わらず少しだけ薄暗い。 高い天井からぶら下がる白い照明が、その場を照らしている。 体育館特
神崎怜菜《かんざきれいな》の瞳は、美しかった。 だからこそ、気味が悪かった。 眼球の外部構造の一つに、虹彩と呼ばれるものがある。 角膜の奥にあり、瞳孔を囲む、色を宿した輪状の筋肉。 人はそこに感情を読み取る。 怒り、喜び、悲しみ、驚き。あるいは恋慕。 目は口ほどに物を言う、なんて言葉があるくらいだ。 人間は他人の目から、相手の心を想像する。 けれど、神崎怜菜の目は違った。 あれは、誰かを見る目ではない。 誰かに見られていることを、知っている目だった。 彼女のことは前から知っていた。 同じ中学に通っていたのだから当然だ。 別のクラスだった俺でさえ、神崎怜菜という名前
水曜日の放課後になった。 俺は緊張に弾む心臓の音を少しでも落ち着かせようと、一度だけ深呼吸をしてから、万物研究会への扉を開く。 部屋には既に、香月先輩の姿があった。 今日は俺が研究テーマを発表する日なのだが、彼女は機材の準備だけ既に進めてくれているようだった。「やあ、岩倉君。発表用のデータは持ってきてくれたかな?」「あ、はい。これです」 俺は学生鞄の中から、予め香月先輩から預かっていたSDカードを取り出し、それを彼女に渡す。 SDカードの中には発表用に使うスライドデータのテンプレ