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香月小夜子の研究②

last update publish date: 2026-06-16 17:00:04

 強引に連れてこられた万物研究会の部室には、予想していた通り既に神崎と朝山先輩の姿があった。

 二人は中央にある楕円形のテーブルを挟んで、向かい合う形で座っていた。

 両手に自前のものだろうか、黒猫のプリントが施されたカップを持ったまま、俺の姿を見た神崎が瞳の色を変える。

 朝山先輩は「やほー」と軽い口調で俺と香月先輩を出迎えた後、ササっと俺が座るための椅子を用意してくれた。

「あ、なんか、すいません。ありがとうございます」

 用意してくれた椅子に腰かけると、朝山先輩は柔和な笑みを俺に向けた。

 初めて会った時は、慌てていたからだろうか。

 なんだか騒がしい人という印象が強かったのだが、今はそれとは真逆で、のんびりとした柔らかい雰囲気を彼女から感じた。

「どういたしましてー。話すのは二度目だと思うけど、岩倉君の話は聞いていたから、なんかそんな感じが全然しなくて不思議」

 所謂、萌え袖となっているカーディガンを口元に当てながら、クスクスと笑う朝山先輩。

 その話し方や雰囲気、仕草になんだかとても癒される。

 なるほど、クラスメイトの男子が彼女の事を話題に出す理由がよく分かった気がする。

 この柔らかな雰囲気から醸し出される母性と、少しガードの緩そうな出で立ち。

 優しそうなたれ目と愛嬌のある笑顔。

 そういった彼女を構成する要素は全て、男性を魅了させる為の武器のようにさえ思えた。

「小夜子も神崎さんもね、毎日のように岩倉君今日も来ないなーって言うもんだから、私まで感化されちゃって。なんだか、ようやく会えたーって感じで嬉しい」

 会えて嬉しいなどとストレートに言われて恥ずかしくなり、なんと返していいか分からず無言になってしまった。

「岩倉君、気を付けたまえ。その女は出会って十秒と経たずに男を落とす事ができる、魔性の女だ。うっかり踏み込んでしまうと、沼から抜け出せなくなるよ」

「もうー、小夜子はまたそういう事言う。私は別に男の人を落とそうとか考えてないもん」

 手に持ったノートパソコンを片手で操作しながら言った香月先輩に、朝山先輩が抗議しながら口を尖らせる。

 気をつけろという香月先輩の忠告は、胸に刻んでおいた方が良いかもしれない。

 朝山先輩には悪いが、確かに気を引き締めておかないと、うっかりその沼に片足を突っ込んでしまいそうだった。

「岩倉君って、年上の人がタイプなんだ」

 ポツリと、神崎が言った。

 それは俺に向けた言葉というよりかは独り言のように聞こえたので、俺はあえてその言葉を無視した。

「ちょっと、失礼するよ」

 楕円形テーブルの中央に、香月先輩の手によってプロジェクターの機械が設置された。

 三人が黙って見守る中、彼女はテキパキとした所作で、ノートPCとプロジェクターをHDMIケーブルで繋げていく。

 配線を終えた後、香月先輩が電源ボタンを押すと、プロジェクターが稼働音をあげ始めた。

 その後、彼女は窓際に吊るしてあったスクリーンを両手で卸し、ノートパソコンの映像がプロジェクターを通して照射されていることを確認する。

 それからカーテンを閉め、室内灯の電源をオフにする事で室内が暗くなった。

 暗くなった室内の中、プロジェクターと、それに繋がれたノートPCから発せられる光だけが、唯一の光源となっていた。

「さて準備も整ったことだし、今日の目的である成果発表を始めよう」

 ノートパソコンを操作しつつ、スクリーンの横に立つ香月先輩。

 白衣の裾をひらめかせながら、スクリーンの光を浴びる彼女の姿からは、どこか神秘的な印象を受けた。

 白いスクリーンには、発表用と思われるスライドのデータが表示されていた。

 その最初の一ページ目であるタイトルには、こう書かれていた。

【なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?】

「成果発表とは言ったが、何も知らない岩倉君が参加してくれたからね。先ずは簡単に、私の研究テーマから話をさせてもらおう」

 香月先輩の発表が始まった。

「私が研究しているテーマというのが、ここに書かれているものだ。これは哲学の一分野である形而上学の領域で議論される有名な問題の一つでね、形而上学というのには聞き覚えがないかもしれないが、簡単に言ってしまうと物理的な現象を超えた領域を考察する分野だ。私が最も敬愛する人物である、アリストテレスの著書としても有名だね」

 アリストテレス。

 歴史上の偉人として、名前くらいなら聞いたことはある。

 しかし、実際に彼がどんな人物であるのか詳しくは知らなかった。

 暗い室内の中で左右に視線を走らせると、スクリーンに真剣な目を向ける神崎と朝山先輩の姿が確認できる。

 内容はとても難しいそうだと感じたが、半ば強引にとはいえ折角この場に来たのだ。

 二人に倣ってちゃんと話を聞こうと、俺も発表の内容に集中することにした。

「このままアリストテレスや形而上学について話を進めてしまうと確実に時間が足りないので話を戻すが、この表題のテーマは書かれている言葉の通り、なぜ無なのではなく何かが存在するのか、その存在意義に対して疑問を問いかける問題だ。分かりやすく一つ例をあげよう。岩倉君、宇宙の起源について授業ではどのように習ったかな?」

 まさか質問されるとは思っていなかったので少し驚いたが、俺は授業で聞いた知識を思い出しながらそれを口に出す。

「ビッグバンですよね?」

 ビッグバンにより発生した膨大なエネルギーにより宇宙が誕生し、それは今も尚膨張し続けている。それくらいの知識しか、俺にはない。

「そうだね。それによって、宇宙が始まったと説明される事が多い。私は宇宙の始まりをビッグバンだけで説明できるという考えには懐疑的なのだが、ここでは例としてビッグバンから宇宙が始まったとしよう。では、ここでそのビッグバンという現象に対して、この問いを向けてみよう。なぜそこには無ではなくビッグバンという現象が在ったのか。一つの仮説をあてはめるのであれば、真空に満ちていたエネルギーによって、インフレーションと呼ばれる急激な膨張が引き起こされたからだ。では、その真空エネルギーはなぜ存在したのか。ここから先は、もう哲学や想像の領域だからね、万能の存在を答えとして当てはめてみよう。神と呼ばれる存在が宇宙を創造した。では……その万能の存在である神は、なぜいたのか?」

 俺は思わず腕を組み、眉間に寄った皺を指で摘まんでいた。

 香月先輩の問いについて考えると、頭がおかしくなりそうだった。

「気持ちはわかるよ、岩倉君。この問いはね、どんな答えでも……たとえ神という万能な存在を解答として当てはめたとしても、終わりが見えないんだ。過去へ過去へと遡り、無限後退が生じてしまう。ゆえにこの問いは問うてはいけない問い、問うことが危険な問いとさえ言われている」

 そう言われる理由も、何となく分かる気がした。

 その問いに答えは出せないという諦念した気持ちに晒されると同時に、考えれば考えるほど自分が矮小な存在なのだと思い知らされるような気さえした。

 そうなってしまう事実が、危険な問いとさえ言われる理由なのではないだろうか。

 香月先輩は眉間に皺を寄せる俺に対して小さな笑みを浮かべた後、ノートパソコンを操作してスライドを次のページへと進める。

 そこには色々な人物の顔写真が、名前と共に載っていた。

 そのどれもが、歴史上の人物であることは分かった。

 しかし、歴史に詳しくない俺には、そのほとんどが知らない人物だった。

「ライプニッツ、カント、ショーペンハウアー、ベルクソン……アリストテレス。この問いに対して歴史上の哲学者達は多くの言葉を残したが、それを全て語っているとやはり、時間が足りない。ただその事実から分かる通り、この問いに対するテーマはとにかく奥が深く壮大だ」

 そして、香月先輩によって更に次のページがスクリーンに写し出される。

 そこには、このように書かれていた。

【楽観主義者】

【悲観主義者】

【棄却主義者】

「ここに書かれている、三つの主義者について説明しよう。これは、先ほどの問いに対して個々がどのような立場をとるかを分類したものだ。どれも文字通りの意味でね。楽観主義者とは、いずれその問いに対する答えは明確になるだろうという楽観的な考えを持った人々。悲観主義者は、この問いに対する答えは永遠に得られないだろうと悲観的な考えをする立場の人々。棄却主義者とは、この問題はそもそも問題として成立していないと、その問い自体を棄却する立場の人々……ちなみに私は、この問いに対しては楽観主義者という立場をとっている。さて、君たちはどの主義者に分類されるか興味があるのでね、是非聞かせてほしい。妃那美、君はこの問いに対して、どの主義者に当てはまるかな?」

 質問を向けられた朝山先輩は、形の良い顎に指を添えながら考える様子を見せる。

「うーん、私は……やっぱり悲観主義者かなー。問いに対する悲観っていうのもあるし、私なんかに、その問いの答えが分かる訳ないよなーっていう意味での悲観?」

 何となく感覚としてだが、この悲観主義者という立場をとる人が一番多いのではないだろうか。

「うん、妃那美はその立場だったね。では怜菜、君はどうだい?」

「私は楽観主義者」

 こちらは即答だった。

 神崎の答えも予想通りだったのだろう、香月先輩は微笑を浮かべながら一つ頷き、そして目線を俺へと向ける。

 その目が、次は君の番だよと告げていた。

 少しだけ、考える。

 自分が楽観主義者でないことだけは確かだった。

 だからといって、悲観主義者かと言われると、それも違う気がする。

 残るは棄却主義者なのだが……。

「俺は……棄却主義者ですかね」

 その答えが意外だったのだろうか、香月先輩は驚いたような表情を見せた。

 だがそれは一瞬の事で、すぐその目には楽しさを伴った感情の色が見えた。

「なるほど。三者三様で面白い。さぞ議論も弾むことだろうが、今は私が発表する時間なのでね。議論は後の楽しみにとっておいて、ここでは楽観主義者である私の立場で話を進めさせてもらおう。といってもね、ここでこの問いに対する答えを発表する! なんてことは不可能だ。人類が未だ解明できていない未知が多すぎるからね。でも私は……信じているのだよ。人類はいずれ、この問いの答えに到達する。なぜなら、人間の知識に対する欲求は計り知れないからだ。それこそが、超常的な現象や未知を解明するための原動力だ。エネルギーの補充をするめの食欲、記憶の整理をする為の睡眠欲、種を存続させる為の性欲、大げさかもしれないがね、こういった人間の三大欲求でさえ私は真理への到達という目的を達成する為に存在しているのではないかとさえ考えている。私が楽観主義者という立場をとる理由はそこにある。地動説を唱えたコペルニクス、近代科学の父と呼ばれるガリレオ。ソクラテス、プラトン、アリストテレスといった哲学者達。彼らのように私は知識を探究したい。なぜなら私自身が、知りたいという欲求を抑えきれないからだ。知らないという事に、悔しささえ感じるからだ」

 思わず、ごくりと生唾を飲み込んだ。

 俺はスクリーンではなく、目を爛々と輝かせ力強く言葉を発し続ける、香月先輩の姿から目が離せなくなっていた。

 きっとそれは、朝山先輩と神崎も同じだろう。

 俺はまだ、高校生になったばかりの言わば若輩者だ。

 存在理由だとか、この世界の真理だとか、そんな難しいことを深く考えたことなどない。 

 頭に浮かんだことはあるが、それこそそういった事に対しては分かるはずがないと、すぐに頭からその疑問を放り投げていたほどだ。

 だというのに、なんなのだろうかこの人は。

 歳は一つしか違わないというのに、自分との違いに驚かされるばかりだった。

 香月先輩の手によって、スライドが最後のページへと移動される。

 そこには意外な事に、何も書かれていない真っ白なページが表示されていた。

「予想はできていると思うがね、この研究テーマに対する現状の私の成果は、真っ白だ。幼少期からこの問いに対して頭を捻らせているが、無限後退に陥った後は行き止まり。立証できない仮説ばかりが浮かんでは、それを記録していく事しかできない。けれどね、私はこれからもこの問いに対してなぜ? と問い続けたい。問い続けた先にはきっと、私が最も知りたいと考えているこの世界の真理があると考えているからね。私の発表はこれで以上だ。ご清聴ありがとう」

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