ログイン強引に連れてこられた万物研究会の部室には、予想していた通り既に神崎と朝山先輩の姿があった。
二人は中央にある楕円形のテーブルを挟んで、向かい合う形で座っていた。
両手に自前のものだろうか、黒猫のプリントが施されたカップを持ったまま、俺の姿を見た神崎が瞳の色を変える。
朝山先輩は「やほー」と軽い口調で俺と香月先輩を出迎えた後、ササっと俺が座るための椅子を用意してくれた。
「あ、なんか、すいません。ありがとうございます」
用意してくれた椅子に腰かけると、朝山先輩は柔和な笑みを俺に向けた。
初めて会った時は、慌てていたからだろうか。
なんだか騒がしい人という印象が強かったのだが、今はそれとは真逆で、のんびりとした柔らかい雰囲気を彼女から感じた。
「どういたしましてー。話すのは二度目だと思うけど、岩倉君の話は聞いていたから、なんかそんな感じが全然しなくて不思議」
所謂、萌え袖となっているカーディガンを口元に当てながら、クスクスと笑う朝山先輩。
その話し方や雰囲気、仕草になんだかとても癒される。
なるほど、クラスメイトの男子が彼女の事を話題に出す理由がよく分かった気がする。
この柔らかな雰囲気から醸し出される母性と、少しガードの緩そうな出で立ち。
優しそうなたれ目と愛嬌のある笑顔。そういった彼女を構成する要素は全て、男性を魅了させる為の武器のようにさえ思えた。
「小夜子も神崎さんもね、毎日のように岩倉君今日も来ないなーって言うもんだから、私まで感化されちゃって。なんだか、ようやく会えたーって感じで嬉しい」
会えて嬉しいなどとストレートに言われて恥ずかしくなり、なんと返していいか分からず無言になってしまった。
「岩倉君、気を付けたまえ。その女は出会って十秒と経たずに男を落とす事ができる、魔性の女だ。うっかり踏み込んでしまうと、沼から抜け出せなくなるよ」
「もうー、小夜子はまたそういう事言う。私は別に男の人を落とそうとか考えてないもん」手に持ったノートパソコンを片手で操作しながら言った香月先輩に、朝山先輩が抗議しながら口を尖らせる。
気をつけろという香月先輩の忠告は、胸に刻んでおいた方が良いかもしれない。
朝山先輩には悪いが、確かに気を引き締めておかないと、うっかりその沼に片足を突っ込んでしまいそうだった。
「岩倉君って、年上の人がタイプなんだ」
ポツリと、神崎が言った。
それは俺に向けた言葉というよりかは独り言のように聞こえたので、俺はあえてその言葉を無視した。
「ちょっと、失礼するよ」
楕円形テーブルの中央に、香月先輩の手によってプロジェクターの機械が設置された。
三人が黙って見守る中、彼女はテキパキとした所作で、ノートPCとプロジェクターをHDMIケーブルで繋げていく。
配線を終えた後、香月先輩が電源ボタンを押すと、プロジェクターが稼働音をあげ始めた。
その後、彼女は窓際に吊るしてあったスクリーンを両手で卸し、ノートパソコンの映像がプロジェクターを通して照射されていることを確認する。
それからカーテンを閉め、室内灯の電源をオフにする事で室内が暗くなった。
暗くなった室内の中、プロジェクターと、それに繋がれたノートPCから発せられる光だけが、唯一の光源となっていた。
「さて準備も整ったことだし、今日の目的である成果発表を始めよう」
ノートパソコンを操作しつつ、スクリーンの横に立つ香月先輩。
白衣の裾をひらめかせながら、スクリーンの光を浴びる彼女の姿からは、どこか神秘的な印象を受けた。
白いスクリーンには、発表用と思われるスライドのデータが表示されていた。
その最初の一ページ目であるタイトルには、こう書かれていた。
【なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?】
「成果発表とは言ったが、何も知らない岩倉君が参加してくれたからね。先ずは簡単に、私の研究テーマから話をさせてもらおう」
香月先輩の発表が始まった。
「私が研究しているテーマというのが、ここに書かれているものだ。これは哲学の一分野である形而上学の領域で議論される有名な問題の一つでね、形而上学というのには聞き覚えがないかもしれないが、簡単に言ってしまうと物理的な現象を超えた領域を考察する分野だ。私が最も敬愛する人物である、アリストテレスの著書としても有名だね」
アリストテレス。
歴史上の偉人として、名前くらいなら聞いたことはある。
しかし、実際に彼がどんな人物であるのか詳しくは知らなかった。
暗い室内の中で左右に視線を走らせると、スクリーンに真剣な目を向ける神崎と朝山先輩の姿が確認できる。
内容はとても難しいそうだと感じたが、半ば強引にとはいえ折角この場に来たのだ。
二人に倣ってちゃんと話を聞こうと、俺も発表の内容に集中することにした。
「このままアリストテレスや形而上学について話を進めてしまうと確実に時間が足りないので話を戻すが、この表題のテーマは書かれている言葉の通り、なぜ無なのではなく何かが存在するのか、その存在意義に対して疑問を問いかける問題だ。分かりやすく一つ例をあげよう。岩倉君、宇宙の起源について授業ではどのように習ったかな?」
まさか質問されるとは思っていなかったので少し驚いたが、俺は授業で聞いた知識を思い出しながらそれを口に出す。
「ビッグバンですよね?」
ビッグバンにより発生した膨大なエネルギーにより宇宙が誕生し、それは今も尚膨張し続けている。それくらいの知識しか、俺にはない。
「そうだね。それによって、宇宙が始まったと説明される事が多い。私は宇宙の始まりをビッグバンだけで説明できるという考えには懐疑的なのだが、ここでは例としてビッグバンから宇宙が始まったとしよう。では、ここでそのビッグバンという現象に対して、この問いを向けてみよう。なぜそこには無ではなくビッグバンという現象が在ったのか。一つの仮説をあてはめるのであれば、真空に満ちていたエネルギーによって、インフレーションと呼ばれる急激な膨張が引き起こされたからだ。では、その真空エネルギーはなぜ存在したのか。ここから先は、もう哲学や想像の領域だからね、万能の存在を答えとして当てはめてみよう。神と呼ばれる存在が宇宙を創造した。では……その万能の存在である神は、なぜいたのか?」
俺は思わず腕を組み、眉間に寄った皺を指で摘まんでいた。
香月先輩の問いについて考えると、頭がおかしくなりそうだった。
「気持ちはわかるよ、岩倉君。この問いはね、どんな答えでも……たとえ神という万能な存在を解答として当てはめたとしても、終わりが見えないんだ。過去へ過去へと遡り、無限後退が生じてしまう。ゆえにこの問いは問うてはいけない問い、問うことが危険な問いとさえ言われている」
そう言われる理由も、何となく分かる気がした。
その問いに答えは出せないという諦念した気持ちに晒されると同時に、考えれば考えるほど自分が矮小な存在なのだと思い知らされるような気さえした。
そうなってしまう事実が、危険な問いとさえ言われる理由なのではないだろうか。
香月先輩は眉間に皺を寄せる俺に対して小さな笑みを浮かべた後、ノートパソコンを操作してスライドを次のページへと進める。
そこには色々な人物の顔写真が、名前と共に載っていた。
そのどれもが、歴史上の人物であることは分かった。しかし、歴史に詳しくない俺には、そのほとんどが知らない人物だった。
「ライプニッツ、カント、ショーペンハウアー、ベルクソン……アリストテレス。この問いに対して歴史上の哲学者達は多くの言葉を残したが、それを全て語っているとやはり、時間が足りない。ただその事実から分かる通り、この問いに対するテーマはとにかく奥が深く壮大だ」
そして、香月先輩によって更に次のページがスクリーンに写し出される。
そこには、このように書かれていた。【楽観主義者】
【悲観主義者】 【棄却主義者】「ここに書かれている、三つの主義者について説明しよう。これは、先ほどの問いに対して個々がどのような立場をとるかを分類したものだ。どれも文字通りの意味でね。楽観主義者とは、いずれその問いに対する答えは明確になるだろうという楽観的な考えを持った人々。悲観主義者は、この問いに対する答えは永遠に得られないだろうと悲観的な考えをする立場の人々。棄却主義者とは、この問題はそもそも問題として成立していないと、その問い自体を棄却する立場の人々……ちなみに私は、この問いに対しては楽観主義者という立場をとっている。さて、君たちはどの主義者に分類されるか興味があるのでね、是非聞かせてほしい。妃那美、君はこの問いに対して、どの主義者に当てはまるかな?」
質問を向けられた朝山先輩は、形の良い顎に指を添えながら考える様子を見せる。
「うーん、私は……やっぱり悲観主義者かなー。問いに対する悲観っていうのもあるし、私なんかに、その問いの答えが分かる訳ないよなーっていう意味での悲観?」
何となく感覚としてだが、この悲観主義者という立場をとる人が一番多いのではないだろうか。
「うん、妃那美はその立場だったね。では怜菜、君はどうだい?」
「私は楽観主義者」こちらは即答だった。
神崎の答えも予想通りだったのだろう、香月先輩は微笑を浮かべながら一つ頷き、そして目線を俺へと向ける。
その目が、次は君の番だよと告げていた。
少しだけ、考える。
自分が楽観主義者でないことだけは確かだった。
だからといって、悲観主義者かと言われると、それも違う気がする。
残るは棄却主義者なのだが……。
「俺は……棄却主義者ですかね」
その答えが意外だったのだろうか、香月先輩は驚いたような表情を見せた。
だがそれは一瞬の事で、すぐその目には楽しさを伴った感情の色が見えた。
「なるほど。三者三様で面白い。さぞ議論も弾むことだろうが、今は私が発表する時間なのでね。議論は後の楽しみにとっておいて、ここでは楽観主義者である私の立場で話を進めさせてもらおう。といってもね、ここでこの問いに対する答えを発表する! なんてことは不可能だ。人類が未だ解明できていない未知が多すぎるからね。でも私は……信じているのだよ。人類はいずれ、この問いの答えに到達する。なぜなら、人間の知識に対する欲求は計り知れないからだ。それこそが、超常的な現象や未知を解明するための原動力だ。エネルギーの補充をするめの食欲、記憶の整理をする為の睡眠欲、種を存続させる為の性欲、大げさかもしれないがね、こういった人間の三大欲求でさえ私は真理への到達という目的を達成する為に存在しているのではないかとさえ考えている。私が楽観主義者という立場をとる理由はそこにある。地動説を唱えたコペルニクス、近代科学の父と呼ばれるガリレオ。ソクラテス、プラトン、アリストテレスといった哲学者達。彼らのように私は知識を探究したい。なぜなら私自身が、知りたいという欲求を抑えきれないからだ。知らないという事に、悔しささえ感じるからだ」
思わず、ごくりと生唾を飲み込んだ。
俺はスクリーンではなく、目を爛々と輝かせ力強く言葉を発し続ける、香月先輩の姿から目が離せなくなっていた。
きっとそれは、朝山先輩と神崎も同じだろう。
俺はまだ、高校生になったばかりの言わば若輩者だ。
存在理由だとか、この世界の真理だとか、そんな難しいことを深く考えたことなどない。
頭に浮かんだことはあるが、それこそそういった事に対しては分かるはずがないと、すぐに頭からその疑問を放り投げていたほどだ。
だというのに、なんなのだろうかこの人は。
歳は一つしか違わないというのに、自分との違いに驚かされるばかりだった。
香月先輩の手によって、スライドが最後のページへと移動される。
そこには意外な事に、何も書かれていない真っ白なページが表示されていた。
「予想はできていると思うがね、この研究テーマに対する現状の私の成果は、真っ白だ。幼少期からこの問いに対して頭を捻らせているが、無限後退に陥った後は行き止まり。立証できない仮説ばかりが浮かんでは、それを記録していく事しかできない。けれどね、私はこれからもこの問いに対してなぜ? と問い続けたい。問い続けた先にはきっと、私が最も知りたいと考えているこの世界の真理があると考えているからね。私の発表はこれで以上だ。ご清聴ありがとう」
発表が終わり、質疑応答の時間となった。 皆がそれぞれの飲み物を片手に円卓へと集合した後、俺が発表した時と同様に会長特権を発動した香月先輩から発せられた質問は、このようなものだった。「岩倉君も妃那美も気になっているだろうからね。君の研究テーマである次元についてではなく、観測者という存在についてもっと詳しく話を聞かせてもらおう」「……はい。信じられないような話で皆さんを混乱させてしまっていると思うので、何でも質問してください」 それは、主に俺と朝山先輩へ向けられた言葉だった。 事実、朝山先輩の目と表情からは、困惑という感情が見て取れる。 それは、俺も同じなのだろう。「そうだね。君は観測者の視線を、岩倉君を通して感じ取ったと言っていたね。それは、どのような感覚なんだい?」「通常、人から感じる視線は一つです。でも、観測者が岩倉君の視点を持っている時、その視線を二重に感じます」「二重にか……人から視線を感じるというのは、まあ珍しいことではないだろう。しかし、それを一人の人間から二重に感じるというのは、想像し難い感覚だね。その二重の視線というのは、今も感じているんだよね?」「はい。今日、観測者の視線を感じたのは、私が発表の準備を進めている最中でした。それ以降も、まだ消えていません」 神崎の言う事を信じるのであれば、今も観測者とやらは俺の視点を借りて、皆に視線を送っているということだ。 その事実を改めて理解し、俺は全身に鳥肌が立つのを感じた。 俺の意思とは関係なく、よく分からない存在が勝手に俺の視点を借りているというのは、何とも気味が悪い。「あ、そっかー。私の発表の時に幽霊がいるかどうかって聞いてきたのって、それを確認する為だったってことかな?」 思い出したかのように言った朝山先輩の質問に、神崎は頷いて答える。「観測者の正体について、それが霊的な何かなのではないかという考えもありました。でも霊感があるといっていた朝山先輩の言葉で、その可能性は捨てました」 そういえば
火曜日の放課後。神崎が研究テーマを発表する日となった。 万物研究会では既に研究会のメンバーが全員集まり、神崎が発表準備を進めているという状況だった。 流石にこれでもう、四回目だ。 発表までの流れを既に知っていた俺は、いつも先輩にその作業を任せるのも悪いだろうと思い「今回は俺がやりますよ」という言葉を残して、香月先輩が前回までそうしていたように、室内灯のスイッチ付近に立っていた。 先輩達二人は既にいつもの定位置に座っているので、後は神崎から準備完了の合図を待つだけだった。 配線作業が終わったのか、神崎の傍にあるノートPCの画面がスクリーンに映し出される。 それで準備が整ったのだろう、神崎がこちらに目線をくれたのを合図に、室内灯のスイッチをオフにする。 スクリーンに映し出された、スライドデータの表題に目を向ける。 そこには、こう書かれていた。【次元について】「それでは準備が出来たので、私の研究テーマについて発表します。私が研究テーマとして選んだのが、このスライドの表題となっている次元についてです。次元については既に知っていると思いますが、簡単に説明だけします」 神崎がPCを操作し、スライドを次のページへと移動させる。 映し出されたのは、真っ白な背景の中央に直線だけが引いてあるページだった。「そもそも次元というのは数学において、空間の広がりを示すための指標です。なので、一次元というのはその文字の通り、次元が一つしかない空間の事を言います。簡単に言ってしまえば、直線しかない空間が一次元です。一方向に伸びる長さだけがあり、それ以外の広がりを持ちません」 神崎によって、次のページが写し出される。 今度はページの中央に、縦方向と横方向に線が引かれていた。「今度は縦と横に空間が広がりました。これが二次元空間と呼ばれているものです。一次元との違いは、直線的な移動だけでなく、面状の移動が可能になったという点です。現代的な意味だと、アニメや漫画といったメディア媒体に登場する人物を、二次元キャラと言ったりしますが、それは二次元という平
休日をどのように過ごすかは人それぞれだと思うが、こと俺に関して言えば、一駅隣にある大型のショッピングセンターに足を運ぶ頻度が高かった。 そこは日本一大きなショッピングセンターと言われており、店舗面積は日本最大。 一日では到底、全店舗を回りきれないほどの広さを持っている。 求めているものを探せば、大抵は見つかると言っても過言ではない。 その場所に足を運ぶ機会が多いのは、やはり子供の頃から隣町に住んでいるからという理由が大きい。 区画は大きく月エリア、星エリア、空エリアに分かれている。 その中でも俺がよく利用しているのが、月エリアの一階に店舗を構えている書店だった。 古めかしさの全くないその書店には、本のみならず家電や食べ物、子供用のおもちゃなど多様なものが販売されている。 本を買った後、それを読む空間まで用意されているのだから、是非ともこの書店内で存分に寛いでくださいという企業からの想いが伝わってくるかのような場所だった。 俺はこの店で気になった本を手に取っては流し読み、面白そうだと感じた本を購入しては、併設されているカフェでその本をゆっくりと読む時間が好きだった。 今日もそんな時間を過ごそうと、俺は書店内を歩きながら本を物色していた。 基本的に選ぶ本はミステリ小説やホラー、SF、ライトノベルといったエンタメ要素の強い本だ。 普段はそういった作品を好んで読んでいるのだが、今回は少し趣向を変えてみることにした。 自身での発表を終えた事により、俺にも研究会メンバーとしての自覚が芽生えてきたのかもしれない。 手に取った本はそれぞれ香月先輩、朝山先輩、そして俺が研究している内容の参考になりそうな本だった。 合計三冊の本を購入した俺は、書店内に併設されているオープンカフェでアイス珈琲を注文する。 店員が珈琲を用意している間、なんとなしにテラス席の方へと視線を向ける。 その視線の先に、見知った顔を二つ見つけた。 五つ用意されているテラス席の一つに、向かいあった状態で腰かける香月先輩と、朝山先
俺の発表が終わると、例の如く機材の片づけから始まり、香月先輩が入れた珈琲をお供に四人で円卓を囲む形となった。「さて、ここで会長特権を使わせてもらおう」 皆が珈琲に口を付けた後、いの一番に口を開いたのは香月先輩だった。「会長特権?」 首を傾げて疑問を投げた朝山先輩に対し、香月先輩はコクリと頷く。「妃那美も怜菜も、岩倉君に質問したい事があるのは分かっているが、ここは会長特権を使わせてもらう。つまり……質問は私からだ」「えー、なんだそれー。ずるいぞー!」 やんややんやと文句を言う朝山先輩を無視して、香月先輩は俺へと視線を向けた。 ちなみに神崎はというと、親指ってそんな速さで動くのかと驚かざるを得ない速度で、スマートフォンを弄っている。 また、何か調べているのだろう。「まずは岩倉君、発表お疲れ様。とても……本当にとても興味深い内容の発表だったよ。シナスタジア、私もその言葉自体は知っていたけどね。君の発表からは私の知らない新しい知識が沢山得られたよ。特に共感覚の知覚現象の例や、君自身に生じている現象については、とても興味深いね。なんというか、私達人間の感覚、知覚と呼ばれているものは想像以上に複雑で奥深く、どこか神秘的とさえ感じた」 そう話す香月先輩は、どこか楽しそうだ。 その瞳からは楽しい、関心といった感情の色が見えた。「さて、私からの質問だが、君は他人の目から感情の色が見えると言っていたね。いま私の目からも、その色が見えるのかな?」「はい、見えますね」「どんな感情の色が見えているんだい?」「今は黄色と橙色なので、楽しい、もしくは嬉しいかな。後は興味、関心といった感情の色も混じって見えます」「……ふむ、当たっているね。私自身の今の感情として、それが正しいと思う。楽しい、嬉しいと言った感情は喜びに付随するものだから、同じ色に見えるということかな。興味、関心に関しても類似した感情と言える……感情と色の結びつきについ
水曜日の放課後になった。 俺は緊張に弾む心臓の音を少しでも落ち着かせようと、一度だけ深呼吸をしてから、万物研究会への扉を開く。 部屋には既に、香月先輩の姿があった。 今日は俺が研究テーマを発表する日なのだが、彼女は機材の準備だけ既に進めてくれているようだった。「やあ、岩倉君。発表用のデータは持ってきてくれたかな?」「あ、はい。これです」 俺は学生鞄の中から、予め香月先輩から預かっていたSDカードを取り出し、それを彼女に渡す。 SDカードの中には発表用に使うスライドデータのテンプレートと、それを元にして俺が作成したスライドデータが格納されている。 香月先輩は俺から受け取ったSDカードを、彼女が持っていたノートPCにあるメモリースロットに差し込んだ。 SDカードから読み込まれたスライドのデータが、PC上に表示される。「ほう、興味深いね。これは、もしかして君自身の――」 そこまで言った所で、香月先輩は言葉を止めて緩やかに首を左右に振った。 ふわりと香ってきたシャンプーの香りに、一瞬だけ気を取られた。「いや、すまないね。発表前だというのに、つい質問してしまいそうになってしまった。質問は、後の楽しみにとっておこう。あとはこのケーブルをここに差し込めば、スクリーンにPCの画面が表示される。スライドのページ移動に関しては分かるよね?」「はい、大丈夫です」「よろしい。では、準備完了だ」 そんなやり取りから数分も経たない内に、朝山先輩がいつもの「やほー」という挨拶で登場した。 そのすぐ後に、神崎が無言のままペコリと頭を下げながら姿を見せた。 メンバー全員が揃い、それぞれが定位置へと着いた所で、香月先輩によって部屋の電気が消灯される。 そのタイミングに合わせて、俺は先ほど言われた通りにケーブルを配線した。 問題なくPCの画面がスクリーンに投影されているかを確認した後、皆の反応を伺う。 朝山先輩は首を傾げている。その様子から察するに、どうやら彼女はスクリーンに映し出
日曜日の午後、俺は学校からタブレットPCを家に持ち帰り、そのキーボードを叩いては、頭を捻るという行動をひたすらに繰り返していた。 香月先輩と朝山先輩、万物研究会の既存メンバーである二人の発表が終わった。 そのため、次は新メンバーである俺と神崎が研究テーマについて発表する運びとなったのがその原因だ。 香月先輩からは、今週どこかのタイミングで、簡単に研究テーマについての発表をしてほしいと頼まれている。 しかし、その研究テーマというものが、中々決まらない。 研究対象は何でも良いとは言われているものの、そこまで自由だと逆にテーマを選定するのが難しいと感じた。 いや、実を言うと一つだけ頭に浮かんでいる事が、あるにはあるのだ。 だが、それを研究テーマとして皆の前で発表するというのには、若干抵抗を覚えた。 なぜならそれは、自分自身に関連することだから。 幼少期にその事を他者に告げた事で、周りから奇異の目で見られたり、からかわれたりする事となった経験は、俺の中でまだ少しトラウマとして残っている。 これはあまり他人に吹聴して回る事ではないという考えは、そういった経験から来るものだった。 しかし、その一方でこうも思うのだ。 香月先輩や朝山先輩が俺の何かを知った所で、俺への態度を変えることなんてあるだろうかと。 まだ短い付き合いなのだが、俺はそう思えるくらいにあの人たちの事を信用しているし、好意的な存在だと捉えている。 神崎に関しては、正直よく分からない。 あの不思議系美少女に関しては、何を考えているか全く分からないからだ。 俺を困惑させる数々の発言や行為は、未だ留まる事を知らない。 そもそも、俺があいつの事をどう思っているのか、俺自身がよく分かっていない。 苦手である事は、間違いない。 あの非日常的な何かを感じる瞳が、好きになれない事は間違いない。 でも、だからと言って神崎の事が嫌いかというと、そういう訳でもない。 あいつの事を考えると発
神崎に誘われて万物研究会へ顔を出してからの数日は、俺が思っていたよりかは平凡な高校生活となった。 家から近いというのが志望した理由として大きな割合を占めていたこともあり、同級生の中には中学からの顔馴染みも多かった。 そういった理由で友達作りに困ることもなく、クラスメイト達とどうでも良い話で笑いあったり、ふざけあったりして日々は過ぎていった。 何も特筆することもない、どこにでも見られるような普通の学校生活。 そんな生活を送る中でも時折、研究会の事が頭を過ぎることはあった。 クラスメイトから、一緒にバスケ部に入
万物研究会についての説明は、概ね神崎から聞いていた通りのものだった。 研究内容に、指定はない。 各々が自由に興味のある事を調べ、考察、実験、観察、調査した結果を発表したり、それについて議論をしたりするというのが主な活動内容ということだ。 意外だったのが、研究会のメンバーは現状、香月先輩と朝山先輩の二名だけというものだった。 というのも、去年同じクラスになった二人が各々興味のある分野での話で大いに盛り上がり、話のノリとその場の勢いで立ち上げた研究会で、神崎を除いては特に誰かを誘うという事もなかったらしい。
万物研究会の室内は、シンプルな作りをしていた。部屋の広さは十四帖ほどで、中央には決して大きくはない、楕円形のテーブルが設置してある。その傍には、今まで使われていたと思われるパイプ椅子が二脚置いてあった。 扉から見た部屋の右側にはプロジェクターや何冊かの本、紙コップが入った袋、給湯器、電動のコーヒーミル、その他にも色々なものが乱雑に置かれた備品棚がある。 左側には教室でも使われている机と椅子が二つずつ並べられており、その上にはノートパソコンが一台ずつ置かれていた。「珈琲を淹れよう。私はブラックなのだが、君たちはどうする?」
香月先輩の発表が終わり、室内が明るくなった。 俺は少しぼんやりとした頭を覚醒させようと、軽く頭を振ってから室内を見回す。 今しがた発表を終えたばかりの香月先輩は、一息つこうと思ったのだろう。優雅に珈琲を淹れている。 朝山先輩は、脳がショートでもしてしまったのだろうか、ポヤーっという擬音が発せられそうな面持ちで、ぼんやりと中空を見つめている。 神崎はというと、スマートフォンを片手に何かを調べているようだった。今の発表に対して調べているのだろうか。だとしたら流石優等生、勤勉なことだ。「岩倉君、君も飲む