ログイン万物研究会への入会が決まった日から数日が経ち、翌週の月曜日。
予想通りではあったが、バスケ部に俺を誘ったクラスメイトからは、香月先輩との関係について教えろと詰められた。
面倒だなと思いつつも、とある会へ入会する事になり、彼女はその会の会長であることを正直に伝えた。
最初は興味を持ったクラスメイトだったが、活動内容について説明すると彼はつまらなそう、モテなさそうという感想を残し、すぐに興味を失ったかのように話題を転換させた。
変な波風が立たなかったことに、俺はとりあえず一安心だった。
その日の放課後、クラスの女子と会話をしている神崎の姿を尻目に、俺は学生鞄を片手に部室棟の方へと足を向けた。
連絡先を交換した香月先輩から、研究会に顔を出すようにとお呼びがかかっていたからだ。
基本的に平日の放課後、時間がある時には研究会に顔を出してほしい。
決して強制ではなく、バイトや他の部活といった別の用事を優先しても良い。 ただ、私が寂しいから最低でも週に一回は顔を出してほしい。それらが、香月先輩から言われている言葉だった。
部室棟へと入る間際、知っている顔がその先にあった。
向こうも俺の存在に気づいたらしく、その場に立ち止まっては嬉しそうに相好を崩す。
まるで俺にここで会えた事が嬉しいと言っているような、そういう仕草で笑顔を見せるのは卑怯だよなと思いながら、俺は待ってくれている彼女に一礼して距離を縮めた。
「岩倉君、やほー」
そうやって軽い感じで挨拶してくれたのは勿論、朝山妃那美先輩その人だった。
向かう先が同じ場所だということは、お互いに分かっている。
俺と朝山先輩は、自然と横に並んで一緒の目的地へと歩を進めた。
「わー、こうやって並んでみると分かるけど、岩倉君って背高いねー。私と頭一個分くらい違うかなー?」
「……そうですかね? 俺の身長は丁度、高校一年生の平均くらいだと思いますけど」 「え、そうなの? でももっと高く見えるよねー。あれかな? スタイルが良いから? スラっとしてるから、そう感じるのかもー」 「スラっと……してますかね?」 「うん、してるー。スラっとしていてかっこいいなーって思う」こういう所だ。
香月先輩が言っていたのは、きっとこういう所だ。
「小夜子や岩倉君みたいにスラっと背の高い人って、モデルさんみたいで羨ましいなー。私なんてほら、背ちっちゃいし胸ばかり大きくなって肩もこるし、もう嫌になっちゃう」
「む……ね……」俺は内なる欲求に従い朝山先輩の方へ動こうとしている眼球を、無理やり首を反対方向へと向ける事で回避した。
やはり、この人は危険だ。
話していると、得体の知れない引力のようなものに吸い込まれていきそうになる。
無心だ。
無心になる必要がある。 壁のシミを数えよう。「あれ? 岩倉君……なんで、そっち向いてるの?」
「えっと、あれです。なんか虫がいたような気がしたので」 「うぇ! 虫嫌だー! どこー!」やり過ごすために、適当な嘘を吐いた事が仇になった。
俺の腕が、何か柔らかい物に包まれている感覚がする。
まさか、これは……。
「私、霊感とかあるから幽霊とか平気だけど虫は無理! 虫は無理なの!」
「いや、すみません、見間違いでした! 見間違いだったので放してください!」 「え? あ、見間違い? なんだー、良かったー」本当に心から安心したような声と共に、朝山先輩から感じられていた柔らかな感触が離れていった。
「……なにしてるの?」
落ち着いたのも束の間、背後から冷たい声がして振り向く。
いつのまにか背後に立っていた神崎が、冷めた目線をこちらに向けていた。
「あ、神崎さん。やほー」
すぐに平常時へと戻った朝山先輩に対し、一礼する神崎。
その後、こちらに何か言いたげな視線を向けてくる。
「なんだよ?」
「別に、なにも」俺への興味をなくしたかのように顔を背けた神崎が、先を歩き始めた。
俺と朝山先輩が、神崎の後に付いていくような形になった。
朝山先輩と会ってからたった数分の出来事だったのに、何だか俺はどっと疲れたような気がして、思わず小さな溜息が漏れるのだった。
万物研究会の部室へと向かう途中、廊下の端で男子生徒が三人集まり、何かを話していた。 声までは聞こえない。 そもそも、聞く気もなかった。 ただ、こちらを見ながらヒソヒソと言葉を交わしているその様子は、正直あまり気分の良いものではない。 気にせず通り過ぎれば良いだけのこと。 それでも胸の奥に、小さな不快感が芽生えてしまう。 貴方からの視線だったら、こんな風には感じないのに。 そんなことを、また考えてしまった。 何もしていないのに、人の視線を集めてしまうことは昔からよくあった。 以前の私は、それが怖かった。 他者の視線に怯え、家から出ることすら出来なくなってしまったほどに。 あの頃に比べれば、少しは強くなれたのだと思う。 こうして不躾な視線を向けてくる相手を、睨み返せる程度には。 三人の男子生徒は私と目が合うと、罰が悪そうに視線を逸らし、そのまま足早に立ち去っていった。 私がこんな風に変われたのも、きっと貴方のおかげだ。 そう考えてしまう自分に、小さく苦笑する。 もう一カ月以上、岩倉君から観測者の視線を感じ取っていない。 その事実が、胸の奥に得体の知れない空白を作っていた。 次はいつ、私を見てくれるのだろう。 そんなことを考えながら、私は校舎の外へと出た。 六月。 梅雨入りしたばかりの空は、重く垂れ込めた灰色の雲に覆われていた。 湿った空気が肌にまとわりつき、吹き抜ける風はぬるく、生温い匂いを運んでくる。 校庭を横切るたび、足元の土がじっとりと水分を含んでいるのが分かった。 地面を踏みしめる度にわずかに沈む感触が伝わり、乾ききらない土の匂いがふわりと立ち上る。 部室棟までの距離はそう長くないはずなのに、雨が降り出す前の静けさが、時間そのものを引き延ばしているように感じられた。 頭上の雲がさらに厚みを増し、今にも雨粒が落ちてきそうになる。 私
プルチックの感情の輪について知ったのは、俺が共感覚についての研究を初めてから、数か月が過ぎた頃の事だった。 俺が感じ取れる感情と色についての説明を受けた香月先輩が、思い当たる節があると調べてくれたのが、それを知れるキッカケとなった。 あの人の知識の深さには、いつも驚かされるばかりだ。 説明によると、プルチックの感情の輪というのはアメリカの心理学者であるロバート・プルチックが提唱した、感情の理論に基づく視覚的なモデルの事らしい。 八つの基本感情に基づいていて、それらの感情がそれぞれ色で示されている。 その感情モデルを図解した画像を見たとき、俺はそれを初めて見た気がしなかった。 小さい頃に、どこかで見たことがあるような。 そんな、デジャブのような感覚に陥ったのだ。 もしかしたら、その感情モデルが俺の共感覚という現象の、ルーツとなっているのかもしれない。 なぜなら、俺が共感覚で感じ取る目の色と、プルチックが提唱した感情モデルが指し示している感情の色は、その全てが一致していたからだ。 それは、もし俺が万物研究会に入っていなかったら、絶対に知りえなかった事だろう。 こんな感じで、俺の研究に対する進捗については周りの助けもあり、悪くはないと言った所だった。 俺以外のメンバーが進めている研究についても、俺が分かっている範囲で少し触れて置こうと思う。 朝山先輩は、幽体離脱に対しての理解をもっと深めていこうと思っているらしい。 この前聞いた話では、変性意識と呼ばれる状態について調べているということだった。 変性意識は通常の意識状態とは異なる、意識の変化した状態を言うらしい。 なんでも、幽体離脱中はこの変性意識の状態にあるという事が分かったので、変性意識についての知識を足がかりに、幽体離脱への理解を深めていくと話していた。 いつか、彼女が宇宙の果てへと辿り着ける日は来るのだろうか。 それは、正直分からない。 だが、彼女が幽体離脱を用いて宇宙の果てへの到達を望み続ける限り、俺はこれ
「つまり、小夜子先輩は、観測者をラプラスの悪魔みたいな万能の存在だと思ってるってこと?」「多分な。少なくとも、俺にはそう聞こえた」 中間考査を終えた週の日曜日。 俺は神崎に誘われ、以前にも立ち寄った駅前のファーストフード店へ来ていた。 本を買いに行きたいから付き合ってほしい。 理由はそれだけだった。 呼び出されたのが十一時過ぎだったこともあり、先に昼食を済ませてから本屋へ向かう流れになっている。 窓際のカウンター席。 前と同じように、神崎は両手でハンバーガーを持ちながら、小動物みたいに少しずつ食べ進めている。 その様子を眺めていた俺の視線に気づいたのか、神崎がこちらを見た。 そして、 静かに二度、瞬きをする。 観測者がいる。 最近では、その合図にも随分慣れてしまった。 その瞬間だけはいつも、神崎の瞳がほんの少しだけ遠くを見る。 俺ではない何かを。「小夜子先輩は私なんかより、全然思考が深い人だから」 神崎が紙コップを指先で回しながら言う。「だから、そう思ったってことは、きっと私達が気づけてない何かに辿り着いたんだと思う」「かもな。でも、俺にはさっぱり分からん」 俺は自分の目元を軽く指差した。「神崎の仮説だと、観測者って俺の顕在意識を通して世界を見てるだけなんだろ?」「うん」「だったら、なんで全知全能みたいな話になるんだよ。考えれば考えるほど意味分からん」 神崎は少しだけ考え込むように視線を落とした。「……小夜子先輩、他にも何か言ってなかった?」「他?」 香月先輩とのやり取りを思い返す。そういえば、妙に引っかかる言葉が他にもあった。「確か、箱の中がどうとか言ってたな」「箱?」「ああ。箱の中の猫であり続けるつもりはないとか」 神崎の表情が僅かに変わる。「…&hel
今日はバイトがあるから研究会には顔を出せない。小夜子のこと、よろしくね。 そんな言葉を最後に、朝山先輩とは別れた。 あそこまで言われてしまえば、流石に無視はできない。 放課後、俺はそのまま部室棟へ向かっていた。 途中、神崎からメッセージが届く。【今日は中間考査の勉強するから研究会へは行けない】 流石は優等生だ。俺なんて、勉強しないとなと思っているだけで一日が終わるタイプだというのに。 そんな現実逃避じみたことを考えているうちに、万物研究会の部室前へ辿り着く。 扉を開けると、室内には既に香月先輩の姿があった。 香月先輩は窓際に立ち、ぼんやり外を眺めていた。 夕暮れ前の曇り空。ガラスには室内が薄く反射している。 その姿が妙に静かで、一瞬声を掛けるのを躊躇った。 俺に気付いた香月先輩が振り返る。「やあ、岩倉君。お疲れ様」 笑っている。けれど、どこか無理に口角を上げているようにも見えた。「お疲れ様です」 香月先輩の瞳を見る。紺色。沈んだ色だった。 悲嘆。 疲労。 諦念。 そんな感情が薄く混ざっている。「珈琲を淹れよう」 そう言って立ち上がろうとした香月先輩を、俺は軽く手で制した。「今日は俺がやりますよ。先輩、座っててください」「おや、気を遣わせてしまったかな」「そういうわけじゃないです」「ふふ。では、お言葉に甘えよう」 香月先輩は再び椅子へ腰を下ろす。 俺は棚から器具を取り出し、珈琲を淹れ始めた。 豆を挽く音が、静かな部室へ広がる。その間も香月先輩は窓の外を見ていた。 いや、 正確には窓に映るこちら側を見ているようにも思えた。 朝山先輩の言っていた通りだ。どう見ても様子がおかしい。 二人分の珈琲を淹れ終え、紙コップを差し出す。 香月先輩は「ありがとう」と小さく呟いた。
全くもって非日常的な存在である観測者の存在に一歩近づけたとはいえ、日常に何かしら劇的な変化が起きるわけでもなく、日々は淡々と過ぎていった。 気がつけば、あっという間に四月も終わり、五月になっていた。 体力テストや開校記念日といった学校行事を終え、中間考査を翌週に控えた日の昼休み。 俺は購買でパンを買い、教室に戻って昼食を摂ろうと、校舎内を歩いていた。 一年の教室がある三階への階段を登ろうとしていた矢先、ばったりと朝山先輩と遭遇する。「あれー、岩倉君だー。やほー。これからお昼かな?」 声を掛けて来た朝山先輩の手には、同じ購買で買ったと思われるパン数個と飲み物があった。 俺は先輩に一度頭を下げた後、言葉を返す。「はい、これから教室に戻って、お昼にしようかと」「そっかそっかー。もし他に約束がなければ、一緒に食べない? ちょーっと、話したい事もあるし」 先輩の誘いを、無下に断ることもできない。 それに、朝山先輩が話したい事というのが何なのかも気になった。 俺は朝山先輩の誘いに頷いて答えると、その後に付いていく事にした。 辿り着いた先は、体育館と校舎を繋ぐ渡り廊下、その横に位置する屋外ベンチだった。 朝山先輩はベンチに腰かけ、その隣に腰かけるよう、ポンポンとベンチを叩いて俺に促してくる。 誘われるがまま、俺は朝山先輩の隣に腰かけた。「えっとね、実はお昼一緒に食べようって言うのは口実なんだ。私ね、ずっと前から岩倉君のこと……」「え?」「なーんて、冗談! ここを進んだ先の校舎裏ってねー、人が来ないからたまに告白する場所とかになってたりするんだよねー」 悪戯な笑みでニコニコしたまま、朝山先輩は手に持ったメロンパンの袋を開け始める。 最初こそかなりドギマギとさせられたが、朝山先輩とのこういったやり取りにも、少しずつ耐性がついてきたように思う。 俺は「そうなんですね」と返事をしながら、購入したコロッケパンの袋を開けて、それに噛り付い
観測者について話している内に、気付けば辺りは夕暮れに染まっていた。 研究会で過ごす時間は、妙に短く感じられてしまう。 香月先輩と朝山先輩は隣町から通学しているため、活動後はバス停方面へ向かう。 一方で、俺と神崎は徒歩圏内だ。 だから自然と、帰り道は二人になることが多かった。 校門を出ると、夕日が街全体を橙色へ染めていた。「皆には感謝してる。あの実験のおかげで、観測者の正体を解明するという私の目的に、かなり近づけたんじゃないかなって思うから」 確かに、観測者について判明した事実は多いだろう。 今回の実験結果は、その正体を解明するための足がかりとするには、及第点といった所ではないだろうか。 とりあえずは、一歩前進したと言える。 神崎もそう思っているから、満足そうにしているのだろう。 俺は今回の結果を受け研究会のメンバーで考察を重ねていけば、やがて観測者の正体を解明出来る日が本当にくるのではないかと、そんな気持ちにさえなっていた。 しかし、現時点においては、その存在の正体は未だ分からぬままだ。「考えれば考える程に、訳の分からない存在だよな。この観測者ってやつは」 隣を歩きながら、俺の言葉にコクリと頷く神崎。 俺の言葉には全くもって同意だと、その目が告げていた。「見ているのに、視覚から情報を得ていないっていうのが、一番意味が分からん。じゃあ、何で見ているんだよって話だろ」「岩倉君の顕在意識を読み取れるのであれば、そもそも見る必要はない。視覚から得た情報の処理については、岩倉君に任せれば良い。だというのに、観測者はこちらを見ている」「……観測者は、窓越しに香月先輩の姿を見たんだよな?」「うん。あの日は外が暗かったから、反射した姿は私達にもハッキリと視認できた」「うーん……そもそも、人間とは構造が違うって可能性はないか?」「というと?」「つまり、《《人間の目は窓に反射した姿を視認で
神崎怜菜《かんざきれいな》の瞳は、美しかった。 だからこそ、気味が悪かった。 眼球の外部構造の一つに、虹彩と呼ばれるものがある。 角膜の奥にあり、瞳孔を囲む、色を宿した輪状の筋肉。 人はそこに感情を読み取る。 怒り、喜び、悲しみ、驚き。あるいは恋慕。 目は口ほどに物を言う、なんて言葉があるくらいだ。 人間は他人の目から、相手の心を想像する。 けれど、神崎怜菜の目は違った。 あれは、誰かを見る目ではない。 誰かに見られていることを、知っている目だった。 彼女のことは前から知っていた。 同じ中学に通っていたのだから当然だ。 別のクラスだった俺でさえ、神崎怜菜という名前
水曜日の放課後になった。 俺は緊張に弾む心臓の音を少しでも落ち着かせようと、一度だけ深呼吸をしてから、万物研究会への扉を開く。 部屋には既に、香月先輩の姿があった。 今日は俺が研究テーマを発表する日なのだが、彼女は機材の準備だけ既に進めてくれているようだった。「やあ、岩倉君。発表用のデータは持ってきてくれたかな?」「あ、はい。これです」 俺は学生鞄の中から、予め香月先輩から預かっていたSDカードを取り出し、それを彼女に渡す。 SDカードの中には発表用に使うスライドデータのテンプレ
日曜日の午後、俺は学校からタブレットPCを家に持ち帰り、そのキーボードを叩いては、頭を捻るという行動をひたすらに繰り返していた。 香月先輩と朝山先輩、万物研究会の既存メンバーである二人の発表が終わった。 そのため、次は新メンバーである俺と神崎が研究テーマについて発表する運びとなったのがその原因だ。 香月先輩からは、今週どこかのタイミングで、簡単に研究テーマについての発表をしてほしいと頼まれている。 しかし、その研究テーマというものが、中々決まらない。 研究対象は何でも良いとは言われているものの、そこまで自由
朝山先輩の発表が終わり、機材の片づけを皆で協力して完了させた後、俺たち万物研究会のメンバー四人は中央のテーブルに集まって一息ついていた。 発表を終えた朝山先輩は何だかんだ緊張していたようで、その糸がほぐれたかのように脱力している。 香月先輩は優雅に珈琲の入ったカップを啜っており、その視線はテーブルに突っ伏している朝山先輩へと向いている。 神崎はというと、前回と同様にスマートフォンで何かを調べているようだった。「妃那美、発表について質疑応答の時間を取りたいんだが、いけるかな?」 香月先輩の言葉に勢いよく体を起