悠斗のチームメイトたちは、地面に手をつきながら舌を出したり、地面に座って空を見上げたりしていた。「悠斗君、もう立てないよ!やり直しなんてできないって!」悠斗は横で、先生が瑛優に花丸シールを渡すのを眺めていた。先生は五枚の花丸シールを用意していたが、一人で五人分の働きを見せた瑛優に、全てが与えられた。悠斗の表情が見るも無惨に歪む。彼は瑛優を指差し、命令口調で言った。「優勝者は道具の片付け当番!」「どうしてよ!」時雨が瑛優のために抗議する。望月も負けじと声を上げた。「なんで優勝した人が片付けなきゃいけないの?」「だって瑛優のせいでみんな疲れ切ってるじゃん!あいつ、汗一つかいてないし!片付けるのは当然でしょ?」「悠斗君こそ、まだ元気そうじゃない」時雨が小声で呟く。悠斗は仲間の一人の腕を肩に回し、「僕は委員長だから、みんなを教室まで送らなきゃ!」仲間を担ごうとするも、持ち上げることができない。顔を赤らめながら歯を食いしばり、低い声で言う。「行くぞ!本気で担がせる気?」他の子供たちが教室に戻る中、時雨と望月は瑛優と一緒に体育用具の片付けを手伝っていた。「きゃあああ!!助けて!」突然響き渡った悲鳴に、時雨と望月は飛び上がった。瑛優は悲鳴の聞こえた方を振り向いた。すぐ近くの校庭で、年少組の子供たちが必死に逃げ惑っていた。黒いジャージ姿で、マスクを着けた男が木の棒を手に、幼い子供たちを追いかけ回していた。時雨と望月はその場に釘付けになる中、瑛優が駆け出した。「瑛優ちゃん、戻って!」「ダメ!行っちゃだめ!」二人の女の子の叫び声が裏返る。瑛優は手にしていたソフトバレーボールを全身の力を込めて放った。ボールは男の背中を直撃した。「ぐああっ!」マスクの男が地面に倒れ込む。男が這い上がろうとした瞬間、瑛優は背中を踏みつけ、棒を握る手首を掴んだ。その手を後ろにねじ上げると、乾いた音が響いた。「ぎゃああああっ!」男の絶叫が校庭に木霊する。逃げ惑っていた年少組の子供たちが一斉に振り返った。そこには、ピンクのワンピースを着た女の子が立っていた。両サイドの髪を可愛らしくまとめ、ピンクのリボンが風になびいている。お人形のような愛らしい顔立ち。まんまるな顔に、黒く澄んだ瞳、桜
ある母親が小声で耳打ちした。「藤宮さん、桐井園長を追い出してくださって、本当にありがとうございます。教務主任が園長代理になってから、色々改革してくれて。今年の表彰は公平になると思います」夕月は謙虚に答えた。「私がしたことじゃありません。瑛優の退学騒動がなくても、桐井先生はいずれ……」保護者たちや教師の多くは夕月に感謝していた。桐井健の横暴に長年悩まされていたのだ。「夕月さん!」橘京花が望月の手を引きながら、にこやかに近づいてきた。その横には夫の斎藤鳴の姿もあった。京花は真っ白に塗った顔に細い眉を描き、ゆったりとしたカシミアのコートを纏っていた。エルメスのバーキンを手に下げ、首元には1億円相当の翡翠のペンダントが揺れている。以前、橘家で夕月にわざわざ自慢げに見せびらかしたものだ。斎藤鳴は端正な容姿の持ち主で、その身なりからして学者然としていた。「夕月!大変なことになったわ!瑛優ちゃん、また暴力事件を起こしたのよ!」京花の甲高い声が、周囲の保護者の注意を引く。夕月の前に立った京花は、目尻を吊り上げ、興奮気味に噂話を始めた。「望月が教えてくれたの。瑛優ちゃんが休み時間に暴力振るって、骨折させちゃったんですって!」周囲の保護者たちは動揺を隠せず、我が子を夕月から遠ざけるように引き寄せた。「あの子、藤宮瑛優には近づかないのよ」と耳打ちする母親もいる。「でも母さん!僕、瑛優ちゃんのこと超かっこいいと思う!」瑛優の名前が出るや否や、子供たちは興奮気味に親に話し始めた。「瑛優ちゃんってすごいんだよ!僕も瑛優ちゃんみたいになりたい!」子供の言葉に憤る保護者たち。「まさか!あの子のマネなんてしちゃダメよ!」しかし子供たちは止まらない。「瑛優ちゃんね、年長組の全員に勝ったんだよ!」「たった一人で、クラスのみんなをやっつけちゃったの!」保護者たちは子供の話を聞きながら、ボディビルダーのような筋肉質の女の子を想像して背筋が凍る。クラス中の子供たちを投げ飛ばし、校庭に転がった子供たちが悲鳴を上げている光景が頭に浮かぶ。桜井が桜都一の名門でなければ、とっくに転校を考えていただろう、と皆が顔を曇らせる。周囲の動揺を見て、京花は更に意地悪く続けた。「夕月さん、女の子をそんな風に育てちゃダメよ。瑛優ちゃんを筋肉アイドル
「はい、そうです」と夕月は立ち上がって答えた。「年少2組の担任をしております」その言葉が終わらないうちに、京花が声を張り上げた。「夕月さん!あなたの娘、年少組の子供たちまで殴ったの?」周囲の年少組の保護者たちは、慌てて自分の子供を背後に隠した。「いいえ、違います!」担任は慌てて手を振った。「瑛優ちゃんは安全教育の際、不審者から年少組の子供たちを守ってくれたんです。その勇気ある行動を称えて、花丸を贈らせていただきました」「ママ、見て」瑛優は宝物のように花丸シールを見せた。京花は呆気に取られたような表情を浮かべている。「でも」夕月が首を傾げる。「担任の先生からは、今日安全教育があるとは聞いていませんでしたが」「そうよね!」京花も便乗する。突然の花丸にますます不審の念を抱いたようだ。「これは年少組だけの行事だったんです」担任は説明した。「瑛優ちゃんは正義感から自発的に助けてくれて……本当に立派な行動でした」そう言いながら、担任は夕月に近寄り、携帯を取り出した。「それで、不審者役を演じた方の治療費なんですが……」夕月は状況を理解し、自分も携帯を取り出した。「私が負担させていただきます」担任の先生が夕月と世間話を交わして去ると、下校時間を迎えた園児たちが次々と瑛優に別れを告げに駆け寄ってきた。「瑛優ちゃんは今や幼稚園の守護神なのよ」望月が母親の京花に得意げに報告する。京花は「……」と言葉を詰まらせ、顔に軽蔑の色を浮かべた。「ごめんなさい、ママ」瑛優が申し訳なさそうに呟いた。「力加減を間違えて、おじさんの手を折っちゃった……」「先生も言ってたでしょう?瑛優は正義のために立ち上がったの。不審者役の方を傷つけてしまったけど、年少組の子供たちを守ることができたわ。週末に、お見舞いに行きましょうね?」夕月は優しく諭した。瑛優は素直に頷く。「まったく女の子らしくないわね!」京花が嘲るように笑った。夕月の表情が冷たくなる。「瑛優がどんな子かが、そのまま女の子の在り方よ。力が強いからこそ、悪い人から自分を守れる」「なんて歪んだ考え方」京花は顔をしかめ、望月に念を押した。「あなたは絶対に真似しちゃダメよ。女の子は可愛らしくて儚げな方が愛されるの」「じゃあ」望月が不安そうに尋ねる。「悪い人が来たらどうするの?
土色のコートを着た斎藤は、まるで尻尾を振るイタチのようだった。夕月は黙って彼を観察していた。一体何を演じているのか。夕月の沈黙に、斎藤は深刻な面持ちで続けた。「この国では、トップレベルの人材が活躍しにくい環境なんです。私も身に染みて分かります。田舎町から這い上がるのに、どれだけ苦労したか。夕月さん、才能を惜しむからこそ申し上げるんです。研究も学問も、海外でなさった方がいい。この国は閉鎖的すぎる。自由なのは海外ですよ」「私は今、生活のことで精一杯です」夕月はきっぱりと答えた。斎藤は夕月の野心のなさを見て取り、目に満足げな色を浮かべた。頭の回転は速いかもしれないが、所詮は主婦上がり。大きな成功は望めまい。「外資系企業をお勧めしますよ」斎藤は諭すような口調で続けた。「週休二日に育児休暇もある。国内企業だと、シングルマザーの立場で瑛優ちゃんの面倒を見る時間なんて取れませんからね」まるで親身になって助言しているかのような物腰だ。夕月は斎藤の話に怪しい匂いを嗅ぎ取った。彼の本音を聞くには、少し世間知らずな様子を見せた方が得策だろう。「専業主婦を七年も続けていたもので」夕月は素知らぬ顔で言った。「有名企業のことはよく分からなくて。斎藤先生のような方なら、私にぴったりの職場をご存知かと」餌に食いついた斎藤は、本音を漏らし始めた。「オームテックという会社をご存知ですか?」オームテックはM国の企業で、テック業界の巨人ファーラウェイ・デーが親会社だ。現在、ファーラウェイ・デーは世界一の時価総額を誇る企業に成長している。夕月は首を振り、理解できない素振りを見せた。「実は」斎藤は身を乗り出した。「あなたの受賞後、オームテックが私に連絡を取ってきたんです。あなたとの橋渡し役を頼まれましてね。私が引き受けたのも、オームテックと桜都大が提携関係にあり、私の研究プロジェクトにも出資してくれているからなんです。破格の条件ですよ。年俸2千万円、プロジェクト手当も同額。それに利益配分や各種手当も。何より、年間103日の休暇がある。シングルマザーのあなたには最適な環境だと思います。今があなたの旬です。海外の一流大学からもオファーが来ている。永住権も簡単に取得できる。瑛優ちゃんと一緒に先進国で新生活を始められる。桜都のゴタゴ
「パパ!」リュックを背負った悠斗が、嬉しそうに冬真の方へ駆け出した。普段は学校に迎えに来ない父親の姿に、悠斗は興奮を隠せない様子だった。周りの女性保護者たちは、冬真の姿に足を止めて見惚れていた。清水秘書が夕月の前に歩み寄り、丁重に声をかけた。「夕月さん、お車にどうぞ」「結構です。私と瑛優はタクシーで向かいますので」夕月はきっぱりと断った。彼との狭い空間を共にすることなど、望むべくもなかった。清水秘書は橘社長の意向を汲んで、取り成すように言った。「社長が今日は特別に、夕月さんと瑛優ちゃんをお迎えに来られたんです」夕月は携帯を取り出し、配車アプリを開こうとした。清水秘書はマイバッハの車体まで戻り、冬真に状況を報告した。その時、夕月の携帯が鳴った。配車サービスからの電話かと思い、受けてみると——「半径五キロ以内の配車サービスは全て止めさせた。娘を連れて歩いていくつもりなら、ご自由にどうぞ」氷原から吹きつける風のように冷たい、冬真の声が響いた。夕月は思わず息を呑んだ。相変わらず独裁者然とした男。仕方なく、夕月は瑛優の手を引いてマイバッハに向かった。娘を助手席に座らせると、運転席側のドアまで回り込み、運転手に「降りてください」と告げた。運転手は困惑した様子を見せた。社長がわざわざ学校まで迎えに来たというのは、明らかに和解の意思表示のはずなのに。とはいえ、夕月さんの真意は掴めないまま、言われた通り車を降りた。夕月は運転席に座り、バッグを置くと、カーナビの画面を開いて冬真に尋ねた。「どちらのレストランですか?」彼女が自ら運転を買って出るとは——冬真は意外な展開に戸惑った。こんなに自分に取り入ろうとするとは。可笑しくなった冬真は、運転手になりたいなら、そうさせてやろうと思った。冬真は桜都でも指折りのフレンチレストランの名を告げた。最高のビューを望める個室は、通常一ヶ月前からの予約が必要な店だ。夕月がカーナビに店名を打ち込むや否や、アクセルを踏み込んだ。予期せぬ強烈な加速に、後部座席の冬真と悠斗は思わず体が背もたれに押しつけられた。マイバッハは猛スピードで駆け抜けていく。冬真は慌てて悠斗のシートベルトを締め直した。何度か注意しようとしたが、マイバッハの激しいドリフトに言葉を遮られる。
楓は満足げな気持ちに浸っていたが、悠斗を放した途端、パーカーについた染みに気付いた。「あれ?水でも飲んだの?」悠斗は首を振った。「さっき吐いちゃった」「……」楓の表情が見る見る変わっていく。慌ててウェットティッシュでパーカーを拭いたが、かえって染みが広がってしまった。歯を噛みしめながら、楓は気付かれないよう悠斗を軽く押しやった。「悠斗くん、座って」思わず息を止めた楓は、自分のパーカーから漂う吐瀉物の臭いに顔をしかめた。藤宮盛樹は楓の隣に座り、悠斗が娘に懐いている様子を満足気に眺めていた。長女の離婚騒動についても、さほど気に病んではいなかった。結局のところ、どちらかの娘が悠斗と冬真の心を掴んでいれば、藤宮家は橘家との繋がりを保てるのだから。瑛優は楓と祖父母の姿を見るなり、その場に立ち尽くし、幼い顔に緊張の色が浮かんだ。「橘博士は……」夕月が尋ねかけると、「叔父は急用で」冬真が素っ気なく言い切った。「お会いできないなら、これで失礼します」夕月は瑛優の手を引き、踵を返した。冬真はその場に立ったまま、引き止める素振りすら見せない。どうせ本当に帰りはしない。わざわざ車を運転してまで父子をここまで送り届けたのは、和解したいからに決まっている——そう高を括っていた。「もう!いつまでこんなことするの!」楓の隣に座った悠斗が、両手を腰に当て、唇を尖らせた。夕月の足が止まる。「僕とパパを連れて来てくれたのに、一緒に食事もしないの?それとも、僕たちに頭を下げて謝ってほしいの?」どこでそんな言葉を覚えたのか。夕月は悠斗の言葉に眉を寄せた。「夕月姉さん、私がいるのが嫌なの?それとも両親?」楓が口を挟む。そして冬真の方を向き、「きっと私がいるから食欲なくしちゃったんでしょ。じゃあ、私が帰りま〜す」楓が軽やかに立ち上がると、悠斗が慌てて彼女の手を掴んだ。「楓兄貴、行かないで!出て行くべきなのは、気分悪くする人の方だよ!」盛樹は眉間に深い皺を刻み、家長らしい威厳を漂わせながら声を荒げた。「夕月!家族なのに、私たちを見るなり逃げ出すとは何事だ!」夕月はゆっくりと振り返り、凍てつく水面のような冷たい眼差しを楓に向けた。「よく分かってるじゃない」楓は喉元に何かが詰まったように、言葉を失った。
凌一が来ることを考え、夕月は瑛優を連れて楓と両親の向かい側に座った。盛樹が心音にナプキンを掛けてやると、彼女は幼子のように甘え始めた。「お食事しましょ〜、もうお腹ぺこぺこ」盛樹は冬真の方をちらりと見て、心音をなだめた。「でも、橘博士がまだ……」「うぅ〜ん」心音は不満げに唇を尖らせ、こぶしを目元に持っていって、存在しない涙を拭うしぐさをした。夕月は深いため息をつく。何度見ても、母のこの態度には頭が痛くなる。給仕が部屋に入ってきて告げた。「先ほど橘様からお電話がございまして、少々遅れるとのことです。皆様、どうぞお待ちにならずにお召し上がりください」「では、料理を」冬真が給仕に手を上げた。瑛優は悠斗の前に子供用食器が置かれているのを見た。そして心音の前にも同じものが。自分の前には普通の食器——きっと、おばあちゃんが自分の分を取ってしまったのだろう。瑛優は小さなため息をつく。まあいい、子供用じゃお腹いっぱいにはならないし。給仕が次々と料理を運んでくる。子供たちの前にはチキンカツとサーモンフライが置かれた。楓はナイフを手に取り、悠斗の分を一口サイズに切り分け始めた。「盛樹さん、私のも切って〜」心音が甘えた声を出す。「しょうがないなぁ」盛樹は優しく微笑みながら、妻のチキンカツを小さく切り分けていく。「楓兄貴すごいなぁ」悠斗は口いっぱいに頬張りながら感心する。「こんなに小さく切ってくれる人、今までいなかったよ」「忘れちゃったの?」瑛優がカツを噛みながら言う。「ママだっていつも私たちのを小さく切ってくれてたじゃない」「楓兄貴が切ったの一番おいしいもん!!」悠斗は声を張り上げた。楓はジュースの入ったグラスを掲げ、場を和ませようと声を上げた。「夕月姉さんのALI数学コンテスト金賞受賞、おめでとう!すごいよね、今や全国で話題になってるじゃない」「テレビのインタビューで両親への感謝の言葉も一つもなかったようだが」盛樹は再び父親然とした態度を見せた。夕月は皮肉めいた笑みを浮かべた。「メディアの前で、私と瑛優を家から追い出してくれたことへの感謝でもするべきだったかしら?」盛樹は心臓が止まりそうになり、慌てて冬真の表情を窺った。冬真は眉をひそめた。夕月が盛樹から受けた仕打ちを持ち出すとは——自分に助けを求
冬真は眉をひそめた。ドレスは秘書に任せきりだった。確かに夕月のサイズで注文したと聞いたが、いつの時期のものか、詳しくは尋ねていなかった。そもそも夕月は、妻という肩書きを持った置物のようなものだった。もう長いこと夫婦の営みもない。彼女の身体に何の興味も抱いていなかった。太っても痩せても、どうでもよかったのだ。「サイズが合わなければ、納得いくまで直させる」冬真は、これだけ夕月に譲歩しているのだと思っていた。夕月はドレスの上に置かれた書類を手に取った。「技術部への採用?」「総務秘書室だ。私の秘書として」夕月は一瞬固まった後、思わず噴き出した。「七年間はタダで家政婦を務めさせて、今度は給料払って続けろって?」男の眉間に深い皺が刻まれる。「桜都一の高給取りになれるんだぞ」「一言で答えましょうか」夕月が笑みを浮かべる。「『承知』か『増額』か?」「くたばれ」冬真は凍りついた。死水のように澱んでいた胸の内が、一気に掻き乱された。「学歴は学士止まりだろう」冷ややかな声音で牽制する。「コンテストで賞を取っただけだ。大会と実際のプロジェクトマネジメントは、まったく別物だ」株主たちはCTOのポジションを夕月に与えようとしている。だが、七年連れ添った妻の実力なら、よく分かっているつもりだ。20歳で主婦になった女に、橘グループの最高技術責任者が務まるはずがない。「夕月姉さん、どうして冬真にそんな酷い言葉を!」楓が声を荒げた。「事実を言っただけよ」夕月は薄く笑い、箱を冬真の前に投げ出した。「大事にしまっておいて。恥を晒すだけだから」心音は夕月が箱を拒否するのを見るや否や、中からドレスを取り出した。「ねぇ盛樹さん」嬉しそうに微笑みながら隣の夫に向かって言う。「これ、私が着たら夕月より素敵でしょ?」盛樹は冬真から目を離すことなく、適当に応じた。「ああ、そうだな」冬真は冷ややかな目で夕月を見下ろした。「橘グループのオファーを断って、まともな職が見つかると思っているのか」夕月は優雅な仕草でトリュフのマッシュルームスープを啜った。「そもそも入社する気なんてありませんでしたから」冬真は失笑した。まさか本気で橘グループへの入社を考えていないはずがない。それが彼女にとって最良の選択肢なのは明らかだ。「子供じみた意地を張るのはやめろ。今は真剣な話をしている。
かつての端正な顔立ちが、深く寄せた眉に歪められ、冬真の表情は一層陰鬱さを帯びていた。「メイドに作らせるぞ」息子のご機嫌取りにも限度がある。悠斗の夕月に対する態度が一変したというのに、なぜ自分が振り回されなければならないのか。こんな些細なことに時間を費やすつもりは毛頭なかった。「ママが作ったお粥がいい!うぅ……っ!」悠斗は頑なに叫んだ。受話器越しに聞こえる息子の泣き声が、幾千もの針となって鼓膜を突き刺すように感じられた。「じゃあ、あいつの手を切り落として粥でも作らせようか?」癇癪まじりに放った言葉に、悠斗は血の気を失った。「パパ、そんなこと言わないで!ママが……」「もう二度と『ママ』なんて言葉を聞かせるな!」冷酷に電話を切った男の胸が激しく上下し、呼吸のたびに心臓が痛んだ。怒りの炎に血が煮えたぎり、携帯を握る手の筋が蛇のように這い、今にも皮膚を突き破りそうだった。まだ信じたくなかった。夕月との結婚生活が、これほど形だけのものだったとは。きっと偶然の重なりに過ぎないはずだ。では、スコッチエッグは?あの手の込んだスコッチエッグは、確かにいつも夕月が手作りしてくれていたはずだ。冬真は今年のキッチン映像を検索し、夕月が自分と子供たちのためにスコッチエッグを作る場面を見つけ出した。映像には、スコッチエッグの工程を一つ一つ丁寧にこなす夕月の姿が映っていた。冬真は椅子の背もたれに身を預け、全身の力を抜いた。唇の端がほっとした様子で緩む。だが突然、モニターに身を乗り出した。映像の中の夕月は、どうやらスコッチエッグを二つしか作っていないように見える。自分と悠斗、瑛優の分なら、三つ作るはずだ。すると夕月は調理の終盤で、冷凍庫から小箱を取り出した。包装を破ると、中から既に揚げられたスコッチエッグが姿を現す。それをエアフライヤーに入れる。程なくして、三つのスコッチエッグが揃った。付け合わせの多い一つ――自分の分は、冷凍庫から出して温め直したものだと気付いた冬真は、その場で凍りついた。まさか……!スコッチエッグまで既製品があるというのか?!いや、だとしても夕月が前もって作ったものなのでは?映像に映った包装を手がかりに、通販サイトで検索してみる。某店の冷凍食品の包装が、夕月が手
冬真の表情が険しくなった。凌一は冬真の内心を見透かしたように続けた。「星来は君と同世代の従弟だ。従弟に一言謝ることも、橘社長には出来ないのかな?」確かに星来は従弟の立場にあたる。だが、悠斗と同い年だ。それに、星来は凌一の養子に過ぎない。橘家での地位は悠斗より下なのだ。大人の自分が星来に謝るなど、冬真にはとても出来そうになかった。「二度は言わんぞ」凌一の声が冷たく響いた。大奥様が出てきて口を挟んだ。「凌一、何を言い出すの?こんな時に冬真に謝らせるなんて。子供の寿命が縮むって言うでしょう?」最後の言葉は不適切だと自覚したのか、大奥様は声を潜めた。俗世を超越した凌一なら、この失言も大目に見てくれるだろう――そう考えたのだろう。「冬真、手を出しなさい。手のひらを上に向けて」凌一の声は微動だにせず、長老のような重みを帯びていた。冬真は不吉な予感に襲われた。だが、抗いがたい力に突き動かされるように、否応なく手を差し出していた。凌一はアシスタントに目配せをすると、アシスタントは躊躇なく定規を取り出し、冬真の掌を打ち下ろした!「パシッ!」という空気を裂くような音に、大奥様は身を震わせ、病室で泣き叫んでいた悠斗の声も一瞬途切れた。冬真の掌は一瞬真っ白になり、すぐさま血が集まって目に見えるほどの腫れが浮き上がった。定規が冬真の手を打つ音は、大奥様の心臓を直撃した。老婦人は肝を冷やし、唇を震わせた。「あ、あの……これは……」大奥様は言葉を失い、凌一の仕打ちが自分への警告だと悟った。車椅子に端然と座る凌一の背筋は、松のように真っ直ぐに伸びていた。「先日、悠斗くんが星来に無礼を働いた時も罰を与えた。今度は義姉上が不適切な発言をしたから、お前が受けるのだ」さらに凌一は大奥様に向かって言い放った。「義姉上、次にそのような言葉を口にされたら、今度は冬真の口を叩くことになりますよ」大奥様は息さえ満足に出来なくなっていた。冬真の額には薄い汗が浮かんでいた。掌の痛みは蔦のように這い上がり、皮膚を突き破りそうだった。幾度も我慢を重ねた末、冬真は表情を引き締めて凌一に告げた。「母と悠斗、きちんと諭しておきます。ご心配なく」*一時間後、冬真は橘邸に駆け込んでいた。夕月が暮らしていた部屋に突入し、彼女が使って
凌一は無言のまま、深い淵のような冷たい眼差しで冬真を見つめていた。冬真の視線は、凌一の両脚へと落ちた。七年前、深遠がM国から制裁を受け、国家安全リストに載せられた時から、凌一が桜国を離れ、M国との犯罪人引渡条約を結んでいる国に足を踏み入れれば、M国当局に拘束される可能性があった。しかし、桜国の多くの学者にとって、このような制裁はむしろ名誉の勲章のようなものだった。桐嶋幸雄も五年前にM国の入国制限リストに載せられ、M国同盟国のいかなる研究機関への訪問も禁じられた。つまり、世界トップ10の大学は、幸雄や凌一との共同研究を一切禁止されたのだ。とはいえ、桜国で生活する限り、これらの一流学者たちの日常は何ら支障を来すことはなかった。だが、不運は凌一を見舞った。あの交通事故は、明らかに命を狙ったものだった。幸いにも一命は取り留めたものの、凌一は両脚を失うことになった。それ以来、橘家は凌一を遠ざけるようになり、凌一自身も橘グループや一族の誰をも巻き込むまいと、意図的に距離を置くようになった。冬真の認識では、凌一は数多の受験生の中から夕月を選抜し、飛び級クラスに推薦した以外、彼女との関わりは皆無に等しかった。数少ない接点といえば、家族の集まりで顔を合わせた程度。そんな場でも、夕月は凌一に会釈する以外、特段の交流も見受けられなかった。そのため、冬真は長い間、凌一と夕月の関係など、ただの他人同然だと思い込んでいた。だが今、凌一の一言が彼の心臓を鷲掴みにしていた。「その『もっと大きな目的』とやらは、一体なんです?」凌一の澄み切った瞳には、すべてを見通すような光が宿っていた。冬真の動揺と焦燥を見抜いているかのように。これまで信じてきた「夕月は自分を深く愛していた」という確信が、凌一のたった一言で、もろくも崩れ去ろうとしていた。「彼女の任務は既に終わった。橘家の令夫人という立場があれば、普通の生活を送ることができる。橘家の庇護はここまでだ。これからは私が引き受ける。だが、感謝の言葉などかけはしない。君は彼女を娶りながら、まともな夫婦生活すら与えられなかった。橘グループの社長が、家庭という小さな組織すら経営できないとはな。冬真、君は実に無能だ」まるで法廷で判決を言い渡すかのような凌一の言葉は、鋭利な斧となって冬真の
病室の方に目を向けると、医師たちがベッドの周りで慌ただしく動き回っていた。悠斗の容態は……かなり深刻なようだな。「悠斗くんに何があったんだ?」「あの非情な母親が、こんな目に遭わせたんです!」その言葉が終わらぬうち、凌一の鋭い眼光が刃物のように冬真の顔を切り裂いた。頬に寒風が爆ぜたような痛みを覚える。冬真は問いかけた。「叔父上、なぜそんな目で私を見るのです?」自分の言葉が何か間違っていたというのか。「悠斗は夕月に会いに行って和解を求めたんです。母親に一目会いたい、抱きしめてほしいと懇願したのに、夕月は外に放り出して、雨に濡れるのも構わないと見捨てたんです!今、悠斗がこんな状態になっているのに、母親として一片の責任も感じないというのですか?」凌一の類い稀なる端麗な顔には、表情の微かな変化すら見られなかった。「夕月を非難するのに、私を引き込もうというのかね」冬真は真っ直ぐに叔父の瞳を見据えた。「叔父上、あなたも橘家の人間でしょう。よその肩を持つのはいい加減にしていただきたい」底知れぬ深さを湛えた瞳で、凌一は感情を押し殺したように冬真を見つめた。「私は確かに橘家の人間だ。当然、橘家の味方をする……ただし、橘家の者が度を超えた振る舞いをした場合は別だがね」冬真は不快感を露わにし、刺のある声を発した。「夕月は既に私と離婚したんです。叔父上は一体どういう立場で彼女を擁護なさるんですか?」凌一の夕月への関心は、明らかに度を越えていた。それはもう、教師が教え子を気遣う程度を遥かに超えている。そもそも、凌一は夕月の正式な指導教官ですらなかったのだ。「夕月が君と結婚した本当の理由を、君は知っているのかね?」冬真は一瞬固まり、頭の中で耳鳴りのような音が鳴り響いた。「私との結婚に、他に理由があるとでも?彼女は私に惹かれて、私の立場に目をつけて……」「確かに、彼女は君の立場に目をつけた」凌一の底知れぬ瞳には、数え切れないほどの意味が潜んでいた。そんな眼差しに見つめられ、冬真の胸の奥で心臓が大きく波打った。「私は橘グループのトップです。彼女の目的なんて最初から不純でした」「その通りだ」凌一は認めた。「彼女が橘家で七年を過ごしたのは、もっと大きな目的があってのことだ」冬真の息が一瞬止まり、瞳孔が
病院に戻った頃には、悠斗の声は枯れ果てていた。もう声も出ない。小さな顔は苦痛に歪んでいた。激しい感情の起伏に、雨に濡れ、転倒したことで体の炎症が再発し、悠斗の頬は真っ赤に染まり、全身が震え始めた。様子の異変に気付いた冬真は、すぐに医師を呼んだ。数人の医師がベッドを囲み、緊急治療を開始する。大奥様が駆けつけ、医師たちに囲まれたベッドを目にして、胸に手を当てながら声を上げた。「悠斗くんに何があったの?佐藤さんはどこへ連れて行ったの?」「夕月に会いに行ったんだ」冬真は苛立ちを隠せない声で答えた。「あの薄情な女に会いに行っただけで、どうしてこんなことに?」大奥様は動揺を隠せない。「夕月が悠斗に何かしたの?」「あの女は悠斗を許そうとせず、雨の中に放置した」冬真の声は氷のように冷たかった。「なんてことを!」大奥様は気を失いそうになった。「すぐにマスコミを集めましょう。あの女が母親失格だということを大々的に報道させます。有名人になったからって、調子に乗らせません。名声は諸刃の剣。持ち上げられた分だけ、惨めに落ちていくのを見せてやります!」「好きにしろ」冬真は病室の方を向き、疲れ切った表情を見せた。夕月という名前は、心臓に刺さった棘のよう。完全に埋まり込んで、血管の中を這い回っている。彼女のことを考えるだけで、全身が痛みを覚えた。息子の同意を得られたと思った大奥様は、急に表情を明るくした。「今日の青司家のお嬢様とのお見合いは、どうでした?」突然の質問に、冬真は幻聴かと疑った。「母さん、医師団が必死に治療している最中ですよ」たった今まで悠斗の容態を案じていた大奥様が、一転して息子の結婚話を持ち出すとは。「治療は医師に任せて、新しいママを探すことだってできるでしょう!」大奥様は続けた。「早く新しいママを見つけて、悠斗の面倒を見てもらわないと。青司家のお嬢様なら医大出身で、漢方もお得意よ。少し年上だけど、私の体調が悪い時も診てもらえるわ」冬真に近づき、声を潜めて耳打ちする。「悠斗の体はもう完治は難しいかもしれない。健康な子供を早く作らないと……」冬真の眼差しが氷のように冷たく、嫌悪を露わにする。「母さん!もういい加減にして!悠斗の回復を願ってないんですか?」「そんなことないわ!」冬真の反応
濡れた白い薄手の服が身体にへばりつき、しなやかな曲線を浮き彫りにしている。佐藤さんの口が大きく開いて、固まってしまった。「奥……奥様?どうなさったんですか?」佐藤さんは心音が何かに取り憑かれたのではないかと疑った。「分からないの?」心音は音楽を流しながら、スマホのカメラに向かって艶めかしく体を揺らす。「盛樹さんへの仕返しよ!」佐藤さんはその画面に気付いた。心音がライブ配信を始めているのだ。「これのどこが仕返しなんです?」佐藤さんは驚きのあまり声が裏返った。心音は腰をくねらせ、胸を突き出す。「盛樹さんが私を愛してくれないなら、私の体を他の男たちに見せてやるの!」佐藤さんは絶句した。藤宮家で大切な鳥籠の中で育てられた奥様は、どうやら普通ではないらしい。「おばあちゃん、まるでおとぎ話の登場人物みたい」悠斗が小さく呟いた。佐藤さんは悠斗を抱えたまま、心音から遠く離れて歩く。「坊ちゃま、こんな大雨です。車まで抱っこしていきましょう」「いやだ!下ろして!」車椅子に座らせようとした瞬間、悠斗は前のめりになり、再び転げ落ちた。「坊ちゃまっ!!」佐藤さんの悲鳴が響く。地面に這いつくばったまま動けない悠斗に手を伸ばすと、「触らないで!」と叫ぶ。「坊ちゃま、地面は冷たいですよ!」氷の粒のような雨が悠斗の顔を打ち付け、凍えた頬はもう感覚がない。「触らないでっ!絶対に触らないで!」心音の行動にヒントを得た悠斗は、このまま地面に這いつくばっていれば、きっとママは見捨てられないはずだと信じていた。心音と悠斗を追い払おうとしていた警備員の目の前に広がる光景は——地面に這いつくばって泣き叫ぶ男の子。土砂降りの中、艶めかしく踊り続ける女。正気を失った祖孫に、もはや声をかける勇気も失せていた。十六階で、夕月はカーテンを開け、下の光景を見るなり、すぐに閉めた。五歳の子供が駄々をこねるのはまだ理解できる。でも心音の行動は理解の域を超えていた。夕月は、この夫婦のことを思い出して鼻で笑った。人でなしの男と、頭の弱い女。夕月は心の中で呟いた。「ほんと、救いようのないバカップルね」携帯が鳴る。見知らぬ番号に、夕月は何か強い予感がした。受話器を耳に当てながら応答ボタンを押す。「もしも
「坊ちゃま!」佐藤さんの悲鳴が響く。「うっ、うっ…ママァ!!」悠斗は両手をついて、夕月の方へ這い寄ろうとした。「ママ、見て!一目だけでいいから!!」涙が溢れ出し、真っ赤な頬を伝う。体中の痛みも忘れ、全身の力を振り絞って前に進もうとする。小雨が降り出し、佐藤さんは慌てて悠斗を抱き上げた。夕月と瑛優がエレベーターを待っている前に、佐藤さんは悠斗を抱えて小走りで追いついた。扉が開き、母娘が中に入る。「ママァッ!!」悠斗は魂を削るような声で叫び、細い腕を精一杯伸ばしたが、エレベーターの扉は容赦なく閉まっていく。小さな拳で扉を叩き、その悲痛な叫びが階段室中に木霊する。「ママ!もう二度と怒らせたりしない!戻ってきて!お願い!戻ってきてよ!!」上昇するエレベーターの中で、夕月は顔を上げた。天井の光が瞳に落ち、その黒く澄んだ瞳に涙が滲んでいた。悠斗に捨てられた料理なら、また作ればいい。破り捨てられたテストや教材なら、また書けばいい。でも、一度捨てられた愛は、取り戻すことはできない。ゴミ箱から拾い集めた砕けた欠片を、いくら繋ぎ合わせても、その傷跡は消えない。これが母親として、子供に教える最後の授業。理不尽な傷つけ方をされても、母親は勇気を出して、加害者となった我が子から離れることができる!*「ママ……」瑛優が小さく呟いた。母の心の痛みが伝わってきた。慰めの言葉を探したけれど、どんな言葉を選んでも、母の心を癒すことはできないと気づいた。夕月の下唇には深い歯形が刻まれていた。顔を下げ、瑛優に「大丈夫」と微笑みかけようとする。でも表情を作ろうとした瞬間、熱い涙が止めどなく零れ落ちた。瑛優の胸が締め付けられ、鼻の奥がつんとした。「ママ、悠斗くんを産んだこと、後悔してる?」夕月は首を振り、しゃがみ込んだ。瑛優が小さな手を伸ばし、母の頬の涙を拭う。「瑛優」夕月は言った。「私はあなたたちに最高のものを与えたかった。橘家はあなたと悠斗に同じ待遇は与えてくれない。だから私は精一杯あなたを支えて、世界中の素晴らしいものを経験させて、自分の目標を見つけ、なりたい自分になれるようにしてあげたい。でも橘家は悠斗には最高のものを与えてくれる。橘家の跡取り息子である限り、誰も及ばないような恵まれた環境が
傍らで見ていた心音も口を挟んだ。「夕月ちゃん、悠斗くんを許してあげて!母親なら子供を許すのが当たり前でしょう!」「ママを許してもらうには、どうすればいいの?」悠斗は声を震わせた。「僕のカードを使っていいよ!」普段から楓が一番欲しがっていたものだから、ブラックカードこそが最も価値があり、誰もが欲しがるものだと思い込んでいた。夕月は深いため息をつきながら言った。「悠斗、許すということは、今回だけじゃないの。もし今日、私があなたを許したとして、これからの毎日、私が料理をして、お粥を作る度に、あなたを許さなければならない。これから楓の名前を聞くたびに、また許さなければならない。あなたのお父さんを見るたび、あの時橘家であなたが私に投げかけた言葉や行動を思い出して、自分の傷と向き合い、何度も何度も寛容な心であなたを許さなければならないの」悠斗の瞳に涙が光っているのが見えた。今、本当に苦しんでいて、もう泣き出しそうだった。「これからは、もうバイクに乗らない?」夕月は尋ねた。「もう絶対乗らない」悠斗は泣きながら答えた。「そうね」夕月は淡々とした声で返した。「私もう怖くて乗れない。一度蛇に噛まれたら十年は縄を怖がる。あなたは体を噛まれ、私は心を噛まれた」「違う!」悠斗は首を振り、大粒の涙を零した。「僕は蛇じゃない、ママの息子だよ……」「……私とパパの結婚生活から、もっと早く抜け出すべきだったの。でも、あなたたちのことが諦めきれなかった。だって離婚したら、二人とも連れて行くことはできないでしょう。どちらも私の大切な子供なのに、どうやって片方だけを選べるの?結局、あなたが私の背中を押してくれたのね。この息苦しい結婚から解放されるように」離婚という選択肢は、ずっと夕月の心の中で渦を巻いていた。準備は万全だった。橘グループの事業形態や流動資金を把握し、離婚を決意した瞬間に離婚協議書と婚姻費用分与案を冬真の前に突きつけられるように。子供を産んでからは、母性本能に突き動かされ続けてきた。子供の泣き声を聞けば胸が痛み、体が自然と授乳へ、あやしへと向かっていく。昼も夜も子供たちのことが頭から離れず、布団が蹴られていないか、お腹は張っていないか、風邪は引いていないか、そればかりを考えていた。五年の間、二人の子供たちが言葉を
夕月の瞳が潤んできた。深く息を吸い込み、瑛優の手を握りしめたまま、断固として先に進もうとした。「ママ!パパと離婚しても、僕はママと一緒に暮らせるでしょう!どうして僕を見捨てるの?!」悠斗の声が焦りに震えていた。夕月の足が急に止まった。まるで見えない鉄線が足首に絡みつき、肉を抉るような痛みを感じた。何度も深呼吸をしたが、その度に心臓と肺が引き裂かれるようだった。空気が喉を通る度に、まるで棘だらけの細い道を無理やり通っているかのように苦しかった。「橘悠斗、忘れたの?私を見捨てたのは、あなたよ」悠斗の小さな体が震えた。これまで夕月に投げかけた言葉の数々が、一気に脳裏に押し寄せ、視界が霞んでいく。『ママの作るご飯なんて豚の餌だよ!』『あれもダメ、これもダメって、ママって完全な支配狂じゃん!』『意地悪なママ!面倒くさいママ!』『ママなんて毎日家にいるだけで、何もしてないくせに!パパと離婚したいなら出てけよ!出てけ!!』勝ち誇ったように、夕月の傷つく表情を楽しみながら、好き放題に言い放っていた。夕月の瞳が赤く潤み、涙を流すのを見て、跳ねるように楓に電話をかけに行った。物心ついてから、どれだけ夕月を傷つけてきただろう。今、ママに戻ってきて欲しいと願っても、もう手遅れなのか。「坊ちゃまはまだ五歳なんです!」佐藤さんは必死に説得を試みた。「子供は母親の良さが分からないものです。楓さまに影響されていただけなんです。今は本当に後悔してるんですよ!」「藤宮さま」佐藤さんは続けた。「親子の仲に夜を越える恨みなんてありませんわ。坊ちゃまと仲直りなさい……こんな大怪我を負って、お心が痛まないんですか?坊ちゃまがお側に戻れば、きっと良くなります。どんな優秀な看護チームだって、実の母親の手には敵いません。母親だけが分かるんです。子供が口を開かなくても、ちょっとした眉間のしわや目の色で、どこが痛いのか分かるんです。坊ちゃまの体に後遺症が残るのを、見過ごせますか?」佐藤さんの言葉を遮るように、夕月は冷たく言い返した。「そんな感情論で私を縛らないで。橘家は最高の医療リハビリチームを雇っているし、佐藤さんだって保育士と栄養士の資格を持つプロでしょう。もしお気に召さないなら、代わりはいくらでもいますよ」「ママ、僕のこと、まだ愛して