로그인マンションへ戻ると、リビングには雄吾がいた。
「おかえり」
「ただいま帰りました」
佳苗が靴を脱いでいると、雄吾がこちらを見る。
「絢子とは楽しかったか?」
「はい」
佳苗は笑顔で頷いた。
「いろいろなお話を聞かせてもらいました」
「そうか」
「雄吾さんの子供の頃のお話も」
雄吾がわずかに眉を上げる。
「何を聞いた?」
「小学生の頃、一条さんとテストの点数を競っていたとか」
「……そんなことまで話したのか」
「ふふ。負けず嫌いだったんですね」
「絢子も同じだった」
「そうなんですか?」
「あいつも負けると次のテストまでずっと覚えていたからな」
雄吾が懐かしそうに話す。
佳苗は笑って聞いていた。
けれど。
また胸の奥に、あのもやが広がる。
<「ねえ、榊原さん。あの人、どうしてそんなことまで知ってるの?」 佐藤の問いに、佳苗はすぐには答えられなかった。 直哉が自分の過去について何か知っているらしいことは、昨日のメッセージからも感じていた。 けれど、以前の結婚生活まで持ち出してくるとは思わなかった。「……何なんでしょうね、その人」「ほんと、変な電話だったよ。いきなり人の家庭の話をされても困るよね」 佐藤はそう言って肩をすくめた。「仕事に戻ろっか」「はい」 佳苗もパソコンに向き直った。 佐藤に悪気はないのだろう。突然かかってきた電話の内容を、不審に思っているだけだ。 それでも、胸の奥が落ち着かなかった。 直哉は、どうしてそこまで知っているのだろう。 以前、絢子が悟に接触していたことを思い出す。 絢子から聞いたのか、それとも直哉自身が悟に接触したのか。 どちらにしても、気味が悪かった。 昼休みになり、佳苗は給湯室へ向かった。 中から、佐藤と田中の話し声が聞こえてくる。「昨日さ、ほんと変な電話があったんだよ」「ああ、言ってたね。榊原さんのことでしょ?」「そうそう。なんか、奥さんを連れ出したとか、家庭を壊したとか。こっちは仕事中なのにさ」「何それ。痴話喧嘩?」「知らないよ。しかも、前の旦那さんとも揉めてたとか言い出して」 佳苗は足を止めた。「えっ、榊原さんって再婚なの?」「らしいよ。私も知らなかった」「そうなんだ。全然そんな話しないもんね」「まあ、普通は会社でわざわざ言わないでしょ」 二人は笑いながら、別の話題に移った。 佳苗はそのまま給湯室に入ることができず、廊下を引き返した。 佐藤たちが悪口を言っていたわけではない。 むしろ、迷惑な電話だったと話していただけだ。 それなのに、
「私宛て、ですか?」 佳苗は高瀬の差し出した封筒を見つめた。 宛名は確かに自分の名前だった。けれど、差出人の記載はない。「総務から回ってきたんだ。心当たりはある?」「……いえ」 佳苗は封筒を受け取った。 見覚えがあるように感じた筆跡も、よく見ると誰のものなのか分からなかった。「最近の件もあるから、念のため僕のところに持ってきたらしい」「そうだったんですね」「開けるなら、ここで確認する?」「はい。お願いします」 佳苗は封を切り、中に入っていた紙を取り出した。 便箋ではなく、パソコンで印刷された一枚の紙だった。『榊原佳苗様 あなたは久世絢子さんの家庭に介入し、ご主人から奥様を引き離しました。 他人の夫婦関係に口を出すことが、どれほど無責任な行為か理解していますか。 あなたがしていることを、ご主人や勤務先の方々は本当にご存じなのでしょうか』 そこまで読んで、佳苗はため息をついた。「……久世さんだと思います」「例の電話の男性?」「はい。書いてある内容が、電話でおっしゃっていたことと同じなので」 高瀬も紙に目を通し、眉をひそめた。「これは、会社に送ってくるようなものじゃないね」「すみません。何度も……」「朝倉さんが謝ることじゃないよ。むしろ、ここまでされるなら記録を残しておいたほうがいい」 高瀬は封筒を指さした。「それも捨てずに持っておいて。こちらでも、届いた日時は控えておくから」「ありがとうございます」 佳苗は紙を折り直そうとして、ふと手を止めた。 文章の最後に、もう一行あったのだ。『なお、あなたの周囲には、あなたの行動を快く思っていない方がいることもお忘れなく』 昨日のメッセージと、ほとんど同じ内容だった。 佳苗は紙を封筒に戻した。 直哉は、職場の誰かが自分に不満を持っていると思わせたいらしい。 けれど、それが事実かどうかは分からない。「課長、もしまた何か届いたら、教えていただけますか?」「もちろん。ただ、仕事中はあまり気にしないようにね」「はい」 佳苗は席に戻った。 佐藤がいつものように書類を渡してくれる。「榊原さん、これ、確認お願いしてもいい?」「はい。午後までで大丈夫ですか?」「うん、助かる!」 何も変わらない会話だった。 それなのに、佳苗は一瞬、佐藤の顔をじっと見てしまった。
『その方が何を教えてくださったか、知りたくありませんか?』 佳苗はメッセージを見つめたまま、しばらく動けなかった。 職場に、自分を快く思っていない人がいる。 そんなことを言われれば、誰だって気になるだろう。 けれど、直哉が親切心で教えてくれるはずがない。 佳苗は画面を保存すると、雄吾に転送した。『久世さんからこんな連絡が来たの。返事はしてないよ』 雄吾からは、すぐに返信があった。『そのまま無視していい。今、帰宅途中か?』『うん。駅に向かってるところ』『気をつけて帰れ。俺も今日は早めに戻る』 佳苗はスマートフォンをバッグにしまった。 それでも、直哉の言葉が頭から離れない。 誰かが自分のことを話したというのは、本当なのだろうか。 佐藤は電話の内容を教えてくれた。高瀬も事情を理解してくれている。 ほかの同僚たちとも、これまで大きな問題はなかったはずだ。 だが、直哉はわざわざ「快く思っていない人がいる」と言った。 もしかしたら、何か具体的な話を聞き出したのかもしれない。「……だめだ」 佳苗は小さく呟いた。 こんなふうに疑い始めたら、きりがない。 誰が何を言ったのか分からないまま、周囲の人を疑うことこそ、直哉の思うつぼではないだろうか。 帰宅すると、佳苗は夕食の支度を始めた。 いつもどおりに過ごそうと思ったが、包丁を動かしていても、つい職場のことを考えてしまう。 やがて雄吾が帰ってきた。「ただいま」「おかえりなさい」 雄吾は上着を脱ぐと、佳苗の顔を見た。「久世からの連絡、見た」「うん。なんだか嫌な感じだよね」「ああ。相手にする必要はない」「でも、本当に誰かが私のことを話したのかな」「それは分からない。あいつが嘘をついている可能性もある」
「……榊原さんって、久世さんという方の奥様と、何かあったの?」 佳苗は一瞬、言葉に詰まった。 やはり、先ほどの電話は直哉からだったのだろうか。「どうして、そんなことを?」「ごめんなさい。変なことを聞いて」 同僚の佐藤は、気まずそうに視線を落とした。「さっき電話があってね。久世さんっていう男性からだったんだけど……」「その方、何とおっしゃっていました?」「榊原さんが奥様に近づいて、家庭を壊そうとしているって」「……えっ?」 予想していたとはいえ、あまりにもひどい言い方だった。「それから、奥様を無理やり連れ出して、ご主人に会わせないようにしているとも言ってた」「そんなこと、していません」 佳苗が答えると、佐藤は慌てて頷いた。「うん。私もおかしいと思ったの。だから、そんな話を会社にされても困りますって切ったんだけど」「そうだったんですね……」「でも、榊原さんの名前も知ってるし、何だか怖くなっちゃって」 佐藤は申し訳なさそうに続けた。「さっき田中さんに相談したのも、その電話のことなの。変な噂を広めるつもりじゃなかったんだけど……」「いえ。教えてくださってありがとうございます」 佳苗は小さく頭を下げた。 佐藤が悪いわけではない。 突然そんな電話を受ければ、誰だって戸惑うだろう。 それでも、佳苗は胸の奥が冷たくなるのを感じた。 直哉は、自分が電話を取らなくても構わないのだ。 佳苗の周囲にいる人間に、少しずつ疑いを植えつければいい。 そう考えているのかもしれなかった。「その方、また電話してくるかもしれません」 佳苗は佐藤に告げた。「実は、個人的な事情で一方的に責められていて……。高瀬課長には相談しています」「そうなの?」「はい。もしまた連絡があったら、課長に伝えていただけますか?」「もちろん。ごめんね、余計なこと聞いちゃって」「いいえ。気にしないでください」 佐藤が席に戻ったあと、佳苗はしばらく仕事に集中できなかった。 直哉は何をしたいのだろう。 絢子を連れ戻したいのなら、佳苗の職場に電話をかけたところで意味はない。 ただ、自分に逆らった人間を困らせたい。 そう考えると、結婚式での直哉の態度にも納得がいった。 あの人にとって、妻も、その周囲の人間も、自分の思い通りに動くべき存在なのだ。 退勤時間にな
「榊原佳苗さん、とね」 高瀬の言葉に、佳苗は思わず息を呑んだ。 直哉が自宅に押しかけてきたのは、つい数時間前のことだ。それなのに、もう勤務先にまで連絡してきたというのか。「……その方、お名前は名乗られましたか?」「久世と名乗っていたそうだ。心当たりはある?」「はい。知っている方です」 佳苗は膝の上で手を握った。 高瀬は椅子を勧めると、落ち着いた声で尋ねた。「差し支えなければ、事情を聞かせてもらえるかな」「実は、知人の女性がご主人との関係に悩んでいて……」 佳苗は、絢子から助けを求められ、彼女の母親に連絡したことを説明した。 ただし、絢子の私生活について必要以上に話すつもりはなかった。「そのご主人が、私が奥様をそそのかしたと思っているようなんです」「なるほど。それで会社に電話を?」「はい。今朝は自宅にも来られました」 高瀬は眉をひそめた。「それは困ったね」「申し訳ありません。私のことで会社にご迷惑をおかけして……」「いや、謝る必要はないよ」 高瀬は手元の紙を机に置いた。「今の説明を聞く限り、業務とは関係のない話だ。会社が責任を問われる筋合いもない」「……ありがとうございます」「また連絡が来るかもしれないから、総務にも事情を伝えておくよ。君の連絡先や勤務状況は、外部に教えないようにしておく」 佳苗は深く頭を下げた。 高瀬が事情を聞いてくれたことには安心した。 けれど、胸の奥には嫌なものが残っていた。 直哉は、佳苗が困ると分かっていて職場に電話したのだ。 しかも、自分ではなく会社に責任を問う形で。 これでは、佳苗の立場を悪くしようとしているとしか思えない。 席に戻った佳苗は、仕事を始める前に雄吾へ短い
「直哉さんが、こちらに……?」 佳苗は思わず玄関のほうを振り返った。『ええ。主人が止めたんですけれど、聞く耳を持ってくださらなくて』「分かりました。知らせてくださってありがとうございます」『本当に申し訳ありません。私たちのことで、佳苗さんまで巻き込んでしまって』「そんなことありません。絢子さんのこと、よろしくお願いします」 電話を切ると、佳苗はすぐに雄吾を呼んだ。 出勤前の雄吾は、寝室でネクタイを締めていた。「どうした?」「直哉さんが、うちに来るって」 事情を説明すると、雄吾はネクタイから手を離した。「今からか?」「うん。一条さんのお宅を出たところみたい」「分かった。今日は少し出社を遅らせる」「でも、お仕事は?」「連絡すれば済む。あいつを佳苗一人で相手にさせるつもりはない」 雄吾は会社に電話をかけ、出社が遅れることを伝えた。 佳苗も職場に連絡を入れた。 直哉が本当に来るかどうかは分からない。けれど、もし押しかけてきたら、落ち着いて出勤などできそうになかった。「雄吾、直哉さんは私が絢子さんをそそのかしたと思ってるみたい」「だろうな」「でも、離婚したいって言ったのは絢子さん自身なのに」「あいつには、それが認められないんだろう」 雄吾は腕時計を着けながら答えた。「自分の妻が、自分の意思で出ていったとは考えたくないんだ」 佳苗は眉を寄せた。 絢子を一人の人間として見ていれば、そんな発想にはならないはずだった。 それから三十分ほど経った頃、インターホンが鳴った。 モニターに映っていたのは、久世直哉だった。 上等なスーツを着て、いつもの人当たりのよさそうな笑みを浮かべている。『おはようございます。久世です』 佳苗の背筋に緊張が走った。 雄吾が
「俺は昔から、お前しか欲しくない」 低い声が耳元で響く。 佳苗は息を呑んだ。 車内の空気が熱い。 逃げ場がない。 雄吾の視線は真っ直ぐで、冗談の気配なんて微塵もなかった。「……先輩」 喉が震える。 理解が追いつかない。 昔から? ずっと? そんなはずない。 自分は特別な人間じゃない。 妹みたいに愛嬌があるわけでも、美人なわけでもない。 ただ都合よく利用されるだけの女だった。「信じられないか」 雄吾が静かに言う。 佳苗は答えられなかった。 すると雄吾は小さく息を吐き、身体を離す。「まあいい」「え……」「今すぐ答えを求める気はない」 その言葉に、佳苗は
もう二度と、お前をあいつらのところへ戻したりしない。 その言葉が、佳苗の胸に重く落ちる。「……どうして」 気づけば口にしていた。 雄吾が視線を向ける。「どうして、そこまでしてくれるんですか」 本当に分からなかった。 大学時代、少し関わりがあっただけ。 卒業後は一度も会っていない。 それなのに、この男は突然現れて、自分を助けると言う。 しかも、まるで最初から全部知っていたみたいに。「昔世話になった」 雄吾は短く答えた。「レポート、覚えてるか」 佳苗は目を瞬く。 大学二年の頃。 雄吾が長期入院していた時期があった。 単位が危ないと聞いて、佳苗は講義ノートをまと
「やっと捕まえた」 耳元で囁かれた低い声に、佳苗の心臓が大きく跳ねた。 捕まえた。 その言葉は、優しいのにどこか危険だった。「榊原、先輩……?」 佳苗が戸惑う中、雄吾は佳苗の手首を掴んだまま、ゆっくり顔を上げる。 その視線の先には、こちらへ歩いてくる悟がいた。「佳苗!」 苛立った声。 悟は佳苗を見るなり、露骨に顔をしかめた。「何やってんだよ」 だが次の瞬間、雄吾の姿に気づき、動きが止まる。「……誰?」 警戒した声音。 雄吾は答えない。 ただ静かに佳苗の前へ立った。 庇うように。 その背中の広さに、佳苗は息を呑む。「佳苗、こっち来い」 悟が手を伸ばす。
恵が帰ったあとも、佳苗はしばらく動けなかった。 心臓が嫌なほど脈打っている。 あの目。 一瞬だけ見せた、冷たい視線。 前世では最後まで気づかなかった。 恵はずっと、自分から奪うことを楽しんでいたのだ。「……っ」 佳苗は唇を噛み締める。 怖い。 けれど、それ以上に悔しかった。 どうして自分は、あんな人たちのために命まで懸けてしまったのだろう。 テーブルの上に置かれた結婚写真が目に入る。 幸せそうに笑う自分。 悟の腕に寄り添って、未来を信じ切っていた頃の自分。 ――滑稽。 佳苗は震える手で写真立てを伏せた。 もう戻れない。 戻りたくもない。 今度こそ終わらせ