LOGIN翌朝。 佳苗がリビングへ行くと、雄吾はコーヒーを飲みながらスマートフォンを見ていた。「おはよう」「おはよう」 昨夜のことを引きずっているのは、自分だけらしい。 雄吾はいつもと変わらない。「母さんから連絡来てる」「何て?」「昨日会った人から、昔の俺の写真を送ってほしいって言われたらしい」「どうして?」「知らない。孫が俺に似たらどうとか、まだ盛り上がってるんじゃないか」「ふふ」 佳苗は笑った。 やっぱり美佐子は楽しみにしている。 でも、それを嫌だとは思わなかった。 ただ、胸の奥が少しざわつくだけだ。 ◇ 会社へ行けば、いつもの仕事が待っていた。 午前中に請求書を処理し、午後からは契約書類の整理をする。 昼休みには、先日一緒に食事をした同僚から声を掛けられた。「榊原さん、今日どうする?」「外行こうかな」「じゃあ一緒に行こう」 会社の近くの定食屋へ入る。 今度は子供の話も出なかった。 仕事の愚痴を言って、期間限定のメニューをどちらが頼むか迷って。 佳苗はようやく、以前のような時間が戻ってきた気がした。「そういえば、来月の研修どうする?」「申し込むつもり」「私も。終わるの遅いんだよね」「でも内容は面白そうじゃない?」「そうなんだよねえ」 来月。 その次の月。 仕事の予定なら、何の抵抗もなく先のことを考えられる。 なのに子供のことだけは、考えようとすると身体が固くなる。 その違いが、自分でも不思議だった。 ◇ 帰宅途中、ドラッグストアへ寄った。 シャンプーを買うだけのつもりだった。 目的の商品を籠に入れ、レジへ向かおうとしたと
子供の話をしてから数日。 佳苗の気持ちは、ひとまず落ち着いていた。 今すぐ答えを出す必要はない。 そう思えるようになっただけでも、ずいぶん楽になった。 その週末、佳苗と雄吾は美佐子に誘われ、三人でホテルのレストランを訪れていた。「そうでしたの。職場の方も、少し落ち着いてきたのね」「はい。まだちょっと気まずい人はいますけど、仕事は普通にできてます」「それならよかった。せっかく佳苗さんが続けたいと思っているお仕事ですものね」 食事をしながら、最近の出来事を話す。 デザートが運ばれてきた頃、近くの席にいた年配の女性がこちらに気づいた。「あら、美佐子さん。お久しぶり」「まあ。ご無沙汰しています」 どうやら美佐子の知人らしい。 しばらく近況を話したあと、女性の視線が佳苗へ向いた。「こちらが雄吾さんのお嫁さん?」「ええ。佳苗さんです」「榊原佳苗です。初めまして」「まあ、おめでとうございます」「ありがとうございます」 女性は嬉しそうに笑った。「じゃあ、美佐子さんも次はお孫さんね」「あら、そうなのよ」 美佐子の顔がぱっと明るくなった。「まだ何も聞いていないんですけどね。いつか孫の顔を見られたらいいなと思っているの」「楽しみでしょう?」「もちろん。男の子でも女の子でも可愛いでしょうねえ」 佳苗は笑顔のまま、二人の会話を聞いていた。「雄吾さん、小さい頃は可愛かったものね」「今は?」「今も可愛いわよ。母親から見ればね」「いらない、その情報」 雄吾が嫌そうな顔をして、二人の女性が笑う。「佳苗さんに似た女の子も可愛いでしょうね」「まあ、それは絶対に可愛いと思うわ」「母さん、まだできてもないから」「想像するくらいいいでしょう?」「俺を巻き込むな」 いつもの親子のやり取りに、佳苗も思わず笑った。「男の子だったら、雄吾さんみたいになるのかしら」「それも楽しそうですね」「でしょう?」 美佐子はすっかり楽しそうだった。 そこへ知人が何気なく続ける。「会社のことを考えたら、跡継ぎも必要でしょうしね」「ああ、それもあるわね」 美佐子も深く考えずに頷いた。「まあ、今は男の子でなくてもいいのでしょうけど」「母さん」「何?」「話が早すぎる」「まだ何も決まってないのに、先のことばっかり言うなよ」「あら、ごめん
帰宅すると、雄吾はまだ帰っていなかった。 佳苗は着替えを済ませ、冷蔵庫から飲み物を取り出した。 いつもならテレビでもつけるところなのに、今日はその気になれない。 ソファに座ると、昼間の言葉がまた浮かんだ。『跡継ぎとか言われそう』 雄吾はそんなことを一度も言っていない。 結婚前に子供の話をしたときも、佳苗が怖いなら無理をする必要はないと言ってくれた。 それなのに、どうしてこんなに落ち着かないのだろう。「ただいま」 玄関から声がした。「おかえり」 佳苗が立ち上がると、リビングへ入ってきた雄吾がすぐに足を止めた。「どうした?」「何が?」「なんかあっただろ」「……そんなに分かりやすい?」「分かりやすい」 少し迷ってから、佳苗はソファへ座り直した。「今日、会社で子供のこと聞かれた」「子供?」「妊娠してるのかって。ちょっと疲れて見えたみたい」 雄吾の眉が寄る。「また会社で何か言われたのか?」「違う違う。今回はそんな感じじゃないよ」 佳苗は慌てて否定した。「普通の雑談。聞いた人もすぐ謝ってくれたし」「ならいいけど」「それでね」 佳苗は膝の上で指を組んだ。「雄吾が会社の社長だから、跡継ぎとか言われそうって」「誰に?」「その人に。雄吾じゃないよ」「俺は言わない」「分かってる」 佳苗は小さく笑った。「分かってるんだけど……ちょっと怖くなった」 雄吾が隣に座る。 何も言わず、続きを待ってくれた。「前に子供のこと話したでしょう?」「ああ」「そのときは、まだ先のことだと思ってた。でも結婚したら、周りか
職場の空気が落ち着き始めてから、二週間ほどが経った。 以前のように露骨なことを言う人はいなくなった。 仕事も普通に回ってくる。「榊原さん、これ午後までにいけます?」「大丈夫です」「助かります」 そんなやり取りが戻ってきたことに、佳苗はほっとしていた。 まだ少し距離を取っている人もいるけれど、それまで無理に元通りにする必要はない。 仕事に支障がなければ十分だ。「榊原さん」「はい?」 昼休み、同僚の女性に声を掛けられた。「今日、お昼一緒に行かない?」「行く」 以前から時々一緒に食事をしていた相手だった。 近くの店へ入り、ランチを注文する。「最近、大変だったね」「まあ……ちょっとね」「私はああいうこと言ってなかったけど、止めてもなかったから。ごめんね」 思いがけない言葉に、佳苗は目を瞬いた。「謝ってもらうほどじゃないよ」「でも、聞いてて変だなとは思ってたんだよね」「ありがとう」 料理が運ばれてくる。 ようやく普通の雑談ができる。 そう思ったところで、相手が何気なく尋ねた。「ところでさ。榊原さん、最近体調悪かったりする?」「え?」「なんか、前より疲れてるように見えるから」「そうかな?」 佳苗は首を傾げた。 仕事のことで気疲れはしていた。 けれど、体調が悪い自覚はない。「別に大丈夫だよ」「そっか」 相手は頷き、それから少し笑った。「じゃあ違うか」「何が?」「いや、結婚したばっかりだし、もしかしてって」 その瞬間。 佳苗の箸が止まった。「……もしかして?」「赤ちゃん」 さらりと言われた一言だった。 悪意などない。「まだそういう予定はないよ」「そっか。ごめん、勝手に」「ううん」 佳苗は笑って流した。 ◇ 会社へ戻る途中。「でも、結婚したらやっぱり聞かれるよね」 同僚が苦笑する。「私も結婚したとき、親戚にずっと言われたもん。子供はまだかって」「そうなんだ」「榊原さんのところなんて、旦那さん会社経営してるんでしょう? 跡継ぎとか言われそう」 また、足が止まりそうになった。「……どうだろうね」「そういうのない?」「ないよ」 雄吾から、一度も言われたことはない。 美佐子からも。 だから、気にする必要などないはずだった。 けれど――。 跡継ぎ。 その
雄吾が帰宅したのは、午後九時を少し過ぎた頃だった。「ただいま」「おかえり」 佳苗がリビングから顔を出すと、雄吾はいつも通りだった。 ただ、佳苗が何も言わないうちから会社のことを尋ねてはこなかった。「ご飯、温める?」「ああ。ありがとう」 雄吾が着替えている間に夕食を用意する。 二人で食べ始めてしばらくしてから、佳苗は自分から口を開いた。「今日ね、課長と話した」 雄吾は箸を置かなかった。「うん」「人事から、調査のあとに私が不利益な扱いを受けてないか確認するように言われてるんだって」「そうか」「それで、仕事を頼まれなくなるのも困るって話した。普通に扱ってほしいって」「うん」 相槌だけが返ってくる。 佳苗は思わず雄吾を見た。「……それだけ?」「何が?」「もっと何か言うかと思った」「聞くって言っただろ」「言ったけど」「佳苗が意見を聞きたいなら言う。でも、まずは聞く」 あまりにも律儀で、佳苗は少しだけ笑ってしまった。「極端なんだから」「反省中だからな」「じゃあ、意見を聞いてもいい?」「ああ」「私の言ったこと、おかしくないよね?」「おかしくないと思う」 雄吾は少し考えてから続けた。「仕事を押しつけるのも、逆に仕事から外すのも、佳苗が望んでることじゃないんだろ」「うん」「なら、普通に仕事を割り振ってくれっていうのは当然じゃないか」「そうだよね」 佳苗はほっと息を吐いた。 雄吾と喧嘩をしたからといって、意見を聞きたくなくなったわけではない。「昨日のことなんだけど」 佳苗が言うと、雄吾の表情が少し引き締まった。「うん」
翌朝。 佳苗がリビングへ行くと、雄吾はすでに起きていた。「おはよう」「……おはよう」 いつもと同じ挨拶なのに、少しだけぎこちない。 テーブルには朝食が用意されていた。「食べる?」「うん」 向かい合って座る。 雄吾は昨夜のことを蒸し返さなかった。 佳苗も、出勤前にもう一度話し合う気にはなれなかった。「行ってきます」「ああ。行ってらっしゃい」 玄関を出る直前、佳苗は振り返った。「雄吾」「ん?」「昨日のこと、まだ怒ってるから」「ああ」「でも、嫌いになったわけじゃないからね」 雄吾が少しだけ目を見開いた。「分かってる」「ならいい」 佳苗は扉を閉めた。 ◇ 出社すると、異動が決まった社員の机はすでに片づけが始まっていた。「来週からだって」「早いね」「まあ、あれだけ大事になったらね」 そんな声を聞きながら、佳苗はパソコンを立ち上げる。 午前中は何事もなかった。 けれど昼前、別部署から届いた書類を確認していると、一か所数字が合わないことに気づいた。「すみません。ここの金額なんですけど」 担当者へ声を掛ける。「あ、本当だ。すみません」「こちらで直していいですか?」「お願いします」 いつものやり取りだった。 それだけのことなのに、少し嬉しかった。 夫が誰でも関係ない。 佳苗が確認したから、間違いに気づいた。 自分が欲しいのは、こういう当たり前のことだった。 ◇ 午後、上司から声を掛けられた。「榊原さん、最近どう?」「どう、というと?」「周りの態度。ヒアリングのあと、ちょっと変になってるだろ」 佳苗は苦笑した。「気づいてました?」「そりゃね」 上司は困ったように頭を掻いた。「人事からも、調査後に不利益な扱いがないか確認するよう言われてる」「不利益……」「仕事を回さないとか、仲間外れにするとか。そういうのも含めて」 佳苗は少し考えた。「じゃあ、一つお願いしてもいいですか?」「何?」「私を特別扱いしないでください」「してないつもりだけど」「課長じゃなくて、部署全体としてです」 佳苗は言葉を選んだ。「私に仕事を押しつけないでほしい。でも、怖がって仕事を頼まないのもやめてほしいです」「なるほど」「必要なら頼んでください。無理なら断ります。間違ってたら注
恵が帰ったあとも、佳苗はしばらく動けなかった。 心臓が嫌なほど脈打っている。 あの目。 一瞬だけ見せた、冷たい視線。 前世では最後まで気づかなかった。 恵はずっと、自分から奪うことを楽しんでいたのだ。「……っ」 佳苗は唇を噛み締める。 怖い。 けれど、それ以上に悔しかった。 どうして自分は、あんな人たちのために命まで懸けてしまったのだろう。 テーブルの上に置かれた結婚写真が目に入る。 幸せそうに笑う自分。 悟の腕に寄り添って、未来を信じ切っていた頃の自分。 ――滑稽。 佳苗は震える手で写真立てを伏せた。 もう戻れない。 戻りたくもない。 今度こそ終わらせ
「……今、泣いてるのか?」 低く静かな声が耳に落ちる。 その一言だけで、張り詰めていた感情が崩れそうになった。 佳苗は慌てて口元を押さえた。「な、泣いてません」『嘘が下手だな、お前は昔から』 昔から。 その言葉に、大学時代の記憶が蘇る。 榊原雄吾。 成績優秀、容姿端麗、誰にも媚びない孤高の男。 学生の頃から有名だった。 近寄りがたい人だったのに、なぜか佳苗にはよく話しかけてきた。『また他人の仕事押し付けられてるのか』『断れないのか、お前は』 呆れたように言いながら、結局いつも助けてくれた。 けれど卒業後は一度も会っていない。 それなのに、どうして今。「どうし
「佳苗? 本当にどうしたんだよ」 怪訝そうな顔で、悟がこちらを見る。 その優しげな声に、佳苗は思わず身を強張らせた。 前世でも、この男はこんな顔をしていた。 穏やかで、頼れて、優しくて。 だから信じてしまったのだ。 まさか裏で妹と不倫し、自分を“代理母”として利用していたなんて、夢にも思わなかった。「顔色悪いぞ。熱でもある?」 悟が立ち上がり、額に触れようと手を伸ばしてくる。「っ……!」 佳苗は反射的にその手を振り払った。 ぱしん、と乾いた音が響く。 悟が目を見開いた。「……佳苗?」 しまった、と思った。 前世の記憶が蘇ったとはいえ、今の悟はまだ“何も知らない夫
「……っ、はぁ……ぁっ……!」 全身を引き裂かれるような痛みに、藤倉佳苗は汗で濡れたシーツを握り締めた。 眩しい手術灯。鼻を刺す消毒液の匂い。何度も響く機械音。 苦しい。 息ができない。「もう少しです! 頑張ってください!」 医師の声が遠い。 お腹の奥が裂けるように熱い。 それでも佳苗は必死に意識を繋いだ。(赤ちゃん……) やっと会える。 悟との子供。 愛する夫との、大切な命。 その一心だけで耐えていた。 けれど次の瞬間、医師たちの声色が変わった。「血圧低下!」「出血が止まりません!」「急げ!」 視界がぐらりと揺れる。 寒い。 急激に体温が奪われていく。