Mag-log in
九条家の令嬢・九条香織(くじょうかおり)は大学時代の同級生で社長の羽川亮太(はがわりょうた)に熱烈な恋心を抱いていた。
香織は亮太に尽くし、彼のためなら何だってやってのけた。
その甲斐あって、香織は念願かなって彼の妻になることができた。
甘い新婚生活を夢見ていたのも束の間、待っていたのは亮太の裏切りだった。亮太は彼が経営する会社の部下である山川日菜乃(やまかわひなの)と不倫していたのだ。
結婚してからというもの、亮太は香織に指一本触れることなく、日菜乃との密会を続けていた。そしてなんと彼女との間に子供まで作り、香織の暮らす邸宅に愛人である日菜乃を住まわせるという暴挙にまで出たのだ。
香織はもちろん反発したが、彼女の意見など重要ではなく、いくら言っても聞き入れてもらえなかった。
香織の住む家に日菜乃は平然と亮太との間に生まれた子と共に転がり込んだ。そこからは正妻・香織と愛人・日菜乃の戦いが始まった。
二人の戦いは次第に過激なものへなっていき、ある日日菜乃は自ら毒を飲んだ。
「日菜乃!しっかりしろ!」
毒で倒れた日菜乃に慌てて駆け寄ったのは夫の亮太だった。日菜乃に子が生まれてからというもの、彼は二人にのみ関心を寄せていた。
「お前がやったのか!」
「亮太……違うの、私は……」
日菜乃が自ら毒を飲んだことなど知らずに、亮太は香織に鋭い目を向けた。心から香織を憎んでいる、というような顔だった。香織が否定しようと亮太は聞く耳を持たなかった。
「香織を拘束しろ!」
「はい、旦那様!」
亮太の指示で香織はあっという間に両手を縛られ、屋敷の地下へと連れていかれた。
そこで彼女が受けたのは凄惨な拷問だった。何日にもわたって背中を鞭で打たれ、爪を剥がされ、体を切り刻まれた。香織はいつ終わるかもわからない拷問に耐えなければならなかった。心の中では、まだ亮太がここへきてくれるという淡い期待を抱いていた。
しかし、そんな希望はすぐにズタズタに崩れ去った。
外から亮太の秘書と誰かが話している声が聞こえてくる。
「社長は既に奥様との離婚手続きを済ませたようです。日菜乃さんも運良く回復されたようですし……」
「まぁ、それはよかったですね」
香織は可笑しくて笑いが出そうになった。
運良く回復した?違う。あの女は最初から致死量には到底満たない量の毒を飲んでいたのだ。亮太の気をさらに引き、香織を屋敷から追い出すために。なんて狡猾な女なのだろう。あの女の本性に気付けなかったことが、香織の唯一の失態だった。
「では今の奥様は一体どうなるのでしょうか?」
「さぁ、それは社長が決めることです」
それから香織は外に連れ出され、極寒の中着の身着のまま放り出された。もはや死は目前だった。
裸足で雪の中を歩くも、すぐに倒れてしまった。体はとうに限界を迎えていたのだ。
こんなことになるのなら、本妻の座になどしがみつかずにとっとと亮太と離婚しておけばよかった。そんな後悔の念が今になって押し寄せるが、遅すぎた。
最後に浮かんだのは亮太の顔だった。香織がかつて心から愛し、すべてを捧げた人。彼から返ってきたのは裏切りだったが。
香織は彼の顔を思い浮かべながら固く誓った。
(もし次あなたと出会ったら……そのときは絶対にあなたとは関わらないわ)
亮太への恨みを募らせながら、香織はゆっくりと目を閉じた。
再び目を開けると、三年前に時が戻っていた。
「奥様、おはようございます」
「……」
香織は一瞬理解が追いつかなかった。三年前といえば、亮太の不倫が発覚し、彼がちょうど日菜乃を屋敷へ連れてきた頃だった。
日菜乃は生まれたばかりの赤子と共に平然と香織の前に姿を現したのだ。
「奥様、旦那様がお呼びです」
「……亮太が?」
そしてこの光景には見覚えがあった。忘れられるわけがなかった。彼が香織を呼び出したことなど、五年間にわたる結婚生活でたった数回だった。
『お前に紹介しよう。俺の愛する恋人の日菜乃と、娘の朱里だ』
呆然とする香織を置き去りに、亮太は自身の愛人と娘を彼女に紹介した。そのときの絶望は今でも香織の中に強く残っていた。
「奥様、いかがなさいました?」
「……何でもないわ、すぐに向かうと旦那様に伝えてちょうだい」
「はい、奥様」
香織は軽く支度を済ませ、亮太の部屋へと向かった。既に日菜乃とその娘が到着している頃だろう。前世ではみっともなく暴れ、日菜乃を嫌悪していたが、今は違う。
香織に亮太への愛は残っていなかった。つまり、彼がどのような行動を取ろうとどうだってよかったのだ。
「失礼します」
「来たか」
扉を開けると、見慣れた顔が視界に入った。亮太の横には優雅に微笑む日菜乃と、胸に抱かれる子供の姿があった。彼女は香織を見ると、笑みを深めた。愛人の分際で本妻を前に笑えるだなんて、何て強かな女なのだろう。
「お前に紹介しよう。俺の愛する恋人の日菜乃と、娘の朱里だ」
ああ、このセリフ。前世と一言一句同じだ。香織は時が戻っても彼らがまったく変わっていないようで逆に安心した。
「ええ、そのようですね」
「日菜乃と朱里はこれからここで暮らすことになった」
「奥様、これからよろしくお願いしますね」
「……」
私が反対するとでも思っているのだろうか。亮太は私の顔色を窺うようにチラチラと視線を向けていた。
どうせ反対したところで私の意見なんて聞き入れないくせに。おかしくて笑いそうになった。あなたはいつだって日菜乃とその娘のことしか頭になかった。
「ええ、亮太の好きにすればいいわ。だけどその代わり、私もお願いがあるの」
「……何だ?」
亮太は訝しげに私を見た。
――「離婚してほしいの」
その瞬間、亮太は石のように固まり、日菜乃は驚きで目を見開いた。
付き合わないか――というその一言に、香織は目を見開いて固まった。もしかして、私は今告白されているの?「……礼音、どういうこと?」「そのままの意味だ。俺が記者に対して交際を認めたこと……お前ももう知ってるだろ?」「……」礼音が週刊誌の記者に対し、熱愛を認めるような発言をしたということは香織も知っていた。しかし、それはただそのほうが都合が良いからそうやって言っただけだと、彼女はそう思っていた。そんな彼女の心の中を読んだのか、礼音は再び口を開いた。「俺が誰にでも優しくしてるって、勘違いしてないか?」「……!」図星を言われて肩をビクッと上げた香織に、礼音が眉をひそめた。どうやら誰にでも親切にする人だと思われたのが不愉快極まりなかったようだ。彼は手を伸ばし、彼女の頬に手を触れた。いつも冷たい瞳が、悲しそうに細められた。「お前以外の女にこんなことしたりしない」「礼音……」彼はゆっくりと顔を近づけると、至近距離で囁いた。「香織……俺は、お前のことを愛している――前世からずっと」彼の真剣な愛の告白。決して、全く気付いていなかったというわけではなかった。だけど、いざ直接本人から伝えられるとやはり返事に迷ってしまう。早く返事をしないとと思いながらも、香織はあえて黙り込んだ。今はそれよりも気にかかることがあったからだ。「…………………前世?」礼音の”前世からずっと”という一言を、彼女は聞き逃さなかった。香織が時を巻き戻っていることは香織本人しか知らない秘密であり、礼音がそのことを知っているはずがない。なのになぜ、彼から前世という言葉が出てきたのか。行きつく答えはただ一つだったけれど、とても信じられなかった。「――俺にも、前世の記憶があるんだ。香織」「………そんな」まさか礼音に、前世の記憶があるだなんて。前の発言から予想はしていたものの、やはり衝撃的な出来事であることに変わりはない。回帰したのは自分だけだと思っていたが、違ったのか。香織の肩に置かれていた彼の手に、力が込められた。「それに気付いたのはつい最近のことだが……お前も前世があるんだろう?」「……ええ、そうよ」誰かに前世の記憶を打ち明ける日が来るだなんて、香織は思ってもみなかった。しかしそれと同時に、ある希望が湧き上がる。(礼音なら……私が死んだ後のことも知っているのかしら?
熱愛報道の真相を聞きに来た記者に、親しくしていると返すなど、交際を認めているようなものだ。聡明な礼音がそのことを知らないはずがない。香織は礼音と付き合っているわけでもないから、そのように返すのは正しいことではない。「な、何かの間違いでは……?」「いいえ、たしかに社長はあなたと親しくしているとおっしゃっていましたよ?」記者はいやらしくニヤリと笑った。「……それに関しては、私から言えることはありません」香織はそれだけ言い残すと、すぐにその場を立ち去ろうとした。しかし、記者はそんな彼女にしつこく取材を続けた。(週刊誌の記者がしつこいのは知っていたけれど……ここまでとは驚きだわ)困り果てていた香織だったが、記者との間に希美を始めとした同僚たちが立ちはだかった。「――何をしているんですか?やめてください、みっともないですよ」「……みんな」彼女たちは香織を庇うように、記者と対峙している。彼らが香織のためにそこまでするとは、正直驚きだ。「九条さんは一般人なんですよ?こんなことをされる筋合いはないでしょう?それに、そこまで執拗に付きまとうだなんて……社長が黙っていないはずです」「……」九条家の権力を持ち出されれば、流石にこれ以上追及することはできなかったのだろう。記者は不満そうな顔をしながらも、渋々身を引いた。「ありがとうございます……皆さん」「いえいえ、気にしないでください。あの人たち、いくら仕事とはいえやりすぎですよ」「ええ、そうですね……家族や周囲の人たちに迷惑がかからないといいのですが」しかし、元々亮太との離婚で話題になっていたこともあり、燃え上がる火はなかなか収まらなかった。礼音が交際を認めるような発言をしたせいか、その後さらにSNS上では二人の熱愛の信憑性が高まるという結果になってしまった。その後、退勤時間になると、香織は外に記者たちがいないことを確認して会社を出た。「一度、彼に会いに行ったほうが良さそうね……」礼音に事前に連絡をし、会う約束を取り付けた香織は、車に乗り込んで彼に会いに行った。彼は忙しいだろうけど、緊急事態であるため仕方がない。「――礼音!」「香織」彼女は駆け足で、礼音が待つ個室バーに入って行った。不安で胸がいっぱいになっていた香織は、思わず彼の体にしがみついた。「礼音、どうしよう。私たちのことが周囲
その後、香織はいつも通り出社した。本当は身体がダルかったが、流石に二日酔いで会社を休むわけにはいかなかった。昨日は夢のような体験ができたのだから、このくらいは我慢しなければならないだろう。(今日も一日頑張りましょう)夢から現実へと一気に引き戻されたような気分だった。香織は意気込み、オフィスへと入った。「皆さん、おはようございます」「……九条さん、おはよう」出社して早々、香織はオフィス内に流れる妙な空気を感じ取った。(何かしら?みんながこっちをチラチラ見ている……?)気になった香織は、一人の女性社員に尋ねた。「どうかしたんですか?」「いっ、いえ……何でもないのよ……」女性社員は誤魔化そうとしたが、香織も引き下がらない。大体そんなふうに言われたら、余計に気になるではないか。香織は何とか渋る彼女を説得し、聞き出すことに成功した。「実は……有名な週刊誌から今日のお昼に掲載されるとある記事の情報が公開されたんだけど……そのシルエットが九条さんによく似ているってことで話題になってたの」「……私に?」女性社員はスマートフォンを取り出すと、その画面を香織に見せた。『若き敏腕実業家と超一流企業の令嬢、熱愛発覚』その一文と共に、二人の男女のシルエットが載せられていた。片方は長身の男性のもので、もう片方は細身でスタイルの良い女性のものだった。本人だからこそ、香織はすぐにわかった。――そのシルエットが、自分と礼音のもので間違いがないということに。「こ、これって……」「まったく、迷惑な話よね。九条さんは一般人なんだから、放っておいてあげたらいいものを……」SNSに上げられたその投稿は瞬く間に拡散され、たった数時間で千リツイートを超えている。芸能人でもないのにここまで拡散されてしまうとは、正直驚きである。(マ、マズイわね……このままじゃ礼音に迷惑がかかっちゃう……!)***そしてその日の昼に、香織と礼音の記事は大々的に週刊誌に掲載された。「――九条さん、福本社長と付き合っているというのは本当ですか?」「……」昼休憩で外に出ていた香織の元に、週刊誌の記者が取材をしにやって来た。香織は一瞬返答に迷ったものの、すぐに冷静を保って答えた。「……福本社長とは、ただの仲の良い友人です。それ以上でもそれ以下でもありません」「……ほう?」香織の答
香織は礼音の住むタワーマンションを出ると、そのまま寄り道することなく家に帰った。まだ朝早いからか、外を出歩いている者はほとんどいない。(昨日は夢みたいな時間だったわね……)泥酔していたものの、昨日のパーティーのことはよく覚えていた。カバンの中には有名芸能人たちのサイン色紙も入っていた。もちろん、一生の宝物にするつもりだ。リビングに入ると、エプロンを着た有真がちょうど朝食の支度をしているところだった。「おかえりなさい、香織さん」「ただいま、有真さん」昨夜はパーティーがあったせいか、朝帰りをしたところで何か聞かれることはなかった。あの一件以降、両親が過保護になっているが、香織はもうとっくに成人している。今回に至っては礼音がきちんと連絡を入れているし、特に心配されることもなかった。(それより、何だか有真さんが嬉しそうだわ……どうしたのかしら?)有真はニッコニコの笑顔で香織を見つめている。「ところで香織さん、昨夜は何かあったのですか?」「え、何かとは……?」わけがわからずに聞き返すと、有真はキャーと顔を赤らめた。理由は知らないが、なぜかはしゃいでいる。「もう、とぼけちゃって!昨夜は礼音さんのタワーマンションに泊まったんでしょう!?」「え、ええ……そうですけど……」それが何か?と香織はきょとんと首をかしげた。その反応を見た有真の熱が、一気に冷めていった。「まさか、本当に何もなかったんですか?」「ええ……特に何もしていませんよ」謎の期待をしている有真には申し訳ないが、香織と礼音の間には何もない。彼女はきっと、彼らが熱い夜を過ごしたとでも思っているのだろう。(……彼が上半身裸でいたことだけは衝撃だったけどね)男女が同じ部屋に泊まったからといって、必ず何かあるというわけではない。香織の表情からそのことを察したのか、有真が残念そうにポツリと呟いた。「あら、まぁ……礼音さんったら、ああ見えて意外と奥手なんですね」「何か言いました?」「いえ、何でもありません」有真は笑みを浮かべながら首を横に振ると、ちょうど沸騰し始めたスープに目を向けた。「もう少しで朝ごはんができますから、ちょっと待っててください」ドレスを脱いで着替えた香織は、キッチンにいる有真の横に立った。「私も手伝いますよ、有真さん」「あら、いいんですか?ありがとうございます
”帰るのか”という問いに、香織は首を縦に振った。「当然よ……いつまでも部屋にいては、誤解されてしまうわ」「一体何を誤解するというのか……まぁ、俺はされたところでかまわないけど」礼音はニヤッと笑みを深めた。彼のそんな笑顔を見ていると、何だか調子が狂わされるようだった。テレビやネットで見る礼音はいつも冷たい人なのに、どうして私の前でだけはそんな表情を見せるのか。香織は高鳴る胸を抑え、何とか自分を落ち着かせた。「父さんも心配しているでしょうし……もう帰らないと」「そうか、残念だな」香織が家に帰るのが残念だなんて。冗談で言っているのか、本気で言っているのかわからない。考えても仕方が無いことだと思い、香織は頭の中からかき消した。「今日は色々とありがとうございました。迷惑をかけてしまったようですので、後日お詫びの品を送りますね」「……」香織は最後の挨拶をすると、そのまま部屋を出て行った。家を出てエレベーターに乗り、下へと降りて行く。(わぁ、本当良いところに住んでるわね……)礼音が住んでいたのは、都内にあるタワーマンションだ。噂によると、数々の著名人や有名企業の社長が住んでいる場所なのだという。そんなマンションの最上階とは、やはり礼音は只者ではない。今話題の若手実業家なだけある。一階までやって来た香織は、エレベーターから降りて外に出た。道中何人かの住民とすれ違ったが、特に何か言われるようなことも無かった。(それにしても有名なタワーマンションの最上階で一日過ごせるなんて、良い体験だったわ)香織はそのまま正面の入り口から外へ出た。このときの彼女は浮かれていて、周囲にまで気を配る余裕が無かった。―――そのため、パーティーが終わってからずっと、彼女の後をつけていた人物がいたということに気付かなかったのだ。***香織がタワーマンションから出てくる瞬間を、ある人物が写真に収めていた。「今話題沸騰中の九条家の令嬢……ガチでいるじゃねえか」彼は興奮で鼻息を荒くしながら、遠くから香織の写真を撮り続けた。当然、彼女はそのことに気付いていない。元より芸能人でもないのだから、スキャンダルへの危機感が無いのは当たり前かもしれない。だが、亮太との離婚で話題になっている彼女は、今や芸能人も同然。プライベートを徹底する芸能人たちとは違って、無防備な彼女ほど週刊誌の
香織は顔を真っ赤に染め、思わずキャーと叫び声を上げた。その声で、ソファで眠っていた礼音が目覚めた。「……起きていたのか?」「そ、その格好!一体何なのよ!」ソファから起き上がった彼は、自分が上半身裸であることに気が付いたようだった。香織は男性経験がなく、夫である亮太とも一度も寝たことが無い。(わ、私過ちを犯したってわけじゃないわよね……?)お互いに未婚であるため、昨夜していたところで特に問題は無い。しかし、女性にとって特別な意味を持つ初めての経験が酒に酔って覚えていないというのは何とも悲しかった。香織は慌てて自身の服を確認するが、特に乱れている様子は無かった。そんな彼女に対し、礼音は困ったように口を開いた。「何って言われてもなぁ……昨日、お前が俺の服を掴んで離さなかったから仕方なく脱いだんだけど」「え、そ、そんな記憶無いわ!」昨夜、パーティーに参加した香織は浮かれて羽目を外し、かなり飲みすぎてしまっていた。結果、電柱にぶつかってそのまま眠ってしまうという醜態を晒したのである。しかし、運の悪いことにそこまでしか覚えていない。つまり、どのような経緯で礼音と会い、この場所に来たかは全く知らないままである。「まぁ、覚えていなくても仕方が無いか……かなり酔っ払っていたみたいだからな」「……」礼音はキッチンから水を持ってくると、ベッドに座った香織に差し出した。香織はコップに入ったそれを受け取り、飲んだ。「ところで、ここはどこ?」「俺の家だ」香織は室内にある大きな窓から見える外の景色を眺めた。どうやらそこは、都内でも有名なタワーマンションのようだった。九条邸も羽川邸も一軒家だったため、こういう景色の良いところに住むのは何だか憧れる。「あなた、とっても良い家に住んでいるのね」「九条家のお嬢様には叶わないと思うが……羨ましいなら一緒に住むか?」平然とそんなことを口にした礼音に、香織は正気?と返した。付き合ってもいない状態で同棲するなんて。父親が絶対に認めないだろうし、交際経験すらない香織に同棲はあまりにもハードルが高い。(何より、二度と男絡みで悩みたくないし……)「遠慮しておくわ……ここは職場からも離れてるし」「職場から近ければ、一緒に住んでたのか?」「……」あえて返す必要も無いと思い、香織はスルーした。礼音がそのような冗談を言う
あっという間に五日が過ぎ、パーティーの日になった。「香織お嬢様、本当によくお似合いです。会場にいる全員がお嬢様に目を奪われるでしょう!」「そうかしら?」華やかな青いドレスに身を包み、長い黒髪を結い上げた香織は、行きつけの美容院の店長――鏑木壮太(かぶらぎそうた)の手を取り、彼の車へと向かっていた。「あなたの腕がいいのよ、いつも感謝しているわ」「それはこちらのほうですよ、お嬢様。お嬢様の父君には感謝してもしきれません」壮太は優雅に香織をエスコートし、車のドアを開けた。香織が黒のSUVの後部座席に乗り込むと、壮太が運転席に座った。「あなたが運転してくれるのね」「安物の車で申し訳
有真は結婚する十年前まで、忠嗣の経営する会社の社員として働いていた。彼女は一般家庭の生まれだったが、努力を重ねて有名大学を卒業後、大企業へと就職することができた。そんな有真は、学生時代から明るい性格でクラスの人気者だった。絶世の美人というわけではなかったが、穏やかで優しく、いつだって周囲に気さくに振舞うその姿は男女問わず魅了した。――そんなところが、彼を虜にしたのかもしれない。彼女が九条グループに入社してから一ヵ月、有真は広い会社内で迷子になっていた。(道に迷っちゃったわ……会議室はどこかしら……)会議が始まるまではあと少しだ。入社早々遅刻するわけにはいかない。有真は焦っていた。彼
夜になり、ドキドキ初出勤を終えた香織は九条邸へと戻った。結婚前はどんな小さな用でも車で送り迎えをしてもらっていた香織だったが、今日は歩きだった。(職場まではそう遠くないし……運動のためにも歩こう)羽川家では車に乗れないのが普通だったせいか、歩きに慣れてしまったようだ。しばらく歩くと、羽川家の邸宅に到着した。(今でもここへ帰るのは慣れないわね)香織はそう思いながら鍵を使って中に入った。「香織さん、おかえりなさい」「ただいま、有真さん」帰宅した香織を、継母の有真が出迎えた。夜ご飯を作っている最中だったのか、長い髪を一つにまとめてエプロンを着ていた。有真は忠嗣の二十歳年下で、香織の
それから一週間後。「初めまして、九条香織です。これからよろしくお願いいたします」「……」香織は父親の会社で新入社員として入社していた。彼女を見た社員たちはしばらく固まったあと、ヒソヒソと噂話をし始めた。「九条って言った……?もしかして社長の娘さん……?」「間違いないわ。社長の娘、夫と離婚して実家に帰ったらしいわよ」「よりによって何でこの部署に……社長の娘とか気使うわー……」「……」香織の第一印象はあまり良くなかった。コネ入社、血筋が良いだけ、だとか散々な言われようだ。しかし香織はそんな中傷など気にも留めなかった。彼女が羽川家で受けた屈辱に比べれば、こんなもの大したことないか







