Masuk――離婚。
そんなにも驚くことだろうか。夫が愛人を作り、その間に子供まで作っていたのだから、夫妻が離婚するのは普通ではないのか。香織のその言葉をまるで予想していなかったというような顔だ。
まあ、そう思うのも当然かもしれない。香織はこれまで亮太を心から愛し、彼だけを見つめていたのだから。毎日栄養バランスの整った健康的な食事を用意し、家事を完璧にこなし、夫の行動に何も言わずにただ彼の帰りを待ち続けるだけの日々だった。今思えば、何てつまらない生活なのだろう。
「奥様、離婚だなんてそんな……!私のせいでそこまでしなくても……!」
「いいえ、あなたのせいではありません、日菜乃さん。これは全て亮太のせいですよ」
「社長を責めないでください!社長はとても優しい方なんです!いつだって私たちを一番に考えてくれて……」
優しい?亮太が?本妻に隠れて不倫をし、愛人との間に子供まで作っていた男が優しいとは。日菜乃は目に涙をためながら亮太をかばった。そのような健気な優しさが彼の心をつかんだのだろうか。
「……急に離婚だなんて何を言っているんだ」
「亮太、あなたが何を言おうと私は離婚するわ。夫の不貞はれっきとした離婚理由になるもの」
「……」
亮太は何も言えないようだった。離婚されるといろいろと困るのだろう。
亮太がいくら日菜乃を愛しているとはいえ、彼女は亮太が経営する会社の社員に過ぎない。実家が大きな力を持っているわけでもなければ、彼の仕事において必要不可欠な存在というわけでもない。
それに比べて香織は複数の会社を経営する九条グループの令嬢だった。二人の結婚は政略的なものであり、いくら亮太が香織を愛していなくとも、彼女は簡単に手放せるような存在ではなかったのだ。
だからこそ、亮太は離婚を思いとどまっているのだろう。しかし香織は、もう利用されるのは御免だった。どのみちこのまま彼との結婚生活を続けても三年後には悲惨な死が待っているのだ。
そうなる前に何としてでも離婚しなければならない。
「奥様!社長の不倫は私にも責任があります!社長だけを責めないでください!」
「……」
日菜乃は亮太の前に立ちはだかった。外面は聖母のような女だが、内面は真っ黒だった。実際、彼女は前世で自ら毒を飲んでその罪を香織に着せたのだから。
「ええ、そうね。亮太の不倫はたしかにあなたにも責任があるわ。亮太が既婚者だってこと、知ってて関係を持ったんでしょう?」
「……私は社長を愛していたんです!たとえ身分が違ったとしても彼と一緒になりかったんです!奥様には悪いと思っていますが……私たちは愛し合っているんです!」
「愛ね……」
香織はその身勝手な愛の犠牲になったのだ。前世の最期を思うと悔しくてたまらなかった。私が死んだあと、きっと二人は何事もなかったかのように再婚し、幸せな暮らしを送っているのだろう。そう考えると余計に。
「そうだぞ香織」
「……亮太」
亮太は自身をかばう日菜乃の前に立った。
「いくら俺が日菜乃を愛しているからとはいえ、たかたがそれくらいで離婚だのなんだの騒ぐなんて……」
「……それくらいですって?」
香織は頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。
「そうですよ、奥様が何を言おうと、私たちは別れませんから!愛し合っているんです!」
「……」
日菜乃は香織の目の前で亮太に抱き着いた。
前世、香織は日菜乃が亮太に近付くたびに間に入り、必死で牽制していた。今思うと、何て無駄な行動だったのだろう。
今度は香織だって、二人の思い通りにさせるわけにはいかない。
「ええ、かまいません。ですが私も、お二人が何と言おうと絶対に離婚します」
「奥様……!」
私の今世の目標は亮太と離婚し、この家を出ること。そのためならどんなことだってやってみせる。
香織は準備を済ませていない状態のまま、エントランスへ向かった。もし、彼女の予想が正しければあの子が来ているということになる。(……どうして急に?理由が思い当たらないわ)幼い子がたった一人で敵陣も同然のこの場所に来るだなんて、信じられなかった。しかし、そんな香織の予感は的中。玄関に立っていたのは、予想通りの人物だった。「……………朱里ちゃん」「お姉ちゃん」朱里は香織の姿を見ると、笑顔で駆け寄り、足元にしがみついた。まるで会いたかったとでも言わんばかりの行動だ。香織は自身の足に抱き着いた朱里を受け止めた。「朱里ちゃん、どうしてここに……」彼女の立場を考えると、むやみに香織に会いに来るべきではなかった。一人で来たのだろうか。前のように家政婦の姿が見当たらなかった。(亮太や日菜乃が一緒に来るはずないし……)だとすれば、やはり一人でここまで来たのだろう。香織はしゃがみ込み、事情を尋ねようとした。そのとき、朱里の口から信じ難い言葉が飛び出した。「―――お姉ちゃん、お父さんがお姉ちゃんのことを狙ってるよ」「…………何ですって?」朱里の言うお父さんとは、亮太以外にはあり得ない。ついこの間会ったばかりの彼が、自分を狙っているとは一体どういうことなのか。「……朱里ちゃん、一旦中に入ろうか」香織は朱里を家に入れ、詳しい事情を尋ねることにした。***彼女は朱里を自分の部屋に招き入れた。家にあったお菓子とジュースを出し、話を聞いた。「お父さんが……お姉ちゃんは俺の元に帰ってこいって部屋の中で言っていて……」「……それはたしかなのね?」朱里はコクッと小さく頷いた。まさかまだ幼い娘から亮太の心の内を聞くことになるとは、正直想像もしていなかった。「そういえば、最近お母さんはどうしているの?」「お母さんは……あまり会っていない。色々と忙しいみたいで……お父さんともほとんど話していないようだし」「そうだったのね……」朱里の発言からして、普段家族で過ごす時間はほとんどないようだ。何だか幼い頃の自分を見ているようで、香織の胸は締め付けられた。たとえ亮太と日菜乃がこの先堕ちることになろうとも、この子だけはどうにかして助けてあげたい。そのような気持ちが芽生えるまで、そう時間はかからなかった。「……そうだ、朱里ちゃん。お父さんに伝えてほしいことがあるんだけ
その頃、香織は自宅で一人くつろいでいた。今日は特に用事もなかったため、やることがない。テレビを見たり、スマートフォンでSNSを適当に見たりして時間を潰していた香織だったが、あることを思い立った。「そうだ!礼音にメッセージでも送ってみようかな?」ちょうどスマホを使っていた彼女は、そのまま礼音とのトーク画面を開いた。連絡先は交換しているものの、実際にメッセージを送ったことはなかった。何も送られていない、まっさらなトーク画面を前に香織は格闘していた。二人はまだ付き合って数日しか経っていない。そのせいか、メッセージ一つ送るのにもやけに緊張してしまう。「恋人に送るメッセージって……どんなものがいいのかしら……」礼音のことを恋人と言うのは初めてだった。自分で言ったくせに、なぜか照れてしまう。香織は適当に思い付いた文字を打ち込み始めた。『礼音――ご機嫌いかがですか?私は今、家でくつろいでいます。礼音は仕事中でしょうが……』そこまで打ち込んで、気に入らなくて消去ボタンをタップした。テーブルに頬杖をついた香織は、呆れたように呟いた。「なんか、手紙みたい。恋人らしくないし、堅苦しいわよね?」男性との交際は初めてなせいか、香織は礼音との距離感がわからなかった。亮太と結婚していたときも、メールのやり取りなんてしていなかったし。通っていた小中学校の授業で手紙くらいは書いたことあるけど、それもずっと前だ。「よし、こんなものでいいか……!」何度も打ち込んでは消してを繰り返した香織は、ようやく納得のいくメッセージができ、送信ボタンを押した。何もなかった礼音とのトーク画面に、一通のメッセージが新しく現れた。「キャー!送っちゃった!」もちろんまだ既読はついていないけれど、なんて返ってくるのかが今から楽しみである。メッセージを送り終えた香織はベッドに突っ伏した。こうやって横になっていると、礼音と添い寝したときのことが頭によぎる。彼女は枕に顔を埋め、悶えた。そんな恥ずかしい姿を晒していたとき、突然部屋の扉が開いた。「――香織さん、お客様がいらっしゃっていますよ」「ゆ、有真さん……!」香織は慌ててベッドから起き上がった。今の姿を見られたのかと思うと、恥ずかしくて穴に入りたくなった。「……お客様?私に?」「ええ、小さな子供が香織さんに会いたいと」「……………子
亮太は娘が自身を見ていたことに気付きもせず、一人部屋で笑い続けていた。日菜乃にどのような復讐をしてやろう。彼女が惨めな最期を迎える姿を想像するたびに、彼の心が満たされていった。彼はスマートフォンを手に取ると、ある場所に電話をかけようとした。しかし、そんな彼はたまたまネットサイトで見かけたあるニュースに、思わず手を止めた。『九条家の令嬢と福本社長――結婚を前提にした真剣交際』大きく表示されたその見出しに、亮太は眉をひそめた。九条家の令嬢とはまさに香織のことで、福本社長とは礼音のことだ。(あの二人、本当に付き合っていたんだな……)特に興味もなかった二人だったのに、どうして今になってこんなにもイライラするのだろうか。スマホを持つ亮太の手が、プルプルと震え始めた。日菜乃への復讐心に燃えていた彼だったが、なぜか香織と礼音のことが気になって仕方がなかった。前世の記憶についても、礼音に阻まれてしまったため、まだ彼女に聞けていない。(だが……香織が前世の記憶を持っているのは間違いなさそうだな……)過去を思い返してみれば、香織は他の人物に比べて明らかに不自然だった。突然離婚を宣言したこともだが、彼に対する愛が一瞬でなくなったところも。「最初からアイツは全部知っていたんだな……自分の未来を」そのために彼から離れようとしていたのなら、納得がいく。もし、自分が香織の立場であったとしてもそのような選択をしているだろう。しかし、亮太はなぜか彼ら二人が気に入らなかった。「俺は今こんなにも不幸だっていうのに、お前たちだけ幸せになるつもりか?」そんなの絶対に許せない。亮太はいつしか、無関係な香織に見当違いな憎しみを向けるようになった。「香織……お前は俺の元に帰ってこい」亮太は不気味な笑みを浮かべながら、誰もいない空中に向かって呟いた。――その呟きが、全て娘に筒抜けになっていたこと。彼は当然気付いていなかった。日菜乃への復讐計画を練るのに夢中になっている彼は、そもそも娘が来ていることなど知らなかった。「香織ってもしかして……あのお姉ちゃんのこと?」朱里は何かに気付いたのか、慌てて父親の部屋の前から立ち去って行った。
家に帰った亮太は、一人になりたいと言い、自室へこもった。日菜乃は心配していたが、彼は平気だと言い聞かせて彼女を追い出した。前世の記憶を取り戻した今、もはや日菜乃に気持ちなどなかった。代わりにあるのは、巨大な憎しみ。前世、日菜乃は罪を犯した自分を庇うこともせずあっさりと見限った。彼が罪を犯したのも、元はと言えば日菜乃が自ら毒を飲んで香織に罪を被せたせいだった。いくら騙されたとはいえ拷問している時点で彼も同罪なのだが、愚かな亮太は全てを日菜乃のせいにした。憎しみが香織から日菜乃へ移り、彼の心を着々と支配していった。「さて、どうするかな……」自室にあるソファに腰を下ろした彼は、テーブルを指でつついた。一人の空間に、コツンと小さな音が鳴り響く。日菜乃からの愛は以前から無くなりかけていたが、憎しみまでは抱いていなかった。いくら彼女が自分の子を無断で堕胎しようとも、一度生涯を誓った人なのだから、離婚するという選択肢はない。どれだけの罪を犯そうとも、彼は死ぬまで日菜乃との結婚生活を続けるつもりだった。しかし、あんな記憶を持った後ではそんな誓いなどとうに消えてしまった。日菜乃は今もこの家に住んでいる。彼女に前世の記憶はないようだが、だからといって犯した罪が消えるわけではない。彼女が少しでも会いに来てくれたら、自分のために奔走してくれていたとしたら――亮太はあのような残酷な末路を迎えることはなかったかもしれない。そうだ、俺がああなったのは全て日菜乃のせいだ。亮太は自分の行いを反省するよりも、他人に憎しみを向けることで何とか心を保っていた。今この瞬間も、あのときの記憶がフラッシュバックして苦しんでしまう。「日菜乃……俺はお前を絶対に許さないぞ……!」愛が憎悪に変わるとは、一体誰が想像できただろうか。無意識に彼女を遠ざけていたのは、その予兆だったのかもしれない。亮太は日菜乃の惨めな末路を想像し、アハハッと一人声を上げて笑った。そんな父親の不気味な姿を、娘の朱里は扉の隙間から見ていた。父親が帰ってきたというから見に行ったが、今話しかけることはできなさそうだった。疎遠になった両親を見ていたせいか、朱里は幼いながらに気を遣うことができるようになったのだった。「…………パパ、どうして一人で笑ってるの?」彼女は気味の悪い父親に声をかけるのを諦め、気付かれないよ
その後、香織は礼音の家から九条家の本邸へと戻った。二人の熱愛報道が出てからというもの、家に帰るのは初めてだった。「おかえりなさい、香織さん」「ただいま、有真さん」リビングに入り、香織はカバンをテーブルに置いた。(……刺さるような視線が)その間も、有真はニコニコしながら香織を見ていた。おそらく、週刊誌に掲載された彼女と礼音の記事を見たからだろう。気にはなるが、自分から聞くのは抵抗がある。彼女から話すのを待っているのか、さっきから突き刺さるような視線を感じる。続いてリビングに入ってきたのは、父の忠嗣だった。「香織、おかえり」「ただいま、父さん」父もまた、有真と似たような反応を示した。やはり、二人とも記事の真偽が気になっているのだろう。(……やっぱり、家族でもある父さんと有真さんには話しておくべきよね)どちらにせよ隠すことはできないと思った香織は、意を決して話し始めた。「実はね……私、礼音と付き合うことになったの」「………………まぁ」予想していたのか、二人はあまり驚いた様子を見せなかった。「付き合い始めたのはつい最近なんだけど……」「そうだったのか……」反対されることもなくすんなりと受け入れられたのは、きっと相手が礼音だからだろう。礼音は父親とも昔からの知り合いで、信頼も厚い。彼になら、大切な娘を任せられると思っているのかもしれない。どちらにせよ、いつまでも親の庇護の下で暮らしているわけにはいかないから。「香織、福本君に何かされていないか?」「う、ううん……別に何も変なことはされていないわ」本当はキスもしたし、添い寝もしたが黙っておくことにした。交際数日でそんなところまで進むだなんて、何だか恥ずかしかった。「そうか、それは意外だな。いくら性格が良かったところで、彼も男だからな。やることはやりたいだろう」「お父さん、何を言っているんですか?」厳格な父から下ネタのような言葉が出てくるとは、香織は思ってもみなかった。有真もその隣でうんうんと頷いている。「お前ももう大人だ。そういうことを知ってもいい年齢だろう」「ですから、何を言っているんですか?」「結婚前の妊娠だけは注意するように。最近そういう手法で結婚まで持ち込もうとする者も多いと聞く。福本君はそんなことしないと思うが……」香織はじっと黙ったまま、父の話を聞いていた。
警察に署まで連行された亮太は、事情聴取を受けた。気絶して目が覚めたら病院にいて、その後警察署まで連れて行かれたのだから驚くのも当然だろう。(俺は一体何をしていたんだ……)礼音と掴み合いをしたあたりから、亮太は記憶が飛んでいた。ズキズキと痛む頭が、彼に嫌なことを思い出させないようにしているようだった。まるで酒を飲みすぎた日の翌日のように、彼は気分が悪かった。事情聴取は”二回目”であるからか、彼はやけに落ち着いていた。不法侵入とは言ったものの、特に重大な犯罪を犯したわけでもない。前世と違って、亮太はすぐに釈放された。警察署を出た彼を迎えに来たのは、日菜乃だった。芹沢が彼の秘書を解任されてからというもの、身の回りのことは基本的に全て彼女がやっていた。「社長、心配しておりました」「日菜乃……」亮太は自身を心配そうに見上げる日菜乃を、冷めた目で眺めていた。(よくもそんな演技が平然とできたな……)前世、日菜乃は捕まった彼を助けることはなくあっさりと見捨てた。彼女は裁判にすら訪れることはなく、二度と亮太と会おうとすらしなかった。亮太は愚かにも、そのときになって愛した女性の本当の姿を知ったのだった。「社長?どうかしたんですか?」「……いや、何でもない」きょとんと首をかしげた日菜乃に、亮太は静かに首を横に振った。もはやそこに、彼女に対する愛は存在していなかった。「迷惑をかけてしまったようだな」「迷惑だなんて……社長のことをそんなふうに思ったことは一度もありません」日菜乃は彼の前はあくまでも良き妻を演じていた。前世の記憶を取り戻した今となっては、本当に自分を愛していたのかどうかすら怪しいが。「そうだ、朱里は元気にしているか?」「ええ、もちろんです。あの子ったら、とってもお父さんのことが好きみたいですね」「……………そうか」日菜乃はいつも、彼の望む言葉をかけた。彼女は恐ろしいほどに、彼が喜ぶものを全て把握していた。今思えば、全てが変だったのだ。「この後は家に帰られますか?それとも会社に?」「家に戻ろう……最近忙しくて家族サービスできていなかったからな」「そうですよ、社長が仕事ばかりで朱里も寂しがっています」ニッコリと笑う日菜乃を見たところで亮太の胸が高鳴ることも、愛おしいという感情がこみ上げることもなかった。記憶を全て取り戻した今、
あっという間に五日が過ぎ、パーティーの日になった。「香織お嬢様、本当によくお似合いです。会場にいる全員がお嬢様に目を奪われるでしょう!」「そうかしら?」華やかな青いドレスに身を包み、長い黒髪を結い上げた香織は、行きつけの美容院の店長――鏑木壮太(かぶらぎそうた)の手を取り、彼の車へと向かっていた。「あなたの腕がいいのよ、いつも感謝しているわ」「それはこちらのほうですよ、お嬢様。お嬢様の父君には感謝してもしきれません」壮太は優雅に香織をエスコートし、車のドアを開けた。香織が黒のSUVの後部座席に乗り込むと、壮太が運転席に座った。「あなたが運転してくれるのね」「安物の車で申し訳
有真は結婚する十年前まで、忠嗣の経営する会社の社員として働いていた。彼女は一般家庭の生まれだったが、努力を重ねて有名大学を卒業後、大企業へと就職することができた。そんな有真は、学生時代から明るい性格でクラスの人気者だった。絶世の美人というわけではなかったが、穏やかで優しく、いつだって周囲に気さくに振舞うその姿は男女問わず魅了した。――そんなところが、彼を虜にしたのかもしれない。彼女が九条グループに入社してから一ヵ月、有真は広い会社内で迷子になっていた。(道に迷っちゃったわ……会議室はどこかしら……)会議が始まるまではあと少しだ。入社早々遅刻するわけにはいかない。有真は焦っていた。彼
夜になり、ドキドキ初出勤を終えた香織は九条邸へと戻った。結婚前はどんな小さな用でも車で送り迎えをしてもらっていた香織だったが、今日は歩きだった。(職場まではそう遠くないし……運動のためにも歩こう)羽川家では車に乗れないのが普通だったせいか、歩きに慣れてしまったようだ。しばらく歩くと、羽川家の邸宅に到着した。(今でもここへ帰るのは慣れないわね)香織はそう思いながら鍵を使って中に入った。「香織さん、おかえりなさい」「ただいま、有真さん」帰宅した香織を、継母の有真が出迎えた。夜ご飯を作っている最中だったのか、長い髪を一つにまとめてエプロンを着ていた。有真は忠嗣の二十歳年下で、香織の
それから一週間後。「初めまして、九条香織です。これからよろしくお願いいたします」「……」香織は父親の会社で新入社員として入社していた。彼女を見た社員たちはしばらく固まったあと、ヒソヒソと噂話をし始めた。「九条って言った……?もしかして社長の娘さん……?」「間違いないわ。社長の娘、夫と離婚して実家に帰ったらしいわよ」「よりによって何でこの部署に……社長の娘とか気使うわー……」「……」香織の第一印象はあまり良くなかった。コネ入社、血筋が良いだけ、だとか散々な言われようだ。しかし香織はそんな中傷など気にも留めなかった。彼女が羽川家で受けた屈辱に比べれば、こんなもの大したことないか