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第197話

Author: かおる
怜は確かに水を恐れていた。

けれど父親が数多くの心理士を探してくれたおかげで、その恐怖はずいぶん和らいでいた。

怜は近いうちに、星に水泳を教えてもらおうとさえ思っていた。

翔太は岸に立ち尽くし、怜の姿を見つめる。

ふと脳裏に浮かんだのは――怜がわざと転んで自分を巻き込み、母が心配そうに駆け寄ったあの時の光景。

「ふん!

みじめに見せかけるくらい誰にだってできる」

翔太は吐き捨てるように言い放つ。

「お前が飛び込むなら、僕も飛び込んでやる!

最後にママがどっちを選ぶか、見ものだな」

そう言って翔太も湖に身を投じた。

だがすぐに気づく。

――自分は泳げるのだ。

水面に立ちすくむようにして、どうしていいかわからず戸惑う。

胸の奥を突き上げた怒りは、冷たい湖水に一気に冷まされてしまった。

その時、怜の弱々しい声が星の耳に届いた。

「星野おばさん......苦しいよ」

「大丈夫、もう少し我慢して。

救急車がすぐ来るから」

星は必死に声をかける。

怜の小さな手が彼女の袖を握り締めた。

「行かないで......怖いよ」

星はすぐに怜を抱き寄せた。

「ええ、おばさんはどこにも行かないわ。

ずっとそばにいるから」

その言葉に怜の表情がゆるみ、次の瞬間、力尽きたように意識を失った。

星の顔に、慌てふためく色が浮かぶ。

翔太はその様子を睨みつけていた。

――こいつ、また哀れっぽく振る舞って。

いつだってそうやって同情を買うんだ。

怒りに震えながらも、翔太にはどうすることもできなかった。

そして、負けじと自分もその場に崩れ落ちる。

「弱ったふりなんて、僕だってできる!」

――お前が気を失うなら、僕も気を失ってやる!

翔太までが倒れ込み、星は息をのんだ。

翔太はまだ幼い。

泳げるとはいえ、水の中で何かにぶつかっていないとも限らない。

怜を抱きしめながら、翔太の様子も気にかかり、星はどうしていいかわからず焦りに駆られた。

その時、影斗が戻ってきた。

彼は素早く怜を抱き上げ、星の腕を解放する。

ようやく翔太のもとへ駆け寄り、状態を確かめると――大事には至っていなかった。

ただ気を失っているだけだとわかり、星は胸をなでおろした。

やがて救急車が到着し、二人の子どもを乗せて病院へと運んだ。

病院に到着すると、雅臣は
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