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夜を越える指先

Author: 中岡 始
last update Last Updated: 2025-10-05 14:39:23

時計の針が零時を回ったことに気づいても、佐伯は立ち上がる気になれなかった。雨上がりの街が窓の外に広がり、時折、車のヘッドライトが濡れたアスファルトを淡く照らしていく。リビングのソファに沈み込むように座り、佐伯は手元のスマートフォンをじっと見つめていた。暗い画面には、何度も書いては消した「また会いたい」の文字列が、未送信のまま残されている。

ソファのクッションに沈んだ自分の体が、妙に重く感じる。ワイシャツの袖口から覗く手首の皮膚に、ほんの微かに昨日の夜の余韻が残っている気がした。佐山の指が、自分の胸をなぞった感触。爪先が太腿に食い込む細やかな痛みと、ベッドの中で耳元に落とされた低い囁き声。そのすべてが、今も皮膚の奥で消えずに疼いている。

佐伯はスマホの画面を指先でなぞり、打ちかけては消す。

「また会いたい」

「今度は、いつにする?」

「すぐに会えないか」

メッセージ欄は、すぐ真っ白になる。

送信すれば何かが壊れるような気がして、最後の一押しができない。

雨上がりの湿気がガラス窓にうっすらと曇りをつくり、街路樹の葉から時折雫が落ちる。リビングの時計はまるで誰かの意志で止められたかのように、音も立てずに進み続けていた。佐伯は膝に肘を乗せ、首をうなだれる。佐山と過ごした夜のことを反芻するたび、喉の奥がじくじくと痛む。美咲の姿が脳裏に浮かびかけるたび、罪悪感が腹の底を重くする。

それでも、佐山の顔や手の熱を思い出すだけで、もう何もいらないと思ってしまう自分がいた。あれほど飽きることがなかった美咲の体温でさえ、今はまるで遠い記憶のようだ。今この瞬間、何よりも欲しいのは、佐山の指先と息遣いだけだった。

ソファの脇に置いたグラスの氷は、すでにほとんど溶けてしまっている。冷えた酒を一口喉に流し込む。アルコールの刺激も、心の乾きには届かない。右手の親指でスマホの画面を何度もスクロールし、佐山との過去のやりとりを辿る。

仕事のやりとり、社内の軽口、そして最近ではほとんど深夜の約束ばかりだ。

「今日も会えませんか」

「まだ帰りたくない」

そんなメッセージが、佐山の淡白な返事の隙間に何度も埋まっている。

佐伯はふと

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  • 姉を奪われた俺は、快楽と復讐を同時に味わった~復讐か、共依存か…堕ちた先で見つけたもの   濡れたネオンと、閉ざされた部屋

    タクシーの窓ガラスを打つ雨が、色とりどりのネオンを歪めて流していた。夜の街はしっとりと湿り、明滅する看板の明かりが水の膜をまとって遠く揺れる。佐山は車内の沈黙を壊さず、窓の外を静かに見つめていた。薄い唇はわずかに閉じられ、伏せた睫毛に街灯の光が微かに揺れている。その横顔はときどきアンバーの影に沈み、また照明の下で輪郭を浮かび上がらせた。佐伯は無言で腕を組み、窓に映る自分の顔から目を逸らした。あくまで「ただの飲みの延長」だと自分に言い聞かせる。酔いのせいだ。部下を家に帰すのも面倒だから、流れでホテルに向かうだけ。そんな理由を頭のなかで繰り返してみるが、心臓が規則正しく打つたびに血が騒ぐ。隣にいる佐山の沈黙がやけに意味ありげに思えて、息苦しささえ覚えた。フロントで手続きを終え、エレベーターに乗り込むときも、佐山は一言も余計なことを口にしなかった。静けさのなかで二人だけが箱のなかに閉じ込められると、佐伯は呼吸が浅くなっていくのを自覚した。数字が順に上がり、やがて扉が静かに開いた。廊下を歩く佐山の背中を、何度も目で追いかけてしまう。部屋のドアが開いた。ホテル特有の淡い照明が、薄暗い空間にじんわりと広がる。床には深い青のカーペット。壁際の窓は結露で白く曇り、外のネオンの光がぼんやりと滲んでいる。ふわりとした空気に、冷たい雨の匂いがかすかに混じっていた。「お疲れさまです」佐山が先に部屋へ入り、振り返りながら笑った。その声は少しだけ湿り気を帯びていた。佐伯は無言でコートを脱ぎ、ソファへ身を沈めた。佐山は冷蔵庫からウイスキーのミニボトルを取り出し、氷をグラスに落とす。カランという音がやけに静かに響いた。「ロックでいいですよね」佐山はそう言いながら、琥珀色の液体をゆっくりと注いだ。小さな瓶を傾ける手首の筋、濡れた髪が額にまとわりついている。グラスを差し出された佐伯は、それを無言で受け取り、手元で揺らした。氷が溶けて表面がわずかに曇る。佐山は自分のグラスを唇に運び、舌先で縁をなぞるように味わっている。その仕草が妙に艶めいて見えた。ライトの下で佐山の頬がわずかに赤らみ、睫毛の影が頬に落ちる。静かな部屋に、二人の呼吸とグラスの氷が溶ける音だけが響いていた。

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