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第84話

作者: 魚住 澄音
「ことはさん」

見知らぬ声に、ことはは眉をひそめ、声の方へ顔を向けた。脂ぎった太った顔、意外にも見覚えがある人物だった。

東凌の財務部長、村井恒彦(むらい つねひこ)。

ことはは一瞬、呆然とした。

翔真じゃない。なぜ彼が?!

村井は笑みを浮かべていたが、それは見る者に不快感を与える類のものだった。ハンカチで汗を拭きながら近づいてきて、丁寧に言った。「ことはさん、このような形でお連れしてしまい、大変申し訳ありません」

ことはは疑念を押し殺し、眉を寄せて訊ねた。「村井部長がこんな大掛かりなことをしてまで、私に何の用ですか?」

「ことはさんにお願いがあります」村井は軽く会釈し、誠意を見せた。

その様子を見て、ことはは皮肉な笑みを浮かべた。「お願いの仕方としては、ずいぶん風変わりですね」

「やむを得ない事情だったのです」村井は申し訳なさそうに笑みを添えた。

ことはは、昼間明るみに出た脱税問題と、目の前の村井の立場を照らし合わせ、おおよその見当をつけた。

「それで、一体私に何をしてほしいんですか?」彼女は単刀直入に聞いた。

村井が手を上げると、傍らの男が一枚の紙を手渡した。

それを広げ、ことはの前に示しながら話し始めた。「ことはさんも東凌の件は耳にしているでしょう。私は法律を守り、ただ自分の仕事をしてきただけです。だが、篠原専務は、私にすべての罪を被せて刑務所に行かせようとしています。私には年老いた親や小さな子どもがいて、家族全員、私の稼ぎで生活しているんです。もし捕まれば、この家族はどうやって暮らせばいいのでしょう」

ことはは黙ったまま、紙の内容をざっと読み流した。

しばらくして、口を開いた。「私に罪を着せたいってこと?」

村井は深く笑った。「ことはさんは、話が早いですね」

ことはは呆れたように言い返す。「私は一度も会社に関わったことがないのに、罪を認めたらすぐバレるでしょう?」

「ですが、ことはさん以上に適任な人はいないんです」村井は断言するように言った。「篠原専務はただ、スケープゴートが欲しいだけです。ことはさんが自ら出頭すれば、専務も見て見ぬふりをするでしょう。仮に拘束されても、篠原専務が知れば、あらゆる手を尽くして保釈させるはずです」

「最終的にことはさんは無傷で済むんです。でも、私が行けばきっと何年も刑務所暮らしです」

そう
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