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愛のナビゲーション

愛のナビゲーション

By:  ハカナサCompleted
Language: Japanese
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成瀬翼(なるせ つばさ)のコ・ドライバーとして彼の隣に座り続けてもう十年。私たちはレース界で誰もが認める「最高のパートナー」だった。 だというのに、私が交通事故で流産し、命の危機に瀕していたその時、彼は女助手の島田美耶(しまだ みや)を助手席に乗せて、見せびらかすように街を流していた。 血まみれの私を視界に入れながらも、翼は無慈悲にアクセルを踏み込み、隣の美耶はそれを見て楽しそうに高笑いしていた。 「お願い、病院へ連れて行って……」 縋り付く私に、翼は冷たく吐き捨てた。 「いい加減にしろ。コ・ドライバーのプロが交通事故なんて、演技はやめろ?」 呼吸すらままならず、彼に対する期待は完全に潰えた。 その後、私が別のレーサーのコ・ドライバーになると、翼は一転して嫉妬に狂い始めた。 病院の門の前で三日三晩膝をつき続ける彼を見下ろし、私は眉をひそめて問いかける。 「今度は、あんたこそ演技をやめてくれない?」

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Chapter 1

第1話

私の名前は早瀬凛(はやせ りん)。成瀬翼(なるせ つばさ)のコ・ドライバーとして彼の隣に座り続けてもう十年。私たちはレース界で誰もが認める「最高のパートナー」だった。

だというのに、私が交通事故で流産し、命の危機に瀕していたその時、彼は女助手の島田美耶(しまだ みや)を助手席に乗せて、見せびらかすように街を流していた。

血まみれの私を視界に入れながらも、翼は無慈悲にアクセルを踏み込み、隣の美耶はそれを見て楽しそうに高笑いしていた。

「お願い、病院へ連れて行って……」

縋り付く私に、翼は冷たく吐き捨てた。

「いい加減にしろ。コ・ドライバーのプロが交通事故なんて、演技はやめろ?」

呼吸すらままならず、彼に対する期待は完全に潰えた。

……

病院から帰宅した後、私は久しぶりにあの番号に電話をかけた。

「池田監督、あなたのチームに加入します。三日後に会いましょう」

受話器の向こうから、驚きと喜びに満ちた声が聞こえた。

「本当か、凛! 私のチームには、君の席がいつでも空いているよ!」

電話を切ると、玄関から聞き慣れた足音が響いた。

翼がひどく酔っ払った様子で、千鳥足で部屋に入ってくる。

A1チームのエースドライバーとして、彼は一生酒飲まないと誓ったはずだった。

だがその言葉は、私を永遠に愛するという約束と同じで、二度と果たされることはない。

翼は水を求めて家中を歩き回り、ようやく私の腕に巻かれた包帯に気づいた。

今日の午後、妊娠検査の結果通知書を持って彼に会いに行った際、私は交通事故に遭った。

全身に複数の傷を負い、そしてお腹の子も失った。

彼の視線が鋭くなり、信じられないといった様子で口を開いた。

「まさか、本当に事故に遭ったのか?」

私は無表情に頷いた。

彼が私の怪我を確認しようと近づいてきた時、私はそれを避けて静かに言った。

「ただのかすり傷よ」

翼は何事か考えるように、ふっと笑った。

「ああ、確かに。お前はうちのチームで最高のコ・ドライバーだからな。

そうだ、これからはちょっとした擦り傷も作るなよ。もしメディアに撮られたら、また大騒ぎになるから」

翼は私にはいつも厳しかったが、助手の美耶には極めて甘かった。

美耶は彼から半年も運転を教わっているのに、いまだに免許すら取れない。

それでも翼は彼女を慰めていた。

「覚えられなくても構わないさ。いっそ俺の助手席にお前を乗せてやるから」

彼が本心で言っているのか、それとも無意識なのかは分からない。

彼の隣、助手席。

そこはコ・ドライバーの席だ。

私の場所なのに!

その時、翼は突然手品でもするように、ベルベットの小さなギフトボックスを取り出した。

「明日は五連覇の祝勝会だ。お前にサプライズがあるんだ!」

私の胸が、激しく震えた。

彼を十年間ナビゲートし、五年間同居してきた。言葉にせずとも分かり合えている関係だと思っていた。

けれど今日に至るまで、翼が私たちの関係を公にすることは一度もなかった。

あのベルベットの小箱には、十中八九、プロポーズの指輪が入っているのだろう。

かつての私が、夢にまで見たものだ。

けれど今、もうそんなものは欲しくないのだと気づいてしまった。

翌日、私は退職願を手に個室のドアの前まで歩み寄った。

すると、美耶があの小箱を指先でもてあそびながら、好奇心に満ちた声を出すのが聞こえた。

「翼さん、みんなに内緒で凛にプロポーズするつもり?」

翼は彼女に覆いかぶさり、隠そうともせずに身体を密着させていた。

彼は無造作に箱を奪い取ると、わずかに隙間を開けて美耶に見せ、鼻で笑った。

「プロポーズ? よく見てみろ、これが何に見える?」

周囲の人間がすぐに囃し立てる。

「指輪じゃないなら何なんだよ?」

中身を確認した美耶が、意味深な笑みを浮かべた。

「みんなも当てて? あの『盲導員』に、どんなプレゼントが相応しいって?」

「盲導員」というのは、彼女が裏で私に付けた変なあだ名だ。

ドライバーは時に視界が制限されるため、コ・ドライバーが周りの状況を的確に把握し、ナビゲートするという重要な役割を果たす。ドライバーの「目」だといっても過言ではない。

だが彼女の口を通せば、それはまるで「盲導犬」のような存在にすり替えられてしまう。

誰かがすぐに笑い声を上げた。

「おいおい、コ・ドライバーのことを盲導犬みたいに言うな……でもプレゼントって言ったら……もしかして、犬の首輪だろうな?」

この十年間、私たちを知る者なら誰もが知っていた。三倍の報酬を提示して、私を引き抜こうとするチームはいくらでもあるが、私が一度も首を縦に振らなかった。
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第1話
私の名前は早瀬凛(はやせ りん)。成瀬翼(なるせ つばさ)のコ・ドライバーとして彼の隣に座り続けてもう十年。私たちはレース界で誰もが認める「最高のパートナー」だった。だというのに、私が交通事故で流産し、命の危機に瀕していたその時、彼は女助手の島田美耶(しまだ みや)を助手席に乗せて、見せびらかすように街を流していた。血まみれの私を視界に入れながらも、翼は無慈悲にアクセルを踏み込み、隣の美耶はそれを見て楽しそうに高笑いしていた。「お願い、病院へ連れて行って……」縋り付く私に、翼は冷たく吐き捨てた。「いい加減にしろ。コ・ドライバーのプロが交通事故なんて、演技はやめろ?」呼吸すらままならず、彼に対する期待は完全に潰えた。……病院から帰宅した後、私は久しぶりにあの番号に電話をかけた。「池田監督、あなたのチームに加入します。三日後に会いましょう」受話器の向こうから、驚きと喜びに満ちた声が聞こえた。「本当か、凛! 私のチームには、君の席がいつでも空いているよ!」電話を切ると、玄関から聞き慣れた足音が響いた。翼がひどく酔っ払った様子で、千鳥足で部屋に入ってくる。A1チームのエースドライバーとして、彼は一生酒飲まないと誓ったはずだった。だがその言葉は、私を永遠に愛するという約束と同じで、二度と果たされることはない。翼は水を求めて家中を歩き回り、ようやく私の腕に巻かれた包帯に気づいた。今日の午後、妊娠検査の結果通知書を持って彼に会いに行った際、私は交通事故に遭った。全身に複数の傷を負い、そしてお腹の子も失った。彼の視線が鋭くなり、信じられないといった様子で口を開いた。「まさか、本当に事故に遭ったのか?」私は無表情に頷いた。彼が私の怪我を確認しようと近づいてきた時、私はそれを避けて静かに言った。「ただのかすり傷よ」翼は何事か考えるように、ふっと笑った。「ああ、確かに。お前はうちのチームで最高のコ・ドライバーだからな。そうだ、これからはちょっとした擦り傷も作るなよ。もしメディアに撮られたら、また大騒ぎになるから」翼は私にはいつも厳しかったが、助手の美耶には極めて甘かった。美耶は彼から半年も運転を教わっているのに、いまだに免許すら取れない。それでも翼は彼女を慰めていた。「
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第2話
无名だった翼が五連覇を成し遂げるまで、私はずっと隣にいた。片時も離れず、彼の背中を追い続けてきた。しかし、奴らの目には、私は翼の「飼い犬」同然に映っている。翼は美耶の頬をつねり、からかうように笑った。「そんな言い方やめろ。凛はコ・ドライバーだ、盲導犬なんかじゃない」美耶は負けじと、翼の指先に軽く噛みついて甘えるように笑う。「誰がそんなこと言ったのよ~」美耶は色っぽく彼を睨むと、嬉しそうに翼の膝の上に座った。大勢の目の前で、二人は睦み合い始めた。私は拳を握りしめ、半開きになっていたドアを押し開けて中に入った。招かれざる客の登場に、個室の中は一瞬で静まり返った。死のような沈黙の中、私はテーブルの上に退職願を置き、そのまま背を向けて立ち去った。私が翼に対してこれほどまでに冷たい態度を取ったのは、これが初めてだった。彼の顔から余裕の笑みが消える。背後から、連中のひそひそ話が聞こえてくる。「凛のやつ、怒ったのか? そんなことで?」「おい見てろよ、退職願だってさ。ふん、随分と偉くなったもんだな」「笑わせるぜ。このタイミングで辞めるなんて。翼さんがいなきゃ、あいつなんて何者でもないだろうが」遠ざかる私を追って、美耶がいきなり私の手を掴んだ。「凛さん、そんなに急いで行かないで。あなたが違法レースした件、退職願一枚でチャラにできると思ってるの?」私は眉をひそめた。「違法レース……?」美耶は意味深な笑みを浮かべ、一本の監視カメラの映像を私の前に突きつけた。「私が間に合わなかったら、この動画が世に出てたのよ。その責任、取れると思ってる?凛さん、一体何が不満なの? 自分キャリアを台無しにするのは勝手だけど、チーム全体を巻き込まないでくれる?……もしかして、私のせい? 私のことが気に入らないなら、いっそ私が辞めたら……」レーサーにとって、公道での違法な暴走行為はライセンス剥奪や出場停止だけでなく、巨額の違約金が発生する重大な不祥事だ。私を罵る声が上がり始めた。恩知らずだと。翼が最も輝いているこの瞬間に、彼を破滅させようとしているのだと。なぜ美耶が辞めなければならないのか、さっさと消えるべきなのは私の方だ、と吐き捨てる者もいた。監視カメラの映像に映っている人物は私に酷似していたが
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第3話
舞い散る紙屑が、ひらひらと私の上に降りかかる。重さなどないはずなのに、息ができないほどの圧迫感に襲われた。これが彼のプレゼント? これが彼のサプライズ? 彼はみんなの前で、私に対する絶対的な支配と権威を誇示したかったのだろう。私は翼の目をじっと見つめ、その中に後ろめたさを探した。ほんの微塵でもいい。けれど、翼の顔には依然として憤りしかなかった。まるで見せしめのように、私の罪をあらかじめ宣告しているかのようだ。私が反応する間もなく、翼はいきなり私の手首を掴んで外へと引きずり出した。「帰るぞ!」後部座席に押し込められ、ふと目を上げると助手席にラベルが貼ってあるのが見えた。【美耶専用席】またしても、胸が激しく抉られた。十年間、レース中以外で彼の助手席に座ることを、彼は決して許さなかった。翼の言い分はこうだ。「俺たちはパートナーだ。栄光のために戦っているんだ。もし付き合っていることがバレたら、プロのレースがままごと扱いされるだろ?」彼はかつて、誓うようにこう言った。「安心しろ。俺の助手席は、絶対に他の人に座らせない」その言葉を信じたからこそ、私は十年間、脇目も振らずに彼の隣に座り続けてきた。なのに、今は。彼の助手席は、美耶の指定席になっている。溜め込んでいた感情が、この瞬間に限界を迎えた。私が車を降りようとするより先に、翼がドアロックをかけた。彼はそのラベルを見つめ、珍しく私に釈明した。「変な勘ぐりをするな。若い女の子は、こういうキラキラした飾り付けが好きなだけだ。それに美耶はただの助手だ。助手席に乗っていても、変な噂が立つこともないだろ」込み上げていた怒りが、一瞬で氷のように冷え切った。若い女の子。十年前、翼もよく私のことをそう呼んでいた。けれど、私はもう二十八歳だ。安っぽい飾り付けを喜ぶような、若い女の子ではもうない。ふと、ある言葉が頭をよぎった。――永遠に若くいられる人間なんていない。けれど、若い誰かは、常に現れるものだ。その時、池田監督から電話がかかってきた。航空券の手配は済んだかという確認と、息子の隼人(はやと)を迎えに寄越すという連絡だった。私は礼を言い、穏やかな声で返した。「明後日の午後三時ですね。お手数をおかけします
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第4話
彼がスマホを一瞥するなり、顔色は劇的に変わった。「凛! お前狂ったのか!?」呆然とする私に反応する暇も与えず、突如として顔が叩かれた。翼は私の襟首を強く掴んで外へと引きずり出し、悪鬼のような形相で吐き捨てた。「美耶に万が一のことがあったら、お前も道連れにしてやるからな!」頬の焼けるような痛みを感じながら連れて行かれた病院で、青ざめた美耶の姿を見て、ようやく翼の激昂の理由を悟った。三十分前、美耶のもとに届いた宅配便の中には、愛犬の死体が入っていたという。彼女はそれを見て、あまりの恐怖にその場で失神したのだ。意識を取り戻した彼女が見つけたのは、脅迫状だった。【映像を消せ。さもなければ、次は貴様の番だ】そこには、私の筆跡にそっくりな文字が並んでいた。泣きじゃくる美耶を前に、翼は痛ましそうに彼女を抱き寄せた。彼は犯人が私だと決めつけ、警察に通報しようとスマホを取り出した。だが、それを美耶が必死に止めた。彼女は目を真っ赤に腫らし、声を詰まらせながら訴えた。「ダメよ……! 明後日は大事なエキシビションがあるの。警察沙汰になったら、チーム全体に影響が出ちゃうわ」愛犬を殺されたというのに、なおチームの心配をする彼女。なんて責任感のある助手なのだろう。周囲の人間は、私が大罪でも犯したかのように憎悪に満ちた視線を向けてくる。翼は深く息を吐き出すと、冷徹な声で私に命じた。「跪け。美耶に謝れ」私は眉をひそめ、鋭い声で言い返した。「私の仕業じゃない。どうして謝る必要があるの!?」だが言い終わらぬうちに、膝の裏を強く蹴り上げられた。不意を突かれた私は、そのまま美耶の前に屈辱的な姿勢で膝をつかされた。「凛、ルナたんは美耶とずっと一緒にいた家族みたいな存在なんだぞ! よくもそんな残酷な真似を……!美耶を脅迫までするなんて、何様のつもりだ。この狂った女、消えちまえ!」背後から容赦ない罵声が飛ぶ。振り返ろうとしたその瞬間、氷がぎっしり詰まった水が、頭から浴びせられた。水を浴びせたのは、他でもない美耶だった。彼女は全身を震わせ、ヒステリックに叫んだ。「凛さん、これで頭を冷やしなさいよ! 謝罪なんていらない! 私のルナたんを返して、今すぐ返してよ!」周囲の罵声が飛び交う中、彼女は私の肩を強く掴み
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第5話
目を覚ました時、周囲には誰もいなかった。辺りは薄暗く、しんと静まり返っている。まるで世界中に見捨てられたかのような、ひどい孤独感に襲われた。看護師が部屋に入ってくると、同情な口調で言った。「成瀬さんからの伝言です。『流産したような体でレースなんて無理だから、三年間は停職処分にする』と。それから、暴走行為と脅迫の件については、エキシビションが終わってから改めてケリをつけると言い残していきました」私が黙っていると、看護師はさらに言葉を選びながら、おずおずと尋ねてきた。「早瀬さん、成瀬さんとは本当にお付き合いされていたわけじゃないんですか? 私、実はずっとお二人を応援していたんです。でも、まさか他に好きな方がいたなんて……成瀬さん、あなたの流産を知った時、信じられないほど激昂されて。ひどく傷ついた様子で、『どうして俺を裏切ったんだ』って、何度も私たちに詰め寄っていましたよ……」看護師がその後に何を言ったのか、私はもう聞いていなかった。スマホを確認すると、丸二十四時間も眠り続けていたことが分かった。明日にはここを去る。だが、その前に片付けておくべきことがある。私は迷わず警察に通報した。警察の協力を得て、美耶が握っていたあの映像を入手した。同時に、私自身の完璧なアリバイを提出した。映像の中で私に似た人物が暴走していたその時刻、私は病院で妊婦検診を受けていたのだ。ルナたんの死体はすでに消えていたが、警察は私の足取りと通信記録をすべて調べ上げた。私には、あの犬を殺す時間も動機も一切なかった。脅迫の件についても、警察が直接証拠を押さえた。私の筆跡と美耶に届いた手紙を科学的に照合した結果、すぐに私の潔白は証明された。これら二つの件をすべて処理し終えたのは、翌日の午前中だった。私は会社に戻り、退職願とあのベルベットの小箱を翼のデスクの上に置いた。それから、自分の荷物をまとめ始めた。だが、あるはずのペースノートが、どこにも見当たらなかった。チームの同僚たちはそれを見て、口元を抑えてクスクスと笑った。「凛、あんたのキャリアもこれで終わりね。三年間も停職なんて、いっそ辞めちゃえば?」「翼さんはもう美耶を連れて気晴らしに出かけたわよ。十年間も尽くして、最後はこんな展開になるなんて」「ああ、
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第6話
エキシビション開始まであと一時間。翼は苦虫を噛み潰したような顔で、苛立ちまぎれに私に電話をかけた。だが、受話器から聞こえてきたのは、無機質な提示音だった。「おかけになった電話は……」……飛行機を降りると、人混みの中にすぐ池田監督の息子、隼人を見つけた。どこか厭世的で冷淡な顔立ちに、暗く沈んだ瞳は冷ややかで深みがある。まるで、ライバルを値踏みするかのような視線だ。しばらく視線を交わした後、先に根負けしたのは彼の方だった。耳の先端をわずかに赤く染めながら私の前に歩み寄ると、高慢な態度で私を睨みつけた。「あんた、あの翼のコ・ドライバーだろ?親父のやつ、なんであんたをあんなに宝物みたいに扱うんだよ。おい、一体何者なんだ? この俺に直々に迎えに来させるなんてさ」口は悪いが、その手はごく自然に私のスーツケースを受け取っていた。車に乗り込むと、助手席に腰用のクッションが置いてあることに気づいた。隼人は何かを必死に隠すように無愛想な表情を浮かべていたが、結局はポツリと説明した。「親父が言ってたんだ。あんた、腰を痛めてるんだろって」カーナビによれば、空港から目的地までは車で一時間。私は口角を微かに上げた。「……ありがと」それから、息の詰まるような沈黙が流れた。だが、私が平然としていれば、気まずい思いをするのは彼の方だ。案の定、二十分後、隼人はたまらずカーステレオをつけた。最初に流れてきたのは、翼に関するニュースだった。エキシビションは成功裏に終わった。助手席の美耶は美しく、そして静かだった。翼は彼女を乗せて完走し、見事一位を勝ち取ったという。美耶は実に完走するまでペースノートを一ページもめくることはなかった。でも「お飾り」としては、なかなかの出来だった。私のスマホにも、彼を称賛するニュースが溢れかえっている。狭い車内には、翼に対する崇拝と尊敬の声が響き渡っていた。五連覇達成、史上最年少のラリーチャンピオン。確かに、今の翼は誰の目にも眩しいほどに輝いている。積み上げられた無数の栄光が、彼に初心を忘れさせたのだ。その時、美耶からビデオ通話がかかってきた。どうして彼女をブロックし忘れていたんだろう。画面に触れた拍子に、うっかり受話ボタンを押してしまった。美
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第7話
今になってようやく気づいた。翼は一度も、私との関係を正式に認めたことはなかった。「好きだ」と言い、永遠の愛を誓うことはあっても、決して「恋人」や「愛する人」という明確な肩書きを私に与えることはなかったのだ。この十年間、私はなんて滑稽で馬鹿げた時間を過ごしてきたのだろう。新しいチームに移籍し、私は隼人のコ・ドライバーになった。トレーニングを始める前、池田監督はまたおずおずと確認した。「凛さん、本当にうちの馬鹿息子のコ・ドライバーに乗ってくれるのかい?」私が答える前に、隼人は不機嫌そうに顔をしかめて小声でこぼした。「俺のコ・ドライバーをすることが、そんなに不満だってのかよ」隼人のドライビングテクニックは以前から知っていた。翼に次ぐ実力だ。彼を選んだ理由は、一見不真面目そうでいて、その走りが極めて「堅実」だからだ。池田監督の教えが行き届いている。だが、それだけではまだ足りない。次の大きな目標は、過酷なダカール・ラリーへの参戦だ。彼にはさらなる訓練が必要だった。新しいチームでの生活が始まり、私は驚くほどスムーズに馴染んでいった。ここでは女だからと差別されることも、かつて翼のパートナーだったからと疎まれることもなかった。新生活三日目。見知らぬ番号からショートメッセージが届いた。【凛、会いたい。流産のことは俺が悪かった。許してくれ、いいだろ?】私は眉をひそめ、その番号を即座にブロックした。翌日のトレーニング後、また翼からメッセージが届く。【一体どこにいるんだ? 謝ってるだろ、これ以上どうしろって言うんだ? 土下座でもすれば気が済むのかよ!】三日、四日、五日……毎日同じようなメッセージが届き続けた。まるで肌に深く刺さった棘のようだ。ついに耐えかねた私は、電話番号を変えることにした。十数年も使い続け、いろんなアプリやアカウントに紐付いた番号だ。これまでは変える手間を惜しんでいたけれど、今の翼は、ただただ鬱陶しいだけだった。三ヶ月後。プレテストの会場で、私は再び翼と顔を合わせた。彼はいきなり私の手首を掴むと、掠れた声で言った。「……やっと怒りが収まったのか? 俺のレースを見に来てくれたんだな」私が口を開くより先に、隼人が私の腕を引いて自分の背後へと隠した。彼はそのまま、
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第8話
思わず、彼の頬を力いっぱい張り飛ばした。「私が事故に遭った時、あんたは一体どこで何をしていたの!? 今さらどの面下げてそんなことが言えるわけ?」もし彼が子供のことを持ち出さなければ、まだ冷静に話ができたかもしれない。けれど、それだけは絶対に口にしてはならないことだった。あの日、私がどれほど彼との温かい家庭を夢見ていたか、彼は何も分かっていない。「翼、私はもう、あなたに対して、もう尽くせることはすべて尽くしたわ。あとは勝手にしなさい」私が立ち去ろうとすると、翼の顔から怒りが消え、代わりに焦燥が浮かんだ。今回の私がただ怒っているだけでなく、完全に愛想を尽かしたのだと、彼はようやく気づいたのだ。彼は私の手を掴んで必死に引き止めた。「凛、十年前のあの約束を忘れたのか?」「結婚したいんだろ? 分かった、結婚しよう! このダカール・ラリーが終わったらすぐに籍を入れよう、な?」「戻ってきてくれ。お前以上に完璧なコ・ドライバーなんてどこにもいないんだ。お前がいないこの数ヶ月、俺は……本当に調子が狂って仕方ないんだ……」十年前の約束、なんてよく言えたものだ。私は呆れて笑いそうになった。十年前、謙虚で志に溢れていたあの少年は、繰り返される勝利と栄光に溺れ、すっかり自分を見失ってしまった。かつての彼は「初心を忘れない」と言っていた。けれど今の彼は、数えきれないほどの拍手と喝采の中で、その初心から最も遠い場所にいる。彼を愛していたことは認める。けれど今は、もう愛していない。この男が、いつからか忌々しい存在に変わってしまった。私は彼の目を真っ直ぐに見据え、一文字ずつ噛み締めるように言った。「約束? あなた、これまで山ほど誓いを立ててきたけど、一つでも果たしたことがある?愛してもいない男と、どうして結婚しなきゃいけないのよ。もういいわ、時間の无駄……サーキットで会いましょう」チームに戻ると、隼人は私の機嫌が悪いことを察したのか、どこかで小さなケーキを買ってきた。私の冷ややかな視線に気づくと、彼は決まり悪そうに顔を逸らして呟いた。「……ネットで調べたら、女の子の機嫌を取るにはこれが一番だって書いてあったんだよ」私はため息をつき、そのケーキを受け取って一口食べた。「デリカシーのない男は動
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第9話
「な、何をデタラメ言ってるの!? 私はそんなこと……」言い終わる前に、私は洗車の汚水を彼女の頭から思い切りぶっかけた。「あら、思い出せない? 少しは頭を冷やさせてあげようか?」美耶は一瞬で泥まみれの無惨な姿になった。汚水が頭から足先まで滴り落ちる。彼女が悲鳴を上げようと口を開いた瞬間、ドロドロの汚水がその喉の奥まで流れ込んだ。私は彼女の髪をひっ掴み、冷ややかに笑った。「辛い? 残念ながらここには氷がないの。あれば、しっかり頭を冷やさせてあげられたのに……」美耶は必死に抗ったが、無駄だった。彼女は忘れているだろう。モータースポーツの世界に身を置く者の体力は、並の人間より強いことを。あの時は流産の手術直後で体がボロボロだったし、彼女の周りに男たちが何人もいたから、美耶を痛い目に遭わせる勝ち目なんてなかった。でも今は彼女一人だけ。こんな女を片付けるなんて、造作もないことだ抵抗できないと悟った美耶は、泣き叫びながら助けを求めた。私は彼女を水道の蛇口まで引きずっていき、その腐った脳みそごと洗ってやろうとした。その時、背後から翼の声が響いた。「……凛」翼の声を聞いた美耶は、さらに激しく泣きじゃくった。「翼さん! この狂った女に殺されるわ! 早く助けて……!」私が手を緩めると、彼女は素早く翼の足元まで這い寄り、必死に彼の腕にすがろうとした。けれど、翼は迷うことなく彼女を突き放した。美耶はそのまま地面に凍りついた。「……翼さん?」翼は汚水まみれの美耶を汚物でも見るかのような目で見下ろし、正義面をして言い放った。「婚約者の前だ。そんな親しげに呼ぶな」「婚約者……?」美耶は思考が追いつかない様子で、呆然と私に視線を向けた。「あなたの婚約者って……凛のこと?」翼は頷き、私の方へ歩み寄ってきた。彼が私の手を握ろうとしたその瞬間、隼人の姿が現れた。「成瀬さん、あんた本当にしつこいな。凛はもう愛してないって言ってるだろ。いつまでストーカーみたいに付きまとうつもりだ?」次の瞬間。翼の拳が隼人の頬にめり込んだ。「お前が俺の妻をたぶらかしたんだな! 凛は俺のものだ!」隼人が呆然とする間もなく、私は直接、翼に向かって蹴りを見舞った。「いい加減にしなさいよ!さっさと消えて」
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第10話
その言葉を聞いた瞬間、鼻の奥がツンと熱くなった。堪えきれず、涙が頬を伝い落ちる。少し離れた場所にいた翼の反応は、私よりも激しいものだった。彼は頭を抱えて地面にうずくまり、何度も何度も地面に拳を叩きつけていた。事情を知らない者がそれを見れば、優勝を逃した悔しさに打ち震えているように見えただろう。けれど、その本当の理由を知っているのは私だけだ。彼が最初の優勝を手にしてから今日に至るまで、そんな言葉を口にしたことは一度もなかった。おそらく彼の心の中では、優勝できたのはドライバーである自分の腕が凄かったからであり、コ・ドライバーの功労など考えてもいなかったのだろう。今日この時になってようやく、彼は私という存在がいなければ何も成し遂げられない自分に気づいたのだ。今年最後のレースは、誰もが注目するパイクスピーク。隼人と規定に従ってコース下見に向かった際、驚いたことにA1チームの連中がコース内に直接寝泊まりしているのを発見した。明らかにレギュレーション違反だが、この業界ではそれが常態化していることも私たちは知っている。レース当日、隼人は珍しく私の手を握った。「緊張するな。俺がついている」私は彼をじっと見つめ、小さく頷いた。コースの片側には険しい山壁がそびえ立ち、もう片側はガードレールのない断崖絶壁。まさに、ドライバーの勇気と技術が極限まで試される場所だ。だが、この死と隣り合わせの凶険なコースを、凛は手に取るように熟知していた。だがその時、背後から叫び声が響いた。「危ない!」反応する間もなく、隼人が私を力いっぱい突き飛ばした。私が振り返った時には、隼人の左足が無残にも鉄骨の下敷きになっていた。鮮血が広がり、彼は苦痛に顔を歪めながら足を引き抜いた。医療スタッフがすぐに彼を囲み、緊急搬送の準備を始める。だが、隼人はそれを頑なに拒絶した。レース開始まで、あと二十分しかない。今ここで病院へ行けば、それは棄権を意味するからだ。鮮血が、彼のズボンの裾をじわじわと染めていった。私は深く息を吸い込み、隼人に歩み寄って声を潜めた。「病院へ行って。この優勝トロフィーは、私が代わりに獲ってきてあげる」隼人はその後半の言葉を聞いた瞬間、その場に呆然と立ち尽くした。しばしの沈黙の後、彼は力
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