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棄てられた花嫁は、もう泣かない

棄てられた花嫁は、もう泣かない

Por:  筋肉ゴリラ193Completado
Idioma: Japanese
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秋庭清海(あきにわ きよみ)がひとりで妊婦健診に訪れていたその日、突如として大地震が病院を襲った。そこに居合わせた別の妊婦とともに、薄暗い検査室に閉じ込められてしまう。 落下した重い機材が腹部を直撃し、あまりの激痛に意識が遠のきかけた。 暗闇の中、一緒に閉じ込められた妊婦が声をかけてきた。 「私、桑垣千鶴(くわがき ちづる)っていいます。ふたりで頑張って持ちこたえましょう。きっと誰かが助けに来てくれます」 清海は痛みで力が抜け、声が途切れ途切れになった。 「夫に……電話をかけてもらえませんか。あの人、特別救助隊の隊長なんです」 千鶴は診察台の下から必死に清海のスマホを拾い上げ、【旦那】と登録された番号へ発信した。何回かけても、誰も出なかった。 やがてバッテリーが尽き、画面が真っ暗になった。 千鶴が清海を励まそうと声をかけた。 「大丈夫、私の夫も特別救助隊で働いているの。きっと助けに来てくれるわ」 千鶴は自分のスマホをスピーカーモードにした。呼び出し音が1回鳴り、すぐに繋がった。 「あなた、助けて……っ!」 千鶴がひとこと泣きついただけで、電話の向こうの相手は落ち着いた声で即答した。 「怖がらなくていい。すぐ行く」 スピーカー越しに重機の音が響き、大勢の人が病院へ駆けつけてくる気配が伝わってきた。それなのに清海は、氷水に突き落とされたような心地になった。 電話の向こうから聞こえた低い声が、夫の河合稔(かわい みのる)の声とそっくりだったからだ。

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Capítulo 1

第1話

呆然とした瞬間、体にのしかかる機材を必死に支えていた手の力が一瞬緩み、お腹に鋭い痛みが走った。

それでも彼女は痛みを堪え、自分に言い聞かせた。きっと、たまたま声の似た別人なのだろう。稔は特別救助隊の隊長として普段から忙しく、返信をくれることさえ滅多にないのだから。

任務の合間に彼が送ってくるのは、数字だけだった。

1は、無事。

2は、今日帰る。

3は、今夜は夫婦の時間を過ごす。

そのやり取りは業務連絡のように事務的で、温もりのかけらもなかった。

不満を口にしようとするたび、姑は決まってこう言った。「あの子は人助けをする立派な仕事をしてるんだから、あんたも思いやりを持ちなさい」と。

清海はそれを飲み込んできた。7年間、ずっと。

外の騒がしさに我に返った。頭上の瓦礫が取り除かれ、隙間から一筋の光が差し込んだ。

「隊長!妊婦ふたりが梁の下敷きです!どちらかひとりしか助けられません!もうひとりは崩落に巻き込まれる危険があります!」

清海が顔を上げると、視界に稔の顔が飛び込んできた。

「稔……」

思わず名を呟いた。

視線が絡んだ瞬間、稔は目を見開いた。

「隊長!時間がありません、どちらかひとりしか選べません!」

傍らにいた千鶴が嗚咽を漏らし、小さく呼んだ。

「あなた……」

その声は重機の音にかき消されるはずだったのに、稔は一瞬で聞き取った。

「彼女を助けろ」

彼が指し示したのは清海ではなく、千鶴だった。

ゴォッ!

千鶴が救い出された瞬間、バランスを崩した瓦礫が清海めがけて崩れ落ちてきた。

「きゃあっ!」

悲鳴が漏れる。膨らんだお腹を引き裂くような激痛が走り、まるで誰かに力任せに内臓を引きずり出されるようだった。

生温かい血がゆっくりと流れ出すのを感じながら、清海の意識は闇に呑まれた。

……

再び目を開けたとき、清海は病室のベッドに横たわっていた。

あれほど膨らんでいたお腹はもう平らで、医師がため息をついた。

「ご家族とはまだ連絡が取れませんか。腹部に大きな損傷を受けていて……赤ちゃんは残念ながら助かりませんでした。子宮も摘出することになったため、今はどなたかの付き添いが必要です」

稔が迷いなく他の女を選んだあの瞬間を思い出し、清海の心は冷えていった。

込み上げる涙をこらえ、「家族はいません」とだけ答えた。

医師は同情の色を浮かべた。

「くれぐれもお大事に。河合隊長の奥様も怪我をされていて、隊長から、できるだけ多くの医師に診てもらいたいと頼まれているんです」

医師が病室を出ていく間際、ふと小さく呟くのが聞こえた。

「同じ妊婦なのに、運命ってこうも違うものなんだな」

その言葉ははっきりと清海の耳に届き、思わず涙がこぼれ落ちた。

どうしても分からなかった。愛していたはずの人が、なぜ自分を裏切ったのか。稔はいつから、外に家庭を持っていたのか。

病室のドアが開き、稔は涙の跡が残る清海を見つめ、気まずそうに唾を飲み込んだ。

「子どもはまた作ればいい。救助任務では生存率の高い方を優先するのが常識だ。騒ぐな」

清海は苦笑を浮かべた。

死の淵から這い上がってきた妻に、稔は体の具合すら尋ねなかった。開口一番「また作ればいい」、次に出た言葉は「騒ぐな」。

心臓が締めつけられるように痛む。顔を上げ、彼女は問いかけた。

「千鶴さんは、どうしてあなたのことを夫だと言ったの?」

そのひとことを口にした瞬間、清海は瞬時に悟った。稔の目の奥をよぎった警戒の色を。

まるで、彼女が千鶴を責め立てるのを恐れているかのようだった。

「千鶴は殉職した仲間の未亡人だ。うつ病を患っていて、何度も命を絶とうとした。だから……」

「だからあなたが彼女を口説いて、不倫相手として外に囲っていたっていうの?」

「彼女は不倫相手なんかじゃない!」

稔が彼女の前で初めて感情をあらわにした瞬間だった。それも、別の女を守るためだけに。

自分の語気が強すぎたと気づいたのか、彼はひとつ深呼吸をした。

「とにかく、千鶴の前には現れるな。お前はちゃんと体を休めろ。俺はまだ救助任務がある」

そう言い残し、彼は背を向けて去っていった。

清海の涙はどうしても止まらなかった。

「……稔、離婚しましょう」

しかし、稔は足早に立ち去っていく。清海が口にしたその言葉さえ、彼の耳には届いていないようだった。

「稔!」

清海は布団をはねのけ、お腹の傷口を押さえながら彼の後を追った。

胸の奥から怒りが込み上げる。なぜいつも自分ばかりが我慢しなければならないのか。

なぜ自分には、声を上げる権利さえないというのか。

稔は遠くへは行かず、隣の病室の前で足を止めていた。

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第1話
呆然とした瞬間、体にのしかかる機材を必死に支えていた手の力が一瞬緩み、お腹に鋭い痛みが走った。それでも彼女は痛みを堪え、自分に言い聞かせた。きっと、たまたま声の似た別人なのだろう。稔は特別救助隊の隊長として普段から忙しく、返信をくれることさえ滅多にないのだから。任務の合間に彼が送ってくるのは、数字だけだった。1は、無事。2は、今日帰る。3は、今夜は夫婦の時間を過ごす。そのやり取りは業務連絡のように事務的で、温もりのかけらもなかった。不満を口にしようとするたび、姑は決まってこう言った。「あの子は人助けをする立派な仕事をしてるんだから、あんたも思いやりを持ちなさい」と。清海はそれを飲み込んできた。7年間、ずっと。外の騒がしさに我に返った。頭上の瓦礫が取り除かれ、隙間から一筋の光が差し込んだ。「隊長!妊婦ふたりが梁の下敷きです!どちらかひとりしか助けられません!もうひとりは崩落に巻き込まれる危険があります!」清海が顔を上げると、視界に稔の顔が飛び込んできた。「稔……」思わず名を呟いた。視線が絡んだ瞬間、稔は目を見開いた。「隊長!時間がありません、どちらかひとりしか選べません!」傍らにいた千鶴が嗚咽を漏らし、小さく呼んだ。「あなた……」その声は重機の音にかき消されるはずだったのに、稔は一瞬で聞き取った。「彼女を助けろ」彼が指し示したのは清海ではなく、千鶴だった。ゴォッ!千鶴が救い出された瞬間、バランスを崩した瓦礫が清海めがけて崩れ落ちてきた。「きゃあっ!」悲鳴が漏れる。膨らんだお腹を引き裂くような激痛が走り、まるで誰かに力任せに内臓を引きずり出されるようだった。生温かい血がゆっくりと流れ出すのを感じながら、清海の意識は闇に呑まれた。……再び目を開けたとき、清海は病室のベッドに横たわっていた。あれほど膨らんでいたお腹はもう平らで、医師がため息をついた。「ご家族とはまだ連絡が取れませんか。腹部に大きな損傷を受けていて……赤ちゃんは残念ながら助かりませんでした。子宮も摘出することになったため、今はどなたかの付き添いが必要です」稔が迷いなく他の女を選んだあの瞬間を思い出し、清海の心は冷えていった。込み上げる涙をこらえ、「家族はいません」とだけ答えた。医師は
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第2話
清海は病室の入口の覗き窓越しに中を見た。稔が病床の前にしゃがみ込み、千鶴の膨らんだお腹へ耳を押し当てている。「赤ちゃん、よく動くか?」その声はどこまでも優しい。千鶴が笑う。「ふふ、そんなに気を張らなくていいのに。母子健康手帳を受け取る手続きから健診、胎教までひとつも抜かりがなくて。知らない人が見たら、あなたのことを育児の専門家だと思うんじゃない?」清海は唇を強く噛みしめた。妊娠してからの6か月間、彼女はずっとひとりで、役所にも病院にもひとりで通ってきた。体調がひどく悪いとき、稔に病院へ付き添ってほしいと頼んだことがある。そのたびに稔は険しい顔でこう言った。「俺の救助任務は非常に重要だ。一瞬たりとも気を抜けない。俺の妻である以上、結婚したその日から、ひとりでやっていく覚悟を決めておくべきだろう」彼には時間がなかったわけではない。ただ、世話をしたい相手が自分ではなかっただけなのだ。病室の中で稔のスマホが震え、彼は笑いながらスピーカーモードにした。「千鶴ちゃん、怖い思いしなかったかしら?お母さんから20万円のお小遣いあげるから、しっかり体を休めなさいね」清海は苦笑いを浮かべた。姑の声だった。たった1日前には、清海の妊娠中の出費が多すぎる、稔のためにお金を節約する気がないと文句を言っていたはずなのに。その舌の根も乾かぬうちに、千鶴には20万円もの小遣いを渡している。目は泣き腫らしているのに、清海の涙はもう一滴も出てこなかった。病室の中で、千鶴が清海の存在に気づき、笑って手を振ってきた。そしてすぐに小声で稔へ話しかけた。「あなた、知ってた?清海さんって本当にかわいそうなのよ。妊娠のために何十本も排卵誘発剤の注射を打って、やっと授かったのに。危険な目に遭ったとき旦那さんに何度も電話したのに、誰も出なかったんだって」稔は清海と目が合い、微かに眉をひそめた。余計なことを言うな、と警告するように。清海はドアの前に立ち尽くしたまま、仲睦まじいふたりの姿を見つめていた。傷口の激痛は次第に麻痺したように感じられなくなっていった。それは、彼女の心も同じだった。それでも、息が詰まるほど苦しかった。千鶴はふたりの間の空気がおかしいことに気づき、探るように尋ねた。「あなた、この人と知り合いなの?」稔は清海の
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第3話
かつて稔は、特別救助隊隊長の妻ともなれば長く孤独な結婚生活に耐えられなくなるはずだと言っていたことがあった。万が一離婚することになったとき仕事の邪魔にならないよう、先に離婚届に署名しておこうと提案されたのだ。あのとき清海は、その離婚届を金庫の奥へしまい込みながら心に誓っていたものだ。「私たちの結婚生活は、きっと長く続く」まさかこんなにも早く、あの紙が役立つ日が来ることになるとは思いもしなかった。喉の奥にこみ上げる苦いものを無理やり飲み込み、清海は離婚届を手に区役所へ向かった。「すみません。離婚届を出したいんですが」窓口の職員は書類を受け取り、端末で確認した途端、わずかに表情を曇らせた。「秋庭様……確認したところ、河合稔様との離婚届は、すでに1年前に受理されています」清海は耳を疑った。「……え?」「記録上では、1年前にお二人の離婚が成立しています。それに……河合稔様はその同じ日に、別の方との婚姻届も提出されています」清海は何も考えられないまま、職員の言葉を聞いていた。「お相手は、桑垣千鶴様です」頭の中が真っ白になった。清海との離婚が成立したその日に、稔は千鶴と結婚していたのだ。つまり、この1年間。清海が自分を稔の妻だと信じ、彼の帰りを待ち続けていたその間、稔の妻はとっくに別の女になっていた。紙を握る指に力が入り、爪が手のひらに食い込んでいることさえ、もう分からなかった。覚悟を決めてようやく別れを切り出そうとしていたのに、まさか自分の全く知らないところで、とうの昔に勝手に婚姻関係を解消されていたなんて思いもしなかった。――つまり、自分こそが「不倫相手」だったのだ。魂が抜けたような足取りで河合家に戻ると、姑が不機嫌そうに腕を組んでソファに座っていた。「今までどこをほっつき歩いてたの!稔があんなに身を粉にして働いてるっていうのに、あんたときたら家にも寄りつかないで、どこの男と遊んでたんだか!」テーブルの上のコップを掴むと、姑はそれを容赦なく清海めがけて叩きつけた。ガチャンという音と共に額に鋭い痛みが走り、生温かい血がゆっくりと頬を伝い落ちた。清海は顔を上げ、7年間黙々と尽くしてきた姑を静かに見つめた。「……お義母さん。稔に他に女がいるってこと、知ってたんですか」姑の顔に一
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第4話
千鶴は嬉しそうに歓声を上げ、清海の腕に自分の腕をべったりと絡めた。「よかった!これで清海さんが一緒にいてくれるのね。毎日このむさ苦しい男とふたりきりで顔を突き合わせなくて済むわ」そう言って稔を部屋から追い払い、ふたりきりになった途端、彼女はさっと表情を変えた。腕を組み、見下すように鼻で笑う。「調べさせてもらったわよ、清海さん。32歳。両親は地震で死亡――」彼女は嘲るように言葉を続けた。「愛情に飢えた哀れな孤児ってわけね。道理で、少し優しくされただけで犬みたいに尻尾を振ってすり寄って、しがみついてくるはずだわ。ご両親は、あなたがこんなに卑しい女だって知ってるのかしら」千鶴の視線が清海の平らなお腹に落ち、声がますます尖っていく。「流産して本当に良かったじゃない。蛙の子は蛙って言うでしょう?泥棒猫の血を引く子どもなんて、どうせ大きくなっても、恥知らずな母親と同じように男を誘惑して回るだけだもの」清海はもうそれ以上聞いていられず、無言で手を振り上げ、千鶴の頬を思いきり打った。千鶴の頬にくっきりと赤い手形が浮かび上がる。だが彼女は怒るどころか、ふっと邪悪な笑みを浮かべた。そして頬を押さえながら小走りに部屋を飛び出していく。「稔!私、何か悪いことしたかな?どうして清海さんが……っ!」悲鳴を聞いて稔がすぐさま駆けつけ、千鶴の顔を両手で大事そうに包み込むと、振り返って怒りの形相で清海を睨みつけた。「清海、やりすぎだ」清海が寝室を出た。目の縁がひどく赤い。愛のために7年間耐え忍んできたせいで、誰もが忘れていた。彼女は本来、どれほど追い詰められても決して屈しない、芯の強い性格だった。挑発するような千鶴の視線を前に、清海は再び手を振り上げた。しかしその手首を、稔がきつく掴んだ。まるで骨を折ってしまいそうなほどの強い力だった。「お前、いつまで騒ぐつもりだ!?」涙が止めどなく落ちる。清海の頭に浮かぶのは、あの地震の中で稔が差し伸べてくれた温かい手のことだった。「怖がらなくていい。俺がついている。一生、お前を守る」なんと短く、虚しい誓いだったことか。口にしたその瞬間だけが真実だったなんて。彼女は力任せに稔の手を振り払った。もみ合ううちに、バランスを崩した千鶴が足を滑らせた。階段を転げ落ちる寸前、彼女
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第5話
「何?赤ちゃんって、誰のこと?」清海はついさっき、海外赴任の承諾書にサインを終えたばかりだった。この3日間、稔は彼女の怪我に一切構わなかったのに、今日になって急に押しかけてきて詰問してくる。「白々しい真似はよせ!」稔は特別救助隊の隊長として、どんな時も冷静さを崩さない男だった。清海の前でこれほど取り乱すのは初めてのことだった。目を赤く充血させ、掠れた声で吠える。「千鶴が、お前が子どもを抱いて連れ去るのをこの目で見たと言っている。いつからそんな卑劣なことをする人間になった!大人同士の恨みを、どうして無関係な子どもに向ける!」彼は深く息を吸い込んだ。「千鶴に子どもができたのが、そんなに妬ましいんだろう。だったら、俺がお前にも作ってやるよ!これ以上大ごとになる前に、赤ちゃんがどこにいるか教えろ。今回のことは、俺もこれ以上追及しない」清海はただ呆然とするしかなかった。「あなたの中で、私はそこまで卑劣な人間なのね」怒りに理性を奪われた稔は、清海の手を掴んで浴室へ強引に押し込んだ。シャワーヘッドから冷たい水が勢いよく噴き出し、病み上がりの体に容赦なく浴びせられた。寒気が体の奥まで染み込み、清海の歯はがちがちと鳴った。「頭を冷やしてやる!」稔は歯を食いしばりながら言う。「赤ちゃんはどこだ、言え!」やってもいないことを、どう弁明しろというのだろう。清海は激しく咳き込んだ。「知らないって、言ってるでしょう」「あの子は生まれたばかりで母親から離れられないんだ!俺への当てつけくらいならまだしも、どうしてあんな小さな子まで巻き込む!」稔は清海の顎を強く掴み、無理やり自分の方を向かせた。水が気管に入り、激しく咳き込むたびに腰の傷口が引きつって激痛が走る。「なんで黙る?言い訳もできないのか」稔は迫り、冷たいタイルの上に彼女を乱暴に押し倒すと、大きな手で服を引き裂いた。「千鶴に子どもができたのが、そんなに妬ましいんだろう。だったら、その怒りは俺にぶつけろ!」稔の意図に気づき、清海は必死に抵抗した。腕を振り上げ、稔の頬を強く打つ。彼の口の端に血がにじんだが、彼はただそれを舌で舐め取っただけだった。稔は冷たい表情のまま彼女を組み敷いた。次の瞬間、清海は息もできないほどの痛みに襲われた。体が
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第6話
清海は呆然とし、抵抗する気力さえも完全に失せて、病院の玄関先に力なく跪いた。容赦なく照りつける強い日差しの下、熱を帯びた砂利が皮膚に食い込んだ。ほんの数分で両膝が焼けるように痛み出し、目の前がちらつき、次第に暗くなっていった。稔の目に一瞬、痛ましそうな色がよぎった。だが、生まれたばかりの赤ん坊を思い出すと、彼は清海への同情を無理やり心の奥へ押し殺した。さらに厳しく問い詰めようとしたそのとき、彼のスマホが唐突に震えた。「隊長、赤ちゃん見つかりました!看護師さんが沐浴させに連れて行っていただけでした!」「……なんだと!?」稔は大きく目を見開いた。彼ははっと息を呑み、足元に跪く清海を見下ろした。清海の顔が、まるで死人のように青白く、血の気が一切失われていることに、ようやく気づいたのだ。――俺は、いったい何ということをしてしまったんだ。稔は慌ててしゃがみ込み、清海の体を抱き上げた。その声には明らかな動揺が滲んでいる。「悪かった、全部俺のせいだ」服を破られ、ボロボロになった清海を力強く抱き上げたまま、彼は血相を変えて病室へと駆け戻った。そこに立っていた千鶴を見て、彼は初めて怒りを込めて彼女を問い詰めた。「お前、清海が子どもを抱いていくのを、確かにこの目で見たと言ったんじゃないのか!」千鶴は先ほどの一部始終を目にしていたにもかかわらず、わざとらしく涙を浮かべてみせた。「それは……もしかしたら……見間違えたのかも」まるで自分が被害者であるかのように、声を詰まらせる。「どうして私にそんなにきつく当たるの?あなたの妻は私でしょう?どうして他の人のために、そこまで私を責めるの?」稔は深く息を吸い込み、込み上げる怒りをなんとか押し殺すと、無理やり声を和らげた。「すまない、焦りすぎた」そう言って、彼はひどく後ろめたそうに清海を見やる。「俺の妻は産後で、少し精神が不安定になっていたようだ。見間違えたんだろう。お前が望むことは何でも言ってくれ。妻の代わりに、俺がすべて償う」――妻?償う?清海は乾いた皮肉な笑みを口の端に浮かべ、何の感情も映さない虚ろな目のまま、無言で天井を見つめた。これほどの地獄のような苦しみを経て、彼女は初めて分かった。心が限界を超えて傷ついたとき、人は涙すら出なくなるものなの
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第7話
稔はほっと安堵の息をつき、「ゆっくり休んでくれ」とだけ言い残すと、千鶴の細い手を引いてそそくさと去っていった。まもなく、清海のもとに両親の遺骨が見つかったという知らせが届いた。彼女はひどく痛む体も構わずベッドを抜け出し、急いで墓地へと駆けつけた。両親の遺骨はすでに墓に納められ、簡素な供花と遺影が墓前に供えられていた。普段はひっそりと静かな墓地が、今日に限って異常なほど騒がしかった。両親の墓の前に、多くの記者が群がっている。清海の姿を見つけるなり、記者たちがカメラのフラッシュを焚き、マイクを手に一斉に押し寄せてきた。「特別救助隊の隊長夫妻の間に割って入った不倫相手だというのは本当ですか?」「ネット上に、あなたが複数の男性と関係を持っているように見える私的な動画が出回っていますが、事実でしょうか?」記者の一人が、これ見よがしにスマホを掲げた。画面には、AIで作られた精巧なディープフェイク映像が無数に並んでいた。不快な喘ぎ声が神聖な墓地に響き渡り、いっそう耳障りに感じられる。清海はその場に縫い付けられたように立ち尽くし、体を微かに震わせた。墓地に吹く冷たい風が彼女の薄いスカートの裾を巻き上げ、最後に残っていた僅かな力までも容赦なく奪っていく。彼女は少し離れた場所に立つ稔を見た。「これ、全部あなたが仕組んだの?」稔は清海の視線を露骨に避けた。「記者が特別救助隊を取材したがっていただけだ。たまたま偶然重なっただけだよ」だが記者たちが口々に投げかける質問は、どれもこれも清海の私生活や不倫相手疑惑に関するものばかりだった。あまりにも見え透いた嘘だったが、清海はあえてそれを暴こうとはしなかった。どうせ今日、両親の納骨を見届ければ、この街を離れるのだ。二度と稔の前に姿を現すこともない。彼女は墓前に押しかけた記者たちを見渡し、毅然とした口調で言った。「ここは両親を弔う場所です。どうか静かにしてください。せめて今日だけは、家族だけで見送らせてください」そう言って記者たちの間を抜け、両親の墓へ歩み寄ろうとした、その瞬間だった。背後から腕を取られ、手首に冷たい手錠がかけられた。驚いて顔を上げると、稔が手錠で彼女を墓石脇の柵に強く繋ぎ止めていた。稔は清海の視線を避けながら、低く言い放つ。「お前は行け
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第8話
ドオンという土砂崩れの轟音とともに、稔は頭の中が真っ白になり、その場にへたり込んだ。「清海!」低く叫び、彼はなりふり構わず山へと駆け出した。千鶴の目に一瞬、不満げな色がよぎった。すぐにすがるような目で彼の袖を掴み、嗚咽した。「置いてかないで……怖いよ」涙をこぼすその様子は、いつもなら稔の庇護欲を掻き立てるほど儚げだった。だが今回ばかりは、稔はその手を乱暴に振り払い、なりふり構わず崩れゆく山を駆け上がっていった。余震が次々と襲い、足元の地面が波打つように激しく揺れる。山頂からは絶え間なく無数の岩が転がり落ちてくる。巨大な石が山頂から転がり、稔のふくらはぎを深くかすめて、皮膚を大きく削り取っていった。痛みを感じる余裕もなく、彼は無様に地面から起き上がり、崩れゆく山を見上げた。「清海ッ!」声を張り上げるが、地震の轟音と、麓へ逃げる人々の悲鳴にかき消されていく。心もまた、無惨に崩れ落ちた山肌と同じように、粉々に砕けてしまったかのようだった。特別救助隊に加わって以来、大小合わせて100回を超える過酷な救助活動に参加し、冷静沈着に対処してきた稔だったが、今回だけは、圧倒的な焦りと恐怖に全身を支配された。膝から力が抜け、瓦礫の上に崩れ落ちる。鋭い石が膝に深く食い込んだ。痛みも感じないまま、彼の脳裏に浮かぶのは、墓標の前に跪き、青ざめた顔で、絶望の混じった虚ろな目のまま彼が去っていくのを見つめていた清海の姿だった。心臓を誰かの手できつく握りしめられているようで、息が詰まった。「清海!聞こえるか!頼む、返事をしてくれ、頼むから!」彼の裂けるような叫び声が谷にこだまする。まもなく特別救助隊の仲間が駆けつけ、彼の腰に必死にしがみついた。「隊長!やめてください!この先の山一帯は余震の危険区域です!余震が頻発してます!死んじゃいますよ!」稔の耳には、ひとことも入らなかった。「離せ!俺の……俺の妻がまだあの中にいるんだ!」彼は絶叫し、舞い上がる砂埃が喉に流れ込んだ。喉の奥に鉄臭いものが込み上げ、激しく咳き込んだ。「隊長、血を吐いてます!」周りの隊員たちが驚愕の表情を浮かべ、稔はそこで初めて、自分が血を吐いていたことに気づいた。呆然と顔を上げると、視界がぐるりと回った。目の前が暗くなり、彼はど
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第9話
それは、稔が初めて千鶴の涙を無視し、迷わず清海を選んだ瞬間だった。車が山の麓にある墓地の入口に停まったとき、稔はその無惨な光景に、一瞬ここがどこなのか分からなくなるほどだった。辺り一面、土砂と瓦礫、倒れた木々、抉り取られた山肌、そして動物の亡骸が散乱していた。特別救助隊の仲間たちがまだ瓦礫の中で懸命に何かを探している。稔の姿を見つけると、皆、沈痛な面持ちで駆け寄ってきた。「すみません、隊長。ここを3日間休まずに探しましたが、清海さんの手がかりは見つかりませんでした。ですが……」ひとりの隊員が言葉を濁し、両手を差し出した。腕輪のような丸い金属製の輪が、手のひらに載せられていた。「あちらで、これを見つけました。うちの特別救助隊の刻印が入っています」ひと目見た瞬間、稔はそれが自分が使った手錠だと分かった。3日前、彼はこの手錠で清海を墓標に繋ぎ止め、彼女の逃げ道を絶ったのだ。稔は震える指で歪んだ手錠を受け取った。表面には、暗い赤茶色のものがこびりついていた。血の跡のように見えた。稔は考えたくもなかった。余震と土砂崩れが襲ったあの瞬間、手錠で逃げ場を奪われた清海が、どれほど恐ろしい思いをしたかを。涙で視界がぼやける中、彼は手錠を強く握りしめ、自分の胸に押し当てた。顔は紙のように青白くなり、胸が張り裂けるような痛みのあまり、声を上げて泣くことすらできなかった。「隊長……?大丈夫ですか?」隊員たちが心配そうに取り囲み、口々に問いかけてくる。「あの行方不明の女性は、隊長にとってどんな関係の方なんですか?どうして『自分の妻だ』とおっしゃったんですか?奥さんは千鶴さんじゃ……」「隊長、立場を忘れないでください。今は大勢の人が、俺たち特別救助隊の一挙一動を見てるんですから」そうした忠告も、今の稔の耳にはひとことも入らなかった。彼は糸の切れた操り人形のように、手錠を胸に抱いたまま、一歩一歩、家へと歩いて帰った。車を運転することすら忘れていた。空が墨のように暗くなった頃、彼はようやくぼろぼろの姿で家に帰り着いた。――彼と清海の家に。家の中は真っ暗だった。以前は、彼がどんなに遅く帰ろうとも、清海は必ず灯りをひとつ点けて待っていてくれたのに。ドアを開けると、母がソファに座り、不機嫌そうな顔で文句を言った。
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第10話
日記の最後のページはくしゃくしゃに皺が寄っていた。まるで、何度も涙が落ちたかのように。清海の溢れるほどの愛が、少しずつ冷めていき、最後には彼の知らないうちに、もう彼を愛さないと決意するまでの過程を、稔はその目でまざまざと見た。彼はそっと、清海の最後の日記に記された日付をなぞった。あの日、自分はいったい何をしていただろうか。千鶴の妊婦健診に付き添っていたのか?自らの手で彼女に食事を作ってやっていたのか?それとも、ベッドの上で欲望のまま彼女を抱いていたのか。稔は手を上げ、自分の頬を思い切り平手打ちした。俺は、けだものだ。俺が、清海を裏切ったんだ!稔は乾いた目を瞬かせる。次の瞬間、新たな涙の染みがノートに滲み、清海の涙の跡と溶け合っていった。稔は部屋に引きこもり、ろくに食事も取らない日々を過ごした。彼にとって時間はもはや意味を持たなかった。毎日ただひとつ、酒に溺れ、夢の中で清海に会おうとするだけだった。ドンドンドン!ある日、ひどい二日酔いの頭痛の中、玄関のドアが激しく叩かれた。特別救助隊の仲間たちだった。彼らの声は切迫していた。「隊長、大変です!清海さんに関する動画がネットに出回っています!」そのひとことに、稔ははっと目を見開き、よろめきながらドアを開けた。隊員は彼の姿に驚いた。数日会わなかっただけなのに、稔の目の下は真っ黒に窪み、体は骨と皮ばかりになるほど痩せ細っていた。「隊長、どうしたんですか?」「……清海がどうした?」稔の声は掠れていた。隊員はそこでようやく我に返り、スマホの画面を掲げた。「これ、ある記者の個人アカウントから流された動画です。うちの特別救助隊の名前が挙がっていて、SNSで瞬く間に拡散され、大炎上しています」それは盗撮された映像だった。カメラが激しく揺れていた。清海が稔に手錠で墓標に繋がれ、地べたに這いつくばりながら何かを訴えている。そして次の瞬間、地面が揺れ始めた。映像はそこで唐突に途切れていた。稔はシークバーを何度も戻しながら、地震が起きる直前の清海の目に浮かんだ深い苦痛と絶望を繰り返し見つめた。彼女は逃げようとしていた。だが手錠のせいで動けなかったのだ。みなが悲鳴を上げながら逃げていく中、誰ひとりとして清海を助けようとする者はいなかった。
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