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第10話

Author: 楽恩
その土曜日は、両親の命日だった。

午前中に病院で再検査を受け、その後、墓地へ向かう予定だった。

そんなに時間はかからないはずだった。

――なのに、どうしてか、胸騒ぎがする。

昨日、宏に妊娠のことを打ち明けられなかったのも、

今、来依に「彼を連れて行く」と確信を持って言えないのも、

結局、私の中で何かが引っかかっているからだ。

宏とアナ。二人の関係は、私にとってまるで時限爆弾のようだった。

来依は、私の反応を察し、ちらりとアナのオフィスを見やった。

「ねえ、あの「パテックフィリップ」の件、江川がちゃんと処理したんでしょう?」

私は短く答えた。

「まあ、大体ね」

しばらく何気ない会話を続け、彼女は満足した様子で市場部へ戻っていった。

……

――不思議なことに。

アナは、それから数日、妙に静かだった。気性が変わったのか? それとも、ようやく諦めたのか?

少なくとも、仕事では何の妨害もなかった。

新年限定デザインも、問題なくサンプル作成の段階に進んだ。

そんなある日のこと。給湯室で水を汲んでいると、ひそひそとした会話が耳に入った。

「ねえ、結局あの突然現れたデザイン部長って、社長とどういう関係なんだろ?」

「どうだろうね。ずっと噂にはなってるけど」

「最初は、もしかして隠された社長夫人かと思ったけど、意外と関わりなさそうだよね?」

「でも、社長自ら彼女を連れてきたんだし、ただのコネじゃないでしょ」

「かといって、奥さんってわけでもない……なら、もしかして――愛人?」

私が振り向くと、アナが給湯室の入口に立っていた。

彼女は、妙な表情で私を見つめていた。

「……あなた、もっと意気揚々になるかと思ったのに」

「?」

私がきょとんとしていると、先ほど噂話をしていた同僚たちは、まるで罠にかかった獲物のように、慌てて逃げ出した。

そして、給湯室には、私とアナだけが残った。

彼女は、口角を引きつらせながら、カップをコーヒーマシンの下に置いた。

「あなたって、どうしていつもそんな落ち着いていられるの?負けても悔しがる様子すらないし、勝っても大して喜びもしない」

「……」

私は何も答えず、レモン水を注いで、そのまま出ていこうとした。

――が、その瞬間。

彼女は、薄く笑って、こう言った。

「気に入らないのよね、あなたみたいな人。本当に勝ったと思ってるの?清水南、人生はまだまだ長いのよ」

――ついに、彼女は本性を見せた。

私は、眉をひそめ、ゆっくりと振り返った。

「……今日は薬を飲み忘れた?」

「何?」

「精神科にでも行ってみたら?ケチらないで。うちの義父の財産は大したことないけど、継娘であるあなたの治療費くらいは出せるでしょ」

私はそう言い残し、すたすたとオフィスへ戻った。

――が。

「ガシャン!」

背後から、陶器が砕ける音が響いた。

あら、物に当たるほど怒ってるの?

やっぱり、薬を飲むべきね。

その日の夕方、仕事が終わると、宏が地下駐車場で待っていた。

最近、彼は本当に愛妻家らしくなってきた。

毎朝一緒に出社し、毎晩一緒に帰宅。伸二に頼んで、毎日私のオフィスへアフタヌーンティーを届けさせ、プレゼントまで贈ってくる。

車に乗ると、彼はすぐに尋ねた。

「今夜、何が食べたい?」

私は、彼を横目で見ながら、眉を軽く上げた。

「また自炊?」

最近、彼が夕食を作るのは日課になっていた。

佐藤さんですら、「そのうち私、クビになるんじゃ……」と、密かに心配していたくらいだ。

宏は、片手でハンドルを回しながら、さらりと言った。

「もう飽きた?」

「そうじゃないけど……ただ、少し不思議に思って、前は、家でほとんど料理しなかったのに」

すると、彼は、淡々と答えた。

「これからは、家にいる時は作るよ」

「……そっか」

私は、特に反対する理由もない。

彼の料理の師匠が誰なのかは、もう知っている。でも、彼がアナと完全に縁を切るなら、それでいい。

彼女が時間をかけて調教した男を、最終的に手に入れるのは私。

――悔しがるべきなのは、彼女のほうでしょう?

家に着くと、宏は部屋着に着替え、すぐにキッチンへ入った。

男はすらりとした長身で、オレンジ色の夕陽が床から天井までの窓を通して彼を柔らかく照らしていた。

光の輪が淡く彼の輪郭を包み込み、いつもの冷ややかな雰囲気を少し和らげているように見えた。

伏せられたまつげの下、すらりとした指が手際よく食材を扱う姿は、妙に静かで心地よい。

まるで、時間が穏やかに流れているかのような光景だった。

そんな私の視線に気づいたのか、彼がふと顔を上げ、軽く笑った。

「……なんだ?そんなに見つめて、ぼーっとして」

「ただ、見たかっただけ」

私は、少しも隠さずに言った。

――自分の夫をじっくり眺めるのに、何の問題がある?

それに、彼は確かに美しい。神が時間をかけて彫刻したかのような、完璧な顔立ちだ。

彼が何か言おうとした、その時、ポケットの中のスマホが鳴った。

彼は、魚をさばいていて手が離せない。

「南、取ってくれ」

「うん」

私は、彼のズボンのポケットに手を入れようとして――

……一瞬、気まずくなった。

こんなこと、普段はベッドの上でしかなかったから。

普段は、割と距離を取る関係なのに。

彼は、私の躊躇を察し、ふっと笑った。

「夫婦なんだから、遠慮するな。取るのはスマホだろ?他のモノじゃない」

私は少し恥ずかしくなりながら、慎重にポケットに手を入れた。変なところに触れないよう気をつけて――

それでも、どうしても避けられない部分があった。

指先が布越しに何かに触れた瞬間、私は慌ててスマホを引き抜く。

そして――顔を上げたと、宏が妙に意味深な表情で私を見ていた。

私は、スマホの画面を確認し、話を逸らすように言った。

着信の表示を見ると、伸二だった。私は通話を繋ぎ、そのまま彼に渡そうとすると、宏は手を止めずに言った。

「そのまま出ろ。何の用か聞いてくれ」

「加藤助手、宏は今ちょっと手が離せないの。何か急ぎの用?」

「あ……若奥様でしたか」

電話の向こうで、一瞬の沈黙したあと、伸二の穏やかな声で言った。

「大したことではありません。ただ、契約書の条項について確認したかっただけです。急ぎではないので、週明けでも大丈夫です」

この時は、私たちは、これがただの些細な出来事に過ぎないと思っていた。

この数日、私はとにかく眠くて仕方なかった。

夕食を終え、宏と一緒に庭を散歩している最中も、瞼が落ちそうになるほどの眠気が襲ってきた。

シャワーを浴びた後、ベッドに横になった瞬間――深い眠りに落ちた。

でも、その夜、私はトイレに行きたくなって目が覚めた。

ベッドサイドの照明をつけると、隣は空っぽだった。

――宏がいない。

ぼんやりと目をこすり、しばらくして、微かな話し声が聞こえてきた。

ベランダの方から。

何気なく立ち上がり、ドアの隙間から様子を伺う。

すると――

宏が、スマホを片手に、険しい表情で、低い声で、怒りを抑え込んでいるようなトーンで言った。

「彼女が死にたいなら、ナイフでも渡してやれ!救急車を呼ぶならさっさと呼べ!俺に電話してどうする?俺は医者でも警察でもない!

口ばっかりで、何度自殺未遂を繰り返してると思ってる?本当に死ぬ気があるなら、もうとっくに死んでる。

伝えておけ。俺は離婚しない。彼女の思い通りにはならない」

その時、彼が少し声を落とし、電話の相手に言った。

「……とはいえ、本当に事故が起こらないようにして。念のため、警備を増やして見張っておけ」

ただ、最後の一言だけは、はっきりと聞き取れなかった。

……

彼は私に背を向け、片手を手すりにかけたまま、苛立ちと殺気をまとって立ち尽くしていた。

アナの彼に対する執着は異常なほど強く、それがまた私を少なからず困惑させる。

だが幸いなことに、宏は今回ばかりは彼女を甘やかすつもりはないようだった。

私は、静かにその場を離れ、洗面所へ向かった。でも、それから、なかなか眠れなかった。

しばらくして、彼が部屋に戻ってきた。そっと気配を殺しながら、彼は私を優しく抱き寄せた。初秋の夜のひんやりとした空気をまとった身体が心地よく、私はそのまま安心して眠りについた。

しかし――

目を覚ましたとき、隣には誰もいなかった。

不思議に思い、階下へ降りてみたが、家のどこを探しても彼の姿は見当たらない。

確かに、今日は一緒に病院へ行く約束だったはずなのに――。

佐藤さんが「旦那様なら、朝早く出て行かれましたよ。急ぎの用事があるとか……」と言った。

私は一瞬、呆然とした。

連絡しようとして、スマホがまだ寝室にあることを思い出し、仕方なく固定電話からかける。

数コールの後、受話器の向こうから、どこか疲れの滲む声が聞こえてきた。

「もしもし」

その一言で、彼の様子がおかしいことにすぐ気づく。

「どうしたの?」

問いかけると、宏は少し間を置いてから静かに言った。

「南、悪いけど……今日、佐藤さんに付き添ってもらってくれないか? どうしても時間が取れそうにない」

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Comments (1)
goodnovel comment avatar
yas
でしょうね、このアプリの他の小説と同じような展開になるだろう…… わかってるけど読んじゃうけど……笑
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    海人はちらりと清孝を見やり、冷たい視線を投げた。――子どもを騙してばかり。それでいて、かつては何年も音沙汰なしで放浪していたくせに。今さら離婚されても、自業自得だ。紀香はもう、昔のあの素直な少女ではなかった。清孝の数言で操られるような存在ではない。「来依さん、海人と仲いいんだから。二人はカップルでしょ?私が付き合う必要ないじゃない」清孝の目に、一瞬、打算の光が走った。「今回のコラボも、宣伝用の撮影が必要だ。ふたりが仲いいなら、きっといい作品になる。ここでは彼女も慣れてないだろうし、手を貸してあげてくれ」来依が口を開こうとしたが、海人が手でそれを制した。来依は彼に向かって、目配せで訴えた。――ほんと仲いいわね、まるで悪だくみコンビって感じ。海人「……」「撮影なんて、あなたいくらでもできる人いるでしょ」紀香は少し揺れたが、清孝の提案に乗るのはどうしても気が進まなかった。「でも君ほど上手くはない」――ナイス、ヨイショにおだて。まるで教科書のような甘言。来依は思わず拍手したくなった。「でも、私も他の仕事があるし……」清孝はやんわりと説得を続けた。「親友のために、少しだけ調整することもできるんじゃないか?」紀香と来依は、実は知り合ってからそれほど時間は経っていない。けれど気が合って、すぐに友達になった。それでいて、来依に九割九分の割引をしてあげるほどだ。紀香がそんなことをするのは、本当に稀だった。しかも、来依がやろうとしている「無形文化財+和風スタイル」ファッションには、彼女自身も興味を持っていた。来依は口を挟んだ。「紀香、やりたいことをやればいい。自分の気持ちを大事にして」清孝の目に、不満の色が浮かんだ。海人が口を開いた。「ひと言、言ってもいいか?」紀香はうなずいた。「あなた、私の命の恩人だから」「じゃあ、うちの嫁さんにちょっと付き合ってくれない?」「……わかった」海人は清孝を見た。その表情には、誇らしげな勝ち誇りと軽蔑が入り混じっていた。清孝「……」来依は実は、裏でずっと「恋バナ」を聞きたくてたまらなかった。でも、女の子がつらい思いをしているのを見るのは気が引けた。だから立場的に何も言わなかったが、本人が残ると決めた以上、

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    来依はすぐに耳をそばだてた。さっき階下で海人が清孝を紹介したとき、自分が驚いたのは――そう、彼が錦川紀香の十歳年上の旦那だったからだ。まさかこんなに早く会えるとは思っていなかった。佐夜子の話は断片的で、真相は曖昧なままだったが、自分はこの「先に結婚、あとで恋に落ちる」長くて複雑な愛の物語に、強く好奇心を抱いていた。ちょうど何か聞こうとした瞬間、個室の扉が勢いよく開かれた。怒りに満ちた見覚えのある顔がこちらへと向かってきて、そのままテーブルの酒をつかんで清孝の顔にぶちまけた。「卑怯者!」三十代の清孝は、藤屋家のトップに立つ男。その手腕と策略の深さは、言うまでもなかった。その積み上げられた威圧感、所作ひとつにも堂々たる風格が滲み出ている。誰も彼と目を合わせようとせず、ましてや顔に酒をかけるなど、想像もつかないことだった。だが清孝は怒りの色を一切見せず、むしろその目には甘さが滲んでいた。顔を拭きながら、穏やかな声で言った。「来てくれて嬉しいよ」紀香はそのまま去ろうとしたが、清孝に手首を取られて止められた。「せっかく帰ってきたんだ。明日は一緒に本宅に帰ろう」紀香は拒んだ。だが清孝は相変わらず優しく、根気強く続けた。「家族の食事会だよ。君、両親に行くって約束してただろ」「……」紀香は清孝の手を振り払った。「明日、自分で戻るから」そう言って出ていこうとした時、ふと来依の存在に気づいた。「来依さん、なんでここにいるの?」来依は手を軽く振った。「ちょっとしたコラボの打ち合わせがあってね」「誰と?」紀香は目を丸くして清孝を指差した。「まさか……この男と?」来依はうなずいた。紀香はすぐに駆け寄り、来依の腕を取って引っ張った。「来依さん、藤屋清孝って男、あの人の話には罠しかないの。どうしてそんな人と組むの?いつの間にか足元すくわれて、後悔しても遅いよ!」「さあ、行こう!」来依の腕を引っ張るその瞬間、海人が来依の手を取って止めた。それを見て、紀香はようやく海人の存在に気づいた。「あなたもいたの?」海人は軽く頷いた。「来依は俺の婚約者だ」紀香は来依を見て、海人を見て、言いたげな顔をしたまま少し迷った末に口を開いた。「菊池様の人柄は問題ないと思う。

  • 慌てて元旦那を高嶺の花に譲った後彼が狂った   第891話

    「あなた、前に根絶やしにするって言ってたじゃない。方法あるんでしょ?」海人の父はその言葉にため息をついた。「あれは、昔の話だ。藤屋清孝が新しい協力相手を見つけるなんて、一瞬のことだ。この世の中、河崎来依にしかできないって仕事でもない。たとえ俺たちが裏で何か仕掛けたとしても、藤屋清孝が正面から敵に回ってくるとは限らない。藤屋清孝なら、やる。俺の記憶が正しければ、彼は海人に借りがあるはず」海人の母は驚いた。「いつの話よ?私は聞いてない!」海人の父は彼女の肩をぽんと叩いた。「まずは落ち着け。俺も記憶が曖昧でな、確かじゃないんだが……どうやら、昔、藤屋清孝の妻が無人地帯で動物撮影をしてた時に、犯罪者に絡まれて、ちょうどその時、訓練中の海人が居合わせたらしい」海人の母は海人の訓練時期を思い返した。「その時って、彼女まだ学生だったでしょ?それに、当時はまだ奥さんじゃなかったはず」「今は妻だ」海人の父は海人の母をベッドの端に座らせながら言った。「それに、藤屋清孝は本気になってる」海人の母は枕を拳で何度も叩いた。「一体なんなのよ、これは……全部あなたのせいよ!「あなたが『高杉芹奈なら海人を繋ぎ止められる、河崎来依との関係を絶てる』なんて言うから、私も従ったのに……私、あの時……」「もういい」海人の父が遮った。「今さら何を言っても意味がない」本当に、何を言っても無駄だった。海人の母にできることといえば、二人が自ら衝突して別れるのを待つことだけだった。……海人はやはり、自分のジャケットを来依の肩にかけていた。その鋭い視線は周囲に飛び交い、来依を眺めていた者たちはバツが悪そうに視線を逸らした。今日の海人の働きはかなり大きかったので、来依も特に突っかかることはしなかった。清孝が一通りの挨拶を済ませて戻ってきた。「上に行くぞ」と海人を呼んだ。上の階にはまったく別の空間が広がっていた。下のフロアのように洗練された装飾とシャンパンが飛び交う宴会場とは異なり、そこは大型の娯楽スペースだった。ある個室には麻雀卓がいくつも並べられており、すでに対局が始まっていた。その脇ではポーカーが行われており、見たところ相当な金額が動いていた。来依がちらりと見ただけでも、その場の空気の重さを感じた。

  • 慌てて元旦那を高嶺の花に譲った後彼が狂った   第890話

    来依は彼の相手をする気もなく、海人を押しのけて勇斗と一緒に食事をしながら話し始めた。海人も後を追おうとしたが、清孝に呼び止められた。清孝は秘書を来依のもとに向かわせ、いくつかの書類にサインさせた。そして、海人のグラスに軽く触れて乾杯の仕草をした。「頭の回転は早いな。俺を『婚約者の盾』に使おうとは。家族にバレたら怒りで倒れるんじゃないか?」海人は来依のいる方を見つめ、目に優しさと確固たる決意を宿していた。「今の俺の唯一の願いは、彼女と結婚することだ」清孝は海人とは長年の付き合いだったが、ここまで何かに執着し、手間を惜しまない彼の姿は初めてだった。その瞳にわずかに陰りが差した。「そうか。君にも弱点ができたわけだ」海人は淡々と返した。「彼女は俺の弱点じゃない」『弱点』とは、敵に利用され、脅され、自分を縛るものだ。彼はそんな状態を望んではいなかったし、来依をそんな危険にさらしたくもなかった。「彼女は、俺と肩を並べて歩ける愛しい人だ」清孝は若干引いたような顔をして、話題を変えた。「高杉家からは、娘の行方を探るために、何重にも人を通じて連絡が来てる君、高杉芹奈を石川に留めてるのは、『本命』のための盾にしてるのか?」海人は首を振った。「違う」「ただ、少し痛い目を見せてやってるだけだ」その目は冷たい光を放ち、鋭さを帯びていた。「全員に、だ」その頃、来依は書類にすべてサインを終え、藤屋家と暫定的にだが、がっちりと結びついた。菊池家がその情報を知ったときには、もう手遅れだった。「私、なんて言った?」海人の母は怒りで声を震わせ、普段の落ち着いた様子はどこにもなかった。「西園寺雪菜の一件があった以上、海人が高杉芹奈を受け入れるわけがない。タイプは違っても、手口は一緒。あんたでも騙されないのに、あんたの息子が騙されるわけがないでしょう!で、どうなったと思う?菊池家の掌握権まで渡しちゃって!河崎来依を藤屋清孝のビジネスパートナーに仕立てて、プロジェクトは藤屋家主導。私たちが手を出そうにも、もう動けない。「藤屋家を敵に回すわけにはいかないわ」海人の父の顔も、すっかり暗くなっていた。前回の雪菜の件では、道木家が介入し、菊池家にもそれなりのダメージが残った。だからこそ、

  • 慌てて元旦那を高嶺の花に譲った後彼が狂った   第889話

    「君に必要だって分かってたよ。礼はいらない」「……」清孝は海人が酒を受け取らなかったことに特に気にする様子もなく、顔を来依の方に向けて言った。「この件は来依さんに一任するよ。きちんと進めてくれれば、特に注文はない。ただ、いくつか注意点があるから、それは後で秘書から送らせる」来依は軽く腰を折って礼をした。「信頼いただき、ありがとうございます」清孝は他の招待客へ挨拶に行く予定があり、海人に向かって言った。「まず来依さんに何か食べさせてあげて。その後、上の階で麻雀でもしよう。来依さんの先輩も一緒に残って参加してくれ。これから付き合いのある人たちとも顔を合わせる機会だ。ちょうどいい」勇斗は感激で言葉も出なかったので、来依が代わりに礼を言った。清孝が去った後、来依は勇斗の背中を軽く叩いた。「先輩、ビビらないでよ! 私は無形文化財とか和風とか全然分かんないんだから、ちゃんと説明して、あんたの強みを伝えて」勇斗は頭を掻きながら答えた。「来依の言う通りだ。ちょっと緊張しちゃっててさ」そう言われると、来依も納得した。彼女自身、清孝の存在を知ったときには、かなり緊張していたのだ。だから、それ以上は何も言わずに笑って声をかけた。「何か食べよう。あっちで座ろう」「うん」勇斗は食べ物を取りに行った。来依が歩き出そうとした瞬間、腰をそっと抱き寄せられた。振り返ると、海人の冷たくもどこか拗ねたような目がそこにあった。「感謝、いるんじゃないの?」確かに、礼は礼として言うべきだった。助けてもらったことは事実。「ありがとうございます、菊池社長。じゃあ、今度ご飯ご馳走するわ」海人は一歩近づき、声を抑えてささやいた。二人にしか聞こえないように。「ベッドでの『ごちそう』なら、受け取るよ」「……」ちょうどそのとき、勇斗が料理を持って戻ってきた。二人が今にもキスしそうな距離だったのを見て、ようやく気づいた。「この前の食事、お前もいたのか!来依の彼氏だったのか!」海人は来依の手を取り、眩い輝きを放つダイヤの指輪を見せた。「婚約者だ」勇斗は「うわー!」と声を上げた。「おめでとう、来依!そんな大事なこと、先に言ってくれよ。ご祝儀の準備もしてない。まあいいや、結婚式には招待してくれよ。

  • 慌てて元旦那を高嶺の花に譲った後彼が狂った   第888話

    「……」結局、来依はジャケットを羽織らなかった。彼女が宴会場に足を踏み入れた瞬間、周囲の視線を一身に集めたのは言うまでもなかった。一つには、彼女が石川では見かけない顔だったこと。もう一つは、今日の彼女の装いが、主催者の風格を奪うようなものではないにせよ、彼女自身にとても似合っていて、見る人すべての目を惹きつける鮮やかさを放っていたからだった。誰かが声をかけようと歩み寄ろうとした。だが、その腰を軽く抱く男の存在を見た瞬間、ピタリと足を止めた。「菊池家の若様の女か?」「間違いない。あの独占欲、尋常じゃないからな。それに彼の側には長年誰一人女の影がなかったし。あんな堂々とした態度、正妻じゃなきゃ説明つかない」「高杉芹奈じゃないの?今回、彼女を連れてきたって聞いたけど。菊池家と高杉家、縁談の話があるとか」「違うよ。高杉芹奈なら見たことある」「聞いてない?菊池様にはすごく愛してる女性がいるらしいけど、後ろ盾がなくてさ。名前は確か河……」「河崎来依だ」「そう、それ!」そう答えた人物が興奮気味に振り返ると、相手の顔を見て、慌ててお辞儀した。「ふ、藤屋社長……」藤屋清孝は軽くうなずくと、そのまま海人の方へ大股で向かった。彼に酒を一杯手渡す。「今回は一人でうちに来たんじゃないんだな。めでたいことだ」海人は自分の酒を来依に渡し、その背中を半身で覆うようにして紹介した。「藤屋清孝だ」来依はちょうど口元に酒を運んだところだったが、その名前を聞いて、思わず酒が逆流しそうになった。「藤屋清孝?あの藤屋清孝?」清孝の唇にはうっすらと笑みが浮かんでいたが、その瞳には冷たさが残ったままだった。整った顔立ちに、年月を経て自然と備わった威厳がにじみ出ていた。来依は感嘆の声を漏らしてから、ようやく気がついた。目の前に立っているのは、自分の力では一生関わることすらできないような人物なのだ。たとえ彼が海人の親友だったとしても、自分の今の態度はあまりにも無遠慮で、失礼だったかもしれない。急いで頭を下げた。「藤屋社長、失礼しました。さっきは少し無礼でした」清孝の視線にはどこか意味ありげな光が宿り、海人を一瞥してから、口を開いた。「弟分の嫁なんだから、そんなに堅くならなくていい。俺と海人は古い友人

  • 慌てて元旦那を高嶺の花に譲った後彼が狂った   第887話

    石川は大阪より少し暖かいとはいえ、年の瀬も近づき、また雪が降るかもしれなかった。どこが寒いのか?四郎は反論することもできず、おとなしくエアコンを入れた。設定温度は26度。来依は手で風をあおぎながら、わざとらしく言った。「この車、ダメね。なんかムシムシする」四郎も確かにそう思った。仕切り板すら付いていないのだ。海人が静かに笑った。「いいよ。お前の言うとおり、車を替えよう」「……」――来依はあるプライベートサロンに連れて行かれた。彼女は迷うことなく赤を選んだ。だが、海人は背中が大きく開いたデザインを見て、スタイリストに指示を出した。「ショールを足して。寒いから」スタイリストは少しためらった。「菊池さん、このドレスのポイントは背中の蝶モチーフのレースなんです。肩甲骨をあえて見せて、うっすらとウエストラインも……」海人の冷たい視線を浴びて、スタイリストはそれ以上言葉を続けられなかった。海人は石川の人間ではなかったが、石川のトップと繋がっている。このサロンは藤屋家の出資で運営されている。しかも、藤屋家からも海人とその奥様を丁重にもてなすよう指示が来ていた。とても粗末に扱える相手ではない。「ショールはいらないわ」来依は大きな姿見の前でくるりと一回転した。「すみません、アップスタイルでお願いします。この背中、しっかり見せたいの」海人の口元が、わずかに引き結ばれた。スタイリストはどちらを見ていいか分からず、動けなかった。来依が言った。「彼を見ないでください。着るのは私、決めるのも私ですよ」そう言って、回転式の椅子に腰を下ろした。「それと、メイクは少しレトロな感じにしてください。でも濃すぎないで。他人のパーティーですし、主役はあくまで他の人ですから」「かしこまりました!」スタイリストはすぐに準備に取りかかった。来依の要望どおりに仕上げた後、スタイリストの目が輝いた。「もしよければ、うちのモデルになってくれませんか?あるいはスタイリングのアドバイザーとして来ていただくとか……センスが抜群です!」来依は立ち上がってスカートの裾を整え、微笑んだ。「自分のことをよく分かってるだけですよ。アドバイザーなんて無理無理、そんな才能ありませんから」スタイ

  • 慌てて元旦那を高嶺の花に譲った後彼が狂った   第886話

    来依は彼に白い目を向けた。海人の目には、深い笑みがじわじわと浮かんでいた。「ここで楽しんでて。俺は少し用事を済ませてくる。夜は一緒に宴会へ行こう」来依はむしろ、彼がいない方が気が楽だったので、手をひらひら振って追い払った。海人は彼女の頭を軽くぽんぽんと叩き、歩き出した。傍らにいた若い女性が笑いながら言った。「彼氏さんと、すごく仲が良さそうですね」「……」来依は一瞬、弁解しようか迷ったが、まあもうこの場所に来ることもないかもしれないと思い直した。仮にまた来るとしても、その時に言えばいい。彼女は笑って言った。「刺繍、教えてもらえますか?」相手は快く頷いた。刺繍は集中力と時間を要する作業だった。来依は、その日一日ほとんどを刺繍に費やした。食事とトイレの時間以外は、ずっと座って縫っていた。ひとつの刺し方を習得し、小さな作品を一枚仕上げた。立ち上がって、固まった背中と首をほぐしていると、海人がゆっくりと彼女の前に現れた。「楽しかった?」来依は手に持っていた刺繍布を彼に放り投げた。「あんたへの誕生日プレゼントよ。ここに連れてきてくれたお礼」それだけ言って、さっさと更衣室へ向かった。海人はその手の中のハンカチを見つめた。そこには竹と竹の葉が刺繍されており、対角に彼の名前が縫われていた。「お兄さん」近くの女の子が笑いながら言った。「ハンカチって、告白の意味があるんですよ」海人はそれをしまいながら、にこりと微笑んだ。「これ、彼女が自分で刺したの?」女の子は大きく頷いた。「すごく真剣でしたよ。きっと本気で好きなんですね」海人の全身が、喜びに染まっていた。来依が着替えて戻ってきた時、遠くからでも彼が妙に浮かれているのが分かった。近づくと、彼の視線はあまりにも熱っぽく、彼女は鳥肌が立った。ふと視線をそらすと、さっきの女の子がニコニコしていた。だいたい察しがついた。彼の腕を引っ張って車に乗せ、乗車後に言い訳を始めた。「私は初心者だから、ハンカチが一番簡単だったの。ただの練習用よ。名前を縫うのって、一番最初に習う基本なの」海人は意味深に「へえ」と返事した。「……」来依は説明するのが無意味だと感じ、顔をそむけて車窓の外を見た。だが海人は身を寄せ、半ば彼女を包み込むよ

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