Teilen

2話. 皇帝の指輪

last update Veröffentlichungsdatum: 03.11.2026 16:54:24

白みがかった明け方の光が、寝殿の高いアーチ窓から流れ込んだ。

レイラは一睡もしないまま夜を明かした。少し身じろぎするだけで、抱きしめている男の腕に、ぞっとするほどの力がこもったからだ。

カリクスはレイラの腰に腕を回したまま眠っていた。顔の向きが変わるたび、彼女の襟に乾いた血がついた。

傷だらけの体から発せられる熱と重みが、肋骨を圧迫していた。

(逃げなきゃ。いいえ、今動いたら、ただでは済まない)

レイラは乾いた唾を飲み込んだ。

下敷きになった腕を少し抜こうとしても、指先が言うことをきかなかった。一晩中同じ姿勢で抱き込まれていたせいで、肩から痺れていた。レイラは目だけを窓へ向けた。朝の光が差していることが、嬉しくもあり、怖くもあった。夜が明ければ、誰かが必ずこの部屋に入ってくる。

外にいる者たちは、自分を皇帝の腕から引き離そうとするだろう。そのとき、皇帝はおとなしく手を離すだろうか。レイラは遠くに落ちた下女の頭巾を見て、目をそらした。今さら髪を隠すこともできない。誰が入ってきても、皇帝より先に口を開いてはいけなかった。自分が恋人だという話は、皇帝の口から出なければ信じてもらえないのだから。

そのとき、寝殿の外の廊下から、重い靴音が規則正しく響いてきた。

コツ、コツ、コツ。

「陛下。寝殿の筆頭侍医、ヘルムートでございます。朝の煎じ薬と包帯の交換のため、入室のお許しを願います」

静寂を破る老人の声に続き、鎧の触れ合う金属音が鳴った。皇室の近衛兵だ。

皇帝が3週間も目覚めない危急の事態であるため、護衛の騎士たちを伴い、強引に扉を開けるつもりだった。

ギイィ――。

重厚な真鍮の扉が開き、侍医ヘルムートと従者たち、そして銀の甲冑をまとった近衛隊長ヴァレンが踏み込んできた。

「陛下のご顔色はいかがで……ひっ!」

言い終える前に、老侍医の顎がかくりと落ちた。

銀の盆に載せていた薬の椀が床に落ち、けたたましい音を立てて割れた。

ガシャン!

「へ、陛下……?」

近衛隊長ヴァレンは、目玉が飛び出しそうなほど目を見開いた。腰の剣の柄を握る手が、がたがたと震えた。

寝台の上には、3週間もの間、死体のように横たわっていた帝国の支配者が、目を見開いて座っていた。

しかも、血と土埃に汚れた古いリネンの服を着た、寝所付きの最下級侍女を抱きしめたまま。

「貴様ら、よほど首を刎ねられたいらしいな」

カリクスの声が低くなった。敷居をまたぎかけた従者が足を止めた。侍医は返す言葉を見つけられず、ヴァレンの手は剣の柄の上で強張った。

シャリン――!

カリクスが枕元に掛けてあった皇室の宝剣を抜いた。冷たく光る刃が、侍医ヘルムートの眉間に向けられた。

「朕の許しもなく寝殿に押し入り、あまつさえ朕の恋人を怯えさせるか?」

「へ、陛下! お命ばかりは! 私どもは、陛下のご容体が重篤であらせられるゆえ……!」

侍医と従者たちが床にひれ伏し、額を打ちつけた。

ヴァレンの視線が、皇帝に抱かれたレイラに突き刺さった。灰色の髪も、古びた侍女服も見慣れたものだ。誰だかわからない相手を見ているのではない。だからこそ、『恋人』という言葉が、なおさら信じられないようだった。

「陛下、どうかお鎮まりください! その女は寝所付きの侍女にすぎません! 敵国の放った暗殺者か、呪術師やもしれません。早急にその女を引き離し、牢へ……!」

ヴァレンがレイラへ手を伸ばそうとした、その瞬間だった。

カリクスの瞳が、血のように赤く閃いた。

「よくも」

カリクスが剣を振り上げ、レイラは息を止めた。あの手首を掴まなければ。

ここで近衛隊長の首が飛べば、皇宮は血の海となり、自分の素性も徹底的に調べられることになる。

剣を持つ腕は、彼女の顔からさほど離れていなかった。手首を掴めば、皇帝の視線は自分へ向く。先ほどまでは、それだけでも恐ろしかった。それでも今は、剣が向く先から目を離せなかった。ヴァレンが倒れた後、誰がこの寝殿で起きたことの責任を追及しに来るのか。レイラはその先まで想像したくなかった。

皇帝が自分を呼んだ声を思い出した。名を呼ぶときと、他の者を睨むときとでは、顔つきが違った。その違いを利用しなければ。レイラは鋭い刃を見ず、手首に視線を定めた。震える手でどこを掴むか、まずそれを見極めた。

レイラは素早く、カリクスの手首を包むように掴んだ。

「陛下」

剣が止まった。けれど、手首にはまだ力が残っていた。レイラは彼の視線が自分に戻ったことを確かめ、言葉を続けた。

「カリクス……お願いです。血を流さないで。頭が痛むのでしょう?」

レイラは、彼が昏睡している間に侍医たちが交わしていた会話を思い出した。呪毒が脳を蝕み、激しい偏頭痛を引き起こすのだという。

彼女の指が、皇帝のこめかみをそっと撫でた。

「私がそばにおりますから、どうか剣をお収めください」

カリクスはしばらく彼女を見つめると、剣を寝台の脇に下ろした。

どん、と鈍い音がして、カリクスがレイラの肩に額を埋めた。

「……お前が望むならそうしよう。お前の言うとおりにする」

剣が完全に手から離れてから、レイラはようやく手首を放した。自分の言葉が通じたことを、まだ信じられなかった。

侍医は皇帝とレイラを交互に見た。先ほどまで剣を向けていた皇帝が、侍女の言葉には引き下がった。ヘルムートは何か尋ねたげに唇を動かしたが、結局は頭を垂れた。

「……筆頭侍医」

カリクスがレイラを抱いたまま、冷ややかに命じた。

「近う寄り、脈を取れ。ただし、朕の恋人には触れるな。不敬な目を向けた瞬間、貴様の目玉をくり抜き、寝殿の烏に食わせてやる」

「恐悦至極に存じます、陛下……!」

ヘルムートは這うように近づき、震える手で皇帝の脈を取った。

脈は荒く、不規則だったが、生命力は異様なほどに旺盛だった。ヘルムートは額の冷や汗を拭い、おそるおそる頭を下げた。

「陛下のご容体は奇跡的に好転いたしましたが……呪毒の影響が脳の奥深くに残っておりますゆえ、絶対安静と看護が必要にございます」

「聞いておらぬのか。朕のそばにはレイラがいる」

カリクスはレイラの顎を持ち上げた。冷たい指が、彼女の青白い唇をそっと押した。

近衛隊長ヴァレンが、なおも疑いに満ちた目でレイラを見ていると、カリクスは低く唸った。

「ヴァレン」

「はっ、陛下」

「全領土に勅令を下せ。今後、この女に指一本でも触れた者、不敬な口をきいた者は、誰であろうと三族を滅ぼす。舌を引き抜き、その首を寝殿の門前に晒してやる」

血生臭い暴君の宣言に、ヴァレンはそれ以上反論できず、深く頭を下げた。

「……仰せのままに」

臣下たちが退出すると、再び二人だけの静寂が訪れた。

カリクスは、自分の人差し指から重い純金の印章指輪を抜いた。

帝国皇室の象徴にして、皇帝の全権を代行できる、金竜の印章指輪だった。

レイラも、指輪に刻まれた紋様を知っていた。皇宮の扉を開かせも、閉ざさせもする品だ。けれど、それを自分の手に受け取るのだという事実は、容易には受け入れられなかった。昨夜まで、その手がしていたのは他人の血を拭うことだった。誰も彼女の目を長く見つめたりしなかった。

この指輪を見た者は、彼女の顔も覚えるだろう。隠れて生きるために入った寝殿で、最も目立つ人間になってしまった。レイラは薬指を曲げることもできずに、皇帝の手を待った。指輪の持つ権限を思うほど、その権限を取り上げられる人間が目の前にいるという事実が、重くのしかかった。

彼は震えるレイラの薬指を取り、指輪をはめた。彼の人差し指に合っていた金の輪は、彼女には大きすぎた。手を開くと、指輪は肌の上で緩く傾いた。

「これはお前のものだ」

カリクスがレイラの手の甲に口づけた。宝石を与えられることより、唇が触れた感触のほうが、よほど馴染みのないものだった。レイラは手を引こうとすることさえ忘れ、彼を見つめた。顔を上げた皇帝の赤い瞳には、この指輪を受け取った女が喜ぶはずだという確信が宿っていた。

喜んだ顔まで作らなければならないのだろうか。レイラは笑う代わりに、緩い金の輪を親指で押さえた。

「二度と朕の目の届かぬところへ行くな、レイラ。お前のいない世界など、朕にとっては地獄でしかない」

レイラは手のひらを開いてみた。指輪が関節を越え、指先へ滑った。

「大きすぎます。なくしてしまったら、どうしましょう?」

「ならば外さず、しっかり握っていろ」

彼にとっては簡単な話だった。レイラは指輪が抜けないよう、手を丸めた。この手で水の入ったグラスを持つときも、着替えるときも、気をつけなければならない。皇帝が手を離した後も、握った拳はなかなか開けなかった。

皇帝の許しが刻まれた指輪だった。レイラは閉ざされた寝殿の扉を見た。あの扉でもこの指輪が通用するか、確かめなければならなかった。

Lies dieses Buch weiterhin kostenlos
Code scannen, um die App herunterzuladen

Aktuellstes Kapitel

  • 暴君陛下、愛しているふりはもう終わりです   32話. 証明された血統

    「その石に血を落とせ」暴君の冷たい剣先が、レイラの白い指先をじりじりと押した。数百人の貴族たちは息さえできず、壇上を見つめていた。「なぜためらう、妖婦め!」ガラスの破片の間で血まみれになった皇太后が叫んだ。「偽物だとばれるのが怖くて震えている姿を見ろ!」「黙れ」カリクスは剣を握る手に力を込めた。皇太后は退かず、貴族たちへ鑑別石を掲げて見せた。「本物の公女なら、一滴で済むことをなぜできない!」「血を見せろ! そうすれば認めよう!」仮面の向こうから誰かが叫んだ。レイラは声のした方を見た。少し前、勅令に従うとひざまずいた者たちの席だった。皇帝の脅しが止むと、彼らは再び条件をつけ始めた。レイラはカリクスへ顎を上げた。「陛下は、私の潔白を証明なさりたいのですか?」「そうだ」「指を切れば、私の話も聞いてくださいますか?」「まずは奴らの疑いを鎮めればよい」「陛下ご自身に残る疑いは?」カリクスは唇を閉ざした。レイラは震える手を隠さなかった。石が反応することはわかっている。その光を見た後も、自分の命を握る者が何と答えるかを知りたかった。「私がなぜこの宮殿へ入ったのかも、いずれお尋ねになるでしょう。そのときは皇太后ではなく、私の話を聞いてください」彼は剣を収めなかった。レイラは答えを待つ視線を伏せた。レイラは冷ややかに口元を持ち上げた。「喜んで血を捧げます。陛下、最後まで見届けてください」「レイラ……」「ご覧ください。私の

  • 暴君陛下、愛しているふりはもう終わりです   31話. 仮面が剥がれる夜

    黄金のシャンデリアの下、仮面をつけた帝国貴族数百人が並んでいた。仮面の奥で光る眼差しは、薄氷のように冷たい。「今夜、あの女にエステルの領地を渡すそうだな」「すでに勅令が出た。返還名簿に署名するよう使者が来たぞ」「命令に従うことと、血筋を認めることは別だ。寝所付きの侍女を皇后にまで据えるとはな」「声を落とせ。騎兵隊に聞かれるぞ」黒狼騎兵隊が近づくと、仮面の奥の囁きは途切れた。返さねばならない土地と、迫る国婚について話していた貴族たちは、入口へ体を向けた。プオオオッ!皇室の黄金のラッパが、広間を切り裂くように鳴り響いた。「帝国の太陽にしてルクセンベルクの支配者、カリクス・フォン・ルクセンベルク皇帝陛下。そしてエステル公爵位の全権継承者、レイラ・エステル公女殿下のご入場です!」侍従長の声とともに、重厚な黄金の扉が大きく開いた。カリクスはレイラの腰を荒々しく抱き寄せたまま、玉座の壇上へ上がった。シャリン!カリクスは剣の柄を軽く叩き、貴族たちを見下ろした。「聞け、帝国の貴族ども」カリクスの低く乾いた声が、貴族たちの息の根を締めつけた。「今夜、エステル家の名誉を侮辱する者は、この場で即刻斬首し、柱に吊るす」「……」「異議のある者は、今すぐ前へ出ろ」誰一人、前へ出る者はいなかった。「いないのなら、公女の言葉に耳を傾けよ」レイラはゆっくり一歩前へ出た。仮面の下からのぞく翡翠色の瞳

  • 暴君陛下、愛しているふりはもう終わりです   30話. 国婚の予告

    「昨夜、誰と密談していた?」レイラは息を止めた。カリクスの問いは、先ほどヴァレンに下した命令よりも前の夜へ向けられていた。袖の中の水晶玉が手首に触れた。彼が腕を緩めて正面へ回ると、レイラは主催権の札が置かれた机に手をついた。彼と目を合わせるには顔を上げなければならなかった。「……陛下」「答えろ、レイラ」カリクスは抜いた剣で、足元の大理石を軽く叩いた。「夜に通信を交わした相手は誰だ?」「舞踏会の安全を確認するために連絡した相手です」「朕のための者か?」カリクスの目元が残酷に歪んだ。「よくも朕の寝室で、見知らぬ男と念話を交わしておきながら、朕のためだと言い繕うのか?」「言い繕ってなどおりません」レイラはためらわずカリクスへ一歩近づいた。「明日の夜に開かれる血の仮面舞踏会、その安全を確認していたのです」「舞踏会の安全だと?」「エステル家に仕えていた旧臣たちを通じて、皇都郊外の不穏な勢力の動きを調べていました」「不穏な勢力とは誰のことだ?」「皇太后の残党とヘッセン家の陰謀が、皇宮の内部へ入り込んでいるという情報を得ました」「皇太后の残党が、よくも朕の宮殿を狙うものだ」「奴らは陛下のお体を害し、政変を起こす機会をうかがっています」「ならば朕の騎兵隊に知らせればよかった」「ですからヴァレン卿を呼びました。本隊を動かせば気づかれるので、別動隊だけを出してほしいと頼んだのです」カリクスは机の上の札を見た。レイラは彼の視線を追い、手を少し動かした。「陛下が舞踏会の警備についても尋ねろとおっしゃったではありませんか。お任せいただいた仕事を確認しただけです」「それで朕より先に命令を下したのか?」「今、ご報告しています。ヴァレン卿が戻ったら、私が聞いた情報が正しかったかどうかも確認してください」「本当に……それがお前の本心なのか?」「私が持ち込んだ情報から確かめてください」レイラはひざまずいた。彼のズボンの裾をつかむ代わりに、指輪が見えるよう両手を膝の上に置いた。「ヴァレン卿が隠れ家を捜索しています。何を見つけて戻るのかまで聞いても、遅くはありません」レイラは掌の汗を衣服に押しつけて拭いた。膝の上の指輪を見る彼の視線が、剣へ戻らないことを願いながら待った。スッ。長剣が鞘へ収まった。カリクスはレイラを一息に立ち上がらせた。

  • 暴君陛下、愛しているふりはもう終わりです   29話. 借り受けた軍権

    『公女様! 今すぐ脱出なさらなければなりません!』水晶玉の向こうから聞こえるバロンの声は、かすかに震えていた。「鑑別石が皇太后側へ渡ったのは確かなのですか?」『宝物庫から消えたことまでは確認しました。奴らは明日の夜、舞踏会へ持ち込むつもりです』レイラは眠るカリクスの肩を見下ろした。石に血を落とすことは怖くない。その光を見た後、彼が何を尋ねるかが怖かった。「血統が確認されれば、仇の娘がなぜ恋人のふりをしたのかと問われるでしょうね」『石は公女様のお心まで証明してはくれません。その問いを皇太后に先に口にさせてはなりません』「それなら、鑑別石を取り戻すだけでは終わりませんね」『そのとおりです! 明日の夜では遅すぎます! 今夜、黒狼騎兵隊の目を逃れて脱出なさらなければ!』「逃げることはできません、バロン卿」『公女様! 命が危ういのです!』「私の人差し指にはめられた指輪をお忘れですか?」レイラは赤黒い黒曜石の指輪を見下ろした。「私を監視する兵がついています。皇宮を出る前に追いつかれるでしょう」『ですが舞踏会では、公女様が説明する前に皇太后が復讐の話を持ち出すはずです!』「それなら、会場へ届く前に奪えばいいのです」『奪うとは? 暗殺隊をどうやって止めるおつもりですか!』「鑑別石の移送経路はわかっていますか?」『西部郊外の廃れた風車小屋へ向かっているとの情報を得ました!』「皇太后宮の秘密の隠れ家ですね」『はい! 奴らはそこへ鑑別石を隠し、舞踏会当日に持ち込む計画です!』「それなら、まだ皇宮の外縁を離れていないでしょう」『しかし、我が一族の残党だけでは、影の鴉の精鋭を突破するのは困難です!』「私たちが直接突破する必要はありません」『え? それはどういう意味ですか?』「カリクスが私に握らせた剣を使うのです」レイラの視線が、脇卓の上に置かれた主催権の札へ向いた。『血の仮面舞踏会』の最高主催権を示す札。そして人差し指の黒曜石の指輪。「帝国で最も獰猛な猟犬たちを放つのです」『まさか……皇帝の親衛隊を動かすおつもりですか?』「舞踏会を任されたのですから、警備について尋ねることはできます。それに、この指輪で兵を呼びます」『近衛隊長ヴァレンが素直に従うでしょうか?』「彼が確認しなければならないことを、先に提示します」『公女様、どう

  • 暴君陛下、愛しているふりはもう終わりです   28話. 鑑別石の行方

    カリクスは壁から剣を引き抜き、刃を返した。切っ先がヴァレンの首筋をかすめると、彼はレイラから一歩退いた。「死にたいようだな、ヴァレン」「へ、陛下……!」ヴァレンの顔から血の気が引いた。「よくも朕の恋人をつかみ、体を調べようとしたな?」「も、申し訳ございません! 私はただ、侍医室の周辺をうろつく者を……!」「それが貴様の舌を動かす理由になると思うのか?」「お助けください! 国法に従い、非常警戒令を遂行していただけです!」「朕の言葉こそが国法であり、朕の恋人の歩みこそが法度だ」カリクスは長剣の切っ先で、ヴァレンの額をじりじりと押した。「誰が貴様にそんな権限を与えた? ヘッセンの残党か、それとも地下牢の皇太后か?」「違います! ただ皇室の安泰のため、忠誠を尽くしただけです!」「袖に手をかけようとしたのか。次は貴様の腕が先に斬り落とされるぞ」ヴァレンは額を床につけた。レイラは彼の首筋から流れた血を見た。皇帝は自分を守るために剣を振るっていたが、忘却草が見つからなかったという安堵まで無視することはできなかった。「朕の恋人が薬を求めたら、侍医へ伝えろ。貴様の判断で引き止めるな」カリクスはレイラの肩を抱き、乱暴に胸元へ引き寄せた。「行くぞ、レイラ。こんな虫けらどもと一緒にいる場所ではない」「……はい、陛下」レイラは息を潜め、カリクスに導かれて歩き出した。***深夜、皇帝の寝殿。重い黄金の扉が閉まると、カリクスはレイラを寝台の上へそっと座らせた。「手が氷のように冷たい。なぜこんなに冷えている?」カリクスはレイラの両手を自分の手で包み、息を吹きかけた。「寝殿へ戻る途中、風が冷たかったのです」「ヴァレンのせいで、まだ驚いているのか?」「……陛下」「なぜ朕に知らせず、一人で侍医室へ向かった?」「それは……」「朕の頭痛のために薬湯を取りに行ったのではないのか?」「……え?」レイラは呆然と目を瞬いた。カリクスは薄く微笑み、レイラの頬を撫でた。「侍医室の侍従が言っていた。お前は朕の呪毒を和らげる鎮痛薬を探していたそうだな」「あ……」「次からは侍従に言え。薬室まで下りる必要はない」「自分の手で用意したかったのです」レイラは彼の手に捕らわれた自分の手を見下ろした。今日も薬室へ入った理由を先に選んでくれたのはカリクスだった。

  • 暴君陛下、愛しているふりはもう終わりです   27話. 侍医室の帳簿

    「北部要塞の反乱軍残党3,000人を、全員さらし首にしろ」黄金の謁見の間に響き渡る、冷酷な勅命。玉座にもたれたカリクスは、冷たい目で軍団長たちを見下ろした。「降伏を願い出た者どもの命乞いに来たのか、軍団長?」「陛下、北部の貴族300家が武器を捨て、慈悲を求めております!」「慈悲?」カリクスの唇が残酷に歪んだ。「反逆者に与える慈悲などない」「陛下、彼らを皆斬り捨てれば、北部国境の防壁を支える領主たちが……!」「黙れ! 朕の意に背く者は、その場で斬首せよと命じたはずだ」「どうかご再考ください、陛下!」「投降した者も例外ではない。首謀者の首は城壁に掲げ、加担した貴族の領地はすべて没収し、皇室直轄領に編入しろ」「御意! 皇帝陛下の命をお受けいたします!」赤いマントをまとった軍団長たちが、一斉に床へ額を打ちつけた。帳の後ろにいたレイラは、人差し指の黒曜石の指輪に触れた。昨夜、自分の名を呼びながらすがりついていた男が、今は投降者たちの命を奪えと命じている。その間に別人になったわけではないはずだった。侍医が告げた精製完了まで、あと2日。レイラは床に頭を垂れる軍団長たちを見た。薬を遅らせようとして発覚すれば、自分だけでなく調合室の者たちにも、あの命令が下されるかもしれない。何に手を出しても他人の命に触れてしまうことが、もどかしかった。***正午を過ぎ、政務が一段落した頃。レイラは領地の書類を確認すると告げて寝殿を出た。侍医室へ道を変えてからは、皇帝の頭痛に使う茶を求めに来たと言った。扉を守る衛兵は、人差し指の黒曜石の指輪を確かめて道を開けた。指輪は、すべての質問まで防いでくれるわけではなかった。背後で出入りの時刻を記録する音がした。レイラは聞こえないふりをして地下の調合室へ下りた。侍医たちが薬材を取りに席を外した隙に、青銅の薬釜のそばにある調合日誌を開いた。・第一段階の調合:浄化草の抽出液、完了。・第二段階の調合:氷霊水の蒸留、完了。・最終段階:2日後に精製完了予定。(2日後に精製完了……)レイラの心臓が激しく打った。そのとき、調合室の奥にある秘密の薬材搬入通路から、かすかな金属音が響いた。トン、トントン、トン。一族の暗号だった。レイラは息を潜め、薬材倉庫の角へ近づいた。みすぼらしい薬草商の服を着た男が、荒い息をつきながら

Weitere Kapitel
Entdecke und lies gute Romane kostenlos
Kostenloser Zugriff auf zahlreiche Romane in der GoodNovel-App. Lade deine Lieblingsbücher herunter und lies jederzeit und überall.
Bücher in der App kostenlos lesen
CODE SCANNEN, UM IN DER APP ZU LESEN
DMCA.com Protection Status