婚約披露宴の当日、椎名拓真が支援していた少女が会場に押しかけ、自殺騒ぎを起こした。彼女は取り乱して叫びながら、大量の錠剤を飲み込んだ。 医師である私は一目で薬の瓶を確認し、それがただのビタミン剤だと気づいた。だから彼の手を掴み、必死に頭を下げて懇願した。 「拓真さん、あれはビタミンよ、何も起きないわ。 お願い、お願いだから……恥をかかせないで……」 だが彼は、怒りに任せて私を乱暴に突き飛ばした。 「梨乃、お前がここまで卑劣な女だったとはな、お前さえいなければ、俺と芽依ちゃんが別れることなんてなかった!」 腹がテーブルの角にぶつかり、私はそのまま流産した。それから間もなくして、病院で彼が新藤芽依と親密に抱き合う写真がSNSのトレンドを賑わせた。 私はようやく決心がついた。彼を捨てて、病院の汐見市への派遣を秘密裏に承諾した。 そして、彼はすべてを失ってでも、私を取り戻そうとした……
View More拓真は、テーブルに突っ伏して声もなく泣き続けていた。本当は、ずっと前から芽依の本性に何度も気づいていたのかもしれない。いや、気づかないふりをしていただけかもしれない。私が決して離れていかないと高を括って、何度も私の気持ちを試してきた。そして、張りつめていた糸は、ついにぷつりと音を立てて切れた。私は、黙って涙をこらえる拓真の様子を見ていた。彼は自分の手を噛みしめ、ポケットから薬を取り出して一気に飲み干し、ようやく落ち着きを取り戻した。顔を上げて、苦笑いを浮かべた。「……梨乃。もうお前に許してもらえないことは分かってる」彼は自分の頬を何度も叩いて、そして私の前に膝をついた。「あの頃の自分を、今の俺が許せないんだ。本当にごめん……」私は立ち上がり、こみ上げる涙を拭い、彼の目をまっすぐ見つめた。「私が好きだった椎名拓真は、あの事故で死んだと思うことにしたの」ドアを開けて外に出ようとすると、彼が私の名前を叫んだ。「梨乃!俺がいなくても、ちゃんと幸せになって」私は頷いた。「きっとね」外に出ると、汐見市には珍しく小雪が舞っていた。父の車に乗り込み、心からの安堵を感じた。翌日、見知らぬ番号からのメッセージが届いた。【いつも安らかで、幸せが続きますように】拓真が去ったことを、私はその時初めて実感した。私の日常は再び平穏を取り戻し、家と病院を往復する日々。時折、友人たちと集まることもあり、穏やかな幸福を感じていた。気づけば新年を迎え、両親と一緒におせち料理の準備をしていた。その時、父の携帯が鳴り、彼は電話に出た後、重い表情で戻ってきた。「さっき、椎名おじさんから連絡があってな……拓真が、亡くなったそうだ」私は手を止めたが、また何事もなかったかのように、手を動かし始めた。父は話を続けた。「拓真は新藤を問い詰めたらしい。最初は否定していたが、彼女の電話での会話を聞いてしまってな。『やっと一之瀬を追い出せた』とか言ってたらしい。観念した新藤は、全部白状したそうだ。で、その直後に拓真が怒りで心臓発作を起こして、病院に運ばれたが、昨夜亡くなったそうだ」涙もろい母は、目にハンカチを当てて言った。「で、新藤は?ちゃんと罪に問われたの?」父はうなずいた。「拓真の親父が、長年かけて彼女の犯罪の
拓真は、個室を予約していた。私が到着したとき、彼はすでにワインを一本空けていて、顔を少し赤らめながらも椅子を引いてくれた。私のグラスにワインを注いだ後、しばらく沈黙が続いた。先に口を開いたのは私だった。「聞きたいことがあるなら、遠慮せずに聞いて」拓真はうつむいたまま、ぽたりと涙をグラスに落とした。ワインの中に小さな波紋が広がる。顔を上げた彼の頬には、涙の跡が残っていた。「俺のこと、あんなに愛してくれてたじゃん……なのに、なんでそんなあっさり気持ちが離れたんだよ。本当に、もうやり直せないのか?」私はグラスの縁を指でなぞりながら、笑って言った。「気持ちってさ、ある日突然変わるもんじゃないよ。あなたが新藤のこと好きになった時も、そうだったでしょ?私にしたこと、一つひとつ、ちゃんと覚えてる。それでも……あの時は、あんたのことが好きだった。でもね……気持ちって、少しずつ削れていくの。何回も、何回も傷つけられてるうちに、気づいたら……もう、残ってなかったんだよ」拓真は肩を震わせながら、しぼり出すように言った。「俺が芽依ちゃんのこと、好きになった理由……分かるか?あいつの目がさ、お前にすごく似てたんだよ。それにあの時、ただ……芽依ちゃんがかわいそうだなって思っちまって。お前が戻ってきてからも、うちの両親にどんなに冷たくされても、文句ひとつ言わずに耐えててさ。だから……俺が守らなきゃ、って思ったんだ」あんなに真剣に話す彼を見ていると、まるで私が思いやりに欠けていたせいで、こうなったみたいに思えてくる。でも、彼自身も気づいていないかもしれない。芽依への同情が、彼をいつの間にか別人みたいに変えてしまっていたんだ。私はスマホを取り出し、椎名おばさんとのチャット履歴を彼の前に突き出した。芽依がしてきたことが、全部そこに残っていた。最初は拓真、ぽかんとした顔で画面を見てた。でもページをめくるたびに、顔つきがどんどん変わっていって、最後には、スマホを持つ手まで震えてた。きっと、自分があれだけ庇ってきた相手の裏の顔なんて、想像すらしてなかったんだと思う。一通り見終わって、彼はスマホを私に返してきた。目を真っ赤にしてにらみつけてきたけど、もう完全に気が抜けたみたいで、涙だけがポロポロこぼれてた。「……梨乃、
翌朝、出勤しようとしたら、玄関の前に拓真が朝ご飯を持って立っていた。私を見ると、彼はニコニコと媚びるように笑った。「しじみの味噌汁、作ってきたよ。前に南浦にいた頃、お前がよく作ってくれたやつ」私は彼を見つめたまま、無表情で言った。「私、貝類が苦手で、アレルギーもあるの」拓真は食べ物にうるさくて、ほとんど外食しなかった。だから私は毎朝早起きして、いろんな朝ごはんを工夫していた。その中でも彼が一番好きだったのが、このしじみの味噌汁だった。だから毎日それを作るようになった。でも、私は一口も飲まなかった。貝の匂いが昔からどうしても受け付けなくて、しかも軽いアレルギーもある。私の言葉を聞いて、彼は慌ててスマホを取り出し、何かをメモし始めた。「ごめん……知らなかった。ちゃんと覚えておく」私は黙ってそのまま歩き出した。そんなことで、私が感動するとでも思ってるの?その後、一週間以上、彼は毎朝家の前に現れた。私はうんざりして、マンションの管理室に行き、事情を話して彼を敷地内に入れないよう頼んだ。彼は中に入らなくなったけど、今度はマンションの入口に立つようになった。私は彼の視線を無視して、いつも通り病院へ向かっていた。でも彼はついてきて、私の手首を掴んだ。「梨乃、そろそろ許してくれてもいいだろ?」私は限界だった。昨夜も手術が重なって、ほとんど眠れていなかった。深呼吸して、感情を抑えながら言った。「いい加減にして!何度言えばわかるの?もう、私の生活に入り込まないでって!あなたが新藤のことを何度もかばって、私のことを侮辱して……そのたびに、私は少しずつ冷めていった。子どもが亡くなったあの日、もうあなたへの気持ちを完全に失ったの!これ以上付きまとったら、警察呼ぶから!」彼は目を見開いたまま、何も言えずに立ち尽くしていた。唇が震えていて、目が赤くなっていた。「……わかった。もう、わかったよ」彼はうつむいて、背を向けて歩き出した。その日は、本当に現れなかった。季節はすっかり冬に入り、仕事も忙しくなっていた。ある晩、仕事が終わった後、知らない番号から電話がかかってきた。「梨乃、ご飯でも行かない?ちゃんと話したい。このまま帰るとしても、ちゃんと気持ちに整理をつけたいんだ」少
私は覚悟を決めた。まさか彼が汐見市まで来るなんて、思いもしなかった。しばらく黙ってから、首を横に振った。「帰って。ここは、私の家だから」拓真の目に涙が浮かんでいた。私を見つめていたけれど、言葉に詰まっていた。「お前がいなくなってから、ずっと考えてた。芽依ちゃんとのことは、もう終わった。気持ちも、残ってない。お前がそばにいてくれるのが、あまりにも当たり前になってた。朝ごはんとか、昼のメッセージとか……全部、今になって思い出してる。やり直したい、ちゃんと向き合いたい。次の婚約式では、絶対にお前を一人にしない」その目を見ていると、胸の奥からこみ上げてくるのは、憎しみだった。どうして、こんなにも平気な顔で言えるの?私が受けた傷、忘れたの?私はうっすら笑って、戸惑う彼の顔を見ながら、その頬を強く平手打ちした。「夢でも見てるんじゃない?」彼を押しのけてドアを開け、彼が入ろうとした瞬間、勢いよくドアを閉めた。「出てって!」拓真は帰らず、両親が帰宅するまでずっと外で待っていた。父が玄関先で怒鳴っていた。「出ていけ!」父が手を上げようとしたので、私はドアを開けて止めた。「お父さん、もういいよ。あんなやつのために、手を汚す価値もない」拓真は信じられないって顔をしていた。ようやく、私が本気で彼を拒絶したことに気づいたんだろう。彼はただ首を振り続けた。「梨乃、絶対に諦めない。君に借りたものは、ちゃんと返す。俺はもう帰らない、ここで待ってるから」父がまた怒鳴りかけたので、私は腕を引いて家の中へ戻った。「私から奪ったものなんて、返せるわけないじゃない」バタンとドアを閉めた瞬間、外の世界ときっぱり切り離されたような静けさが訪れた。一枚の扉が、ふたつの世界を隔てた。あの雪の夜のことを思い出す。裸足のまま、凍える夜の外に閉め出されたあの日。私の愛を踏み台に、彼は私を何度も傷つけた。そして、いつの間にか私たちの立場は、逆転していたんだ。拓真さん、枯れた花に水をやっても、二度と咲かないのよ。私が受けた傷は、何度も何度も蘇る。この先の人生、私はあなたを許すことなんて、絶対にない。
私は唇をギュッと噛みしめ、大きく息を吸い込んだ。「これが最後ね、もう一度だけ言う。私はもうあなたのこと、好きじゃない。これ以上私の人生に関わらないで。それに、あなたに子どもの話をする資格なんてない。あの時の流産で、私の体はもうボロボロ。妊娠できる可能性だって、ほとんどないのよ。あなたを恨んでないと思ってた?それと、あんたと新藤のことなんて、もう私には一切関係ない。でも……いつか全部の真実を知ったとき、それでも新藤を無条件に守れるのかどうか、それは見ものね。椎名拓真、私はこの一生、あんたを恨み続ける」そう言って、私は一切のためらいなく電話を切った。胸が苦しくて、思わず天を仰ぐ。泣くもんか。ようやく地獄から抜け出せたのに。彼はその後も、番号を変えて何度も電話をかけてきた。正直、私はわからなかった。あんなにも私のことを嫌っていたのに、何よりも、彼が一番憎んでいたのは、私が芽依との間に割り込んだことじゃなかったの?だったら、私が身を引いた今こそ、彼は喜ぶはずなのに。どうして、こんなにも必死に私を引き戻そうとするの?ああ、そうか。急に自分中心で動いてた「都合のいい女」がいなくなって、戸惑ってるだけなんだ。ご飯食べたか聞いてくれる人、風邪ひいてないか心配してくれる人、そういう存在が急にいなくなって、寂しくなっただけ。でも私はもう、彼の言葉なんて心に留めない。そのうち慣れて、私の存在なんて忘れていくでしょ。それでいい。だけど、私は彼のしつこさを甘く見てた。一週間後、ようやくやってきた貴重な休み。日勤の引き継ぎが終わると、もう夕方だった。両親は留守で、私は帰り道に適当な弁当を買って帰宅した。家の前まで来たとき、ドキッとした。玄関の前に、誰かがぼんやり立っていた。指先のタバコの火がチラチラと揺れ、廊下には煙のにおいが充満していた。逃げようとしたその瞬間、その人が私の名前を呼んだ。「……梨乃」拓真だった。彼はゆっくり近づいてきて、真っ直ぐな目で私を見つめた。「一緒に帰ろう。な?お願いだよ」
病院の廊下は人であふれ、すれ違うたびにちらちらとこちらを振り返る人がいる。私は無表情のまま、冷たく言い放った。「理由なんてない。もうあなたのことなんか好きじゃない。それだけ」拓真は目を見開き、唇を舐めた。「拗ねてるのか?お前の両親もいないここで、俺を離れてどこへ行くつもりなんだ?」その顔を見ても、もう何の感情も湧かなかった。記憶にある彼の面影なんて、どこにもなかった。ちょうどその時、科長がまた私を見つけて声をかけてきた。「一之瀬くん、まだいてくれてよかった。あと一つ書類のサインが必要で」私は短く返事をして科長についていこうとした。すると、拓真が突然口を挟んだ。「何の書類だ?」科長が代わりに答える。「外部派遣の書類だよ。一之瀬くん、転属されるんだ」拓真の顔がみるみる青ざめ、何か言いたそうだったけど、それを遮った。「科長、先にサインを済ませましょう」視線の端で、拓真が一歩踏み出そうとしたのが見えた。思わず笑いそうになる。何?今さら惜しくなったの?後悔でもしてるの?書類にサインした私は、村上明子(むらかみ あきこ)の家には戻らず、適当に近くのホテルをとった。明日の朝には飛行機に乗る予定だった。飛行機が着くと、両親が空港の外で待っていた。私の顔を見るなり、母の目が赤くなった。南浦市での数年間、私と拓真のことは耳に入っていたらしく、何度も帰ってくるよう説得された。でも私はあくまで自分の意志を通した。結局、火に飛び込む蛾のように、燃え尽きるしかなかった。ほとんど休む間もなく新しい病院に赴任した。新任の私は救急に配属されて、毎日がてんやわんや。南浦市での記憶は徐々に私の日常から薄れていった。汐見市の冬はそこまで寒くない。夜勤がようやく終わり、ヘトヘトになりながら帰路についたそのとき。拓真の母から電話がかかってきた。少し迷ったけど、結局出ることにした。ちゃんと別れの挨拶すらできてなかったから。「もしもし、おばさん……」返事はない。聞こえるのは、ただ荒い呼吸音だけ。長い沈黙のあと、低い声が聞こえた。「梨乃、俺の番号、着信拒否から外してくれ」拓真だった。電話を切ろうとすると、彼の声が急いで続いた。「切ったらまた新しい番号でかけるから」頭が真っ白になって
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