こうして、春を迎えた。
大学四年生になってすぐ、俺は紫野と二人で、居酒屋に行った。
サークルで、よく行く居酒屋だ。先輩がバイトをしていたから、予約も取りやすかった。勿論、二人で行く時は、予約なんかしない。俺はたまに幹事をしていたので、その時だ。
さて、俺は麦酒を頼み、紫野は生グレープフルーツサワーを頼んだ。品が届くと、紫野がグレープフルーツを搾り始める。つまみはサラダと焼き鳥、厚焼き卵だ。
紫野はサラダが好きで、俺は卵が好きなのだ。
「ホラーのネタの収集は進んでるのか?」
その時不意に、紫野に聞かれた。
俺は皿にサラダを取りながら、最近ではめっきり収集しなくなっていたなと思い出した。何故なら、時島といると、あるいは紫野といてもなのだろうが、オカルトな現象に遭遇する頻度が増えていたからだ。話を集めるまでも無かった。向こうからやって来る。だから俺は、時折振り返ってノートパソコンにその記録をまとめるだけの日々を送っていた。「まぁまぁ、かな」
そう答えると、紫野が喉で笑いながら、果汁をグラスに入れた。
そして二人で乾杯する。「時島と、どう?」
結局、俺は……少し前にアパートを解約して、時島のマンションに引っ越した。『どう』と言うのは、その事だろう。
「時島って結構マメだな。料理も掃除も気合い入ってる。なんかお世話になりっぱなし」
グイとジョッキを煽りながら俺が言うと、紫野が神妙な顔をした。
「そうじゃなくて――……付き合ってるんじゃないのか?」
「は?」そりゃあ一緒に暮らしているのだから、相応の付き合いはある。紫野の言葉の意味が分からず、首を傾げるしかない。
「だから、だーかーらー」
紫野は何か言いたそうに、ジョッキを傾け、グイグイと半分ほど飲んだ。そして真剣な顔で俺を見た。
「ヤったりって意味」
「は!?」俺は唖然とするしかなかった。確かにまだ引っ越す前の、泊めてもらっていただけの頃に……俺は一度だけ、時島と寝たのかもしれない。ただしアレは、合意でも何でもなくて、俺が憑かれて襲ってしまっただけなのだ。今では、俺も時島も、その事には全く触れない。
そもそも、そもそもだ。俺は男が怖いのだ。こういう――周囲に大勢の客や店員がいる居酒屋などであれば別だが……。
そうだ、紫野には俺が、強姦された事件について、話をした事が無い。だからただのネタとして話しているのかもしれない。そもそも、俺も時島も男だ。
――この当時は、LGBTといった風潮は、あまり無く、『男同士』といえば、会話のネタの一つだったのだ。
「何言ってんだよ……男同士だぞ。飲んで早々ゲイネタって」
「ネタじゃなくて、真面目に聞いてる」 「それこそ何でだよ」 「何でかって? 言ったら左鳥が引くから絶対に言わない」 「もう既に引いてるから。言えよ」再びジョッキを傾けながら、俺は頑張って笑った。まさか時島が、俺と体を重ねた事や、俺が強姦に遭ったという話を、紫野にしたのだろうか? あの時島が? 何となくそれは無いような気がする。
「……俺な、好きな相手がいるんだよ」
紫野がポツリと続けた。そうしながら二杯目を頼む。次は生キウイサワーだった。
「そいつ、男なんだよ」
俺は思わず目を見開いた。なんと返せば良いのか分からない。同性愛者がいる事は、勿論俺にも分かっていた。けれどこんなに身近にいて、しかもそれが紫野だとは思いもしなかったのだ。紫野は正直モテる。無論女子に、だ。俺の記憶が正しければ、カノジョがいた覚えもある。少なくとも大学に入ってから二人はいた。
「いつから好きなんだ?」
「三年の終わり」そう言えば確かにその頃から、紫野にはカノジョがいた様子は無い。空いている時間は、ほぼずっと時島の家に遊びに来ているようだった。そこで俺は、ハッとした。もしや紫野が好きなのは――時島なんじゃ……?
「別に……その、引いたりしないよ」
「本当か? 正直に言ってくれて良いから」紫野が苦笑するように言った時、二杯目が運ばれてきた。俺も二杯目の麦酒を頼む。飲まずには聞いていられない。失礼かもしれないが……正直、俺は動揺していた。確実に動揺していた。
「本当。本当に引いてない。えっと……あのさ、さっきの話だけど、俺と時島は本当に何でも無いよ」
「そっか」紫野は頷いてから、ゆっくりと酒を飲んだ。俺はそれを見守る。
「左鳥ってさ、色っぽいよな」
「なんだよそれ」 「色気がある。だから――心配してるんだよ」これは、いよいよ時島の事が好きなのだろうと、俺は確信した。俺が色っぽいと心配するなんて、それしかあり得ない。断言して、俺は色っぽくなど無いのだから。
「お前見てると、男でもクラッとくる」
「馬鹿にしてるだろ」 「してねぇよ……なぁ、お前男と経験あったりする?」続いた言葉に俺は硬直した。
タクシーに乗っている自分が脳裏を過ぎった。思わずジョッキを置き、両手で体を抱く。「なぁ紫野――俺こそ、引かれる話をしても良い?」
「何だ?」俺は、その時勇気を出した。以前までよりも仲良くなった紫野に、聞いてもらいたかったのだと思う。酔っていたわけではない。そこで――男に強姦された話をしたのだ。紫野は最初こそ息を飲んだものの、眉間に皺を寄せながら静かに聞いてくれた。それから、俺に言った。
「お前は悪くない」
「あはは」思わず空笑いをしてしまった。実際には新宿で飲んだくれていたのだから、俺だって悪いと思う。だが、紫野の言葉に、気が楽になった。
「取り敢えず、これからは、一人で飲みに行くなよ」
「あれ以来一度も行ってないよ」 「飲みたい時は俺が付き合うから」 「有難うな」 「それに……俺に出来るなら、俺がお前の事を守るから」紫野はそう言うと、なんだか悲しそうな顔で笑った。何故悲しそうに見えたのかは、分からない。ただ俺は、紫野の優しさにも救われたと思った。
その時不意に俺は、時島にいつか、『守ってやるとは言えない』と告げられた事を思い出した。急に頭に浮かんできたのだ。俺はその時島の言葉を打ち消すように、小さく頭を振る。それから紫野を見た。
「助かる。嬉しいよ。さ、飲もう!」
そして話を変えて、俺は紫野と酒を飲んだ。紫野の事を、本当に大切な友達だと再認識したのはこの時だったような気がする。
さて――紫野の家に誘われたのは、俺がぐるぐると時島について考えていた頃の事だった。時島は俺を「愛している」と言ったが、あれが本心なのか……未だに分からない。時が経てば経つほど、からかわれているのではないかという思いが強くなってきたのだ。だが、仮に時島が本気だとしても……そもそも、俺は――時島を友人だと思っているのだ。 どうすれば良いのだろう? 一瞬、紫野に相談しようかとも思った。紫野も男が好きだと言っていたからだ。けれど紫野の想い人が時島だとすると、それは出来ない。紫野と気まずくなりたくない。三角関係なんて絶対嫌だ。だが、俺と時島の共通の友人は紫野だけだ。相談出来ないのが、もどかしい。 そんな感覚を持ったまま、初めてお邪魔した紫野の家は、よく整理された十畳だった。広い。お香の匂いがする。「まぁ、飲んでくれ」 座った俺に、紫野が濃い濁ったお茶を差し出した。 紫野はカフェラテを飲んでいる印象が強かったから、緑茶が出てきたのを、少しだけ意外に思った。濁っているが、緑色だし、急須を使っていた。苦そうに三重たのだが、思いの外飲みやすい。「時島と旅行してきたんだってな。俺の事も誘ってくれよ」 「悪い。次は絶対誘う」 「うん。左鳥には危機感が足り無さすぎる」 確かに憑かれやすいのだろうとは思うから、苦笑してしまった。「何で俺って憑かれるんだろう」 「そう言う意味じゃない――まぁ憑かれやすいっていうのは……俺には何も言えないけど」 「? じゃあどう言う意味だ?」 「もう分かってるだろ、俺が左鳥の事を好きだって。そんな相手の家に、一人で来るなんてどうかしてる」 溜息をつきながら紫野が言った。俺は目を見開いた。「え、お前の好きな奴って、時島じゃないのか!? だから俺、悪い事したなって思って」 「悪いこと、ね。それは根に持つかもな。ただ、時島のはずがないだろ。お前だお前。本当、鈍いのな」 それほど俺は、自分が鈍いとは思わない。「しかも一回、俺の薬飲んで弄られてるのに、何の不信感もなく、そのお茶も飲むし」 「――
次第に夏の気配が近づいてきた。 この日俺の食欲は、おかしかった。今日は時島がいない。俺はエビカツパンとヒレカツパンを買ってきた。紫野も遊びに来ないという。二つのパンを食べてお腹がいっぱいだと思うのに、俺はさらにオムライスを作った。それも食べた。その後はパスタを食べた。 ――気づけば俺は、冷蔵庫の中身が空になるまで食べていた。 我に返ったのは、帰ってきた時島に肩を叩かれた時の事である。「あ、俺……」「つかれてるんだよ」 思わず頭を抱えた時、不意に嘔吐感が襲ってきた。気持ち悪い。勿論、食べ過ぎだ。俺は全てを吐いてしまいたくなり、気づくとトイレに走っていた。 ――出てきたモノを見て、俺は目を見開いた。 そこには大きな溝鼠がいたのだ。「時島、時島!!」 すぐさま引き返すと、時島が立っていた。そして俺へと歩み寄る。俺はトイレの中を指差した。「これ、これ!!」「鼠だな」 そんな事は分かっていた。問題はそれが俺の口から出てきた事だ。 何事も無いように、時島はトイレの水を流す。呆然と俺はそれを見守っていた。 それからコタツのある部屋へ戻り、時島が大量の食材が入ったビニール袋を見た。買って帰ってきたらしい。それを手に、時島が冷蔵庫へと向かったので、俺も後を追う。「俺が食べちゃうって、予測してたのか……?」「昨日の野菜炒めで、冷蔵庫の中身は空になっただろう」「あ」 では、俺は何を食べていたのだろうか……? 全身に怖気が走った。気づけば俺は座り込んでいた。再び気持ちが悪くなってきた。「何も憑くのは、人ばかりじゃないからな」「え?」「本当、左鳥はどうして、そんなに取り憑かれやすいんだろうな」 淡々と言いながら、時島が食材を冷蔵庫にしまい始める。直接憑きやすいと言われたのは、久しぶりの事だった。「本来なら、こういう時こそ、紫野の薬が効くんだ」「そうなんだ……」「すぐに呼んだ方が良いと言いたい……ただな」 不意に時島が、俺の正面に座った。そして両手で俺の頬に触れた。 少し上を向かされて、顔を覗き込まれる。「お前と紫野を二人にしたくない」「え……?」 真剣な顔でそう言われた。黒い時島の瞳に、俺が映っているようだった。 ――あ、キスされる。 そう思った瞬間、インターフォンが鳴った。 慌てて立ち上がってから、俺は、片手で両目
東京に戻ってきてから、俺は――ここ数日の出来事を考えた。時島は確かにあの時、俺のことを「愛している」と言った。 だけど……なんで? いつから? 俺には好きになってもらう要素があるのだろうか……? 消しゴムと聞いたが……一番は、「一緒に暮らす内に」だと話していたな……。「俺は……時島の事を、どう思ってるんだろう……」 それがよく分からない。ただ、時島と二人きりでいても、恐怖を感じる事が無いのは分かっている。 ちなみに、分からないことはもう一つある。 ――紫野はどうしてあんな事をしたのだろう。好きな相手の代わりだったとか? 所謂、練習という奴だろうか。ただ紫野は、そう言う事はしない気がする。そして俺は、薬のせいもあったのか、現在……紫野にも恐怖や嫌悪感が無い。 そうすると、嫌な仮定が一つ浮かんでくる。 俺の体は、男を相手に感じてしまうのかもしれない。しかも性的な接触を持つと、安心感を得るようだ。仮にそうだとしたならば……その契機は? 今では強姦された事は曖昧な記憶になっていて、滅多に思い出さなくなって来た。だが――あの一件しかないだろう。講義でも習った。過度な嫌悪を抱く場合、本当はそう言う願望が自分にある事もある、と。俺は、同性に対して、以上に恐怖し嫌悪しているわけだが……まさか。 暫くして……もう、そう言う事を考えたくなくなった。だから俺は久方ぶりに、実家に帰省した。そして泰雅を呼び出し、弟と三人でN県のN市に遊びに行く事にした。 ――この当時、右京は高校生だった。 峠を越える事になったのだが、頂上付近が工事中だった。スノーシェッドの前には信号機がある。五分単位で、信号の色が変わる代物らしい。 F県側から抜けた所には、緑色の公衆電話があった。この頃はまだ、珍しい存在では無かった。
山神地区は、東京から車で三時間ほど行ったG県にあった。今回は運転を時島がしてくれる事になり、俺は助手席で地図を眺めていた。途中からGPSが狂ってしまったのか、ナビにノイズが入って使えなくなってしまったので、レンタカーに積んであった地図雑誌を捲っていたのである。携帯電話の電波も入らなかった。 何とか無事に目的地にはついた。そこで俺達は、時島が予約しておいてくれた、民宿に泊まる事になった。 俺はあまりよく知らない場所に来るとお腹が痛くなるタイプなので、恥ずかしながら浣腸を持参した。それですっきりした後、幸い客室にもシャワーがあったので、体の中までしっかりと洗った。お腹の調子が悪いと、旅行を楽しめない。「長かったな。料理が来てるぞ」 時島の前に、浴衣姿で俺は座った。並んでいたのは郷土料理と天ぷら、すき焼きなどで実に食欲をそそる。時島は、俺の前にシャワーを浴びていた。 二人で麦酒を飲みながら、食事を楽しむ。以前高階さんに、「麦酒ばっかりだと、その内、腹だけ太るぞ」と言われた事を思い出したが、気にしない事にした。 それにしても、俺には一つだけ不思議に思う事があった。 即に言う『既視感』は、脳の錯覚だと講義で習っていたのだが……どうしてもこの場所に来た事がある気がしてならなかったのだ。例えば、『曲がり角には地蔵があるはずだ』なんて思ったら実際にあったりした。 ――総髪の破戒僧と、紀想という名の青年の姿もまた頭を過ぎった。「あのさ、時島――……今日は、離れて寝た方が良いと思う。ガラガラだし、もうひと部屋取った方が良いかも……」「何故?」「前に……お前の事を俺、襲っちゃったんだろう? やっぱり」「……夢だと言っただろう?」 ならば、あの時の破れたコンドームは何だったのかと言おうとして止めた。時島がカノジョもいないのにゴムを常備しているのは、まぁ何というか見栄なのだろうと思って、そこだけは時島の男味と言うか人間らしさを感じる。「その夢の感覚がするんだよ」「――……そうか。だろうな」「え?」 ――だろうな? どういう意味かと悩んで、首を傾げると、不意に脳裏を、別の記憶に埋め尽くされた。俺はそこで、時島にそっくりの顔をした法師を見て泣いていた。「いかないで下さい……」 今度は俺は、浴衣を着たまま時島の隣に座り直し、その袖に抱きついていた。 自分
――その頃からだった。 段々……霞がかかっていくように、頭がぼんやりとし始めた。「そうだな……いるな」 朦朧とした意識で、俺は答えた。何故なのか、紫野の言葉は、全て正しいような気になっていた。「だろ?」 俺は気づくと座布団の上に押し倒されていた。ベルトに手をかけられる。体を反転させられ、ボトムスを脱がせられた。ボクサーも足首まで落ちた。空気のひんやりとした感触に、冷房が強いなとだけ、ただ思う。他には何も考えていなかった。恐怖すらない。「安心してくれ。絶対に痛くしないし、怖がらせない」 そう言うと、俺の視界に、紫野がローションの蓋を開けている姿が入ってきた。俺が無意識に眺めていると、紫野がそれを指に塗した。俺は力の入らない体で、何をしているのだろうとだけ考えていた。すると紫野が、俺を確認するように見た。「力、抜けてきただろ?」「ん……」 その事実よりも、意識が曖昧になりつつある事が不思議だった。 そして――……次に気づいた時、俺の後孔には、紫野の指が入っていた。「ンあ」 思わず腰を引こうとする。しかし弛緩した体には、力が入らない。「そんな所、汚――ッ、ああっ」 指がその時二本に増えた。その感触だけに意識が集中していて、不思議と恐怖は無い。 俺は前に、きっと同じような事をされて、怖くなったはずなのに。「あ、うッ」「左鳥の中なら汚いと思わない」「フぁ……ァ……――!!」 紫野の指がその時、俺の内部のある箇所を刺激した。目を見開いた。俺は、その刺激で射精しそうになっていたからだ。「あ、あ、ッううァ、止め、止めろ、そこ、ア」「ここか?」「ンあ――――!! 何だよこれッ」「多分、前立腺」 涙が零れてくる。俺は舌を出して大きく息を吐いてから、力の入らない体を叱咤して、何とか紫野を見た。すると紫野が、微苦笑していた。「色っぽすぎ」「ああっ、ン……ッ、う……出、出る、出るから……ッ、あ、前」「うん、出せよ」 紫野はそう言うと、俺の前を扱いた。そして呆気なく俺は射精した。 まだ息が苦しい。解放感に、クラクラした。 紫野は、ウェットティッシュで俺の下腹部や、後孔を拭いてくれる。「何でこんな事……」「これからは、こっちを思い出せよ」「答えになってない」「……善く無かったか?」「ッ」 多分俺は、気持ち良いと思ってい
それから、五日が経過した。 ――最近は、お腹の調子が良い。 そんな事を考えながら、珍しく朝、俺は起きた。すると時島が大学に行く準備をしていた。図書館に出かけるらしい。俺は暑い外にわざわざ出たくなかったので、クーラーをつけて、布団の上にいた。「紫野が来ると言っていた」「そっか。じゃあ、俺は部屋でダラダラしとく」 俺は時島を見送ってからトイレに入った。快便だった。すごく気分も良い。 それからシャワーを浴びて、俺は上がると麦茶を飲んだ。紫野が来たのはその時の事だ。「ああ、時島は、大学に行ってるんだってな」 ガチャリと紫野が鍵をかけた。何だろうかと見守っていると、振り返った紫野が溜息をついた。「危ないから、鍵は一人でもちゃんとかけておけよ。時島は合い鍵を持ってるんだからさ。俺まで一個預かってるし。それと、家にいるんならチェーンも」 確かにそれはそうだとも思うのだが――……俺は俯いた。「それだと、何かあった時に、逃げられないだろ?」 強姦された事がまた頭を過ぎった。どれだけ俺は気にしているのだろう。 俺の表情に、紫野は察したようだった。「――中に不審者が入ってくるよりマシだろ」「だよな」 俺は笑って誤魔化して、紫野の分の麦茶を用意した。それから雑談をした。「四年になると、思いの外サークルに顔を出さないな」とか、「暇になったのに不思議だよな」だとか、「就活効果は偉大だ」とか、「新卒採用企業が多すぎる」だとか。紫野は、以前はテレビの話が多かったのだが、この日はしなかった。あまり話が合わないと気づいているのだろう。この家のテレビは、あまり稼動しないのだ。時島はテレビを滅多に見ない。俺はネットで事足りているから、見ようと言わない。見たいドラマがあればレンタルして、まとめて見るタイプだ。朝のニュースを時々、眺めるだけである。「なぁ……左鳥。嫌な話をしても良いか?」「ん? 何?」「お前がタクシー運転手にヤられてから、男と二人でいるのが怖いってやつ」「ああ……」 紫野は優しいから、気にしてくれているのだろう。 ――『格好良い?』と、聞いてきた碧依君の事を不意に思い出しつつ、苦笑してしまった。ただ碧依くんの反応は、あの時の俺には、とても助かったのだが。普通は、紫野のような反応をするのかもしれない。「平気だよ。その……あんまり、気にしないでくれ