これは、俺と碧依君が大学二年生の時の話だ。俺と碧依君は、二年時からの実験の必修クラスが別だった。翌週に碧依君のクラスでやる実験を、一週間前に俺のクラスがやる形になっていた。だから実験時期が異なるものの同じ必修のレポートを、一緒にファミレスで書いていたのだが、碧依君が呻きだした。
「無理、何これ、分かんない!」
「どれ?」 「だからこれ。どうやってグラフ作るの?」 「それはエクセルのデータ分析のマークを……」 「何なのこの相関関係って……!」仕方が無いので俺は、グラフ作成を手伝った。そして鞄に入れっぱなしだった、先週分の資料のコピーも貸した。参考にと思って、自分が書いた前回のレポートも見せた。
――碧依君はそれをパクった。何という事だろうか。
俺は知らなかったが、後で告白された。告白されたのは、碧依君が心理学科準備室に呼び出された日だ。碧依君は俺に、「これからすぐ左鳥に、日々川教授から電話が行くかもしれない」と泣きながら連絡をしてきた。
そう言えば入学時のパンフレットに、『レポートの盗作が行われた場合、盗作した方もされた方も、単位取り消し』と書いてあったな……うああああ、と、俺は内心で悶えた。俺は決して綺麗に生きてきた人間ではないので(レポートの代筆経験は多数だ)、いかようにして逃れるかしか考えてはいなかった。
電話はすぐにあった。
『もしもし、日々川と言いますが』
「――はい、霧生です」 『霧生君。単刀直入に聞くけど、誰かに錯視の実験のレポートを見せなかったかい?』 「錯視の実験のレポートですか? よくサークルの同じ学科のみんなで、文献を貸し合ったりしながら、切磋琢磨しつつ、ファミレスでレポートを書いているので、特定の誰かというのは心当たりがありませんが……」 『……例えば、一緒に私の講義を取っている誰かに、心当たりは無い?』 「先生の講義でしたら、先生のファンは俺も含めていっぱいいるので、みんなで一緒に取っていますけど……何かあったんですか?」 『……その――ザザ――死ねぇえええ! 死ね! 死ねぇ!』 「……はい?」急に砂嵐のような音と共に、『死ね』と声が挟まった。先生は、一体どうしたんだ?
『死ねぇ……死ね! 死ね!! 死ねぇえ! ザザ――ご、ごめん電波が悪いみたいだね』
「はぁ……?」 『死ねぇ、死、死、死』 「せ、先生? ど、どうかなさったんですか?」 『ん?』 「さっきから死ねって……」 『……こちらにも先ほどから、男の声でそう聞こえるんだ……』言われて初めて、俺はそれが男の涙声だと気がついた。
『有難う……突然電話をして、申し訳ないね』
先生はそう言うと、電話を切った。入れ違うように、碧依君から電話がかかってきた。碧依君は泣いていた。
『ごめんね、いきなり。電話が行っちゃって』
まったくその通りである。だがそれよりも不思議な雑音について、俺は碧依君に話した。
「――それ、俺の生き霊かも。俺さっきからずっと、『死ね! 死ね!!』って呟きながら泣いていたから」
碧依君よ、反省したまえ。
俺はそんな風に思ったのだった。なお、碧依くんはその後、無事に留年を回避出来たが、その理由は不明だ。
さて、二つ目の話である。
これは俺の身に起きた話だから、本当はあまり思い出したくない。しかしこれに関しては、記憶を封印した事も、一度も無い。中退騒ぎとは、質が違う。こちらこそが、俺の中で一番印象的な、『人間の恐怖』だ。被害者になる恐怖の象徴だ。
詳細を語った事はほとんど無いし、強姦されたという事実すら、長い間ほぼ誰にも話せなかった。
だが犯人は今でも、未だにあの界隈にいるかもしれないから、警鐘を鳴らすべきなのだろうと思う。
警察に行こうかと何度か考えた事もあったし、先輩が警察官になった時には相談もした。だが、捕まえる事は不可能だったし、顔も名前も俺自身よくは覚えていないのだ。
そしてこの話を書くからと言って、全てのタクシー運転手の方が、疑いの眼差しを向けられるべきではないと言う事もよく分かっている。
ただし、読んだ方は気を付けて欲しい。
人間は、怖い。
きっと書いてしまえば至極ありがちで、ありきたりで、「へぇ」や「ふぅん」と言った感想で終わってしまうのだろうが、俺は少なくとも怖かったし、長い間、タクシーに乗る度に思い出したものである。タクシー自体を避けたほどだ。
その日俺は、就活に失敗して、半泣きで――新宿で飲んでいた。
気がついたら十三分前に終電が出ていたものだから、途方に暮れてピラミッドみたいなオブジェの前に佇んでいた。車が並んでいる。すると俺の正面にいたタクシーの窓が開いた。「お兄さん、何処まで行きたいの?」
「H市までですけど、お金が無いから……」 「俺、これで丁度、仕事終わったから、送ってあげるよ」 「え、良いんですか?」 「うん。飲んでたの?」 「は、はい」 「俺、これからタクシー運転手だけが集まる飲み屋に行くけど、一緒に行く?」 「は、はい!」俺は酔っていたのもあるが、藁にも縋る思いだった。一晩を過ごせる屋根の下を求めていた。既に財布の中身は百数十円しか無かった事も記憶している。
勿論酒を飲んでいた俺、藁に縋った俺、そんな俺も悪かったのだろう。落ち度があったと思っている。それもあって、被害を口に出す事は躊躇われたいた。だがそれ以上に、言葉にした時に甦る、当時の痛みが、長きに渡り恐怖を喚起したものである。
気づくとそのまま俺は、一人暮らしの家があったH市では無く、K市にある、タクシー会社が、その運転手に斡旋したと言うアパートへと連れられて入っていた。「飲み屋に行く前に着替えたいから、ついてきて欲しい」と言われたのだ。思考が飛び飛びで、促されるままに俺はついていき、そして――「っ」
気づくと布団に縫いつけられていた。
生温かい舌が首筋を這い、就活用のシャツのボタンが引きちぎられたのが分かった。そのまま俺は酔いのせいで寝たのか、気を失ったのか――翌日タクシー運転手に起こされた。最初は、どこにいるのか分からなかった。だがすぐに、後孔の痛みに気がついた。
「初めてだったんだなぁ、やっぱり」
警察に行かなければならない。始めにそう思ったが、「男が男に強姦された」など、何て伝えれば良いのか分からなかった。少なくともその時は、分からなかった。血はまだ後ろの孔から垂れていた。
「朝ご飯を食いにファミレスでも行く?」
「……」 「いやぁ良かったよ兄ちゃん」 「……いつもこんな、乗車客を家に連れ込んだり、こういう事をしてるんですか……?」 「ああ。ほぼ毎日な」そのまま一緒にファミレスに行くフリをして、俺はトイレに行くと告げ、その場から逃げた。
俺は、土地勘が無い場所にいた。初めて足を踏み入れた場所だった。帰り方を聞くべく、都内出身の碧依君に電話をかけながら、駅のホームのベンチに腰を下ろしたのを覚えている。座っているだけでも、体が痛かった。
『もしもし? どうしたの?』
いつも通りの碧依君の声を聞いていたら、涙が出てきて、俺はありのままをポツリと吐き出してしまった。
「俺、さ。男とヤっちゃったよ」
『は? 嘘でしょ!? え、格好良い人?』格好良いか否かと言われれば、顔は良かったかもしれないが、全身を絶望感に俺は襲われていた。顔など無関係だ。と、内心でツッコミを入れたら、俺は平静さを取り戻す事が出来た。だから、慌てて話を変えた。
「いや、冗談。それよりさ、どうしよう、今日面接なのにすっぽかすの初めてなんだけど」
『俺なんて、三回に二回はすっぽかしてたけど、平気だったよ』いつもと変わらない碧依君の声だけが、その時の俺の救いだった。以後は、長い間、誰にもこの話はしなかった。
――吐き出しはこれで終わりだ。
ここからは、きちんと……人ならざる怪異的な意味での、怖い話を綴ろうと思う。
タイトルは、『本当にあった怖い話。』
時系列はバラバラになるかもしれないが、現在の日記でも挟みつつ書く事にしようか。
俺には語り部が相応しいだろうし、俺単独での話はこんなもので良いだろう。時島達と深く関わる前の、個人的なエピソードはこれで終わりである。
やはり案外、怖い話は、日常に満ち溢れている。
俺はそれを記述したい。あるいは、これは、自分を慰めるための行為だ。響いてくる鐘の音に耳を傾けてから、俺は改めてパソコンのキーボードの上に指を置いた。そして一度静かに、瞼を閉じた。
山神地区は、東京から車で三時間ほど行ったG県にあった。今回は運転を時島がしてくれる事になり、俺は助手席で地図を眺めていた。途中からGPSが狂ってしまったのか、ナビにノイズが入って使えなくなってしまったので、レンタカーに積んであった地図雑誌を捲っていたのである。携帯電話の電波も入らなかった。 何とか無事に目的地にはついた。そこで俺達は、時島が予約しておいてくれた、民宿に泊まる事になった。 俺はあまりよく知らない場所に来るとお腹が痛くなるタイプなので、恥ずかしながら浣腸を持参した。それですっきりした後、幸い客室にもシャワーがあったので、体の中までしっかりと洗った。お腹の調子が悪いと、旅行を楽しめない。「長かったな。料理が来てるぞ」 時島の前に、浴衣姿で俺は座った。並んでいたのは郷土料理と天ぷら、すき焼きなどで実に食欲をそそる。時島は、俺の前にシャワーを浴びていた。 二人で麦酒を飲みながら、食事を楽しむ。以前高階さんに、「麦酒ばっかりだと、その内、腹だけ太るぞ」と言われた事を思い出したが、気にしない事にした。 それにしても、俺には一つだけ不思議に思う事があった。 即に言う『既視感』は、脳の錯覚だと講義で習っていたのだが……どうしてもこの場所に来た事がある気がしてならなかったのだ。例えば、『曲がり角には地蔵があるはずだ』なんて思ったら実際にあったりした。 ――総髪の破戒僧と、紀想という名の青年の姿もまた頭を過ぎった。「あのさ、時島――……今日は、離れて寝た方が良いと思う。ガラガラだし、もうひと部屋取った方が良いかも……」「何故?」「前に……お前の事を俺、襲っちゃったんだろう? やっぱり」「……夢だと言っただろう?」 ならば、あの時の破れたコンドームは何だったのかと言おうとして止めた。時島がカノジョもいないのにゴムを常備しているのは、まぁ何というか見栄なのだろうと思って、そこだけは時島の男味と言うか人間らしさを感じる。「その夢の感覚がするんだよ」「――……そうか。だろうな」「え?」 ――だろうな? どういう意味かと悩んで、首を傾げると、不意に脳裏を、別の記憶に埋め尽くされた。俺はそこで、時島にそっくりの顔をした法師を見て泣いていた。「いかないで下さい……」 今度は俺は、浴衣を着たまま時島の隣に座り直し、その袖に抱きついていた。 自分
――その頃からだった。 段々……霞がかかっていくように、頭がぼんやりとし始めた。「そうだな……いるな」 朦朧とした意識で、俺は答えた。何故なのか、紫野の言葉は、全て正しいような気になっていた。「だろ?」 俺は気づくと座布団の上に押し倒されていた。ベルトに手をかけられる。体を反転させられ、ボトムスを脱がせられた。ボクサーも足首まで落ちた。空気のひんやりとした感触に、冷房が強いなとだけ、ただ思う。他には何も考えていなかった。恐怖すらない。「安心してくれ。絶対に痛くしないし、怖がらせない」 そう言うと、俺の視界に、紫野がローションの蓋を開けている姿が入ってきた。俺が無意識に眺めていると、紫野がそれを指に塗した。俺は力の入らない体で、何をしているのだろうとだけ考えていた。すると紫野が、俺を確認するように見た。「力、抜けてきただろ?」「ん……」 その事実よりも、意識が曖昧になりつつある事が不思議だった。 そして――……次に気づいた時、俺の後孔には、紫野の指が入っていた。「ンあ」 思わず腰を引こうとする。しかし弛緩した体には、力が入らない。「そんな所、汚――ッ、ああっ」 指がその時二本に増えた。その感触だけに意識が集中していて、不思議と恐怖は無い。 俺は前に、きっと同じような事をされて、怖くなったはずなのに。「あ、うッ」「左鳥の中なら汚いと思わない」「フぁ……ァ……――!!」 紫野の指がその時、俺の内部のある箇所を刺激した。目を見開いた。俺は、その刺激で射精しそうになっていたからだ。「あ、あ、ッううァ、止め、止めろ、そこ、ア」「ここか?」「ンあ――――!! 何だよこれッ」「多分、前立腺」 涙が零れてくる。俺は舌を出して大きく息を吐いてから、力の入らない体を叱咤して、何とか紫野を見た。すると紫野が、微苦笑していた。「色っぽすぎ」「ああっ、ン……ッ、う……出、出る、出るから……ッ、あ、前」「うん、出せよ」 紫野はそう言うと、俺の前を扱いた。そして呆気なく俺は射精した。 まだ息が苦しい。解放感に、クラクラした。 紫野は、ウェットティッシュで俺の下腹部や、後孔を拭いてくれる。「何でこんな事……」「これからは、こっちを思い出せよ」「答えになってない」「……善く無かったか?」「ッ」 多分俺は、気持ち良いと思ってい
それから、五日が経過した。 ――最近は、お腹の調子が良い。 そんな事を考えながら、珍しく朝、俺は起きた。すると時島が大学に行く準備をしていた。図書館に出かけるらしい。俺は暑い外にわざわざ出たくなかったので、クーラーをつけて、布団の上にいた。「紫野が来ると言っていた」「そっか。じゃあ、俺は部屋でダラダラしとく」 俺は時島を見送ってからトイレに入った。快便だった。すごく気分も良い。 それからシャワーを浴びて、俺は上がると麦茶を飲んだ。紫野が来たのはその時の事だ。「ああ、時島は、大学に行ってるんだってな」 ガチャリと紫野が鍵をかけた。何だろうかと見守っていると、振り返った紫野が溜息をついた。「危ないから、鍵は一人でもちゃんとかけておけよ。時島は合い鍵を持ってるんだからさ。俺まで一個預かってるし。それと、家にいるんならチェーンも」 確かにそれはそうだとも思うのだが――……俺は俯いた。「それだと、何かあった時に、逃げられないだろ?」 強姦された事がまた頭を過ぎった。どれだけ俺は気にしているのだろう。 俺の表情に、紫野は察したようだった。「――中に不審者が入ってくるよりマシだろ」「だよな」 俺は笑って誤魔化して、紫野の分の麦茶を用意した。それから雑談をした。「四年になると、思いの外サークルに顔を出さないな」とか、「暇になったのに不思議だよな」だとか、「就活効果は偉大だ」とか、「新卒採用企業が多すぎる」だとか。紫野は、以前はテレビの話が多かったのだが、この日はしなかった。あまり話が合わないと気づいているのだろう。この家のテレビは、あまり稼動しないのだ。時島はテレビを滅多に見ない。俺はネットで事足りているから、見ようと言わない。見たいドラマがあればレンタルして、まとめて見るタイプだ。朝のニュースを時々、眺めるだけである。「なぁ……左鳥。嫌な話をしても良いか?」「ん? 何?」「お前がタクシー運転手にヤられてから、男と二人でいるのが怖いってやつ」「ああ……」 紫野は優しいから、気にしてくれているのだろう。 ――『格好良い?』と、聞いてきた碧依君の事を不意に思い出しつつ、苦笑してしまった。ただ碧依くんの反応は、あの時の俺には、とても助かったのだが。普通は、紫野のような反応をするのかもしれない。「平気だよ。その……あんまり、気にしないでくれ
――Yロッジに向かう事になったのは、その数日後の事である。 そこは有名な心霊スポットなので、分かる人は分かると思う。F県I町にある。 地下一階から四階までがあるペンションだ。 三階に子供の霊が出るだとか、ボイラー室の霊圧が凄いだとか、そんな噂に事欠かない肝試しの名所でもある。「なんか良いネタあった?」 高階さんに呼び出されたのは、四年生の春の事だった。 良いネタ……実際に――この時になってみると、俺のもとには沢山のホラー話が集まっていた。ただ、自分が時島達と経験した事を書くのは、何となく躊躇われる。俺は俯いてから、『本当にあった怖い話。』として書き溜めているファイルの事を、意識して忘れる決意をした。それから俺は顔を上げて、苦笑を返す。するとパシンと高階さんが扇子を閉じた。「無いんやったらさ、ちょっと頼まれてくれへん?」「何をですか?」「心霊スポット行きたいんや」「ああ、良いですよ」 もう大学の出席しなければならない講義はゼミしか残っていないから、週に一度しか大学には行く必要が無い。要するに俺は暇だった。同時に、ネタが出せないという負い目もあった。「俺も行くからさ」 それを聞いて考える。高階さんと二人だけで行くのは、非常に不安である。 高階さんには、霊感みたいなものは、いかにも無さそうだ。信じてさえいないだろう。 しかし俺は、本当に幽霊がいた場合には、それでは対処出来ないと、この頃には考えるようになっていたのだ。黒い人影の事件で、身近に恐怖を感じ取ったというのも大きい。「あの……大学の友人も、二人連れて行っても良いですか?」「ああ、ええよ」 そんなこんなで、俺は時島と紫野に頼み込む事にした。実は俺は、あまり人に物を頼むのが得意ではない。なので、酔いの勢いで言ってしまおうと、二人を居酒屋に呼び出した。 席に着くと何故なのか、紫野と時島は、長い間ずっと視線を合わせていた。見つめ合っているように、見えなくもない。もしや両思い状態となっていて、俺は邪魔なのだろうか? そう一瞬だけ考えた。だがすぐに、何となく二人は、険悪というか……お互いに気まずそうというか、よそよそしいというか――ネガティブな意味合いで視線を交わしているらしいと気づいた。二人の間には、見えない溝がある気がした。もしかして紫野はフラれてしまったのだろうか? そうであるな
紫野と飲んでから帰宅すると、もう午前一時に近かった。 だが、時島の姿が無い。 ベッドに寝ているわけでもなく、もう一つの部屋にいるわけでもなく、シャワーに入っている様子も無ければ、キッチンやトイレにもいる気配が無い。 ――こんな時間に、何処に行ったのだろう? 首を傾げつつも、思い当たる場所が、俺には一つだけあった。 紫野は入る事を許されているが、俺には「絶対に入るな」と時島が言う、例の奥の部屋だ。しかもその部屋の中から音がした気がする。だから俺は扉の前まで行き、静かに声をかけてみる事にした。「時島ー?」 しかし、返事は無かった。だとすると、中から聞こえた物音は何なのだろう? まさか、泥棒? 最近この辺では被害が多発していると言うから、そうなのかもしれない。 だが本当に泥棒か分からない以上、いきなり警察に通報する事も躊躇われた。確かめなければならないだろうが……どうしよう。「入るな」と言う時島の声が甦る。 迷った末、結局俺は和室の扉に手をかけた。恐る恐る中を見る。暗いので、電気をつけようと、俺は壁のスイッチを探した。そして、息を呑んだ。「っ」 その瞬間、中から黒い人影が飛び出してきたのだ。 それは俺の体を通り抜けるように通過した。呆気に取られて反射的に振り返った瞬間、顔も何も無い――ただ黒い『それ』が、両手で俺の首を締めた。形だけは人型だ。 冷たい手が俺の首に食い込み、鈍い痛みと息苦しさに襲われる。そのまま俺は転倒した。絨毯に後頭部を打ち付ける。手の力はどんどん強まっていく。影は俺に馬乗りになって、動きを封じてきた。必死で俺は首に、己の指を当てる。 その黒い『ナニカ』も怖かったが、馬乗りになられているという――その体勢にも、恐怖を感じる。タクシー運転手の事を思い出しいた。 ガクガクと俺は震えた時、肩に噛みつかれた。どうやらその黒い物体には、口があったらしい。噛み切られるような、痛みに身が竦む。 ――何だよ、コレ。 恐怖から思考が混乱し始めた時、服の下に冷たい手が入ってきた。「嫌だ、止めろ!」 俺は必死に叫んだ。しかしその手は止まらず、片手で俺の乳首を触り、もう一方の手で俺の陰茎を握った。いよいよ恐怖が強くなり、俺は動けなくなる。目をきつく伏せ、一所懸命に呼吸しようとするのに、過呼吸でも起こしたかのように酸素が入ってこなくなる
「ねぇ、サト」 パソコンのキーボードを打っていると、缶麦酒を持った弟が部屋に入ってきた。「まだ飲み足りないのか?」「それもある」 そう言うと弟は、ベッドに座って、缶を一つ俺に渡した。 もうすぐゴールデンウィークが終わるから、弟は都内に帰る。俺は転椅子を軋ませて、体ごとベッドへ向けた。そうして弟を正面から見る。その時、ポツリと右京が言った。「時島さんとか、元気にしてるの?」 ――『とか』に含まれるのは、恐らく紫野だろう。一度二人に、右京を紹介した事がある。以来弟は、俺がいない所でも、あの二人と遊んだりしていたようである。「連絡してみたら良いだろ?」 何せ連絡先を知っているのだから。そう考えていると、弟が麦酒を口に含んでから、思案するように瞳を揺らした。「実はさ、『左鳥と連絡が取れない』って言われたんだけど」 弟が言いづらそうに述べた。そうだったのかと、俺は納得した。 俺は……誰にも、実家に引っ越すと告げて来なかったのだ。 事前に伝えたのは、地元で暮らす、寺の――泰雅だけである。「誰に言われたんだ?」「紫野さん。実家にいるって言っといたけど」「あー、その内連絡しようと思って、忘れてたんだよ」「時島さんにも言ってないんだよね? 紫野さん、多分時島さんにも話してると思うよ」「まぁな。別に良いよ」 話さなかった事には、特に深い理由があるわけではない。 俺はただ、在宅でのライター業に集中したくて帰ってきただけである。 現在は、どこで暮らしていても、仕事が可能だ。 だから俺の帰郷は、『あの二人』とは、関係が無い。 ――少なくとも意識的には、現在はそう考えている。「まだ、高校の頃の事件、気にしてるの?」「気にしてないよ」「嘘」 苦笑した右京を見て、俺は缶のプルタブに指をかけた。右京には、隠し事をしても無駄だ。右京はすごく鋭くて、俺に何かがあるとすぐに察するのだ。 大学時代にも、俺が悩んでいた時などに、見計らったかのように電話がかかってきたものである。本人に聞いても、「虫の知らせだった」としか言わないのだが……いつもタイミングが良い。あるいは、非常に俺にとっては悪い場合もある。優しさは嬉しいが、誰にも触れられたく無い時もあるからだ。「そろそろ――期限の時だから、戻ってきたんじゃないの?」 右京が言った。 その声が意味する