LOGIN「んー!美味しい」
湊さんが目を輝かせながら、口いっぱいにスクランブルエッグを頬張る。 その無邪気な反応に、私は思わず笑ってしまった。 今の湊さんは、本当に分かりやすい。 美味しいときは素直に「美味しい」と言ってくれるし、嬉しいときは全身で喜びを表現する。 その率直さが、私にはとてもありがたかった。 「良かった」 自然と口元が緩む。 この一言が、どれほど私の心を軽くしてくれるか。 料理の味も、彩りも、全部、湊さんの「美味しい」に報われる気がした。 今の湊さんは、ちゃんと気持ちを伝えてくれる。 ……まぁ、前の湊さんも、ある意味では分かりやすかったけれど。 私のことが嫌いだってことが、顔に滲み出ていた。 目を合わせるたびに感じた、あの冷たい視線。 言葉にされなくても、嫌悪感は伝わってきた。 「味付けも彩りも、完璧だね」 湊さんがそう言って、にこっと笑った。 私は思わず目をそらしてしまった。 褒められるのは嬉しいけれど、あまりに真っ直ぐに言われると、どう反応していいかわからなくなる。 「そんな褒めても、何も出てこないよ?」 冗談めかして返すと、湊さんはくすっと笑った。 その笑い声が、朝の静けさに溶けていく。 「…あ、そういえば、聞きたかったことがあるんだけど」 湊さんがふいに真面目な声で言った。 何を聞かれるんだろう。 少しだけ緊張した。 「聞きたかったこと?」 何かを思い出したのだろうか。 それとも、何も知らない“今の湊さん”としての疑問だろうか。 どちらにしても、湊さんの口から出る言葉を、私は逃さず受け止めたいと思った。 「うん。昨日聞こうと思ったんだけど、彩花ちゃんが眠そうだったから」 そう言って、湊さんは立ち上がり、ゆっくりとキッチンの方へ歩「……そうだったんだ」 湊さんの声は、静かだった。 その声に、私はそっと顔を上げた。 彼の表情は、どこか遠くを見つめるようで、けれど確かに私の言葉を受け止めていた。 私は少しだけ、肩の力を抜いた。 言ってよかったのか、まだ分からない。 けれど、伝えられたことに、ほんの少しだけ救われた気がした。 「割れたものを置いておくなんて、縁起悪いのにね。分かってたのに…」 私は自嘲気味に笑いながら、ぽつりとこぼした。 本当は、ずっと気づいていた。 壊れたものを手元に置いておくことの意味。 それが、どれだけ未練がましくて、どれだけ過去に縛られているかを。 でも、捨てられなかった。 それを手放すことが、二人の記憶をなかったことにするようで、怖かった。 湊さんにも、そう言われるだろうと思っていた。 いつまでそんなものを置いてるんだ。 もう終わったことだろう。 そんなふうに冷たく言われたら、私はきっと、もう立ち直れなかった。 だから、食器棚には触れられないように、そっと奥に隠していた。 見つからないように。 気づかれないように。 まるで、秘密のように。 「ううん。大事にしてくれて嬉しいよ」 その言葉に、私は思わず目を見開いた。 湊さんが、あの皿を大事にしていたことを、喜んでくれるなんて。 一瞬、耳を疑った。 けれど、彼の表情は穏やかで、嘘をついているようには見えなかった。 そのまなざしは、まっすぐで、やさしかった。 「嬉しいなんてそんなこと…」 私は思わず呟いていた。 あのお皿は、母が結婚祝いでくれたものだった。お皿と、マグカップと、カトラリーのペアセット。 白くて、縁にだけ淡いグレーが走る、控えめでやさしいデザイン。 私の好みをよく知っている母
ひとつの衝撃で、あっけなくひびが入って、気づいたときには元の形には戻らなくなっていた。それは、ほんの些細なことだった。どれだけ丁寧に扱っていたつもりでも、ほんの少しのすれ違いや、言葉の刃で、簡単に壊れてしまうものがある。それが、私だった。私は、思っていたよりもずっと脆かった。強くなりたかったのに、ちゃんと向き合いたかったのに、気づけば傷つかないように、自分の心を奥へ奥へと押し込めていた。あの頃の私は、湊さんの冷たい視線や、言葉にならない距離に、少しずつ削られていった。何も言われないことが、一番つらかった。怒られるよりも、責められるよりも、無関心でいられることが、いちばん苦しかった。私は、そこにいるのに。ちゃんと、ここにいるのに。まるで、透明な存在になったようで、息をするたびに、自分が薄れていくようだった。笑顔をつくるたびに、心のどこかが欠けていくようで、気づけば、自分が何を感じているのかも分からなくなっていた。嬉しいのか、悲しいのか、寂しいのか、怒っているのか。感情の輪郭がぼやけて、ただ「大丈夫」と言うことだけが癖になっていた。本当は、大丈夫なんかじゃなかったのに。だから、あの皿が割れたとき、私は自分を見ているような気がした。形は残っていても、もう元には戻らない。どれだけ接着剤で繋いでも、一度入ったひびは、消えない。見えないふりをしても、そこには確かに、傷がある。音を立てて壊れたのは、皿だけじゃなかった。私の中で、何かがはっきりと崩れた。ああ、やっぱり、壊れるんだ。こんなふうに、簡単に。私もいつか、こんな日が訪れるかもしれないと思った。湊さんの前で、音もなく崩れてしまう日が来るかもしれないと。私はしばらく、その破片を前に立ち尽くしていた。拾うことも、捨てることもできずに。そこにある現実を、どう受け止めればいいのか分からなかった。ただ、捨てるべきだと分かっていた。でも、どうしてもできなかった。残されたもう一枚に、私はしがみついていたのかもしれない。それが、私の中に残された“ふたりの証”だったから。唯一のものだったから。だから、手放せなかった。壊れても、欠けても、それでも、そこに“ふたり”がいた証が、私には必要だった。このままでいい。湊さんが私のことを嫌いでも、それでいい。私が、私が湊さんを
「んー!美味しい」 湊さんが目を輝かせながら、口いっぱいにスクランブルエッグを頬張る。 その無邪気な反応に、私は思わず笑ってしまった。 今の湊さんは、本当に分かりやすい。 美味しいときは素直に「美味しい」と言ってくれるし、嬉しいときは全身で喜びを表現する。 その率直さが、私にはとてもありがたかった。 「良かった」 自然と口元が緩む。 この一言が、どれほど私の心を軽くしてくれるか。 料理の味も、彩りも、全部、湊さんの「美味しい」に報われる気がした。 今の湊さんは、ちゃんと気持ちを伝えてくれる。 ……まぁ、前の湊さんも、ある意味では分かりやすかったけれど。 私のことが嫌いだってことが、顔に滲み出ていた。 目を合わせるたびに感じた、あの冷たい視線。 言葉にされなくても、嫌悪感は伝わってきた。 「味付けも彩りも、完璧だね」 湊さんがそう言って、にこっと笑った。 私は思わず目をそらしてしまった。 褒められるのは嬉しいけれど、あまりに真っ直ぐに言われると、どう反応していいかわからなくなる。 「そんな褒めても、何も出てこないよ?」 冗談めかして返すと、湊さんはくすっと笑った。 その笑い声が、朝の静けさに溶けていく。 「…あ、そういえば、聞きたかったことがあるんだけど」 湊さんがふいに真面目な声で言った。 何を聞かれるんだろう。 少しだけ緊張した。 「聞きたかったこと?」 何かを思い出したのだろうか。 それとも、何も知らない“今の湊さん”としての疑問だろうか。 どちらにしても、湊さんの口から出る言葉を、私は逃さず受け止めたいと思った。 「うん。昨日聞こうと思ったんだけど、彩花ちゃんが眠そうだったから」 そう言って、湊さんは立ち上がり、ゆっくりとキッチンの方へ歩
「み、湊さん、」声が震えた。喉の奥がひりつくようで、うまく息ができない。目の前にいる湊さんの顔が、ゆっくりと近づいてくる。その動きは静かで、でも確かで、私の逃げ道を塞ぐように迫ってくる。心臓が、どくん、と跳ねた。近い。近すぎる。何する気……言葉にならない声が喉の奥でつかえて、私は思わず目をぎゅっと閉じた。まぶたの裏が、じんわりと熱を帯びる。逃げたいわけじゃない。でも、どうしても、まっすぐ見つめ返す勇気が出なかった。その瞬間、ふわりとあたたかい感触が額に触れた。やさしく、そっと、まるで羽のように。「……何で、、」ようやく絞り出した声はかすれていて、自分でも驚くほど震えていた。額に残る湊さんの唇の感触が、じんわりと熱を帯びて広がっていく。心臓の鼓動が早くなって、呼吸の仕方さえわからなくなる。口にされると。期待、していたのかもしれない。どこかで、ほんの少しだけ、そんなことを望んでいた自分に気づいて、恥ずかしさと戸惑いが一気に押し寄せた。視線を上げると、すぐそこに湊さんの瞳があった。「夢じゃないって、確かめたかったんだよね」その一言が、胸の奥にすとんと落ちた。ああ、そうか。私も、ずっとそう思ってた。この朝も、このぬくもりも、湊さんの声も、腕も、全部。現実だって信じたくて、でも怖くて、確かめる勇気が出なかった。でも、「……夢じゃないよ」自分でも驚くほど、自然に言葉が出た。震えてもいないし、迷いもなかった。そう言った瞬間、湊さんの顔がぱっと明るくなった。まるで曇り空が一気に晴れたように、無邪気な笑顔が広がる。「僕は幸せ者だーっ!」そんな声とともに、私は思いきり抱きしめられていた。湊さんの胸にぎゅうっと押しつけられて、その腕の力強さと、あたたかさに包まれる。心臓が跳ねて、息が止まりそうになる。「ちょっ、湊さん、く、苦し……っ」声を絞り出すと、湊さんの腕がぴたりと止まった。その瞬間、ぎゅっと締めつけられていた胸が、ふっと解放される。私は大きく息を吸い込んで、肩を上下させながら見上げた。「ごめんごめん、嬉しすぎてつい……」照れくさそうに笑う湊さんの顔を見て、私は思わずふっと笑ってしまった。「それより、早く朝ごはん食べよ?」そう言って、そっと湊さんの胸から体を起こす。布団がかさりと音を立て、私
「朝ごはん食べよっか」湊さんがそう言って、布団の中からゆっくりと身を起こす。まだ少し眠たげな目元を指先でこすりながら、私の方を見て微笑んだ。私は一瞬、時間が止まったような気がした。朝の光がカーテンの隙間から差し込んで、彼の髪をやわらかく照らしている。でも、そんなふうに見惚れているわけにはいかない。私は慌てて布団をめくり、勢いよく体を起こした。「今日は、私が作るから!」思わず声が大きくなってしまった。自分でも驚くほどの勢いで言ってしまって、言葉が空気を切るように部屋に響いた。湊さんが目を丸くして、ぽかんと私を見つめる。その反応に一気に恥ずかしくなって、しまったと心の中で叫びながら、視線を泳がせた。「そう?」湊さんは少しだけ首を傾げて、それからふっと口元を緩めた。まるで私の気持ちを全部見透かしているようだった。「無理しなくていいのに」なんて言われるかと思ったけれど、そんな言葉は出てこなかった。代わりに返ってきたのは、たった一言の問いかけ。でもその中には、優しさがあった。「だから、湊さんはゆっくり休んでて」そう言いながら、布団を跳ねのけて立ち上がった。まだ少し眠気の残る足取りで、でも心はどこか浮き立っていた。「じゃあ、お言葉に甘えて」湊さんは、そう言って再び布団に身を沈めた。その動作はどこかゆったりとしていて、まるで私の言葉に安心したかのようだった。彼のまぶたがゆっくりと閉じられていくのを見て、私はそっと息を吐いた。そして、足音を立てないようにキッチンへと向かった。キッチンに立った瞬間、ふわりと漂う朝の空気に、私は小さく深呼吸をした。まだほんのり眠気の残る頭の奥で、「よし」と小さく気合を入れる。ふわふわで、ほんのり甘い香りのする厚切りのパンをそっと袋から二枚取り出し、トースターに並べてそっとレバーを下ろす。冷蔵庫を開けて卵、牛乳、バター、ベーコン、トマト、レタス。頭の中でメニューを組み立てながら、手際よく材料を並べていく。ボウルに卵を割り入れると、黄身がぷるんと揺れて、白身と混ざり合う。そこに少しだけ牛乳を加えて、菜箸でくるくると混ぜる。フライパンにバターを落とすと、じゅっと音がして、甘くて香ばしい香りが立ちのぼった。その香りに、思わず顔がほころぶ。「いい匂い……」バターがじわじわと溶けていく様
ゆっくりと意識を浮かび上がらせながら、体をわずかに動かした。その瞬間、ふわりと揺れる感覚に気づく。あれ…?なんだか、浮いてるみたい。腕の中に抱えられているような、そんな不思議な感覚。目をうっすら開けると、薄暗い部屋の中、ぼんやりとした灯りが天井に揺れている。「あ、ごめん。起こしちゃった?」湊さんの声が、耳元でやさしく響いた。視界はぼやけていて、でも確かに、私は湊さんの腕の中にいた。お姫様抱っこ。そんな非現実的な状況に、思考が追いつかない。これは…夢?そう思わずにはいられなかった。だって、こんなに優しい湊さんなんて、現実にいるはずがない。私のことを、こんなふうに大切そうに抱えてくれるなんて。胸の奥がじんわりと熱くなって、私は小さくつぶやいた。「湊さん…?」その名前を呼ぶと、彼は少しだけ顔を近づけて、「なぁに?」と、やわらかく返してくれた。その声が、あまりにも優しくて、私はますます現実感を失っていく。やっぱり夢だ。こんなふうに、名前を呼んだだけで笑ってくれる湊さんは、現実にはいない。「湊さん…」もう一度、名前を呼ぶ。それしか言葉が出てこなかった。現実の湊さんは、こんなふうに私を抱き上げたりしない。こんなにやさしく、こんなに近くにいてくれることなんて、ない。だから、これは夢なんだ。夢に決まってる。「ふふ、寝ぼけてるの?可愛いね」湊さんが、くすっと笑ってそう言った。可愛いなんて、そんな言葉、現実の湊さんが私に言うはずがない。だからやっぱり、これは夢なんだ。「今日はありがとね」湊さんの声が、ふいに耳元で落ち着いたトーンで響いた。その言葉に、私は一瞬、まばたきを忘れた。え…?今、湊さんが私にお礼を言った?私は、ぼんやりとした意識のまま、ぽつりとつぶやく。「ありがと…?」自分の声が、どこか遠くから聞こえるようだった。湊さんは、私の問いかけに微笑みながら答える。「うん。一緒に出かけてくれてありがとう」その言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなる。今日一日、湊さんと過ごした時間が彼にとっても大切なものだったんだと思うと、嬉しさが込み上げてきて、自然と笑みがこぼれた。「私の方こそ、ありがと、です。…湊さんが、かわいいっていっぱい言ってくれて…嬉し…かった…」言葉の最後は、眠気に引き込まれて、かすれてい







