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私も昔はぶりっ子だったもん

私も昔はぶりっ子だったもん

作家:  十枝コハク完了
言語: Japanese
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概要

ひいき/自己中

クズ男

愛人

妻を取り戻す修羅場

不倫

女性の成長物語

私は生まれつき気が弱い。誰かに嫌なことをされても、隠れて泣くことしかできなかった。 恋人の蓮見怜介(はすみ れいすけ)は、そんな私を見ると心を痛め、相手に言い返そうとしてくれた。けれど私は、そのたびに「もういいから」と止めていた。 ところが、彼の幼なじみの折原桃香(おりはら ももか)は、こう言った。 「わかるよ、その気持ち。私も昔はぶりっ子だったもん。ちょっと涙を流せば、相手を悪者にできるんだよね。 怜介に言い寄ってた子、結構いたのに。その手で彼女の座を勝ち取ったんでしょ?」 どうしていいかわからず怜介を見た私に、彼は気にも留めない様子で笑った。 「桃香はああいう言い方をするんだ。悪気はないよ」 彼のそのひと言を後ろ盾に、桃香はあの手この手で私に嫌がらせをするようになった。 みんなで食事をしたときには、わざと私に水をかけた。居たたまれずティッシュを探していると、桃香はわざと声を張り上げた。 「怜介、見てよ。ぶりっ子な彼女ちゃん、やることが違うね。私がわざと水をかけたみたいに見せてる。あんな透ける服まで着て、みんなに自慢の体を見せたいの?」 上着を取って私にかけようとしていた怜介は、その言葉を聞いた途端、顔を険しくした。 気まずいまま食事会はお開きになり、それ以来、私はできるだけ桃香と顔を合わせないようにした。すると今度は「付き合いが悪い」と言って、友人たちを連れてうちまで来た。 食後、怜介が私の薬指にペアリングがないことに気づいた。桃香は自分のポケットから、私の指輪を取り出した。 「ちょっと、何これ。来てほしくないならそう言えばいいじゃない。私を泥棒に仕立てるつもり? 私と怜介がそういう仲なら、あなたの入る余地なんてないの。こんなことしても、むなしいだけだよ」 怜介まで、珍しく怒りをあらわにした。 「辻村紗和(つじむら さわ)、桃香に謝ってくれ」 私が仕組んだと決めつける彼を見て、胸の奥がじんとしびれた。 この人と付き合い続ける意味は、もうないのかもしれない。

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第1話

第1話

泣き声にならないよう必死にこらえながら、私は口を開いた。

「リビングにカメラがあるよね。映像を見れば、私がやったかどうかわかるから」

けれど、桃香と友人たちは笑い出した。

「ぶりっ子ちゃん、まだ演技してるよ。

自分がやったってばれたら、今度は泣きながら『怜介のことが好きすぎて』って言うんでしょ。

もういいって。私、心が広いから、私がやったことにしてあげる。怜介、これからは会うのを控えようか。彼女ちゃんに、また余計な心配させちゃうし」

そう言って桃香たちが玄関へ向かうと、怜介は慌てて、靴も履き替えずに追いかけていった。

私は震える手でカメラの映像を呼び出し、桃香が私の指輪を抜き取った瞬間を見つけた。

戻ってきた怜介に、そのスクリーンショットを見せた。けれど彼は、私の手からスマホをたたき落とした。

「もういい、紗和。桃香は気にしないって言ってくれてるんだ。もう、こんな面倒は起こさないでくれないか。僕と桃香は20年以上の付き合いなんだよ。そういう小細工をする相手じゃない」

割れた画面を見下ろすと、自分の心まで、ひとかけら砕けた気がした。私はゆっくりしゃがみ、スマホを拾った。

「怜介、別れよう」

怜介は鼻で笑った。

「桃香の言うとおりだね。人に罪をなすりつけられなかったから、今度は別れ話で脅すんだ」

目の前の彼が、初めて知らない人のように思えた。

「怜介、本気で言ってるの」

彼は眉間を指で押さえた。

「紗和、これ以上ごねても仕方ないだろ。僕は疲れた。紗和も早く休んだら。今日のことは、なかったことにしてあげるから」

そう言い残し、ひとりで寝室へ入っていった。私はリビングの真ん中から動けなかった。

昔、嫌なことをされて眠れず、寝返りを打ちながら一晩中泣いていたとき、怜介はいつも根気よくそばにいて、黙って涙を拭いてくれた。同じ話を何度繰り返しても聞いてくれて、次はどう対処すればいいか、教えてくれた。小さなプレゼントや甘いものを買って、元気づけてもくれた。

それなのに。5年の付き合いは、桃香が私をおとしめるひと言にも及ばなかった。

大きく息を吸い、母にメッセージを送った。

【やっぱり、地元を離れて暮らすのはしんどい。家に帰りたいの】

夜中なのに、母からはすぐに返事が来た。

【帰っておいで。うちには何でもあるから】

何があったのかは、聞かなかった。

私は明かりをつけずに寝室へ戻り、荷物をまとめ始めた。怜介はすっかり寝入っていたが、手にはまだスマホを握っていた。

ふいに画面が光った。桃香からのメッセージだった。

【どう?機嫌直った?ぶりっ子ちゃんに、私の連絡先を削除しろとか言われてない?】

付き合い始めたその日に、怜介は自分のスマホに私の指紋を登録してくれた。けれど、彼のスマホをのぞくのはこれが初めてだった。

履歴をさかのぼる。私がリビングで気持ちを落ち着けようとしていた間、彼は桃香に私の愚痴をこぼしていた。

【……大学で知り合ったばかりの頃から、紗和はよく、同級生にいじめられたって言ってた】

桃香はこう返していた。

【私もぶりっ子してた頃、よくそうやって弱いふりしてたよ。男の人に、守ってあげたいって思わせるの】

続いて、怜介のメッセージ。

【友達に裏切られることが多かったから、桃香たちを紹介したんだ。いい友達が増えればって思ったのに、どうしてこうなるんだろう】

桃香の返信は、からかうような調子だった。

【私たちを勝手に敵だと思ってるんでしょ。仲を引き裂いちゃえば、怜介を独り占めできるもんね】

5分たってから、怜介が返した。

【紗和って、本当にそういう子なのかな】

桃香の返信は、その30分後だった。

【それ、もうあの子の思うつぼだよ。これ以上は言わない。私が悪者にされても困るし】

怜介の返事は、たったひと言。

【桃香を信じる】

スマホを元に戻すとき、指先が震えた。

彼女を信じるのなら、私が出ていけばいい。

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第1話
泣き声にならないよう必死にこらえながら、私は口を開いた。「リビングにカメラがあるよね。映像を見れば、私がやったかどうかわかるから」けれど、桃香と友人たちは笑い出した。「ぶりっ子ちゃん、まだ演技してるよ。自分がやったってばれたら、今度は泣きながら『怜介のことが好きすぎて』って言うんでしょ。もういいって。私、心が広いから、私がやったことにしてあげる。怜介、これからは会うのを控えようか。彼女ちゃんに、また余計な心配させちゃうし」そう言って桃香たちが玄関へ向かうと、怜介は慌てて、靴も履き替えずに追いかけていった。私は震える手でカメラの映像を呼び出し、桃香が私の指輪を抜き取った瞬間を見つけた。戻ってきた怜介に、そのスクリーンショットを見せた。けれど彼は、私の手からスマホをたたき落とした。「もういい、紗和。桃香は気にしないって言ってくれてるんだ。もう、こんな面倒は起こさないでくれないか。僕と桃香は20年以上の付き合いなんだよ。そういう小細工をする相手じゃない」割れた画面を見下ろすと、自分の心まで、ひとかけら砕けた気がした。私はゆっくりしゃがみ、スマホを拾った。「怜介、別れよう」怜介は鼻で笑った。「桃香の言うとおりだね。人に罪をなすりつけられなかったから、今度は別れ話で脅すんだ」目の前の彼が、初めて知らない人のように思えた。「怜介、本気で言ってるの」彼は眉間を指で押さえた。「紗和、これ以上ごねても仕方ないだろ。僕は疲れた。紗和も早く休んだら。今日のことは、なかったことにしてあげるから」そう言い残し、ひとりで寝室へ入っていった。私はリビングの真ん中から動けなかった。昔、嫌なことをされて眠れず、寝返りを打ちながら一晩中泣いていたとき、怜介はいつも根気よくそばにいて、黙って涙を拭いてくれた。同じ話を何度繰り返しても聞いてくれて、次はどう対処すればいいか、教えてくれた。小さなプレゼントや甘いものを買って、元気づけてもくれた。それなのに。5年の付き合いは、桃香が私をおとしめるひと言にも及ばなかった。大きく息を吸い、母にメッセージを送った。【やっぱり、地元を離れて暮らすのはしんどい。家に帰りたいの】夜中なのに、母からはすぐに返事が来た。【帰っておいで。うちには何でもあるから】何があったのかは、
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第2話
一睡もできないまま荷造りを終え、私はひとり、リビングで帰りの切符を予約していた。ふいに、玄関のドアをたたく音がした。不思議に思って開けると、外から大きな花束がぐいっと突き出された。「怜介、ぶりっ子ちゃんの機嫌の取り方、教えてあげる」私は花粉にひどいアレルギーがある。花束を見た瞬間、とっさにドアを閉めようとした。すると桃香が悲鳴を上げ、そのまま後ろへ倒れかかった。「危ない!」寝室から飛び出してきた怜介は私を押しのけ、桃香を両腕で抱き上げた。そして振り返り、私を怒鳴りつけた。「紗和、いくらなんでもひどいだろ!」アレルギーで息もできなくなっている私の姿は、目に入らないらしい。薬を見つけたときには、彼はもう桃香を抱えて病院へ向かっていた。ようやく症状が治まってきたと思ったら、今度は下腹部に重い痛みが走った。不安になり、私もタクシーで病院へ行った。検査結果を手にした医師は、眉をひそめた。「妊娠しているのに、クロルフェニラミンを飲んだんですか。この薬は妊娠中には慎重に使う必要があります」聞き間違いかと思って、私は固まった。「……え?」医師は検査結果を見せた。「妊娠して1か月あまりです。1回飲んだからといって、必ず胎児に形態異常が出るわけではありません。念のため、検査を受けておきましょう」思わずお腹に手を当てた。ここに、小さな命が宿っていたなんて。スマホが震えた。怜介からだった。【紗和、僕がすぐに動かなかったら、桃香は階段から落ちてたんだよ。このことは、必ず桃香に謝って】返事はせず、私は医師に告げた。「検査は結構です。中絶をお願いします」「本当に、よろしいんですか?」私は深く息を吸った。「はい」手術を終え、壁に手をつきながら、少しずつ歩いて外へ向かった。ところがロビーで、怜介と出くわした。片膝をつき、桃香の足首を両手で包むようにして、もんでやっている。楽しそうに話していた2人は、私を見ると同時に笑顔が消えた。桃香が、けがをしていないほうの足で怜介をつついた。「謝らなくていいって言ったのに。見て、またか弱そうな顔してる」怜介は眉を寄せた。「紗和、いつも被害者のふりをしないと気が済まない?」手の中の、中絶手術の診療記録を握りしめた。「花粉のアレルギーまで、演技だ
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第3話
部屋に戻って荷物を手にしたところで、運休を知らせるメッセージが届いた。台風の影響で、今夜乗るはずの列車が取りやめになったのだ。明日の切符を探しながら、近くのホテルに空きがないか調べていると、怜介が帰ってきた。家にいる私を見るなり、彼は、やっぱりねと言いたげに笑った。スーツケースを脇へ押しやり、私を抱きしめようと手を伸ばす。「ほら、紗和。全部僕が悪かったから。もう機嫌直してくれない?」こんな投げやりな謝り方をする人ではなかったのに……私はその手を避けた。「もう別れたんだから、そういうことはやめて。今ここにいるのは、台風で出発できないから。それだけ」怜介は一瞬動きを止めたが、何も言わなかった。けれど、どこからか笑い声が聞こえた気がした。顔を見ても、彼は無表情のままだ。私は箱を1つ、彼の前へ押し出した。「この5年間にもらったプレゼント、全部入ってる。一緒に出かけたときの半券や、お土産も。別れたんだから、返すね」一番上に載っていたクマのぬいぐるみが、突然床に落ちた。その手が床にぶつかった拍子に、怜介の声が流れ出す。「ひどいやつらだ、ひどいやつらだ!みんな、僕の紗和をいじめて!」しばらく、動けなかった。声を録音できるこのクマは、怜介から初めてもらったプレゼントだった。私が気弱で、いつも嫌な目に遭っていると、彼が知ったばかりの頃だ。私はもめ事が怖くて、かばってもらうことさえためらっていた。怜介はあれこれ考えた末、このクマをくれたのだった。あのとき彼は私の頬を軽くつまんで言った。「紗和は優しすぎるんだよ。でも、少しくらい言い返す強さも必要だ。ずっとため込んでたら、体まで壊しちゃう。人ともめたくないなら、普段は僕が守るから。それでも腹が立って仕方ないときは、このクマをぎゅっとして。代わりに僕が怒ってあげる」まさかそのクマが、5年後の彼自身に怒ることになるなんて。クマを見つめる怜介も黙っていた。少しは心を動かされたのだと思った。けれど、またかすかに誰かの声がした。「……機嫌を取りたいなら、手ぶらじゃだめってことだよ」私は数歩近づき、怜介の右耳からワイヤレスイヤホンを外した。そこから、桃香の声が漏れてきた。「うわ、これも見抜くんだ。ぶりっ子ちゃん、相当な上級者だね。何人の男で練習したら、そこまででき
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第4話
翌日は晴れ、実家へ帰る新幹線の切符も取れた。出発する前に、動物病院へ愛犬のハナを迎えに行った。少し前に足をけがしたハナは、治療が終わったあとも病院に預けたままだった。ちょうど桃香がうちに来ることになり、怜介が「桃香は犬の毛にアレルギーがあるから、帰ってから迎えに行こう」と言ったからだ。そのまま、今日まで預かってもらっていた。けれど受付に行くと、不思議そうな顔をされた。「ハナちゃんは、今朝お迎えが来ましたよね?」頭の中が真っ白になった。「誰が連れていったんですか?どうして私に連絡がなかったんですか?」受付の人は慌てて、防犯カメラの映像を開いた。「女性の方でした。ハナちゃんのパパのお友達だとおっしゃっていて。パパと一緒に写っている写真も見せてくださったので……」画面に映っていたのは、確かに桃香だった。犬の毛にアレルギーがあると、あれほど言っていた桃香が、ハナを連れ出していた。考えるより先に、私は怜介の家へ駆け戻った。桃香もいた。2人は、すぐそばに寄り添っていた。「ハナをどこへ連れていったの!?」心臓が激しく打ち、握りしめた手には爪が食い込んでいた。桃香は答えず、困ったふりをして怜介を見た。「どういうこと?私が知ってるわけ?」怜介が私を引き離した。「ハナは動物病院だろ?」私はもう、限界だった。「桃香、とぼけないで!病院の人が、あなたが連れていったって言ってるの。映像にも、はっきり残ってる!ハナはどこ?怜介を取り合うつもりなんてない。私は今日出ていくから、お願い、ハナを返して!」桃香は腕を組み、あきれたように言った。「ぶりっ子ちゃん、私が犬の毛にアレルギーあるの、忘れた?怜介が機嫌を取ってくれないからって、犬まで使って私たちの仲を裂きたいんだ。私だって、一番あざとかった頃でも、動物には手を出さなかったよ」怜介の表情が冷えた。「紗和、それは本当にやりすぎだよ」私はスマホを取り出し、110番にかけようとした。怜介が、その手を押さえた。「そこまで大ごとにしたいの?あとでどうなるか、考えた?」力いっぱい振りほどいた、そのときだった。管理会社から電話がかかってきた。「辻村様。先ほど、お宅の犬が地下駐車場を走り回っていて、車にはねられて死んでしまったんです。恐れ入りますが、下まで来ていた
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第5話
書類を取り上げる怜介の手は、震えていた。そこには、紗和の名前がはっきりと記されている。手術を受けた日付は、桃香が花を持ってきた、あの日だった。「……どうして」怜介は慌てて紗和の番号を探し、電話をかけた。本人に確かめたかった。けれど、何度かけても聞こえるのは、冷たい女性の自動音声だけだった。着信を拒否されている。今度はメッセージアプリを開いた。トーク一覧の上部には、桃香とのトークと、仲間内のグループがいくつもピン留めされていた。ずいぶん下までスクロールして、ようやく紗和とのトークが見つかった。最近のやり取りは、桃香や友人たちのどんな言動がつらかったか、紗和が打ち明けるものばかりだった。怜介の返事は、いつも同じだった。【考えすぎじゃない?】【気にしすぎだよ】【みんな冗談で言ってるだけだよ】読み返して初めて、怜介は自分の対応がまずかったことに気づいた。紗和とのトークを閉じ、仲間のグループへ書き込んだ。【これからは、紗和をぶりっ子ちゃんって呼ぶのはやめて。本当に、いい呼び方じゃないから】すぐに友人たちから返信が来た。【お、ぶりっ子様の本領発揮?怜介が強気で彼女さんを守り始めたぞ】【さすが、ぶりっ子様は腕が立つね。今日、何があったの?桃香なんて怒ってグループ抜けちゃったよ】【怜介、先に桃香の機嫌取ってあげなよ。20年以上の幼なじみでしょ。小さい頃、親同士が2人を結婚させようって話までしてたんだし】いつもなら、すぐに桃香のところへ向かったはずだ。けれど今は、目の前の中絶手術の診療記録から目をそらせなかった。怜介はグループへ返信した。【それとこれとは別の話だよ。紗和に悪いところがあったなら、僕が代わりに謝る。でも、次もそんな呼び方をするなら、この先も友達でいるべきか、考え直さないといけない】誰からも返信はなかった。怜介はそのやり取りをスクリーンショットに撮り、メッセージを添えて紗和に送った。【紗和、今までは僕の対応が悪かった。もう、こんなことはさせない。ちゃんと話し合えないかな】メッセージは送信された。けれど、それが紗和に届くことはなかった。紗和はメッセージアプリでも、すでに怜介をブロックしていた。怜介はいつまでもつかない既読を見つめ、いら立ったように髪をかき乱した。別の番号からかけようと
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第6話
その頃、私の乗った新幹線も駅に着いていた。スーツケースを引いて駅を出ると、父と母がすぐに駆け寄ってきた。父はさっと私のリュックとスーツケースを引き取った。母は小さなうちわであおぎながら、私の好きな冷たいフルーツティーを差し出してくれた。「疲れたでしょう。早く帰って休もう」帰り道、2人は何も聞かなかった。まるで私が、ちょっと旅行に出かけて戻ってきただけのように。家に着いても食欲はなく、ご飯を食べる気になれなかった。母は無理に勧めず、静かに部屋のドアを閉めてくれた。「お腹がすいたら言ってね。お母さん、温めてあげるから」涙をこらえながら、私は柔らかなベッドに勢いよく倒れ込んだ。怜介との5年間は、こうして終わったのだ。しばらくしてようやく起き上がり、スーツケースの服をクローゼットにしまおうとした。扉を開けた途端、白いベールが落ちてきた。一瞬戸惑ってから、思い出した。去年、怜介にプロポーズするため、ひそかに用意しておいたものだった。5年前、告白してくれたのは彼だった。卒業してから、自分の暮らす街に来ないかと言ってくれたのも彼。住む部屋を見つけて、仕事まで見つけてくれた。毎年の記念日も前もって考えてくれて、私たちの関係を、一歩ずつ先へ進めてくれた。気が弱く、何事も彼に頼りきりだった私。今まで彼は、そんな私の代わりに多くのことを背負い、守り続けてくれていた。だから最後の一歩、プロポーズだけは、私から踏み出そう。そう、心の中で決めていた。2人で借りていた部屋に置いておくと見つかってしまうから、ネットで制作を頼み、先に実家へ送って、母に預かってもらっていた。海辺への旅行に出かけてから、泊まるホテルへ送ってもらうつもりだった。プロポーズの場所は、海辺と決めていた。裾が地面に届く白いワンピースを着て、夜更けの浜辺で怜介と花火をする。その火が消えた瞬間、私が前もって手配した、大きな打ち上げ花火が海の上に咲く。怜介がそちらに気を取られた隙に、ベールをかぶる。そしてハナが私の代わりに、指輪の箱を彼へ届けるのだ。きっと、人生で一番勇気を出す瞬間になるはずだった。桃香さえいなければ。桃香さえいなければ……夢のように幸せなその時間は、来月、訪れるはずだった。お腹の赤ちゃんも、一緒に見届けてくれたはずだった。今は、何もかも
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第7話
怜介の暮らす街へ戻ったのは、3日後だった。駅のそばのカフェで、彼と会う約束をした。怜介は約束の時刻より早く来ていた。ひげをそり、髪も整えている。服まで、以前私が一番好きだと言ったものを着ていた。けれど、疲れ切った様子は隠しようがなかった。この3日間、彼も楽ではなかったらしい。私を見ると、彼はすぐに立ち上がり、足早に近づいてきた。背中に隠していた、大きなシャンパン色のバラの花束を差し出す。目を赤くして、怜介は低い声で懸命に言った。「紗和、心配しないで。花のしべは1本ずつ、全部切り取ったから。これならアレルギーは出ないよ。ハナのことも、全部わかった。僕が間違ってた。もう一度だけ、やり直すチャンスをくれないか。許してほしい。埋め合わせになるなら、何でもする」怜介は無意識に、私の手を握った。「……置いていった中絶手術の診療記録も見た。あれは、本当なの……?」私は顔を上げた。「かわいそうに見せるために、偽造してあなたをだましたとでも思ってる?」怜介は慌てて首を振った。「違う、そうじゃない……僕たちに、本当に赤ちゃんがいたなんて。それなのに、失ってしまったなんて、まだ信じられなくて……」その声は、今にも泣き出しそうだった。知り合って7年、付き合って5年。こんな彼を見るのは初めてだった。「……紗和、本当に悪かったと思ってる。僕が真相を知ったあと、桃香は仲直りしようとしてきたけど、僕はきっぱり縁を切った。紗和が嫌がってた友達とも全員、縁を切った。紗和が望むなら、僕が桃香たちに償わせる。どうしてほしいか言ってくれれば、そのとおりにするから」「本当に?」「本当だよ。ただ、やりすぎない範囲で。子どもの頃から、家族ぐるみの付き合いだから……」私は冷たく笑った。「何もしなくていい。ハナをペットショップで買ったときの、支払いがわかる記録だけ送って」何に使うつもりなのか察したらしく、怜介の顔色が少し変わった。「紗和、ハナは安くなかったんだよ。もし……」私はすぐに立ち上がった。「渡したくないなら、いい。私が自分で、値段を調べてくれる人を探すから」怜介が慌てて私を引き止めた。「紗和、待って!記録を渡したら、僕を許してくれる?」私は答えず、ただ彼を見ていた。5分後、私のスマホに取引記録のスクリーンショッ
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第8話
カップを置くと、私はバッグから5000円を取り出し、桃香の足元に投げた。「クリーニング代よ」桃香は立ちすくんでいた。握りしめた拳が、震えている。昔の私は、人が怒っているのを見るだけで怖かった。今だって、少しは怖い。それでも背筋を伸ばし、人を挑発するときの口ぶりをまねた。「お金、拾っておいたほうがいいよ。謝れば訴えられないとでも思ってた?そんなに都合よくはいかないから。ハナの値段は40万円。この5000円を拾っても、あと39万5000円、用意しなきゃね」そう言い終えると、もう彼女を見ずに店を出た。出入り口のガラスに、驚きと怒りと恐怖でゆがんだ桃香の顔が映っていた。怜介が追いかけてきた。「紗和!」息を切らし、見知らぬ人でも見るような目をしている。何をされても黙っていた私が、どうしてこう変わったのか。受け入れられないらしかった。「紗和、桃香の家は少し事情があるんだ。何年か前に破産して、お父さんは借金をたくさん抱えてる。下に弟も2人いる。桃香はプライドが高いから、知り合いに頭を下げてお金を借りたりはしないと思う。急に40万円なんて用意できないよ。そうなったら、あの子はもう……」怜介は言葉を切り、目を閉じた。「紗和は、ずっと優しい子だったよね。桃香に償わせるにしても、そこまでする必要はないんじゃない?」私は彼を見た。「だから?何が言いたいの?私が情けをかけて、40万円はもういいって言えばいいの?5年も一緒に暮らしたハナが死んだのに、このまま何もなかったことにしろって?それとも、ハナはあなたにもらった犬だから、私には訴える資格がないってこと?」怜介は慌てて首を振った。「違うよ!その40万円は、僕が桃香の代わりに払う。桃香にあげるわけじゃない。期限を決めて、利息もつけて返してもらうから。それならいい?」私は小さく笑った。「それはあなたの問題で、私には関係ないよ。もう私の恋人でも、ハナのパパでもないんだから。好きにすればいい。どうして私に聞くの?」怜介は言葉に詰まった。長い間黙り込んでから、ため息をついた。「わかった。桃香には貸さないよ。紗和の気が済むなら、それでいい」半月後、裁判が開かれた。桃香は40万円を工面し、すでに裁判所の口座へ振り込んでいた。宿敵でも見るような目で、私をにらみ続けている
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第9話
桃香の件が片づくと、私はまた実家へ帰った。父と母に、何があったかを話した。「……私、やりすぎたと思う?犬のために、人を9か月も刑務所に入れるなんて」母は憤った。「犬だって命があるのよ。それに、お腹の赤ちゃんだって」驚いて母を見ると、その目が赤くなった。「ごめんね。バッグの中のお薬、お母さん、見ちゃったの」母は私をそっと抱き寄せた。「心配かけたくなくて、言えなかったのね」涙が、止まらなくなった。実家で半月ほど休んでから、私はまた前を向き始めた。自分で履歴書を作り、1社ずつ応募した。面接を待つ間に女性専用のジムを見つけ、数回分のパーソナルトレーニングを申し込んだ。体力がないと、心まで弱く脆くなってしまう。だから、心も体も、自分から立ち向かえるように鍛えようと思った。怜介と離れてから、すべてがいいほうへ動いていた。半月後には、やりたいと思える仕事も見つかった。以前の私は、怜介に見つけてもらった仕事で失敗して、辞めさせられたらどうしようと恐れていた。自分の力だけでは暮らしていけない。彼に頼るしかないのだと思っていた。自分のことを、何もわかっていなかった。本当に愛してくれる人なら、そんなふうに自分を見くびったままでいる私を、放っておいたりしないはずだ。怜介と別れたことは、どこから見ても、私にとって大正解だった。ところが、それから数日もしないうちに、彼は私の新しい職場の前に現れた。私を見ると、足早に近づいてきた。「……紗和、ずっと探してた。ずいぶん変わったね」私はうなずいた。「あなたと離れてから、ずいぶんよくなったよ」言葉ににじんだ嫌悪に気づかないのか、怜介はさらに一歩近づいた。「家で、これを見つけたんだ」見下ろすと、私の日記帳だった。慌てて出てきたせいで、書斎に忘れていたのだ。怜介は声を詰まらせた。「ごめん、紗和。我慢できなくて、勝手に読んだ。読んで初めてわかったんだ。僕が思ってた以上に、紗和は僕を愛してくれてたんだね。それなのに、僕がどれだけひどいことをしていたかも、やっとわかった」私は眉間を押さえた。事情を知らない人が見たら、彼を後悔させるために、わざと日記を置いていったと思うかもしれない。でも実際は、中に書いたことを思い出すだけで、恥ずかしくていたたまれなかった。
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