LOGINそんな感情は馬鹿げている。そう自分に言い聞かせるように、峻はソファに置いてあった上着をつかみ、電話をかけた。「二十分後、K2バーに来い」低く沈んだ声で、用件だけを告げた。ところが、電話の向こうから返ってきたのは、あくび交じりの男の声だった。「何だよ、こんな真夜中に」峻は少し黙った後、重い声で言った。「今日、離婚した」今度は相手が黙り込んだ。やがて、ぼそりと呟く声が聞こえてくる。「俺は夢でも見てるのか?それとも幻聴か?あの『御堂グループのトップ』が、そんなことを言うなんてあり得ないだろ」男はスマホの画面を確かめたらしく、また独り言のように続けた。「いや、番号は合ってる。間違いなく『御堂グループのトップ』だ……」少し間を置いてから、男は尋ねた。「なあ、天下の『御堂グループのトップ』さんよ。離婚した後になってやけ酒を飲みたくなるのは、どんな奴だか知ってるか?」峻が黙ったまま先を促すと、男は得意げに言い放った。「女だよ!離婚して落ち込み、悲しくてたまらず、バーに駆け込んでやけ酒をあおる。そんなことをするのは女だけだ!男なら嬉しくて仕方ないだろ。仲間を全員集めて、自由になった祝いにどんちゃん騒ぎをするところだ!」すると、傍らにいるらしい女が、あくび交じりに口を挟む声が電話越しに聞こえてきた。「でも、向こうからあなたを飲みに誘ってきたんでしょ?」男は女に向かって鼻で笑った。「聞こえなかったのか?あの覇気のない声のどこが嬉しそうなんだよ」それから再び電話口に戻ると、峻に向かって言葉を継いだ。「なあ、さっきのは普通の男の話だ。でも、お前は天下の『御堂グループのトップ』だろ。涼崎中の女が放っておかない男が、女一人失ったくらいで、何をそんなに落ち込んでるんだ?」峻の低い声が、一気に冷たくなった。「来るのか、来ないのか」それでも相手は、ぶつぶつと文句を言う。「行くかよ!こんな真夜中に、酒なんか飲めるか。嫁を抱いて寝てるほうが、よっぽど温かい」玄関先で、峻はぴたりと足を止めた。端整な顔が、見る見る険しくなった。怒ったのだ。「冷徹無比な帝王」と恐れられる峻の怒りは、もちろん普通の男のそれとは違う。峻は冷ややかに言い放った。「お前の親父に伝えておけ。来週の入札には参加しなくていい。親父の会社の入札資格は、今
眉間には深いしわが刻まれ、薄い唇も固く引き結ばれていた。夕日を受けた端整な横顔に、気品と冷厳さをたたえた顔立ちがくっきりと浮かび上がっていた。詩乃の体が、びくりと震えた。気配を感じた峻は顔を上げ、張り詰めていた表情をふっと緩めた。「目が覚めたか?」胸につかえていた重石が、ようやく取れた。詩乃が意識を失った時、峻は胸騒ぎを抑えられなかった。亡き清音と瓜二つの顔を見ていると、現実と記憶の境目が揺らぎ、彼女こそ清音なのではないかと錯覚してしまったほどだ。病院へ運び、医師の診察を受けたところ、強い恐怖で一時的に心拍が乱れ、そのまま失神しただけだと告げられた。今はもう落ち着いており、少し休めば目を覚ますという。峻は安堵の息をついた。初めは柊吾に電話をかけ、誰かを詩乃の付き添いに寄こさせるつもりだった。だが、スマホを取り出したところで思い直した。怜司の調べでは、今日の事故に夕凪は関与していないとの結論が出ていた。それでも峻は、まるで信じていなかった。幼い頃から夕凪を知り尽くしているうえ、三年前の一件もある。今回も夕凪の仕業に違いないと、峻は決めつけていた。だから、今日詩乃の身に起きたことも、夕凪と無関係なはずがない。もし詩乃が目を覚まさなかったり、何か後遺症でも残ったりすれば、夕凪はもう終わりだ。そう考えると人任せにはできず、峻は自分で残って様子を見ることにしたのだ。詩乃は今、ベッドの隅で両膝を抱え、うつむいて小さくなっていた。峻と目を合わせることさえ恐れているように見えた。少しでも彼から離れようとしているかのようだった。「どうした?」峻はようやく様子がおかしいことに気づき、再び眉をひそめた。「私は大丈夫……もう、帰って」詩乃は低く抑えた声で答えた。その目はすでに赤く、涙がにじんでいた。峻は息をのんだ。詩乃と出会ってから、彼女がこんなふうに感情を押し殺した声で話してきたことは一度もなかった。そんな話し方をするのは、清音だけだった。心臓が激しく早鐘を打つ。峻は勢いよく立ち上がると、詩乃を真っ直ぐに見据えた。「お前……本当は誰なんだ?」声がかすかに震えていた。彼女は詩乃なのか。それとも……清音なのか。しかし、詩乃は何も答えなかった。顔を深く膝に埋めたまま、華奢な背中だけが小刻みに震え
「どうしてここへ来たんだ?」司はすぐにいつもの調子を取り戻した。整った目元に、いつもの読めない光が戻っている。夕凪は尋ねた。「一つ、聞きたいことがあるんです」「言ってみろ」「瀬戸グループの前の社長……つまり私の母方の祖父のそばに、堂島剛造という補佐役がいました。何十年も祖父に仕えていた人です。祖父が亡くなった後、堂島さんがどうなったかご存知ですか?」夕凪は、だめでもともとのつもりで尋ねただけだった。司が必ず知っているとは思っていない。剛造は、あくまでも祖父の一介の補佐役に過ぎなかったからだ。けれど、夕凪が言い終えるや否や、司は片眉を上げて即答した。「ああ。彼なら、とっくに瀬戸グループを離れてるぜ」夕凪は限界まで目を見開いた。「知っているんですか!?じゃあ、どうして瀬戸グループを辞めたのか、その後どこへ行ったのかも……?」司はソファに深く腰掛け、組んだ長い脚をテーブルの上に投げ出していた。つま先がゆっくりと揺れている。ひどくだらしなく見えるのに、不思議と場を圧倒し支配するような姿勢だった。「細かいところまでは知らないな。ただ七年前、瀬戸グループの古参である堂島が、莫大な事業資金を横領したって報道が出た。額が額だったから、本来なら数年は塀の中に入ってもおかしくない話だったんだ」司は指先でソファの肘掛けをトン、トンと軽く叩いた。「ところが、新しく社長になった男がずいぶん寛大でな。堂島が自分の金で横領の穴を埋めること、会社を自主退職すること、そして持っていた株をすべて手放すこと。その三つの条件を受け入れれば、法的責任はそれ以上追及しないって形に収めたらしい。その後の足取りまでは、さすがの俺も知らない」司は夕凪の顔を覗き込んだ。「急にどうした?まさか、その堂島に会ったのか?」夕凪は険しく眉を寄せたまま、無言でうなずいた。七年前。それは、母が亡くなった時期とぴたりと重なる。母が亡くなった後、遺言によって、母は祖父から自分に遺されていた全ての株式を、自身の夫である慎一郎に譲った。その結果、慎一郎はごく自然な流れで瀬戸グループの社長の座に就いたのだ。けれど、夕凪にはどうしても納得できなかった。祖父が生きていた頃、剛造が会社に背くような不義理を働いた記憶など一度もない。祖父が亡くなった途端、あの実直な
剛造は、母方の祖父の右腕であり、瀬戸グループを古くから支えてきた重鎮だった。幼い頃、祖父と母、そして静江を除けば、夕凪を誰よりも可愛がってくれたのが剛造だった。けれど、どこかおかしい。夕凪の記憶にある剛造は、祖父の片腕とも言える存在だった。祖父も剛造を厚く遇していたため、身につけるものも暮らしぶりも自然と上等で、立ち居振る舞いにも人目を引くような品格があった。だが、目の前にいる清掃員は、髪がすっかり白髪になり、顔には深いしわが幾重にも刻まれている。肌は日に焼けてどす黒く、身につけた作業服はひどく汚れ、擦り切れて古びていた。夕凪には、目の前にいるみすぼらしい清掃員と、記憶の中の洒脱で活力に満ちていた剛造の姿が、どうしても結びつかなかった。「堂島さん……?本当に、堂島さんなんですか?」夕凪は戸惑いながら尋ねた。誰かが剛造になりすましているのではないか。そんな考えすら頭をかすめた。「はい、お嬢様。私です。堂島でございます。……お忘れですか?小さい頃、お嬢様がいちばんお好きだったお菓子は、瀬戸グループのビルの近くで年配の女性が売っていた栗の焼き菓子でした。お嬢様が社長に会いにいらっしゃるたびに、私がよく買いに走ったものです」剛造は懐かしい昔の思い出を口にしながら、その濁った目に涙を浮かべた。その一言で、夕凪はようやく確信した。間違いない。本当に剛造だ。「堂島さん……!本当に、堂島さんだったんですね!」夕凪の目も熱くなった。胸の奥に熱いものがこみ上げ、思わず剛造に抱きつこうと身を乗り出した。幼い頃、剛造に会うたび、夕凪は小さな体でよくその胸に飛び込んでいた。瀬戸グループへ祖父に会いに行っても、祖父はたいてい仕事で忙しく構ってくれなかった。それでも夕凪が退屈しなかったのは、いつも剛造が優しい遊び相手になってくれたからだ。けれど今、剛造は夕凪の腕を慌てて避けるように、深く身を引いた。「お嬢様、いけません。あなた様のお召し物が汚れてしまいます」夕凪はピタリと固まった。伸ばした腕が、行き場を失って宙に浮いたままになる。夕凪は胸の痛みをこらえ、ゆっくりと腕を下ろした。その時、ふと別の大きな疑問が頭に浮かんだ。「堂島さん。祖父が亡くなった時、あなたは会社の中核を任されて、会社の株も少し譲り受けたはずですよ
どれほどの時間が過ぎたのか分からない。夕凪はようやく震える息を整え、冷えた空気を胸の奥まで深く吸い込んだ。まさか、理紗だったなんて。真犯人が誰なのか、どれだけ考えても、夕凪がその名前にたどり着くことはなかった。ふと、別の疑問が頭に浮かぶ。夕凪は顔を上げ、抑えきれない声で圭吾に尋ねた。「夏目さん……真犯人が分かったなら、私の事件もやり直せるんですよね?」圭吾は重々しく首を横に振った。「まだだ。被疑者の理紗の身柄を確保し、自供と証拠を完全に固める必要がある。そこまで進んで初めて、警察から正式に発表を出し、君の疑いを完全に晴らすことができる」理紗はいま、完全に姿をくらませている。警察は広域で緊急配備を敷いて行方を追っているが、いつ身柄を押さえられるかはまだ分からない。それでも、事件の真相は見えた。自分が不当に罪を着せられていたことを、圭吾たちがすでに理解してくれている。それだけで、三年もの間、胸の奥で重く冷たく固まっていたものが、少しずつほどけていくのを感じた。「安心してくれ。必ず一刻も早く理紗を見つけ出す。君に着せられた濡れ衣は、警察の威信にかけて、俺が必ず晴らしてみせる」圭吾の声には、口当たりのいい軽い慰めでは済まされない、確かな覚悟と重さがあった。夕凪はその言葉を微塵も疑わなかった。圭吾がこの事件を本格的に追い始めてから、まだ二か月しか経っていない。それなのに、彼は見事にここまでたどり着いたのだ。圭吾は口先だけで動くような軽い人間ではない。一度口にした誓いを、必ず形にする人だ。「ありがとうございます……本当に、ありがとうございます、夏目さん」夕凪の声が激しく震えた。これまで必死にこらえていた涙が一気にあふれ出し、目の前に立つ圭吾の輪郭がにじんで見えなくなった。警察署を出ると、夕凪は路線バスに乗ってクラブへと向かった。車内で空いた席を見つけ、夕凪は疲れた体を預けるように腰を下ろした。隣には、使い込まれた清掃用具を手にした年配の清掃員の男性が座っていた。夕凪が座ると、清掃員の男性は手元の道具をそっと自分の方へ引き寄せた。夕凪の服を汚さないようにと気を遣ってくれたのだろう。夕凪はバッグから、先ほどの離婚協議書を取り出した。紙面の下部に力強く書かれている峻の署名を見た瞬間、自然と口元がゆるんだ。やっと…
「君もよく知っている人物だ」圭吾がそう言った瞬間、夕凪の胸の奥で嫌な警鐘が鳴った。頭の中を、身近な人間の顔が次々とよぎっていく。けれど、志織と蓉子以外に、夕凪にそこまでの憎悪を抱く相手など思い浮かばなかった。圭吾は重々しい口調で答えを告げた。「……須藤理紗だ」理紗。夕凪の体が、雷に打たれたようにこわばった。圭吾の顔は、とても冗談を言っているようには見えない。夕凪は完全に言葉を失い、しばらく息の仕方すら忘れてしまった。たしかに、自分と理紗の間に確執がある。けれど、理紗と清音の間にいったい何の接点があるというのか?自分が理紗と知り合ったのは、つい三か月ほど前のことだ。三年前に理紗が清音を殺し、その罪を私になすりつけた?そんな話、いくらなんでも筋が通らない。「君が知らない事情があるんだ」圭吾は椅子に深く腰掛けたまま、ひどく険しい表情で続けた。圭吾の話を聞いて、夕凪はようやく事件の裏にある重い背景を知ることになった。理紗には、一つ年下の妹がいた。その妹は幼い頃、清音と同じ学校に通っていた。妹には生まれつき知的な遅れがあり、学校で周囲から陰湿ないじめを受けていたという。そして、そのいじめの主犯格こそが、清音だったというのだ。そこまで聞いた瞬間、夕凪は椅子をガタッと鳴らして立ち上がった。目を限界まで見開き、激しく声が震える。「清音が?今、清音って言いましたよね!?そんなはずありません!清音がいじめなんて、するはずがありません!」清音は成績も人望も誰より抜きん出ていた。峻にとって、長い間胸の奥で大切に守り続けてきた特別な存在でもある。大学時代、多くの学生が清音を遠くから見つめ、決して汚してはならない高嶺の花のように扱っていたのだ。圭吾は落ち着いた声で、夕凪の激しい動揺を受け止めた。「最後まで聞いてくれ……葉山蓉子の供述によると、理紗が『復讐相手を間違えていた』と知ったのは、つい最近のことらしい。実際に妹をいじめていた主犯格は、別の女子生徒だった。その女子生徒の容姿が清音に少し似ていたうえ、知的障害のある妹の記憶も曖昧だった。理紗は妹の言葉を鵜呑みにし、清音が加害者だと固く思い込んでしまったんだ」――その女子生徒が、清音に少し似ていた。その言葉を聞いた瞬間、夕凪の胸がまたドクンと大きく跳
だが、夕凪はすぐに飛びつくことはしなかった。不安げに眉を寄せる。「でも……」言いかけて、口をつぐんだ。桐生家と御堂家は商売敵だ。この男の厚意を素直に受け取っていいものか。司はにやりと笑った。「そんなに警戒するなよ。大荷物抱えて仕事を探し回ってるってことは、行く当てがないんだろ?俺はただ、困ってる人間に手を貸してやろうってだけだ」それでも夕凪の警戒は解けない。司はその様子を見て、声を上げて笑った。「あんたを利用するつもりなら、今すぐ御堂さんに電話してるさ。わざわざこんな地味な仕事を回す必要がどこにある?まあ、働くか出ていくかはあんたの自由だ。好きにしろ」そう言い残
嫁ぎ先には怖くて戻れない。実家にも帰れない。――行き場が、どこにもない。夕凪はあてもなく、身を切るような寒風の中を歩き続けていた。鼻先は真っ赤で、体の震えが止まらない。ふと、子どもの頃に読んだ「マッチ売りの少女」を思い出した。寒くて、腹が減って、一文無しで――今の自分は、まさにあの少女そのものだ。足が止まった。目の前に、二十四時間営業の看板を掲げたファストフード店がある。窓越しに見える店内には、夜を明かすホームレスたちの姿があった。もう、ここしかない。夕凪は歯を食いしばり、迷惑を承知で店に入った。隅の席を見つけ、テーブルに突っ伏す。外で凍え死ぬよりはマシだ。けれ
二十分後。忠はアクセルを踏み抜かんばかりの勢いで車を飛ばし、ようやく最短時間で峻を本家へ送り届けた。玄関をくぐるなり、御堂グループの次期総帥ともあろう峻が、またしても祖母にこっぴどく叱り飛ばされた。峻は一言も言い返さず、黙って叱責を浴びていた。が、頭の中では別のことを考えていた。御堂家の先代当主と夕凪の外祖父――瀬戸グループの創業者は、血の繋がりこそないが義兄弟の契りを結んだ仲だ。夕凪は幼い頃からしょっちゅう本家に遊びに来ていた。静江には三人の息子と一人の娘がいて、孫も五、六人、さらに外孫娘もいる。けれど昔から誰よりも可愛がっていたのは、血の繋がりのない夕凪だった。御堂家の
刑務所を出た夕凪が真っ先にしたことは、銭湯へ行って湯につかることだった。まずはこの身にまとわりついた穢れを、きれいさっぱり洗い流したかったのだ。浴槽に足を踏み入れ、熱い湯の中にゆっくりと体を沈めていく……ああ、気持ちいい。思わず目を閉じて、浴槽の縁に頭をもたせかけた。あまりにも穏やかで、あまりにも安らかで――ずっと張り詰めていた糸がふっとほどけた途端、記憶の底に沈めていたものが、ひとりでに浮かび上がってきた。六年前、御堂グループは突如として経営危機に陥った。窮地を脱するため、峻は自ら夕凪のもとを訪れ、プロポーズした。瀬戸グループに支援させるための政略結婚だった。父は反対して







