FAZER LOGIN「離婚したくないんだ、優香。なあ、一度だけでいいから、俺を許してくれないか?君の気に入らないところは、全部直すからさ。会社にとっても、俺にとっても、君が必要なんだ」必死に訴えかけてくる宏樹を見ても、私の心は少しも揺れなかった。「でも、私が一番あなたを必要としていたとき、あなたは遥さんのところへ行ったのよ。もうあなたへの愛情はないわ。これ以上、協力することもない。これ以上つきまとうなら、警察を呼ぶから。今の私は国のために重要な仕事をしているのよ。どうなるか、わかるでしょ?」私はそう言い捨てて、足早にその場を去った。涙を誰にも見られたくなかったから。結婚して10年。私に対する宏樹の態度は、どんどん適当になっていった。私は仕事で忙しい宏樹を理解しようと努めていたのに、彼はこっそり他の女と浮気していた。我慢すればするほど、宏樹からの仕打ちは酷くなるばかりだった。……宏樹は、どうしても離婚したくないとごね続けていた。彼は、離婚協議書の署名は自分の意思でしたものではないと、裁判を起こしたのだ。それで、離婚の話も滞ってしまった。私が毎日浮かない顔をしているのを見かねて、勇太が研究院を通して宏樹に圧力をかけてくれた。宏樹自身は離婚したくなくても、会社が彼のわがままを許さなかったのだ。研究所が圧力をかけてくれたおかげで、宏樹はようやく離婚に同意してくれた。そして、プロジェクト707も正式に始まった。それからの5年間は、毎日がとても充実していた。私も、翔と正式にお付き合いを始めた。彼と私は、本当に相性が良かった。あらゆる面で、お互いを補い合えた。翔といると、これまで経験したことのない幸せを感じることができた。プロジェクトが終わると、私たちはまとまったボーナスを受け取った。気分転換に、昔住んでいた街に戻ってみることにした。でも、街の様子はすっかり様変わりしていた。かつては勢いのあった松田グループの本社ビルも、今では別の新興企業のものになっていた。ある交流会で、私たちは宏樹と再会した。彼は、必死に周りの人に媚を売って取り入ろうとしていた。見るからに、あざとい商売人みたいな雰囲気が漂っている。いつもブランド物のスーツを着てたのに、今、身につけてる服は、なんだか古ぼけて見
……「優香さん、ぼーっとしてないで。こっちに来て果物でも食べなよ」先輩たちの声で、私ははっと我に返った。私は急いで個室の中へ向かった。テーブルを囲んでいると、ふと翔と目が合ってしまった。途端に顔が熱くなるのを感じた。彼がこんなにかっこいいなんて、今までどうして気づかなかったんだろう。歓迎会が終わると、勇太は私を医薬研究院まで案内してくれた。「プロジェクトは一週間後からだ。それまでの数日間は、翔に君の案内を頼んでおいたから、研究院の環境に慣れるといい」「はい、わかりました」私を見送った後、勇太はもどかしそうな顔で翔を見ていた。「好きな子にはもっと積極的にいかんか。もう何年も経つのに、いつまでも奥手じゃだめだぞ。俺がこうしてチャンスを作ってやったんだから、あとは自分で掴め」よく見ると、翔の口角が微かに上がっていたのがわかっただろう。「はい。今度こそ、彼女を俺のそばから離しません」その頃、宏樹はソファにぐったりと座り込んでいた。スマホに届いた秘書からのメッセージが、彼の虚ろな目に光を灯した。【社長、奥さんは医薬研究院にいらっしゃいます】宏樹は秘書に航空券を手配させると、床に落ちていた上着を拾い上げ、空港へと急いだ。彼にばったり会ったのは、私が翔と一緒に外での調査から戻ってきた時だった。私たちが楽しそうに談笑しているのを見て、宏樹は怒りを爆発させた。彼は見るなり翔に殴りかかった。「友達だと思っていたのに、俺の妻に手を出すとは何事だ!」翔は鼻で笑うと、軽蔑したような顔を向けた。「誰がお前の友達だ。優香さんのためじゃなかったら、お前みたいなクズと付き合うわけないだろ」私は急いで翔をかばうように後ろに立たせ、宏樹に向かって叫んだ。「いい加減にして!」宏樹はそれでようやく拳を下ろしたが、今度は私を掴もうと手を伸ばしてきた。「行くぞ、俺と帰るんだ」「どこに帰るのよ。私たち、もう離婚するんだから!宏樹、離して!」抵抗しても無駄で、私は宏樹に引きずられるしかなかった。翔がさっと前に出て、私の腕を掴む宏樹の手を掴んだ。その声は鋭かった。「彼女が離せと言っているのが聞こえないのか?」翔の手に、ぐっと力が込められていく。しばらく睨み合った後、宏樹の方が先に手を離した。
勇太は、わざと怒ったふりをした。「まったく、君は。俺が会いたくて迎えに来てやったのに、からかうなんてひどいじゃないか」勇太が間に入ってくれたおかげで、私と翔との間の気まずい空気が少し和らいだ。翔との間には、ちょっとした誤解があったのだ。あの頃、彼は宏樹と同じ寮の部屋だった。私は人に頼んで宏樹の机に手紙を置き、学校の講堂に来てくれるよう伝えてもらった。告白するつもりだった。ところが、手紙を届けた人が机を間違えてしまった。そして、翔の机の上に置いてしまったのだ。よりによって、翔がその約束の場所に現れて、しかもめっちゃ早く着いてたんだから。その時、私は自分で書いた告白の原稿を読んでて、もう真ん中くらいまで進んでいた。相手の名前は冒頭に書いていたから、翔には、私が宏樹への手紙を読んでいるとは分からなかった。私が一方的に喋り続けて、やっと最後のところまで来た。「だから、私の彼氏になってくれる?」私の後ろに立っていた翔が、すぐに答えた。「いいよ」その返事に、背を向けていた私は飛び上がるほど驚いた。振り返ると、翔が手にしていたのは、私が書いたピンク色の封筒だった。私がまるで幽霊でも見たかのようにビクッと後ずさるのを見て、翔も不思議そうな顔をした。私はとっさに、床に落ちていた原稿を隠そうとした。でも、彼に見られてしまった。【宏樹、好きだわ】翔がじっと見つめてくるので、私は気まずい思いで説明するしかなかった。「あの手紙、たぶん、届けた人が間違えちゃったみたいで……」翔は鼻で笑うと、手紙を床に投げ捨てた。「次からは……手紙の冒頭に、ちゃんと相手の名前を書くことだな」でも、手紙が間違って届けられるなんて、分かるわけないじゃない。あの時の光景は、今でもはっきりと目に焼き付いている。あの時の翔は、怒りで顔色が変わっていた気がする。レストランへ向かう道中、話していたのはほとんど私と勇太だけだった。翔は、時々、相槌を打つくらいだった。個室へ向かうと、先輩たちが次々と心のこもったプレゼントを渡してくれた。こんな温かい雰囲気を味わうのは、本当に久しぶりだった。少しお酒が進んだころ、私は一度トイレに立つことにした。トイレから戻る途中、先輩たちが大きなケーキを運んでいるのが見え
「宏樹さん……」その言葉を最後まで言えずにいると、宏樹はもう行ってしまった。遥は、去っていく男の後ろ姿を、憎しみに満ちた目で見つめていた。車に乗り込んだ瞬間、宏樹はデパートの大型スクリーンに映る私に関するニュースを目にした。先生たちが、私を歓迎するために特別に手配してくれたものだ。「優香、これくらい派手にした方が格好がつくだろ。俺に任せておく」あまり目立ちたくなかった私は、苦笑いを浮かべるしかなかった。【科学研究班、新任研究員――松田優香(まつだ ゆうか)】スクリーンの中で生き生きとしている私の姿に、宏樹は呆然と立ち尽くした。あんなにも生命力に溢れていた私は、彼の記憶の中にしか存在しないはずだったのに。勇太はあくまで私の参加を歓迎してくれただけで、プロジェクトの内容については公には何も触れなかった。あれは、国家の機密プロジェクトなのだ。宏樹はよく知っている。勇太が関わるプロジェクトは、少なくとも数年はかかるものばかりだ。そして、プロジェクトの途中で家に帰ることは許されない。そう考えた途端、宏樹は苛立ちからアクセルを強く踏み込んだ。私がまだ家で荷造りをしていることを、彼は期待していた。ドアを開けるなり、宏樹は真っ先に玄関の靴箱に目をやった。一足も減っていないのを見て、彼の焦燥感は少しだけ和らいだ。実際、私はあの家の物を一つも持ってきていなかった。家にあるものは、多かれ少なかれ宏樹と遥の気配が染み付いているから。思い出すだけで吐き気がするような物には、触れたくもなかったのだ。宏樹は、探るように呼びかけた。「優香、いるのか?優香?」宏樹は家の中を、私の姿を探し回った。そして慌てて秘書に電話をかけ、私の行方を捜索させた。電話を切ると同時に、彼は部屋の明かりをつけた。そこに置かれたウェディングドレスの宝石が、光を受けてきらきらと輝いていた。宏樹の視線も、その輝きに吸い寄せられた。彼はこのドレスを目にした時、私が着ればきっと似合うだろうと思ったのだ。だが、うっとりと見惚れる間もなく、宏樹はその下に置かれた離婚協議書に気が付いた。色々な取り決め事項があったから、離婚協議書は分厚かった。そのほとんどは、私の特許権に関するものだった。私は財産分与を一切求めな
聖マリア教会での会場費は高くて、分単位で料金がかかる。八時をまわると、宏樹はだんだんイライラしてきた。でも、私が会社のためにどれだけ尽くしてきたかを思い出した。それで、もう三十分、なんとか我慢して待っていた。でも、いくら待っても私は現れなかった。ついに怒りが爆発して、宏樹は私のスマホに電話をかけてきた。「おかけになった電話は、電波の届かない場所に……」宏樹が何度かけ直しても、聞こえてくるのは機械的な音声だけだった。私はもう、スマホのSIMカードをへし折って、ゴミ箱に捨てていた。だから、電話に出るはずがなかった。次に宏樹は、私にメッセージを送ってきた。しかし、待てど暮らせど返信はない。堪忍袋の緒が切れたのだろう。宏樹は怒りのあまり、スマホを床に叩きつけた。そして、出席者全員に結婚式の中止を伝えた。宏樹の怒りっぷりを見て、事情を知らない人たちは、花嫁が来なかったからに違いないと考えていた。でも私だけは分かっていた。彼が怒っているのは、ただ自分の面子を潰されたからだということを。宏樹は慌てて会社へとんぼ返りした。タキシード姿の宏樹を見て、遥はやきもちを焼いた。彼が焦っていることには、まったく気づいていないようだった。「今夜、埋め合わせをしてくれる約束をしましたよね。次は、私もこんな結婚式がいいですね」すり寄ってくる遥を見て、宏樹はさらにイライラを募らせた。その声には、怒りがこもっていた。「ちっ、うっとうしいな」宏樹は遥を突き放すと、近くにいた別の社員を捕まえて尋ねた。「優香は?」社員は、きょとんとした顔をした。「優香さんは今日は残業はされてませんし、朝以降はお見かけしていません。でも、システムに退職届が提出されているのを、誰かが見たらしいですけど。社長、優香さんに何かあったんですか?まさか、退職を承認したりしませんよね?」宏樹は目を見開き、心臓がどきりと音を立てた。どうりで、あのオフィスを譲れと言った時、あっさり頷いたわけだ。とっくに、ここを去るつもりだったのか。宏樹には、私がなぜ会社を辞めるのか、理解できなかった。彼が真っ先に考えたのは、私が遥のことでやきもちを焼いて、怒っているんだろう、ということだった。だから結婚式をすっぽかして、仕事も放り出したの
なぜ結婚式を、教会で挙げたかったのか?だって、何年も前に聖書を読んでて、そんな言葉が書いてあるのを見たから。【神が結びあわせたものを、人は離してはならない】教会は、一生涯、一人の相手と心を尽くして添い遂げる、という結婚観を大切にしている。私が宏樹と結婚したとき、結婚指輪も、ウェディングドレスも、結納もなかった。家族からの祝福さえなかった。母に言われた言葉を、今でもはっきりと覚えている。「あの人が本気であなたを愛しているなら、誠意を見せるはずよ。何にもないなんて、そんなの結婚じゃないわ」若くて意地っ張りだった私は、すぐに言い返した。「二人とも大学を出たばかりなんだから、お金がないのは当たり前でしょ!宏樹は私に優しいし、大変勤勉な人だから。あなたとお父さんみたいに、絶対にならない!」父が浮気をして、母は離婚を選んだ。それは、私の心にも、そして母の心にも、消えないトゲとして残っている。飛行機の中で、どうして私たちもこうなってしまったんだろうと、何度も何度も考えた。たぶん、母が言っていたことが正しかったんだ。何者でもなかった頃の宏樹にとって、何も求めない女の子は、きっと都合が良かったのだろう。頭も良くて、どんな苦労もいとわない。家事ができて、彼の身の回りの世話も全部してくれる。そんな都合のいい人を、嫌いなわけがない。手放すはずがないよね。そして宏樹は成功を手にした途端、自分の理想の女性を探し始めたんだ。もし会社の薬の開発に、私がもう必要じゃなかったら、教会での結婚式も、ハネムーンも、きっとなかったはずだ。結婚してからの七年間、宏樹はかつての約束を一つだって果たそうとはしなかった。コンサートの件が、いい例だ。それは、彼が私を必要としているから。私を愛しているからじゃない。すべては、私を繋ぎとめるための手段だった。でも今の私はもう、恋に夢中なだけの、あの頃の私じゃない。目を閉じれば、今でも昔のことが思い出せる。私たちは、入籍したその足で、営業先に向かった。あの日、道端の花壇に咲いていた花がすごく綺麗で、甘い香りがした。教会の前で、自転車を止めたとき、私は、中にいた新郎新婦の姿に、思わず見とれてしまった。宏樹が私の目の前で手をひらひらさせて、落ち着いた声で言った







