Share

第45話 芽生える恋心 -2

last update Last Updated: 2025-09-15 20:26:48

 陽が落ちて、辺境の空が深い藍色に染まる頃。町の広場の中央で燃え盛る焚き火は、天にまで届かんとする勢いで、人々の顔を希望の色に照らし出していた。

 どこからともなく、素朴だが心躍るような笛の音が響き始める。それに合わせるように、誰かが持ち込んだ古い太鼓が、力強いリズムを刻み始めた。それを合図にしたかのように、それまで焚き火を囲んで談笑していた人々が、一人、また一人と手を取り合い、大きな踊りの輪を作り始めた。

 それは、王都の舞踏会で踊られるような、洗練された優雅なダンスではない。大地を踏みしめ、喜びを全身で表現するような、生命力に満ち溢れた民衆の踊りだった。男も女も、老いも若きも、兵士も元罪人も関係ない。皆が同じ輪の中で、同じリズムに身を任せ、ただ笑い合っている。

 セレスティナは、少し離れた場所から、その光景を眩しいものでも見るように見つめていた。人々の熱気に当てられ、彼女の頬は興奮でかすかに上気している。

「さあ、聖女様も!」

「軍師殿も、こちらへ!」

 踊りの輪の中から、何人もの手が差し伸べられる。セレスティナは一瞬ためらったが、その温かい手招きに抗うことはできなかった。

「で、ですが、私、このような踊りは…」

「難しく考えるこたあねえ! 音に合わせて、好きに体を動かせばいいんでさ!」

 日に焼けた、たくましい農夫の手に引かれ、彼女は半ば強引に踊りの輪の中へと引き入れられた。

 最初は、戸惑うばかりだった。貴族令嬢として叩き込まれた舞踏のステップは、この力強いリズムの前では何の役にも立たない。だが、周りの人々が、手本を見せるように、楽しげにステップを踏んでくれる。その素朴で、裏表のない笑顔に包まれているうちに、彼女の心の中から、いつしか羞恥心や戸惑いが消え失せていた。

 セレスティナは、見よう見まねで、ぎこちなくステップを踏み始めた。最初は硬かったその動きも、音楽と人々の熱気に導かれるように、少しずつ、しなやかさを帯びていく。すみれ色のドレスの裾が、炎の光を反射して、ひらひらと夜の闇に舞った。

 その姿は、まるで闇夜に舞い降りた、一輪のすみれの花のようだった。

 いつしか、彼女は心の底から笑っていた。これまでの人
Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Latest chapter

  • 辺境の狼は、虐げられた白百合を娶る ~没落令嬢と成り上がり英雄の復讐協奏曲~   第97話 狼の采配

     湿地と森が作り出した巨大な罠の中で、討伐軍はもはや軍隊ではなかった。 四方八方から断続的に飛来する矢、ぬかるみに足を取られ身動きできない仲間、そして霧と木々の間から神出鬼没に現れては消える狼の群れ。そのすべてが、兵士たちの心を、じわじわと、しかし確実に蝕んでいた。「降伏する! 俺はもう戦わない!」「助けてくれ! 命だけは!」 恐怖に駆られた兵士たちが、次々と武器を泥の中に投げ捨て、その場に膝をつき始める。規律も、命令も、もはや何の意味も持たない。指揮官である将校たち自身が、自らの命を守ることで精一杯だった。 ベルガー元帥は、本陣でその光景を呆然と見つめていた。彼の周囲を固める親衛隊だけが、かろうじて円陣を組んで抵抗を続けているが、それも時間の問題だった。敵は、巧みにこちらの体力を奪い、じっくりと包囲の輪を狭めてくる。それは、獲物が完全に弱るのを待つ、狼の狩りそのものだった。(終わった…) 彼の心の中で、何かが完全に折れた。武人としての誇りも、王家への忠誠も、この圧倒的な現実の前では、もはや色褪せた感傷に過ぎなかった。 その光景を、霧に隠れた丘の上から、ライナスは静かに見下ろしていた。 敵の指揮系統は乱れ、兵士の戦意は尽きた。戦いの趨勢は、完全に決している。このまま包囲を続ければ、やがて敵は自滅するだろう。それもまた、一つの勝利の形だった。 だが。「…ギデオン」 ライナスは、傍らで控える腹心を呼んだ。「はっ」「仕上げだ。この戦を、我らの完全な勝利として、歴史に刻むためのな」 ライナスの声は、それまでの冷静な指揮官のものとは異なっていた。そこには、戦というものの本質を、その血と肉で味わい尽くしてきた、猛将の熱が宿っていた。「閣下、しかし、これ以上は…」「分かっている。無益な殺生は不要だ。だが、獅子の喉元に、狼の牙を突き立て、その心臓を完全に止めてやらねば、この戦は終わらん」 彼はゆっくりと立ち上がった。その屈強な体躯から放たれる凄まじい圧が、周囲の空気を震わせる。「ベルガーという老将に、敬意を

  • 辺境の狼は、虐げられた白百合を娶る ~没落令嬢と成り上がり英雄の復讐協奏曲~   第96話 ベルガーの絶望

     夜が明け、湿った冷気が敗残兵たちの体を芯から蝕んでいた。  グスタフ・フォン・ベルガー元帥が率いる討伐軍の残党は、最後の決戦の地として指定された『狼の牙』へと、重い足取りで進んでいた。兵士たちの瞳は虚ろで、生気はない。だが、その隊列の先頭に立つベルガーの胸中には、屈辱と怒りに燃える、最後の闘志があった。  斥候の報告によれば、決戦の地は広大な荒野だという。地形の利を活かせぬ平地での戦い。それは、辺境伯の若さ故の傲慢か、あるいは自分への侮りか。いずれにせよ、好都合だった。純粋な兵の練度と戦術でぶつかり合えば、たとえ兵力で劣っていても、この王国の宿将としての経験が勝るはずだ。彼はそう信じ、この最後の戦いで一矢報いることだけを考えていた。 だが、彼らがその地に足を踏み入れた瞬間、その淡い希望は、冷たい絶望へと変わった。 「…なんだ、これは」  ベルガーの口から、愕然とした声が漏れた。  目の前に広がっていたのは、報告にあったような開けた荒野ではなかった。朝霧が立ち込める、広大な湿地帯。そして、その奥には、視界を遮るように鬱蒼とした森が、まるで巨大な獣の顎のように口を開けていた。ぬかるんだ大地は重装の兵士たちの足を取られ、歩を進めることさえ困難を極める。 「罠だ…! あの小僧、我らを騙したか!」  ベルガーは激昂し、馬上で拳を震わせた。斥候は、敵の偽情報にまんまと踊らされたのだ。この地形は、地の利を熟知している者にとって、これ以上ない天然の要塞。そして、侵入者にとっては、出口のない墓場だった。 「元帥閣下! もはや進むのは危険です! 一刻も早く撤退を!」  副官が悲鳴に近い声で叫ぶ。 「馬鹿者! どこへ退くというのだ!」  ベルガーは一喝した。背後には、あの狼の群れが息を潜めている。今ここで背を向ければ、無防備な背中を無慈悲に食い破られるだけだ。もはや、道は一つしかなかった。 「進め! この湿地帯を突破し、森の向こうへ抜ける! 活路は、前にしかない!」  それは、合理的な判断というよりは、もはや破れかぶれの叫びだった。彼の命令を受け、討伐軍は、絶望的な沼地へとその足を踏み入れていく。彼らの進む先で、静かに、そして確実に、狩

  • 辺境の狼は、虐げられた白百合を娶る ~没落令嬢と成り上がり英雄の復讐協奏曲~   第95話 決戦の地へ

     辺境伯の城に、ひとりの騎士が馬を進めていた。 その騎士が掲げるのは、武器ではなく、降伏と交渉の意思を示す、汚れた白い布切れだった。 城壁の上からその姿を認めた見張りの兵士が、緊張した声で城内へと報せを飛ばす。その報は瞬く間に城中を駆け巡り、勝利の歓喜に沸いていた空気を一瞬にして凍てつかせた。 作戦司令室にも、その報せはすぐに届けられた。「敵陣より、白旗を掲げた使者が一騎! 面会を求めております!」 伝令兵の切羽詰まった声に、それまで勝利の余韻に浸っていた文官や将校たちは、互いに顔を見合わせ、戸惑いの表情を浮かべた。 降伏。 その言葉が持つ甘い響きと、しかしその裏に潜むかもしれない罠の匂いが、部屋の空気を奇妙な緊張で満たした。「罠かもしれませんぞ!」「そうだ、我らを油断させるための策略に違いない!」 口々に上がる警戒の声を、セレスティナは静かに聞いていた。彼女は壁に広げられた巨大な地図の前から動かず、そのすみれ色の瞳で、崩壊した敵軍を示す赤い駒を見つめている。 父を陥れ、自らの全てを奪った憎い敵。その敵が、今、白旗を掲げて目の前に現れた。復讐の終焉が、すぐそこまで来ている。だが、彼女の心に、勝利の高揚感はなかった。あるのは、氷のように冷徹な分析と、次なる一手への思考だけだった。「…使者を、司令室へ通してください」 セレスティナが、静かだが凛とした声で命じた。その場の誰もが、若き軍師の言葉に反論することなく、ただその指示に従う。この城において、彼女の言葉はすでに、絶対の重みを持っていた。「ですが、セレスティナ様、危険です」 ザイファルトが、影の中から現れるように彼女の隣に進み出て、低い声で懸念を告げた。「どのような罠が仕掛けられているか分かりません。私が代わりにお会いしましょう」「ありがとう、ザイファルト。でも、大丈夫」 セレスティナは、心配する腹心に穏やかに微笑みかけた。「これは、武力による戦いではありません。言葉と、心を読む戦いです。ならば、私が行くべきでしょう」 彼女の瞳には、揺るぎない覚悟の光が宿っていた

  • 辺境の狼は、虐げられた白百合を娶る ~没落令嬢と成り上がり英雄の復讐協奏曲~   第94話 壊乱の序曲

     規律という名の箍が外れた時、軍隊はただの牙を持った獣の群れと化す。 討伐軍の陣営は、今や地獄の様相を呈していた。最後の食料配給が途絶えた瞬間、兵士たちの理性は完全に蒸発した。彼らは飢えという最も原始的な欲求に突き動かされ、将校たちの天幕へと殺到する。「食い物を隠しているんだろう! 出せ!」「どけ! 俺が先だ!」 扉は蹴破られ、天幕は引き裂かれる。略奪の対象は、やがて食料だけに留まらなくなった。金目のもの、上等な武具、わずかでも価値のありそうなもの全てが、狂乱した兵士たちの手によって奪い合われた。 制止しようとした将校は、昨日まで忠誠を誓っていたはずの部下に突き飛ばされ、泥の中に顔を押し付けられる。もはや階級など、何の意味も持たなかった。あるのは、飢えた獣たちの、生存を賭けた醜い争いだけだった。 その光景を、グスタフ・フォン・ベルガー元帥は、自らの天幕の奥で、ただ静かに聞いていた。 怒声、悲鳴、何かが破壊される音。それらが混じり合った不協和音が、彼の耳には、自らの軍隊の断末魔のように響いていた。 終わった。 その一言が、彼の心の中で、重い石のように沈んでいく。 ライナス。そして、その背後にいるであろう影の軍師。あの見えざる敵は、一万の軍勢を、一人の兵士も失うことなく、内側から完膚なきまでに破壊し尽くした。武器ではなく、飢えと恐怖という、最も原始的な力を使って。 これほどの完敗が、これほどの屈辱が、彼の長い武人としての人生にあっただろうか。 いや、ない。 ベルガーは、固く拳を握りしめた。その拳は、怒りではなく、どうしようもない無力感に、わなわなと震えていた。傲慢だった自分を、嘲笑うかのように。 彼はもはや、王国最強と謳われた将帥ではなかった。統率を失い、自滅していく獣の群れを、ただ見つめることしかできない、無力な老人に過ぎなかった。 天幕の外の狂乱は、やがて、奪うべきものが無くなると共に、次第に静まっていった。後に残ったのは、破壊された天幕の残骸と、わずかな戦利品を巡って睨み合う兵士たちの、虚ろな目だけだった。 壊乱の序曲は終わり、今はただ、絶望的な静寂が、敗残の軍を支配し

  • 辺境の狼は、虐げられた白百合を娶る ~没落令嬢と成り上がり英雄の復讐協奏曲~   第93話 兵站なき大軍 - 2

     夜の森は、狼たちのための狩場だった。 ライナスが率いる三十名の精鋭は、もはや人間ではなく、闇に溶け込んだ獣の群れそのものだった。彼らは音を立てず、風のように木々の間を駆け抜ける。月明かりさえ届かぬ森の奥深くで、彼らの目は獲物の匂いを正確に捉えていた。 目指すは、敗走を始めた討伐軍の生命線。その腹心とも言うべき輜重隊だ。「…見えたぞ」 斥候として先行していた兵士が、音もなくライナスの隣に戻り、囁いた。その指が示す先、谷間を縫うように続く細い道に、長く伸びる荷馬車の列が見える。その周囲を固める護衛の兵士たちの数は多いが、その足取りは重く、警戒網は弛緩しきっていた。本隊から切り離され、ただひたすらに前進するだけの彼らに、かつての王都軍の威光はなかった。「見事な無防備さだな」 ライナスは、木の幹に背を預けたまま、冷ややかに呟いた。その金色の瞳が、闇の中で鋭い光を放つ。「あれが、自分たちの命綱だという自覚すらないらしい」 傲慢な獅子は、手負いとなってもなお、己の腹の柔らかさを忘れている。その油断こそが、狼たちにとって最高の馳走だった。「作戦通り、三方に分かれろ。合図があるまで、決して動くな。我らが目的は、殺戮ではない。恐怖を与えることだ」 ライナスの低い声に、三十の影が、音もなく散開していく。彼らは、この夜の狩りの意味を、その骨の髄まで理解していた。 しばらくの静寂。 荷馬車の列が、完全に罠の中心へと足を踏み入れた、その瞬間。 ライナスは、夜の静寂を破る、一声の口笛を鳴らした。 それが、饗宴の始まりを告げる合図だった。 最初に、火の矢が放たれた。 狙いは、兵士ではない。荷馬車の幌や、積まれた乾草、そして食料袋そのものだった。油を染み込ませた矢尻は、いともたやすく燃え広がり、夜の闇にいくつもの巨大な篝火を打ち立てた。「な、なんだ!? 敵襲! 敵襲だ!」 護衛の兵士たちが、パニックに陥って叫ぶ。だが、敵の姿はどこにも見えない。ただ、闇の中から、次々と火矢が飛来し、彼らの命の糧を灰へと変えていく。「水をかけろ! 火を消すんだ!」

  • 辺境の狼は、虐げられた白百合を娶る ~没落令嬢と成り上がり英雄の復讐協奏曲~   第92話 兵站なき大軍 - 1

     戦とは、兵の数や武器の質だけで決まるものではない。 それは時に、一本の矢、一通の書状、そして一つの疑念によって、その趨勢が決定づけられる。 グスタフ・フォン・ベルガー元帥は、その身をもって、その真理を味わっていた。彼の目の前には、かつて一万を誇った大軍の、見るも無残な残骸が広がっている。 離反した者、恐怖に駆られて逃亡した者、そして、もはや戦う意志を失い、虚ろな目で地面に座り込む者。残った兵力は、かき集めても三千に満たないだろう。そのほとんどが、彼の直属の親衛隊と、今さらヴァインベルク公爵を裏切ることもできぬ、立場のない貴族たちの私兵だけだった。 醜い罵り合いは、いつしか終わっていた。いや、終わらざるを得なかったのだ。あまりにも多くの者が、陣から離脱してしまったために。残された者たちの間には、共通の絶望と、敗北という名の重苦しい沈黙だけが垂れ込めていた。 ベルガーは、馬上で天を仰いだ。辺境の空は、まるで彼の心の内を映すかのように、重く、灰色の雲に覆われている。 屈辱。怒り。そして、己の傲慢さへの深い後悔。様々な感情が、嵐のように胸中で渦巻いていた。だが、それらの感情のさらに奥底で、彼は、これまで感じたことのない種類の、純粋な畏怖を感じていた。 ライナス。そして、その背後にいるであろう、影の指揮官。 自分は、その見えざる敵に、完膚なきまでに敗れたのだ。武力でなく、知略で。正面からの衝突ではなく、人の心の脆さを突く、あまりにも狡猾な戦術によって。 あれほどの情報戦を、これほど完璧なタイミングで仕掛けられる人物とは、一体何者なのか。その正体不明の軍師の存在は、歴戦の将帥である彼のプライドを、根底から揺さぶっていた。 だが、今は感傷に浸っている場合ではない。将としての、最後の務めが残っている。 それは、この残った兵たちを、一人でも多く、生きて王都へ帰すこと。 たとえ、それがどれほどの屈辱を伴う選択であったとしても。「…聞け」 ベルガーは、声を振り絞った。その声は嗄れていたが、不思議なほどの静けさと、覚悟の響きを帯びていた。「我々は、これより、撤退を開始する」 その

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status