เข้าสู่ระบบ寺の門を出ると、冬の光はすでに傾きはじめていた。
境内にいたときより、外気は一段と冷たく、頬を刺す風が容赦なく吹きつける。 けれど、浩人の胸の奥にある熱だけは、風に晒されてもまるで冷える気配がなかった。坂道はゆるやかに伸びている。
足を踏み出すたび、靴底に伝わる硬いアスファルトの感触が、妙に鮮明だった。 外の匂いは乾いていて、寺の庫裏で感じた温かい匂いが、まだどこか鼻の奥に残っている。隆寛と交わした言葉は、ほんの数分。
それも、傷つかないための距離を置いた形式的なものばかり。 昔のように名前を呼ぶことも、触れることもできなかった。それなのに――胸の奥の熱は、どういうわけか増していた。
隆寛が言った「僧侶として」の言葉。
僧衣の袖が震えた、あの一瞬。 視線が泳いだときの、あのかすかな呼吸の乱れ。 そして。耳に残った、あの小さな穴。
浩人は歩く足を止めた。
夕暮れ前の薄い光が、道の先をぼんやり照らしている。 風が吹き抜け、コートの裾を揺らした。 その冷たさに、思考が余計に冴える。(……残してたんだよな。あの穴)
思い返すだけで、胸が熱くなる。
隆寛が、自分で開けたピアスでもない。 浩人が開けた穴だった。 大学の部屋で。 深夜、息を詰めながら、隆寛が痛みに眉を寄せて、 「……痛い。でも……お前がやるならいい」 そう言った声まで蘇る。その痕跡が、今も残っている。
修行の一年で、あらゆる執着を断つはずの時期でさえ、
隆寛はその穴を消さなかった。どういう理由であれ――消せなかった。
あるいは、消したくなかった。その事実が、言葉よりも正直だ。
坂道を再び歩きはじめると、風の音が耳に流れ込んでくる。
冷たいはずの風なのに、胸の中心から熱がじわりと広がる感覚があった。(……あいつ、俺を嫌ってはいない)
確信に近い感情が、ゆっくりと形を持ちはじめる。
僧侶としての仮面の裏に、押し殺した何かがあった。 逃げようとしていた。 けれど、逃げる理由は憎しみでも拒絶でもなかった。もし本当に終わっているなら、
あんな顔はしない。 あんな呼吸の仕方はしない。 目を泳がせたりしない。 ピアスホールなんて、消している。全部が証拠だった。
坂道の途中で、浩人は一度だけ振り返った。
寺の屋根が夕日にかすかに照らされ、黒々としたシルエットになっている。 隆寛は、あのどこかにいる。 僧衣をまとって、きちんとした呼吸で、自分を律している。けれど――
ほんの少しだけ、あの目は揺れていた。見なかったふりをしているだけだ。
自分の感情も。 自分が残してしまった穴の意味も。風が再び吹き、額にかかる髪が揺れた。
冷たさが皮膚を刺すのに、内側からは熱がせり上がる。「……まだ終わってねえんだよ。俺たち」
声にすると、その熱が少しだけ楽になった。
吐いた息が白く浮かび上がり、すぐに風にさらわれて消えていく。 けれど、その代わりに胸の奥の確信は濃く、形を持った。逃げてもいい。
僧侶として距離を置きたければ置けばいい。 ただ――あれは終わりの顔じゃない。
浩人は再び歩き出した。
足取りには迷いがない。 坂道の先に広がる街は灰色で、夕暮れは寒々しい色をしていたが、 自分の呼吸だけは熱を帯びている。胸の奥で、燻っていた熱はもはや炎のように形になりつつあった。
風が吹いても消えない。
冷気を浴びても冷めない。むしろ。
隆寛が逃げれば逃げるほど、
その炎は強く、濃く、激しくなっていく。気づけば、浩人の唇に微かな笑みが浮かんでいた。
これはもう偶然ではない。
会いたくて来た。 逃げようとしている隆寛を、見逃すつもりもない。坂を下りきる頃、冬の空は淡い灰色へと変わっていた。
その下で、浩人の胸だけが確かな熱を灯し続けている。――再燃は、もう始まっている。
そう言い切れるほどの熱が、確かにそこにあった。
部屋の中の時間が、ふっと緩んだ。さっきまで耳の裏側に落ちていたキスの感触は、もうほとんど熱だけになっている。それでも、左耳たぶの一点に、じわ、と凝ったようなぬくもりが残っていて、そこから、胸の奥へ向かって、遅れて波紋が広がっていく。布団の中で、隆寛は小さく息を吸った。胸の前で、浩人の腕が緩やかに回っている。肩と背中をまとめて抱き込むようにして、軽く身体を寄せてくる。その重みが、日ごろは僧衣の下に隠している筋肉の緊張を、少しずつほどいていった。耳の穴の縁を押さえていた自分の指は、知らないうちに力を抜いていた。かわりに、浩人の腕のほうへ、そのまま滑らせる。手の甲に触れると、風呂上がりの石鹸の匂いが、まだ微かに残っていた。「寝るか」浩人が、胸のほうで呟く。「……ああ」返事をしながら、わずかに顎を引く。彼の胸に額を押し当てると、体温と、心臓の音が近くなった。トン、トン、と一定のリズムで刻まれる音。寺の鐘と違って、誰かに聞かせるためのものではない。誰にも聞かせる必要のない、ただ生きているというだけの音だ。それを耳の奥で聞きながら、隆寛は目を閉じる。部屋の空気はほのかに暖かい。暖房を切ったあとに残る熱と、二人分の体温が混ざりあって、布団の中をゆっくりと満たしている。薄いカーテンごしに、外のビルの灯りが、ほんのわずかに網目の影を作っているのが分かった。マンションの外には、別の生活の灯りが点々と浮かんでいるのだろう。遅くまで起きている家のリビング。コンビニの看板。タクシーのヘッドライト。街全体の、そのどれもが、自分とは関わりの薄い明かりだ。けれど、この部屋の小さな暗闇と、スタンドライトの余韻と、耳の一点に残る熱だけは、はっきりと自分に繋がっている。「炎は燃やせ、と教えられてきたのにな」ぼんやりと、そんなことを思う。護摩行の堂で初めて火を見た夜を、身体はまだ覚えている。炎は、迷いも欲も執着も、全部飲み込むためのものだと、上座に座った老師が静かに言った。燃やしてしまえ。手放してしまえ。
暗闇に慣れた目には、天井の境目がぼんやりと浮かんでいた。スタンドライトはさきほど消した。代わりに、カーテンの隙間から、向かいのマンションの非常灯がかすかに差し込んでいる。その薄い光が、部屋の中の輪郭を、最低限だけ保っている。布団の中は、まだ温度の名残を抱えていた。さっきまで絡み合っていた体温が、少し落ち着いて、ぬるい湯に浸かっているような感覚だけが残る。隆寛は横向きになり、枕に頬を半分埋めていた。背中側には、浩人の胸の厚みと呼吸がある。ゆっくりと上下する胸板が、僧衣の下では絶対に感じない、生活のリズムを伝えてくる。耳たぶのあたりに、さきほどから同じ温度が留まり続けている。浩人の指が、左耳の縁をなぞり、ピアスホールの周りを細い円を描くように動くたび、つい肩が小さく跳ねた。「……っ」無意識のうめきが、喉の奥から漏れる。抑えようとしても、完全には抑えきれない。息を飲み込むたび、喉の奥が熱くなる。耳を触られているだけなのに、躯の奥のほうで、別の記憶が微かに目を覚ましてしまう。大学の頃の夜。護摩行堂の炎の前。山門の庇の下。色の違う夜が、全部この一点に重なっている。「まだ起きてるだろ」後ろから、低い声が落ちてきた。「……起きてる」「返事がえらい素直だな」「疲れてるんだよ」「耳だけ、元気そうだけどな」「うるさい」言葉ほどの力は、自分の声には乗っていない。自覚はある。だからこそ、余計に腹が立つ。指が、ピアスホールの縁を軽く押した。透明な樹脂ごしに、そこだけ少し固い感触がある。剃髪した頭皮を撫でられるのには慣れた。僧侶になってからずっと、親類や檀家の子どもたちに、面白がって触られることもあった。それはそれで恥ずかしいが、耐えられないものではない。けれど、左耳だけは違う。ここに触れていい手を、自分は一人分しか想定していない。「お前さ」浩人の指先が、いったん動きを止める。「こっち向
電子レンジの「チン」という軽い音が、ニュースキャスターの声にかぶった。リビングのテーブルの上には、買ってきた総菜を温め直した皿と、簡単に炒めた野菜、味噌汁代わりのスープ。食べ終わったあとに残るのは、箸を乗せたままの小皿と、半分ほど口をつけたグラスだけだった。テレビの画面では、週末恒例の経済ニュースが流れている。株価だとか為替だとか、難しい言葉が並んでいるのを、隆寛は横目で眺めながら、ソファの背にもたれて息を吐いた。「歩君、遠足どこ行くんだっけ」隣で缶ビールを持ち上げながら、浩人が何気なく問う。「市内の科学館と、自然公園。お弁当持って」「お、がっつりコースだな。バス酔いしないか」「乗り物には強いみたい。こないだの社会見学も平気だったって」「さすが寺の子。肝が据わってる」くす、と笑いがこぼれる。テーブルの上のグラスからは、ほのかにウイスキーの香りが立ちのぼっていた。氷はほとんど溶けて、薄くなった液体が喉の奥を温める。浩人は、ビール缶を指先でくるりと回しながら、テレビとグラスと隆寛の横顔を、順番に眺めているようだった。「で、その遠足の紙を、また寺務所の机の上に山積みにしてんだろ」「…よく知ってるな」「だってお前、プリント類すぐ溜めるじゃん。大学の頃から」「昔の話、掘り返すな」軽く肩でぶつかると、浩人の身体が、わざとらしくぐらりと傾いた。「いってー。暴力反対」「うるさい」二人の声の上を、キャスターの抑揚のない言葉が通り抜けていく。海外のニュース映像。どこかで暴動が起きているらしい。画面の中で、煙と人の影が揺れる。ここは、静かだ。エアコンの低い駆動音と、冷蔵庫の奥で何かが動く音と、ビル風が窓をなでる気配。マンションの上階からは、誰かの足音が遠くに響く。「会社は」隆寛が、グラスを指で回しながら尋ねる。「相変わらず。決算前でバタついてる」「部下の人たち、大変だな」
ランドセルの金具が鳴る、乾いた音がした。庫裏から廊下に出たところで、隆寛はふと足を止める。春から初夏へと移るこの時期、慶林寺の空気は少し湿りを帯びながらも軽く、その中を、小さなスニーカーの足音がせわしなく行き来していた。山門のほうへ向かっていく足音と、すぐに折り返してくる足音。それから、なぜか廊下の角で一度止まり、また走り出す気配。階段を数える小さな声も、風と一緒に聞こえてくる。「いち、に、さん……あれ、さっきと数違う…」声変わりにはまだ遠い、高い声だった。寺務所に戻る前に、と廊下の突き当たりから玄関のほうを覗くと、ランドセルを背負ったままの少年が、本堂の石段を上り下りしている。額にはうっすらと汗がにじみ、黒い髪がまだらに光を受けていた。段の数を数えるたびに、指が折られ、また伸ばされる。時々、何段目か分からなくなっては、ふう、と大げさなため息が落ちる。「歩」呼びかけると、その小さな背中がぴたりと止まった。振り返った顔が、ぱっと明るくなる。「隆寛兄ちゃん」ランドセルの肩ひもを直しながら、歩が駆け寄ってくる。靴底が石畳を叩く音が、以前よりもこの境内に馴染んで響いた。「おかえり。今日は、早いな」「うん。今日は委員会なくて。帰り道で桜のとこ寄ってきた」「川沿いのか」「そう。花びら、もうほとんど落ちてたけど…でも、なんか、全部散っちゃう前の匂いって感じした」言葉を探すように眉をひそめる姿が、どこか泰然に似ている。歩の肩から、ランドセルをそっと受け取る。ずしりとした重みが掌に移る。教科書とノートと、筆箱と、まだ何かこっそり詰め込んでいるような不揃いな重さ。「とりあえず、荷物置いてきなさい。宿題は」「九九のテスト返ってきた」「どうだった」「……八の段、まちがえた」語尾が少し小さくなる。ランドセルの中からしわくちゃになっ
風が鳴っていた。窓ガラスの向こうで、何か大きな手がガタガタと揺さぶっているみたいに、サッシが時折小さく震える。そのたびに、薄いカーテンがふわりと膨らんでは、しぼむ。部屋の照明は落としてあり、ベッド脇のスタンドライトだけが灯っていた。オレンジがかった柔らかな光が、シーツの皺と、肌の輪郭をゆっくりなぞる。一度目の熱が、ようやく落ち着いていた。汗の残り香と、シャワーの石鹸の匂いが混ざった空気の中で、隆寛は横向きに寝転び、枕の高さを少し変えた。視線を動かせば、すぐそこに、同じように横になった浩人の肩が見える。胸と背中の間に挟まれた布団が、二人分の体温でじんわりと温まっていた。冬の夜、外の風の音を聞きながら布団の中にいると、自分たちのいる場所だけが、世界から少し浮いているような気がする。呼吸は、まだほんの少しだけ速い。喉の奥に、さっきまでの声の名残がかすかに貼りついている。耳の付け根が、触れられたところだけ少し熱を持っているように感じた。枕の端に額を預けながら、隆寛は静かに息を吐く。布団の中で、浩人が腕を動かした。隆寛の腹あたりに置かれていた手が、ゆっくりと腰に回ってくる。手のひらの重みと指の長さが、皮膚越しに馴染んだ感触を刻んだ。「…寒くないか」低い声が、すぐ近くから落ちてくる。「平気」隆寛は答えた。「そっちこそ。窓、うるさくないか」「風が勝手に騒いでるだけだろ」浩人は、そう言って鼻で笑う。窓ガラスが、タイミングを見計らったように、また小さく震えた。揺れる音が、静けさを一瞬だけくぐり抜けていく。仕事の話をしていた。会社の今年の人事異動の噂。部署の若い子が、海外出張を喜んでいること。檀家の子どもが、志望校に受かったという報告が最近増えてきたこと。そんな、どこにでもあるような話題を、ただ交わしていた。話しながらも、お互いの身体の位置はほとんど変わらない。腕の置き方や、足の絡み方が、さっきまでの激しさから、一つずつ落ち着いた形に変わっていく。やが
油のはぜる音と、味噌汁の湯気が、庫裏の台所にやわらかい膜を張っていた。千草は、揚げ網の上でころころと転がるコロッケをひとつひとつ箸でならしながら、鍋の火加減に目をやる。白い蒸気が、蛍光灯の明かりに照らされて、ふわりと天井近くにたなびいた。まな板の上には刻んだ葱、流しには洗いかけの青菜。味噌汁の鍋からは、わずかに煮干しと豆腐の匂いが立ちのぼる。寺らしい、どこか控えめで、でも確かに「家の匂い」がする夕方だ。廊下のほうから、足音が近づいてくる。木の床板が、一枚一枚かすかに鳴った。聞き慣れた足音だった。歩幅と、足を運ぶときの重さの置き方で、誰かはすぐに分かる。千草は、揚げ油から少しだけ顔を上げた。「母さん」扉口から顔を覗かせた隆寛が、控えめに声を掛ける。僧衣の上に、紺色のダウンジャケットを羽織っている。いつもの寺の姿と、外の世界に出ていく準備をした姿が、半分ずつ重なった格好だ。「今夜も、少し出てきます」以前よりずっと自然な調子だった。申し訳なさの色を薄めたような、穏やかな言い方。「はいはい」千草は、手を止めずに返事をする。「浩人さんによろしくね」揚げたてのコロッケを一つ持ち上げ、油を切りながら口にしたその言葉は、もう、ほとんど挨拶と同じくらい決まりきったものになっていた。隆寛が、わずかに目を瞬く。「…分かってるのか」そんなことを口に出すはずもなく、代わりに小さく笑った。「分かりました」「遅くなりすぎないようにね」「気をつけます」短いやりとりの間にも、油は淡々と音を立て続けている。寺の生活は、誰がどこへ出かけようと、いつもどおりの時間を刻んでいた。隆寛が廊下に戻る足音が遠ざかり、玄関のほうで靴を履く気配がする。千草は油の火を少し弱めてから、ふと手を止めた。菜箸の先から、油がぽたりと一滴落ちる。「浩人さん」自分がさっき、どれほど自然にその名前を口にしたかを、ようやく意識する。