LOGIN庫裏の廊下には、人の気配が薄かった。
静かで、凍った空気が張りつめている。 外からの風は届かず、障子越しの冬の日差しだけが細く差し込み、床に淡い光の帯をつくっていた。その光の帯を踏まないように歩いていたときだった。
角を曲がった先で、浩人は息を止めた。隆寛が、そこにいた。
僧衣の襟元を整え、控えめに息を整えているような姿。
穏やかな光が彼の頬を照らし、剃髪した頭に柔らかく反射していた。五年前、長い前髪を指で払って見せた男は、
今、白い光の下で僧侶として立っている。距離は三歩。
それなのに、手を伸ばしても届かないほど遠い。隆寛はこちらに気づき、ほんの一瞬だけ肩が揺れた。
だがすぐに、僧侶の仮面を被り直すように姿勢を整えた。「……野上さん」
低く、柔らかい声。
けれど、その柔らかさは近づくためのものではなく、距離を守るためのものだった。隆寛は小さく頭を下げた。
「今日はわざわざ……その……ありがとうございます」
完全な敬語。
呼吸は整っているはずなのに、言葉の端だけがかすかに震えていた。浩人はその震えを拾い上げてしまう。
「……礼なんて、いいんだよ」
一歩、足が前へ出た。
隆寛の眼差しが、一瞬だけ揺れる。「話したい。少しだけでいい」
その言葉に、隆寛の呼吸が静かに止まった。
僧衣の袖が微かに揺れる。 動揺が目ではなく、身体の端に浮かび上がった。「……今は、僧侶として……お答えできることは…あまり」
その“今は”という言い方が、余計に浩人の胸を締めつける。
俺と関わりを断とうとしている。
なのに―― 心までは断ち切れていない。そう確信した瞬間だった。
僧衣の襟元がわずかに動き、隆寛が角度を変えたことで、
耳が光の帯に照らされた。そこに――
小さく残るピアスホールがあった。
隆寛が大学時代、浩人に開けさせたその穴。 別れた後も、修行中も、消えることなく残されていた穴。浩人は、その一点に視界を奪われた。
(……残してる。
あの穴……まだ、埋めてない。)脈が跳ねた。
鼓動が胸の奥で大きく膨らんでいく。肌に刻まれた痕跡。
消すことのできない証拠。 触れていないのに、触れているより鮮明に、その意味が突きつけられる。“隆寛は、完全には離れていない。”
喉が熱くなる。
冷たい廊下の空気が、逆に内側の熱を浮き上がらせた。一方の隆寛は、浩人の視線の先に気づいたのか、
ほんの一瞬、顔をそむけた。 剃髪した頭皮が照明を反射し、その動揺を隠せていない。「……あの、今日は…本当にお気持ちだけで十分です。
どうかお気をつけて」言葉は整っている。
だが、足の動きは整っていなかった。隆寛は言葉が終わると同時に、廊下の奥へ向けて歩き出した。
足取りは静かで、僧衣の裾がかすかに音を立てる。けれど、その歩みには焦りの色があった。
僧侶の威厳を保とうとする一方で、 逃げるように距離を取ろうとする足の速さ。浩人は、微かに唇を歪めた。
逃げている。
俺から。 俺たちの過去から。 自分自身の感情から。だから分かる。
まだ終わってない。
絶対に。廊下の冷えた空気の中で、浩人はその確信を胸の奥に沈めた。
隆寛は、僧侶の衣をまとってもなお、
その中に“昔の隆寛”を隠しきれていない。ピアスホールが、その証拠だった。
浩人は、彼の背中が廊下の奥に消えていくまで、静かに見つめていた。
抑え込んでいた鼓動は、もう隠しようがないほど大きく跳ねている。あの穴一つで、
五年分の距離が一気に熱へと変わってしまう。そしてその熱は――
隆寛にも届いていると、浩人は確信していた。逃げられるなら逃げればいい。
だがいずれ、向き合わざるをえない。その瞬間が、必ず来る。
浩人は廊下の冷気を深く吸い込み、
ゆっくりと吐き出した。心は騒がしい。
なのに、足元だけは確かだった。その全ての始まりが、
隆寛の耳に残る、小さな小さな穴に過ぎなかったことが、 皮肉で、愛しくて、どうしようもなかった。深夜の空気は乾ききっていて、窓の外にはほとんど人の気配がなかった。街灯の光だけが細い筋となって部屋の壁を撫で、そこに散らばるプリントや参考書の影を淡く揺らしていた。試験前の追い込みでは、誰もが机にかじりつき、時間を惜しむように文字を追うはずだった。しかし浩人の部屋には、紙の音よりも、二人の呼吸のほうが濃く滞っていた。机の上にはノートが広がり、蛍光ペンのキャップがいくつも外されたまま転がっている。隆寛はページに視線を落としたまま、途切れるように文字を追い、鉛筆の先が紙の上を小さく震えていた。肩に落ちる影は疲れを隠しきれず、けれどその影の奥には、別の理由で乱れた呼吸が潜んでいた。浩人はソファ代わりのベッドに腰を下ろし、手元の教科書を開いていたが、ほとんど頭に入っていなかった。ページをめくる指先が紙を擦る音よりも、机に座る隆寛のかすかな息遣いのほうが気になって仕方がない。少しでも動けば、その気配は敏感に揺れる。まるで互いの呼吸が見えない糸で繋がれているようだった。「なあ、休憩しないか」浩人が低く声をかけると、隆寛は動きを止め、ゆっくり顔を上げた。目の下にうっすらと影が差し、集中していたはずなのに、そこには別の疲労が滲んでいた。「…いや、まだやらないと。今日は本当に時間がない」そう言いながらも、隆寛は筆を握る手に力を入れきれず、指先がわずかに震えていた。浩人はその揺れを見逃さない。「徹夜で乗り切る気か。お前、絶対途中で潰れるぞ」「潰れても、やるしかない」言葉は強いのに、声が弱かった。浩人は本を閉じ、ゆっくり立ち上がる。足音を立てぬよう隆寛の背後へ歩き、肩越しに覗き込むと、細かい文字が隙間なく並んだページに目が走っている。しかし、その目は活字ではなく、何か別のものに怯えるように揺れていた。そっと肩に触れると、隆寛は微かに震えた。「…今日はやめようって言っただろ」浩人が囁くと、隆寛は痛むように眉を寄せた。「言った。けど…」言葉は続かない。続けられない。肩に乗った浩人の手の熱が、隆寛の理性より先に
レポートの山が机の端に積まれ、浩人の部屋には紙の擦れる乾いた音と、夕方の光がゆっくりと伸びていた。窓の外では沈みかけた陽が淡い橙を散らし、街のざわめきが遠くに薄れていく。静けさはあるが、完全な無音ではない。冷蔵庫のモーターが低く唸り、エアコンが息を潜めるように風を送り出す。その些細な音の中に、二人の呼吸が混ざり合っていた。浩人は筆記用具を指先で転がしながらプリントに視線を落とし、隣に座る隆寛の横顔を盗み見る。光に透けた睫毛の影が頬に降り、長い指先が淡々と資料の行を追っている。口元は真面目な線を保っているのに、ほんの少しだけ、どこか緩んで見えた。さっき、玄関で軽く唇を触れた余韻が残っているのを、浩人は薄々感じていた。隆寛がページをめくる。紙が空気を切る小さな音とともに、沈黙がまた一段深くなる。喉を鳴らし、浩人は手元のペンを置く。「なあ」声をかけた瞬間、隆寛が横目でゆっくり振り向く。その動きだけで胸が軽く跳ねるような感覚が走る。光が揺れ、隆寛の瞳に夕日の欠片が映った。「ちょっとだけ、いいか」隆寛の眉が緩く動いた。問いの形をしているのに拒絶がまったくなく、むしろ待っていたと言わんばかりの柔らかさがあった。浩人はその反応に呆れるほど弱いと自覚しながら、指先でそっと隆寛の顎を持ち上げた。わずかに触れただけで、隆寛の呼吸が浅くなる。唇が触れ合うと、静かな部屋に微かな音が沈んだ。軽いキスのはずだった。だが触れた瞬間、隆寛がほんのわずかに目を閉じ、浩人の指に頬を預けてくる。その温度が、浩人の中の何かを簡単に壊す。唇を離した後も、隆寛はゆっくりと目を開けるだけで何の言葉も発さない。問いかけのようで、許しのようでもある沈黙。浩人は息を吐き、少し笑った。「すぐ触りたくなるんだよ、お前」隆寛は驚いたように瞬きし、それから視線を落とした。照れ隠しのように紙を整えようとするが、その指先がわずかに震えている。「……課題、終わらなくなるぞ」掠れた声が落ちる。責めているわけではない。むしろ、もっとしてもいいと言っているように聞こえてしまう。浩人の胸の奥がひどく熱くなる。
朝の光は、カーテンの隙間から細くこぼれ、床に淡い帯をつくっていた。冬に向かう前の、まだやわらかい陽射しだった。ワンルームの狭さは、その光を窮屈に跳ね返しながらも、どこか安心できる密度を持っている。隆寛は、シーツに頬を押しつけたまま、ゆっくりと目を開けた。枕に残った微かな匂いは、何度も嗅いだことのあるものだ。洗剤の残り香と、乾いた空気と、浩人の肌の匂いが混ざった、ここにしかない匂い。天井が見える。見慣れた白い板と、蛍光灯の細長い影。ここは自分の部屋じゃない、という認識はある。けれど、その事実に焦ることもなくなっていた。視線を横に向けると、空になったマグカップが机の端に置かれているのが見えた。昨日の夜、課題をやりながら飲んだコーヒーの名残りだ。その隣には、自分の教科書とノートが積み上がっている。ページの端には、浩人の字で書き込まれたメモが混ざっていた。布団の隙間から腕を伸ばし、枕元を探る。指先に、柔らかい布の感触が触れた。昨夜脱いだ自分のパーカーだった。タグの部分が、こちら側に向いている。袖をつまんだまま、隆寛はぼんやりと考える。これも、何日目か分からない「置きっぱなし」の一つだ。最初に置いていったのは、替えのシャツだった。徹夜明けにそのまま大学へ行くのがしんどくて、一枚だけ「忘れて」行った。翌週、取りに来るつもりだったのに、結局そのままになった。その次は、スウェットの下。それから、靴下の予備が一足。歯ブラシは二本立てておくほうが自然になった。机の端には、自分用のマグカップが増えた。一つ一つは些細なものだ。ここが自分の部屋ではないという前提を崩すほどの重さはない。けれど、気づけばこの空間のどこを見ても、自分のものが視界に入るようになっていた。忘れていった、というより、置いていかれてたものたち。布団から上半身を起こすと、肩にかけた毛布がずり落ちた。ひやりとした空気が肌に触れ、隆寛は無意識に腕をさする。キッチンのほうから、音がした。湯を沸かす
夜明け前の気配は、窓の隙間からゆっくりと部屋に滲み込んでいた。薄いカーテン越しの光にはまだ色がなく、青とも灰ともつかない淡さで、乱れたベッドの縁をかろうじて縁取っているだけだった。卓上灯は消されていて、しばらく前まで二人の肌を照らしていた光はもうない。残っているのは、熱と、浅い呼吸と、夜の余韻だけだった。シーツはぐしゃぐしゃに寄れている。その皺の中に、さっきまでの動きが刻み込まれているように見えた。隆寛は、仰向けになりきれず、浩人の胸にもたれるような体勢になっていた。片方の頬が、浩人の裸の胸板に触れている。肌の下でゆっくりと刻まれる鼓動を、耳の奥で聞いていた。耳たぶが、じくじくと痛んだ。そこだけ異様に鮮明で、そこだけが夜の中で覚醒している。新しく通されたシルバーのリングが微かに触れ合うたび、チリ、と小さな電流みたいな痛みが走る。その痛みが、先ほどの選択を何度でも思い出させた。刻まれた証。その言葉が、頭の奥で静かに浮かんでは沈んだ。胸の奥は、満たされていた。自分の輪郭がやっとどこかに定着したような、そんな感覚。見失いそうだったものに、今夜、はっきりと境界線が引かれた。その境界が、浩人の腕の中にある。それが、怖かった。満たされているのに、怖い。失うことを考えた瞬間、呼吸が苦しくなる。浩人の腕が、隆寛の背中にしっかりと回っていた。逃がすつもりのない、拒絶を許さない、そんな強さ。けれど締めつけるほどではない。むしろ、ここから落ちていかないように支えるみたいな力加減だった。汗のにじんだ肌と肌が、ところどころまだ離れずにくっついている。胸のあたり、脇腹、太ももの側面。触れている部分すべてに、ぬるい熱が残っている。どこまでが自分の体温で、どこからが浩人の体温なのか、もう分からなかった。隆寛は、浅く息を吸った。空気が冷たくて、喉の奥だけ少しひやりとする。吐く息は、浩人の胸元に当たって、跳
新しく通されたリングが軽く揺れた。耳たぶに残る熱と鈍い痛みが、じんじんと脈打つみたいに存在を主張してくる。隆寛は、小さく息を吐いた。胸の奥に溜め込んでいた緊張が、ようやく出口を見つけたように抜けていく。耳元をかすめる自分の呼気がやけに熱く感じられ、視界の端がふわりとにじんだ。「……ふー……」声にならない吐息が漏れる。肩から力が抜け、背中がわずかにベッドの縁へ預けられた。浩人は、その変化をすぐ目の前で見ていた。ピアッサーを机の端に置き、指先についた微かな赤をティッシュで拭いながら、視線だけは隆寛から離せなかった。卓上灯の光が斜めから差し込み、新しく開いた耳たぶを照らす。うっすら赤く腫れた皮膚と、そこに嵌めたシルバーのリング。さっきまでなかったものが、もう当たり前のようにそこに居座っている。自分のものにした、という感覚が、喉の奥で静かに熱を持った。隆寛が、ゆっくりと顔を傾ける。横顔が光のほうに向き、そのラインが浮き上がる。長いまつげの影が頬に落ち、薄く開いた唇からまた小さな息が漏れた。「……変な感じ」ようやくこぼれた言葉は、疲労と高揚が混ざったような弱さを含んでいた。浩人は、短く息を吸う。「痛むか」問いかけた声は、自分で思った以上に低く落ちていた。隆寛は、少し考えるように瞬きをしてから、小さく頷いた。「痛い……けど」そこで言葉が途切れる。途切れたあとの沈黙に、別の意味がにじんでいた。けど、嫌じゃない。そう続けられることを、浩人はなぜか確信してしまった。指先が勝手に動いた。リングのすぐ下、耳たぶの少し赤くなった部分へ、人差し指がそっと伸びる。「っ……」触れた瞬間、隆寛の肩がびくりと跳ね
深夜の空気は、課題を提出し終えたあとの気の抜けた静けさで満たされていた。張りつめていた緊張がすっと抜けるその瞬間は、毎回どこか宙に浮いたような感覚を伴う。けれど今夜は、それ以上の何かが二人のあいだに漂っていた。卓上灯だけがついたままの部屋は、薄い光と濃い影を交互に刻んでいる。缶コーヒーの空き缶がベッド脇の机に二本並び、深夜までの作業の痕跡がそのまま残っていた。隆寛は、背筋を伸ばしたあと、軽く首を回した。緊張が解けた身体には、疲労のぬるい重さが残っている。浩人は机に寄りかかるようにして座り、息をゆっくり吐いた。深夜の空気が、わずかに肌を冷やす。その時だった。隆寛の視線が、浩人の左耳に向いた。黒髪の間からのぞく、小さな黒いリングピアス。いつもさりげなく揺れていて、隆寛にとっては“浩人そのもの”のような象徴だった。視線がそこに吸い寄せられたことを自覚する頃には、もう口が動いていた。「……耳、開けてみたい」言った瞬間、隆寛自身が驚いた。声は静かで、深夜の空気に吸い込まれるような弱さだった。浩人は、動きを止めた。数秒間、返事が来ない。沈黙が、影のように二人のあいだに落ちる。やがて、「……は?」短い声。しかし、その声には抑えきれない熱が滲んでいた。隆寛は視線を外さず、ゆっくり繰り返した。「耳、開けたい」浩人の喉が小さく動いた。卓上灯に照らされた横顔が、僅かに揺れた影の中で固まったように見えた。「……みはら、お前」言葉が続かない。それほど意外だった。それでも、数秒後に漏れた言葉は低く、深く、どこか支配する響きを持っていた。「任せろ」強く言ったわけではないのに、胸が震えるほどの確信があった。