All Chapters of 辺境の狼は、虐げられた白百合を娶る ~没落令嬢と成り上がり英雄の復讐協奏曲~: Chapter 21 - Chapter 30

49 Chapters

第21話 解かされる呪縛

 辺境伯の城での日々は、静かに、しかし着実にセレスティナの内なる世界を変えていった。 彼女に与えられた部屋は、華美ではないが清潔で、窓からは鉛色の空だけでなく、遠くに連なる山々の稜線まで見渡せた。毎朝、侍女のマルタが温かい食事を運び、夜には湯浴みの準備が整えられる。それは、彼女が罪人として全てを失ってから初めて経験する「人間らしい生活」だった。 最初の数日、セレスティナはまるで客人のように、部屋の中で息を潜めて過ごした。ライナスはあの日以来、彼女の前に姿を現さない。その不在は、彼女を安堵させると同時に、得体の知れない不安をかき立てた。あの男は、自分をこの城に連れてきて、一体どうするつもりなのだろうか。彼の言った使えるという言葉の意味を、彼女は測りかねていた。 変化のきっかけは、侍女のマルタがもたらした。 ある日の午後、マルタはいつものようにセレスティナの食事を運んできた後、部屋を出て行かずに、彼女の前に一つの包みを置いた。「閣下からです」 無愛想な口調はいつもと変わらない。包みを開けると、中から出てきたのは数冊の真新しい本と、上質な羊皮紙、そして羽ペンとインクのセットだった。 本。その文字を見た瞬間、セレスティナの心臓が、とくん、と大きく鳴った。 彼女は、震える指でその本を手に取った。それは、薬草学に関する専門書と、この辺境の地方史について書かれた書物だった。「閣下は、貴女様の知識が必要だとおっしゃいました。ですが、今の貴女様は、まるで翼をもがれた鳥のようだ、と。再び飛ぶためには、まず翼を休め、そして使い方を思い出す時間が必要でしょう」 マルタは淡々と、しかしその言葉の端々に、わずかな温かみを滲ませて言った。「書庫は、いつでもお使いください。必要な書物があれば、私が取り寄せます」 それだけ言うと、マルタは一礼して部屋を出て行った。 一人残されたセレスティナは、ただ呆然と、手の中の本を見つめていた。 ライナスが、これを。 彼の意図が分からない。自分を駒として使うのなら、なぜこのような配慮を見せるのか。彼の行動は、常に彼女の予測を超えてくる。 だが、今は彼
last updateLast Updated : 2025-08-22
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第22話 狼の作法

 ライナスの執務室に、張り詰めた沈黙が落ちていた。 側近であるギデオンがもたらした、中央の役人たちの私兵との乱闘騒ぎ。それは、単なる酒場の喧嘩ではなかった。辺境伯という新たな権力に対する、旧来の権力からの明確な挑発であり、侮辱だった。 ギデオンは、主であるライナスの決断を待っていた。その顔には「今すぐ奴らを叩き潰すべきです」という、武人らしい直情的な怒りが浮かんでいる。辺境伯の威信を傷つけられたのだ。武力をもって報復し、鉄狼団の力を改めて見せつける。それが、彼らにとって最も分かりやすい解決策に思えた。 だが、その沈黙を破ったのは、予想もしない人物だった。「閣下。その件、私に一つ、考えがございます」 静かだが、凛と響く声。声の主は、これまで部屋の隅で薬草園の計画図を広げていたセレスティナだった。 ライナスとギデオンの視線が、一斉に彼女に注がれる。その視線には、純粋な驚きが宿っていた。これまで彼女は、辺境の統治や軍事に関しては、あくまで助言者の立場に徹し、自ら積極的に口を挟むことはなかったからだ。 セレスティナは、二人の視線を臆することなく受け止めると、静かに立ち上がった。そのすみれ色の瞳には、書物を読んでいる時の知的な輝きとは違う、もっとしたたかで、冷たい光が宿っていた。それは、貴族社会の欺瞞の中で育った者だけが持つ、独特の光だった。「力には、力で応じるだけが能ではありません」 彼女は、ゆっくりと、しかし確信に満ちた口調で続けた。「時には、法と、作法で相手を縛ることもできます。彼らは中央の貴族社会の人間。ならば、彼らが最も嫌うやり方で、その鼻を明かしてやるのです」「作法、だと…?」 ギデオンが、訝しげに眉をひそめた。彼の生きてきた戦場では、作法など何の役にも立たない。敵を斬る剣の腕と、仲間を守る盾の硬さこそが全てだった。 セレスティナは、そんな彼の反応を予測していたかのように、小さく頷いた。「ええ。彼らは、閣下や鉄狼団の方々を『平民上がりの蛮族』と見下しています。だからこそ、酒場の喧嘩のような、野蛮な挑発を仕掛けてきた。彼らは、こちらが同じように、力で反撃してくるのを待ってい
last updateLast Updated : 2025-08-23
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第23話 巣の温もり

 中央の役人たちへ使者を送り出した後、城の中には奇妙な静けさが戻っていた。セレスティナが提案した策がどのような結果をもたらすのか、その答えが届くまでにはまだ数日を要する。その間、彼女は再び書庫での調査に没頭する日々を送っていた。 辺境伯の城での生活は、静かに、しかし着実に彼女の内なる世界を変えつつあった。 毎朝、侍女のマルタが運んでくる温かい食事。夜には必ず用意される湯浴み。清潔な寝台と、風の吹き込まない部屋。その一つ一つが、彼女が罪人として全てを失ってから初めて経験する「人間らしい生活」だった。 当初、セレスティナはこの過剰とも思える厚遇に戸惑い、まるで客人のように部屋の中で息を潜めて過ごしていた。ライナスはあの日以来、彼女の前に姿を現さない。その不在は彼女を安堵させると同時に、得体の知れない不安をかき立てた。あの男は自分を駒として使うと言った。ならば、なぜこのような配慮を見せるのか。彼の行動は常に彼女の予測を超えてくる。 変化のきっかけは、些細な日常の中にあった。 ある日の午後、いつものようにマルタが食事を運んできた。無愛想な口調と、能面のような表情はいつもと変わらない。だが、セレスティナが食べ終えた食器を下げようとした時、マルタは珍しくその場に留まり、一つの包みをテーブルに置いた。「閣下からです」 またか、とセレスティナの心臓が小さく跳ねる。以前、彼が与えてくれた書物と筆記用具は、彼女の凍てついていた知的好奇心を呼び覚ますきっかけとなった。今度は一体何だろうか。 包みを開けると、中から出てきたのは上質な羊毛で織られた、手触りの良いショールだった。色は、彼女の瞳を思わせるような、落ち着いたすみれ色。「書庫は、夜になると冷えます故。閣下が、貴女様の健康を案じておられました」 マルタは淡々と、しかしその言葉の端々に、ごくわずかな温かみを滲ませて言った。「閣下は、貴女様の知識は辺境の宝だとおっしゃいました。宝は、大切に扱わねばならん、と」 それだけ言うと、マルタは一礼して部屋を出て行った。 一人残されたセレスティナは、ただ呆然と、手の中のショールを見つめていた。 ライナスが、これを。
last updateLast Updated : 2025-08-24
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第24話 芽生えの音

 ライナスから贈られた古代薬草学の稀覯書は、セレスティナにとって何物にも代えがたい宝物となった。彼女はそれからの数日間、食事の時間も忘れるほどその書物の解読に没頭した。インクの匂い、古い羊皮紙の滑らかな感触、そしてそこに記された先人たちの知の軌跡。その一つ一つが、彼女の乾ききっていた魂を潤し、生きる喜びそのものを思い出させてくれるようだった。 すみれ色のショールを肩にかけ、一心不乱に書物を読み解く彼女の姿は、もはや絶望に打ちひしがれた「人形令嬢」の面影をどこにも留めていなかった。その横顔は真剣そのもので、時折、難解な一節の意味を解き明かした瞬間に見せる、花が綻ぶような微笑みは、この殺風景な城の中に、思いがけない彩りを添えていた。 侍女のマルタは、そんなセレスティナの変化を、いつもと変わらぬ無表情の裏で静かに見守っていた。彼女が食事を運んでいっても、セレスティナが気づかずに読書に集中していることがある。以前のマルタであれば、構わずに食器を置いて立ち去っただろう。だが、今の彼女は、セレスティナがキリの良いところまで読み終えるのを、部屋の隅で辛抱強く待つようになっていた。その厳格な横顔に浮かぶ表情は、主君の「宝」を見守る、忠実な番人のようでもあった。 数日後、ライナスの命を受けて薬草の調査に向かっていた部隊が城に帰還した。彼らはセレスティナが古文書から読み解いた通り、山麓の特定の場所に、熱病に効果のあるリンドウの一種が群生しているのを発見したと報告した。その報せは、すぐにセレスティナの耳にも届けられた。 自分の知識が、机上の空論ではなく、現実に人々を救う力となる。その確かな手応えに、彼女の心はこれまで感じたことのない高揚感で満たされた。 彼女は、じっとしてはいられなかった。その日の午後、彼女はライナスの執務室の扉を、自らの意志で初めて叩いた。「閣下、失礼いたします」 中で書類の山と格闘していたライナスは、彼女の突然の訪問に、わずかに驚いたように金色の目を上げた。「どうした」「薬草の件です。自生地が見つかった以上、次はその栽培方法を確立すべきかと存じます。つきましては、城の中庭の一角をお借りし、試験的な薬草園を作る許可をいただきたく…」
last updateLast Updated : 2025-08-25
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第25話 気高き魂

 辺境伯の城での日々は、静寂に満ちていた。 セレスティナに与えられた部屋の窓からは、雪に覆われた城下と、その向こうに広がる荒涼とした大地が見渡せる。それは彼女が数日前までいた世界と地続きでありながら、今は分厚いガラス一枚を隔てた、遠い世界の風景のよう。 温かい食事、清潔な寝具、そして風の吹き込まない部屋。失われた人間としての尊厳が、一日一日と、ゆっくりと修復されていくのを感じる。侍女マルタの無愛想だが実直な世話も、今では心地よい距離感に思えた。 だが、その穏やかな日常は、セレスティナの心を完全には癒さなかった。むしろ、体の傷が癒えるにつれて、心の混乱はより深い場所で渦を巻き始めていた。 辺境伯、ライナス。 あの男の存在が、彼女の思考の中心を占めて離れない。 路地裏で絶望の淵にいた自分を救い出した、圧倒的な力。有無を言わさず、この城へ連れてきた独善的なまでの支配力。そして、その一方で示される、不可解なまでの優しさ。 彼は自分を「使える」と言った。その言葉は、冷たい刃のように彼女の胸に突き刺さったままだ。駒として、道具として、自分に価値を見出したに過ぎない。そう頭では理解しようとする。だが、夜中に届けられた毛布の温もりや、彼女の知識を「宝」と称したマルタの言葉が、その単純な結論を許さなかった。 あの男は、一体何を考えているのか。自分を、どうするつもりなのか。 その答えを得られない限り、この城での生活は、見えない鎖に繋がれた、居心地の良い牢獄と何ら変わりはなかった。 このままではいけない。 あの日、父の無念を晴らすと誓ったはずだ。この男に利用されるにせよ、されるがままの駒で終わるつもりはない。そのためにはまず、敵であり、主であり、そして恩人でもある、あの男の真意を知らねばならなかった。 セレスティナは、静かに決意を固めた。 その日の夕刻、彼女はマルタにライナスの居場所を尋ねた。マルタはわずかに驚いた表情を見せたが、すぐにいつもの無表情に戻ると、「閣下は、おそらく執務室におられます」と短く答えた。 セレスティナは、一度だけ深呼吸をすると、彼の執務室へと向かった。重厚な木の扉の前に立ち、心臓が早鐘を打
last updateLast Updated : 2025-08-26
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第26話 「蛮族」の作法

 城での生活が始まってから数日が過ぎた。 セレスティナに与えられた部屋は、彼女の心の傷を癒すには十分すぎるほどの静けさと温もりに満ちていた。毎朝、侍女のマルタが運んでくる温かい食事。夜には必ず用意される湯浴み。清潔な寝台と、風の吹き込まない部屋。その一つ一つが、彼女が失いかけていた人間としての感覚を、ゆっくりと取り戻させてくれた。 路地裏で受けた傷は、手厚い看護のおかげで日に日に薄れていく。だが、体の傷が癒えるにつれて、心の混乱はより深く、複雑な様相を呈し始めていた。 辺境伯、ライナス。 あの男の存在が、彼女の思考の中心を占めて離れない。 彼は、自分をこの城に置く理由を「使えるからだ」と言い放った。その言葉は、冷たい刃のように彼女の胸に突き刺さったままだ。駒として、道具として、自分に価値を見出したに過ぎない。そう頭では理解しようとする。だが、その一方で示される、不可解なまでの配慮が彼女を混乱させた。 上質な毛布、栄養のある食事、そして彼女の知識を試すかのような、書物の差し入れ。それらは、ただの駒に対する扱いとしては、あまりに過分だった。 あの男は、一体何を考えているのか。自分を、どうするつもりなのか。その答えを得られない限り、この城での生活は、見えない鎖に繋がれた、居心地の良い牢獄と何ら変わりはなかった。 その日の夕刻、マルタがいつものように食事を運んできた後、珍しく部屋に留まり、セレスティナに告げた。「セレスティナ様。今宵は、閣下が食堂でお待ちです。幹部の者たちとの食事に、同席なされるように、と」「…わたくしが、ですか」 思わず、セレスティナは聞き返した。鉄狼団の幹部たちとの食事。それは、想像しただけで身がすくむような光景だった。あの武骨で、粗野な男たちの中に、自分一人が混ざるというのか。「閣下のご命令です」 マルタは、それ以上は何も言わず、ただセレスティナが身支度を整えるのを待っていた。その無表情の裏には、拒否は許さないという、鋼のような意志が感じられた。 セレスティナは、諦めて頷くしかなかった。ライナスの命令は、この城では絶対だ。そして、彼を知るためには、彼の率いる狼
last updateLast Updated : 2025-08-27
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第27話 書庫の再会

 辺境伯の城での日々は、奇妙な静けさに満ちていた。 セレスティナに与えられた部屋は、彼女がこれまで過ごしてきたどの場所とも異なっていた。牢獄の冷たさも、廃屋の寒さもない。だが、王都の公爵邸にあったような、華やかで人の温もりに満ちた場所でもなかった。そこにあるのは、無機質で、機能的なだけの空間。そして、窓の外に広がる、どこまでも続く灰色の空。 それはまるで、美しい鳥籠のようだと彼女は思った。安全で、飢えることも凍えることもない。だが、ここから一歩も出ることは許されない。ライナスが言った「保護」という言葉は、その実、丁寧な「軟禁」と何ら変わりはなかった。 侍女のマルタは、毎日決まった時間に食事を運び、湯浴みの世話をし、部屋を清潔に保った。その所作は完璧だったが、彼女の口から発せられる言葉は、業務連絡に必要な最低限のものだけ。セレスティナが何かを尋ねても、返ってくるのは「閣下のご命令です」という、短い返事だけだった。 ライナスは、あの日以来、一度も彼女の部屋に姿を現さない。その不在は、セレスティナを安堵させると同時に、得体の知れない焦燥感を募らせた。 彼は自分を「使える」と言った。ならば、なぜ何もしないのか。この鳥籠の中で、ただ生かしておくだけで、一体何の役に立つというのか。 何もすることがない時間は、嫌でも過去の記憶を呼び覚ます。父の無念、母の最後の言葉、そしてアランの裏切り。復讐を誓ったはずの心は、この何もない静寂の中で、再びその輪郭を失いかけていた。自分は結局、このまま飼い殺しにされるだけなのではないか。そんな無力感が、再び彼女の心を蝕み始めていた。 変化が訪れたのは、城での生活が始まってから、一週間ほどが過ぎた日の午後だった。 いつものように食事を運んできたマルタが、盆をテーブルに置いた後、部屋を出て行かずに、セレスティナの前に立った。「閣下より、伝言です」 その言葉に、セレスティナの心臓が小さく跳ねる。「『退屈しているのなら、書庫へ行くといい。必要なものは、そこにあるはずだ』とのことです」 書庫。 その単語を聞いた瞬間、セレスティナの心の中で、忘れかけていた何かが、微かに疼いた。 本。知
last updateLast Updated : 2025-08-28
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第28話 狼の過去

 城の書庫は、セレスティナにとって聖域であり、同時に要塞となった。 日中、彼女はその静寂の中でひたすら書物を読み漁った。乾いた砂が水を吸うように、彼女の飢えた知性は次から次へと知識を吸収していく。辺境の歴史、地理、鉱物資源、そしてこの地で過去に繰り返されてきた中央との軋轢の記録。それらはもはや、ただの文字の羅列ではなかった。彼女の復讐という目的を達成するための、武器であり、弾薬だった。 ライナスが与えた「牙を研げ」という言葉の意味を、彼女は正しく理解していた。この書庫にある知識こそが、彼女の牙となる。物理的な力を持たない彼女が、宰相ヴァインベルクという巨大な敵と渡り合うための、唯一の武器だった。 侍女のマルタは、毎日決まった時間に食事を運び、彼女の集中を妨げないよう、静かに部屋を出ていく。鉄狼団の兵士たちも、この書庫を特別な場所と認識しているのか、近くを通る時でさえ足音を忍ばせているようだった。誰もが、ライナスがこの「すみれ色の瞳の令嬢」を、ただの保護対象として見ていないことを、暗黙のうちに理解していた。 その夜も、セレスティナは一人、書庫のランプの灯りの下で羊皮紙にペンを走らせていた。 彼女は、辺境で産出される鉱物資源に関する古い記録と、近年の交易記録を照らし合わせ、ある不自然な点に気づき始めていた。公式な記録上では、特定の鉱山の産出量は年々減少していることになっている。だが、別の文献に残された、かつての地質調査の記録によれば、その鉱山にはまだ豊富な鉱脈が眠っているはずだった。(誰かが、産出量を偽って、差額を不正に着服している…? それも、何十年という、長い期間にわたって) その金の流れの先に、誰がいるのか。彼女の頭脳は、冷徹なまでに冴え渡っていた。この金の流れを追えば、きっとヴァインベルクの影にたどり着くはずだ。 彼女が思考に没頭していた、その時だった。 音もなく、書庫の扉が開いた。セレスティナは驚いて顔を上げる。そこに立っていたのは、やはりライナスだった。彼は夜の見回りでもしていたのか、黒い軍服を纏い、その金色の瞳は夜の闇の中でも鋭い光を放っていた。「まだ起きていたのか」 彼の声は、静かだが、書庫の空気を震
last updateLast Updated : 2025-08-29
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第29話 復讐の炎

 夜が明けた。 辺境の朝は、いつもと変わらず凍てつくような冷気を連れてきたが、セレスティナの心は不思議と凪いでいた。昨夜、書庫でライナスと分かち合った、あの静かな時間。彼の過去に触れ、自分と同じ痛みをその魂に刻んでいると知ったことで、彼女の中で何かが決定的に変わった。 恐怖は、まだある。あの金色の瞳に見つめられると、今でも心臓が跳ねる。だが、それはもはや得体の知れない獣に向けられる恐怖ではなかった。彼の強大さ、そしてその奥に秘められた不器用な優しさを知った上での、畏怖に近い感情だった。 侍女のマルタが運んできた朝食を、セレスティナはゆっくりと、しかし確実な手つきで口に運んだ。生きるために、そして戦うために、今は少しでも力を蓄えなければならない。「セレスティナ様」 食事が終わるのを見計らったかのように、マルタが声をかけた。「閣下がお呼びです。執務室へ」「…分かりました」 セレスティナは静かに頷いた。昨夜、彼は言った。『お前に、やってもらいたい仕事がある』と。いよいよ、その時が来たのだ。彼女はすみれ色のショールを肩にかけると、マルタの案内で執務室へと向かった。 ライナスの執務室は、朝の光が差し込み、昨日までの夜の雰囲気とは少し違って見えた。彼はすでに机に向かい、一枚の巨大な羊皮紙を広げていた。辺境一帯の、詳細な地図だった。「来たか」 ライナスは顔を上げることなく、低い声で言った。その指先は、地図上のある一点を指し示している。「ここだ。お前が昨日、指摘した鉱山」 セレスティナは、彼の隣に立つことを許された。近づくと、鉄と、微かに革の匂いがする。それは、この城と、彼自身を象徴する匂いだった。「この鉱山は、表向きにはもう何年も前に枯渇したことになっている。だが、お前の分析通りなら、ここにはまだ莫大な富が眠っているはずだ。そして、その富は、何十年もの間、誰かの懐を潤し続けてきた」「…ヴァインベルク公爵、でしょうか」「だろうな。だが、証拠がない」 ライナスは、初めて彼女の方へ視線を向けた。その金色の瞳は、冷徹なまでの光を宿している。
last updateLast Updated : 2025-08-30
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第30話 復讐の協奏曲、序章

 夜の静寂が、ライナスの執務室を支配していた。 机の上に広げられた一枚の古い手紙。それが、長年にわたってこの辺境を蝕んできた巨悪の正体を暴く、決定的な証拠だった。セレスティナの心臓は、まだ激しい怒りと興奮で高鳴っていた。父を、母を、そしてアルトマイヤー家そのものを奈落の底に突き落とした男、ヴァインベルク。その罪が、今、自分のこの手の中にある。 この証拠を手に、すぐにでも王都へ乗り込み、彼の罪を糾弾したい。そんな焦燥に近い衝動が、彼女の全身を駆け巡っていた。 だが、向かいに立つ男は、驚くほど冷静だった。 ライナスは、燃え盛る怒りをその金色の瞳の奥深くに沈め、ただじっと、手紙に記された「隠し紋」を見つめている。戦場で幾多の修羅場を潜り抜けてきた彼の精神は、このような時こそ、氷のように冷徹になるよう鍛え上げられていた。「…見事だ」 長い沈黙の後、彼はぽつりと呟いた。それは、セレスティナの働きを称える言葉であると同時に、敵であるヴァインベルクの用意周到さに対する、ある種の感嘆でもあった。「これほどの証拠がありながら、奴は半世紀近くも、誰にも尻尾を掴まれずにいた。ただの強欲なだけの男ではない。恐ろしく、慎重な男だ」「ええ」とセレスティナは頷いた。「だからこそ、閣下。この証拠の使い方を、間違えてはなりません」 彼女の声は、先ほどまでの怒りの震えが嘘のように、落ち着きを取り戻していた。彼女もまた、この男の前で感情的になることが、いかに無意味であるかを悟り始めていた。怒りは、行動の原動力にはなるが、それ自体が武器になるわけではない。必要なのは、この怒りを最も効果的に敵に叩きつけるための、冷徹な戦略だった。「ほう。お前には、策があるというのか」 ライナスは、椅子に深く腰掛け直すと、面白そうに彼女を見つめた。その視線は、彼女の覚悟と知性を試しているかのようだった。 セレスティナは、一歩前に進み出た。そして、彼の机の上に広げられた辺境の地図を、白い指先でそっと示す。「まず、この証拠は、今はまだ伏せておくべきです。これを今、公にしても、ヴァインベルクは必ずや言い逃れをするでしょう。手紙は偽造されたものだと主張し、逆に
last updateLast Updated : 2025-08-31
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