「モデルになってくれない?」 突然目の前に現れた人はきらきら輝く瞳と子どものような笑顔をもつカメラマン 坂道を転がるように彼に惹かれていったけれど…… わたしには婚約したばかりの恋人がいた。 *** 大手メーカーに勤める藤沢文乃は、会社の先輩、高柳俊一にプロポーズされる。何の疑問も持たずに、結婚の準備を始めた彼女の前に、突如現れた美形のカメラマン、安西瀧人。彼は熱心にモデルになってほしいと文乃を口説く。 安西を一目見たとたん、心を奪われた文乃。婚約者への後ろめたさを抱えながらも、坂道を転がり落ちるように安西に惹かれていき、そして…… ***
View More神様だか悪魔だかわからない。
その、何かに引き寄せられるように
出会うはずのないわたしたちは出会い そして恋に堕ちた。引き返すことはできなかった。
たとえ、この恋が罪だとしても……*************************************
〈side Ayano〉
「結婚してくれないか」
週末。 いつものように、ふたりで過ごしているときだった。 食後のコーヒーを飲みながら、彼は唐突に告げた。わたしは藤沢文乃、25歳。
大手メーカーに勤める会社員。隣にいる高柳俊一と付きあいはじめて、もうすぐ2年になる。
奥手だったわたしの、はじめての恋人。
新年会の帰り道、ふたりきりになったときに「きみが入社してきた日、一目惚れしたんだ」と告白されて。 大学卒業後、親のつてで大手メーカーに就職し、営業部に配属された。 俊一さんはわたしより4歳年上の、頼れる先輩だった。一流企業勤務。高年収。性格は温厚。
ちょっと堅物すぎるぐらい真面目。 煙草は吸わない。お酒も適量。 ルックスもずば抜けてるってわけではないけれど、まあ、いいほうだと思う。 つまり、結婚相手として申し分ない人。典型的な職場恋愛。
ふたりの未来もきっと、平凡を絵に描いたようなものになる。安西さんのことを俊一さんに正直に話せば、この後ろめたさからは逃れられるだろう。でも何て言えばいい? 今、片思いの人がいて、その人のことで頭がいっぱいだと? しかもその人に頼まれてモデルを引き受けてしまった、と?言えるわけがない。ずるいとは思うけれど、俊一さんとの間に波風を立てたくなかった。 話すことで破談になるかどうかはわからない。 それでも怖かった。周囲の目だってある。 まだ正式に発表はしていないけど、わたしたちが付きあっていることを知っている会社の人はそれとなく察している。それに、もし婚約解消になったとしたら、あれほど喜んでくれた互いの両親にどう言い訳すればいいのか……。そう考えだすと、とても言い出せないという思いでいっぱいになる。一刻も早く安西さんへの想いを断ち切って、この迷いから抜け出さなければ、大変なことになる。そうなるかならないかはただ自分の気持ちひとつなのだと、痛いほどわかっていた。安西さんに会うのはあと3日か4日。 この秘密を抱えるのはそれまで。 それに安西さんとわたしの関係はあくまでもカメラマンと被写体。 分別さえわきまえていれば大丈夫なはず。とにかくしっかりしなきゃと、自分をいましめた。
「やっぱり今日はいつもと違うな。どうしたの? 最近、忙しくて会えなかったから? 寂しい思いをさせてすまなかった」例年でさえ年末は忙しいのに、転勤のための準備や引き継ぎで、俊一さんは寝る間もないほど忙しい日々を送っていた。プロポーズされたあと、ふたりでこうして過ごせたのはほんの2日ほどしかなかった。今日は1月3日。多忙の俊一さんも三が日だけはなんとか休みが取れた。でも明日はもう仕事はじめ。 休み最後の日を俊一さんの部屋で過ごしていた。昨日はわたしの実家をふたりで尋ねた。うちの両親は、俊一さんのご両親以上にこの結婚に大賛成だった。食卓には見たこともない豪勢なおせち料理が並んでいて、それだけで母のはりきりが伝わってきた。そうやって、周りが祝福してくれればくれるほど、わたしの心には暗い影が差す。 秘密を抱えている心苦しさにじわじわと蝕まれていく。「お姉ちゃん、なんかヘンだよ? もうすぐ結婚するハッピーな女って感じがぜんぜん伝わってこないんだけど」 ふたりきりになったとき、3歳年下の妹がこっそりささやいた。どきっとした。 昔から妹は勘が鋭い。「うーん。そうね。正直ちょっと不安もあるかな。結婚していきなり知らない土地に住むことになるし」 「ああ、マリッジ・ブルーってやつね」 妹はわたしの話を鵜呑みにしたようだった。当たり前だ。まさか俊一さん以外の男の人を想って悩んでいるなんて、妹ですら思いもよらないだろう。
〈side Ayano〉「なんだか、いつもの文乃と違うね」 俊一さんにそう言われる。 唇が触れあう寸前に。「えっ?」 「いや、いつもだったら恥ずかしがって、ぎゅっと目を閉じちゃうのに。今日はぼくのことずっと見つめているから……」「そ、そうかな……今日は俊一さんのことを見ていたくて……会えない間、ずっとこうしたかったからかな……」なんて嘘つきなんだろう、わたしは。 心のなかで自分をなじった。目を閉じないのは、他の人のことが脳裏に浮かばないようにしているからなのに。「好き……だよ」でも驚いたことに、罪の意識が媚薬のようにわたしの心や身体を刺激した。その反応に俊一さんもいつもより興奮を覚えたようだった。 俊一さんがわたしのなかに入ってきた。 ざわざわと全身が震える。 こんな風に感じたのは初めてだった。 彼がわたしのなかで弾け、同時にわたしも、これまで感じたことのない極みに達した。でも興奮が収まったわたしの身体を満たしていたのは、満ちたりた快感などではなかった。怖れだった。染みついてしまったインセンスの香りのように、まとわりついて離れない。自分はどこまで堕落してしまうのだろう、という怖れ。俊一さんはわたしの髪をゆっくり撫でながら、額や頬に口づけを降らせた。わたしは俊一さんにしがみついた。わたしをあなたに縛りつけておいて、けっして離さないで、と伝えようと。
それでも、わたしは、俊一さんに抱かれたときにも感じたことのない、目が眩むほどの高揚感でおかしくなってしまいそうだった。もう、こんなにこの人が好きなんだ。 はっきりと自覚してしまった。 身体はなんて正直なんだろう。もう抗うことはできない。 撮影を引き受けるにあたって、わたしは二つの条件を出した。一つ目は、肌を見せるのはNGということ。 二つ目は、わたしの素性がばれないようにしてほしいということ。安西さんは「モデルさえしてくれるんなら、何でも言うことを聞くよ」とすぐにOKしてくれた。衣装合わせに1日、撮影に予備日を入れて2日。年明けから作業に入るので、細かい日程などはまた連絡をくれるということでその日は別れた。************ 部屋に戻り、ひとりになって、あらためて大変なことを引き受けてしまったと気づいた。 なんでイエスと言ってしまったんだろう。 でも、安西さんからの呼び出しに応じた時点で、こうなることは予想していたような気がする。 安西さんの、心から嬉しそうな笑顔を思い出す。 それだけで心が浮き立つ。 その一方で、俊一さんに申し訳が立たないという後ろめたさも感じていた。 けれど、わたしはあえてその感情にふたをした。
安西さんは地面に頭がつくかと思うほど頭を下げた。「お願い、うんと言って。承知してくれたら針千本飲むよ。いや、百本、うーん、5本ぐらいで許してくれるとうれしいけど……」本当に、子どもみたいな人。 とても世間に名の知られたカメラマンだなんて思えない。こんなふうにこの人に頼まれて、断れる人がこの世界にいるんだろうか。もう答えは決めていたけれど、わたしは少しだけ意地悪したくなって、言った。「じゃあ5本でいいけど、今ここで飲んでくれます?」 「えっ?」「カバンにソーイングセットが入れてあるんです。針5本ぐらいなら入ってると思うから」今度は安西さんがちょっと焦った顔になった。「う、うん。飲むよ。よし、飲んでやる。約束破ったんだから」我慢できずに今度はわたしが吹き出した。「嘘です。さっきの仕返し!」 「ああ、よかったー。えっ、じゃあ、承知してくれるの?」「はい。もう乗りかかった舟です。その代わり、やっぱり素人に頼むんじゃなかったとか後で言わないでくださいね」「文乃ちゃん、最高! ありがとう!」ぱっと目の前から星空も街の夜景も消えた。安西さんにぎゅっと抱きしめられていた。気づいたとき、爪先から頭のてっぺんに、一瞬で血が駆けのぼったように感じた。 彼はただ感謝を表しただけ。 単なるハグだ。
はるか遠方には都会の人工的な明りもきらめいている。天上と地上のどちらにも祝福されたような、そんな場所だった。「だろ? 近くによく知られた夜景スポットもあるけど、こっちまでは人が来ないからこの光景を独り占めできるんだ。おれさ、小学5年のときにここにキャンプに来て、そのときUFOを見たんだ」「……えっ? UFO?」あまりにも唐突な話に、思わず聞き返していた。「正確にはUFOかどうかわからないよ、もちろん。でも見たことがない不思議な物だったことは確かなんだ。うっすら光っててふらふらしてて、そのうちふっと消えちゃったんだ。で、願い事してみたんだよ、そのとき」「どんな事を?」「そのころ流行ってたゲーム機が欲しいって願った。おれんち貧乏だったから、とてもそんな高いもんはねだったりできなかったんだよ。でもさ、その日帰ったら、そのゲーム機が置いてあったの。母親が職場でもらったとか言って」「だから」と安西さんは星空に驚いて、ずっと上を見ているわたしに優しい声で言った。「ここにきみを連れてきて頼んだら、願いがかなうかなと思って」星と同じように煌めいている彼の瞳を見つめながら、わたしは言った。「……でも、どうして、そこまでわたしにこだわるんですか?」「うん? あのね、おれの頭のなかにもうイメージが出来上がってるんだ。きみ以外ではだめなんだ」
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