私はヤクザの親分・荒川正幸(あらがわ まさゆき)に十年も付き従ってきた。だが、彼が足を洗ったその日、舎弟たちが別人を「姐さん」と呼んでいた。 銃を握り、血を浴びたその手が、少女にズック靴を履かせている。 「矢崎琴乃(やざき ことの)、あの子はお前とは違う」 「お前は名分なくても俺と道を外せるが、あの子は無理だ」 あの日、私は振り返らなかった。 正幸は知らない。私が道を外したことを家族は承知で、ちゃんとした男を育てておき、名分を待たせていたことを。
ดูเพิ่มเติม私が北の都を離れると告げた時から、正幸の視線は私から離れなかった。「南の都に戻ったらどうだ?あの湖の見える別荘、気に入ってただろう」彼は続けようとしたが、私は遮った。「正幸、私があなたについて行くと思う?」たとえ純子が賢一の意のままに動いていたとしても、浮気をし、隙間なく別の女を連れ込み、私を追い詰めた事実は消えない。何より、純子自身がこの関係に溺れきっている。私の言葉に、彼女はそっと私の手を握り、笑みを浮かべた。「琴乃姉、いつか正幸さんと結婚する時は、必ず招待状を送ります!」その瞬間、正幸の呼吸が乱れた。陰影に半分隈取られた彼の瞳には、笑みではなく重たい喪失感が滲んでいた。「……まあ、その時は考えるさ。結婚なんて、案外つまらんものだと思い始めたんだ。若いうちは、もっと遊べるだろう?」純子の顔が青ざめた。彼女も気付いているはずだ--荒川正幸のような男の傍にいれば、日々は刃の上を歩くようなものだと。いずれ彼女も、私の二の舞になる。どんな情も、最後は清算されるのだから。私は悟った。石原純子がいなくても、次の女が現れるだけだ。早いか遅いかの違いに過ぎない。正幸は安らぐような男ではない。婚姻という城に閉じこもり、門を守り続けるような生き方など、彼には似合わない。彼は私の運命の人ではなかった。純子が正幸に詰め寄る間に、私は荷物をまとめ終えていた。行き先は誰にも告げず--南方の草原で馬を駆っている頃、南の都に残った手下から正幸の近況が届いた。私が去った後、彼は急ぎ進めていた結婚式を中止したらしい。純子が毎日のように騒ぎ、うんざりした正幸は別れを選んだという。私がこの国の半分を車で巡る間、彼は北の都へ頻繁に足を運んでいた。賢一と殴り合い、意外にも負けたそうだ。賢一は正幸に怒りをぶつけた。「お前が琴乃を守れなかったから、彼女は去ったんだ」正幸は逆に噛みついた。「お前の不甲斐なさが彼女を失望させたのだろう」草原の空を見上げながら、ふと自由を噛みしめた。人生とは心のままに生きるもの。晴れの日は陽を浴び、雨の日は傘を差す。十八歳の時、屋根裏部屋の絵を見て家を飛び出したあの日のように。定められた運命に抗ったのか、それとも賢一そのものに抗ったのか--半年かけて答えが出た。帰路の荷物に、その答えは詰
書斎のドアを叩くと、賢一は無縁メガネを掛けていた。穏やかな仮面が剥がれ、人を寄せ付けない骨格が浮かび上がる。二秒間見つめているうちに、ふと気付いた。彼を「温和で杓子定規な堅物」だと思い込んでいたのは、間違いだったのかもしれない。「賢一、携帯を見せて」彼は一瞬戸惑ったが、素直に差し出した。私の指紋で簡単に解除できる。縁を撫でた指先に、かすかな煙草の香りがする。全ての痕跡を消したはずなのに、アルバムに一枚だけ残っていた写真。あの頃、私と荒川正幸は貧乏だった。足を折られた彼を背負い、病院まで歩いた日。黄ばんだズック靴に水たまりが染み、デニムの膝は擦り切れ、ポニーテールは汗でべとついていた。見るだけで胸が締め付けられるような、痛々しい姿。石原純子が現れたあの日と同じだった。南の都を去る前、真実を調べさせた。北の都で取引中に対立勢力に襲われた正幸を、大きすぎる制服で包み「カップルのふり」をして救ったのが純子だった。そして、正幸は校門前で灰皿いっぱいの吸殻を落としながら立ち尽くした。あの日から彼は足を洗う決意をした。青白い校服、擦り切れた靴先--私に似せた仕掛けだと、写真を見た瞬間に悟った。賢一がメガネを軽く押し上げる。「彼女は僕の部下です」わざわざ正幸の傍に送り込んだ女。指先が震え、思わず目を見開いた。「お嬢様、また嫌いになりましたか?」問い掛ける声に、自分を厭悪する響きが混じっている。初めて賢一の屋根裏部屋に入った時、壁一面に飾られた肖像画に凍り付いた。あらゆる角度から描かれた私。高熱に浮かされながらも鉛筆を握り、輪郭をなぞる彼の呟きが蘇る。「お嬢様より相応しいモデルはいません」欲望はもっと前から芽生えていた。北の都を去る日、最後に会ったのも彼だった。バスターミナルまで追ってきたのに、「賢一、大嫌い」と言った途端、足が止まった。目に見えない檻に閉じ込められたように、彼は呟いた。「嫌われても構いません」後半の言葉は風に消えたと思っていた。今になって雷のように頭を貫く。「結局、僕の元へ戻って来るのですから」そう、私は南の都から北の都へ戻ってきた。逃げたかったあの男の元へ。直情的で、執着深く、型にはまった愛情。眉を寄せ、唇を噛んでいると、賢一の薄紅の目頭が真実を漏らす。
翌日、正幸が賢一を私の部屋から出てくる場面にぶつかった。彼は眉をひそめ、顔を青ざめさせていた。首に残ったキスマークをさらしながら、私を問い詰める。「琴乃……あいつと、どういう関係だ?」その言葉に胸の奥が熱くなった。彼に何の権利があって、私に干涉できるというのか?気づかなかったが、廊下にいた賢一の足が止まった。私の答えを待っている。「あなたが知る必要のない関係よ」賢一と私は婚約者にも、家族にも、友人にもなり得る。だが、彼の疑いの対象になる関係では決してない。空腹が限界に達し、階下へ降りてミルクを頼もうと身を翻した瞬間、正幸の手首が私を掴んだ。彼は俯き、声を柔らげて囁く。「琴乃……ネクタイ、締めてくれないか?」私は玄関で縮こまっている石原純子をちらりと見て、眉を上げた。「彼女ができないの?」「不器用でな。お前のウィンザーノットには及ばない」二人の距離が近づき、まるで正幸が私を抱き寄せているように見える。純子の顔が蒼白になり、涙をこぼして階段を駆け下りた。私は腕を組んだまま冷たく言い放つ。「追わなくていいの?」たった一夜で、長年の倦怠感を抱えたかのように、正幸は純子に一瞥も与えず呟いた。「小娘は面倒だ」「放っておけば大人しくなる。気にするな」温かな笑みを浮かべながら、瞳だけは冷え切っていた。爪先立ちでネクタイに手を伸ばし、彼が得意げに笑った瞬間--ぐいっと引き締め、窒息させた。正幸が赤い目で壁に押し付けようとした時、私はすでに手を離し、軽やかに後退る。「ごめんね、久しぶりで手が鈍って」肩をすくめて不貞腐れた態度を見せ、階下へ向かうと、暗い瞳に捉えられた。賢一がどれだけそこに立っていたのか。サンドイッチを握った手先が震え、まるで砕けそうな佇まいだ。「……食事だ」声はかすれていた。なぜかその瞬間、胸が高鳴り、足元がふらついた。朝食は重い沈黙に包まれた。たまに正幸の足が私のすねに密着し、嫌そうに避けると、さらに露骨に触れてくる。賢一は無言でオムレツを噛み、眉間の皺が一度も緩まない。食後、賢一が書斎に消えると、リビングには再び私と正幸だけが残された。バラエティ番組を流すと、元カレの男が彼女が他の男とのデート現場を目撃し、詰め寄るシーンが映る。「すぐ他人を好きになれる
お風呂から上がって初めて気づいた。荒川正幸と石原純子の部屋が、私の隣に選ばれていたのだ。矢崎家の屋敷は建材の遮音性が悪く、洗面所を出て立ち止まった隙に、隣の部屋から絡み合う息遣いが聞こえてくる。「正幸さん、その服まだ捨てないのですか?見てて気持ち悪くないですか?」正幸は純子の後頭部を押さえつけながら、目を伏せた。全身から冷たいオーラが漂い始めた。「ただの思い出よ。矢崎琴乃があの時、俺の下でどんなに卑屈に喘いだか……忘れさせたくないだけだ」「速水賢一みたいな虚弱体質じゃ、彼女を満足させられるはずないだろ?」「俺を逆撫でするために適当な男を引っ張ってきただけさ」苦笑が零れた。私はそこまで品のない真似はしない。ふと振り返ると、賢一の漆黒の瞳がすぐそこにあった。温かいミルクを届けに来たのだろう。だが今回は様子が違う。無言でテーブルにグラスを置き、踵を返そうとする。賢一が怒るときは、わざと歩幅を遅くする癖がある。私は爪先立ちでふわりと近づき、悪戯心を掻き立てた。彼の手首を掴み、視線を滑らせた。黒のバスローブの隙間から覗く腹筋のライン。その先は厳重に隠されている。「全部聞いちゃった?」甘えるように問うと、賢一の瞳が暗く翳った。頷く仕草に、私は少し考え込むふりをしてミルクを一口含んだ。「じゃあ、賢一……本当に満足できるの?」次の瞬間、ドアが内側からロックされる音がした。膝が腿の間に押し付けられ、熱の奔流が下半身を駆け上がる。「お嬢様、今の質問の意味を理解してますか?」賢一の吐息が徐々に接近する。額の前髬が微かに湿り、冷たい白い肌が幽霊のような妖しさを放っていた--しかし、どこか艶めかしい。私は耳を赤らめながらも強がった。「あの時だって、確かに……」言葉の途中で口を塞がれた。賢一は私に制限を設けたことがない。部屋の鍵もかけず、呼べばすぐ現れ、下着のサイズまで把握している。だから初めて、彼が浴室で一時間も立ち尽くしているのを目撃した時、私は我慢できずに名前を呼んだ。その一声で、賢一の抑えた呻きが聞こえたのだ。慌てて出てきた彼は、そっと私を押しのけた。浴室に残った麝香のような甘い匂いがなければ、彼の動揺に気づかなかったかもしれない。後日、経験豊富な友人との雑談
あの日、感情が高ぶり、自分が賢一にどんなことをしてきたのかを思い出した。彼の目をまっすぐ見ることすらできなかった。賢一は相変わらずだった。金の如く輝き、玉の如く清らか。他人の目には、常に穏やかで淡々とした様子。ただ毎晩、温かいミルクを届けに来る時だけ、私の部屋の扉を押し開ける。さりげなく聞く。「お嬢様、今夜は特別なサービスが必要あります?」Vネックのシルクパジャマ姿で、唇に噛み跡を残している彼がどれほど誘惑的か、本人は気づいていないのだろう。だが私、矢崎琴乃はそんな簡単に揺らぐ女ではない。ミルクを一気に飲み干し、賢一をドアの外に押し返した。今夜も彼は扉をノックしてきた。面倒くさそうに眉を上げ、先手を打とうとして「要らない」と言いかけた瞬間、賢一がソファに座る二人を目で示した。荒川正幸が来ていた。一人ではなかった。石原純子も連れてきていたのだ。心臓を巨大な手で握りつぶされるような感覚。何かが砕ける音が頭の中で響く。私はやはり駄目な女だ。こういう事態になると、反射的に逃げたくなる。力任せに扉を閉めながら冷たく言い放った。「あの人たちを追い出して」賢一は静かに頷いたが、扉を押さえる指の関節は微動だにしなかった。「お嬢様、荒川さんは商談に来ています」つまり、私が階下に降りるべきだと言いたいのだ。彼が決めたことを他人が覆せるはずがない。なぜか胸に澱のようなものが溜まった。それでも無表情で、彼の影のようにぴたりと付いていく。正幸が真っ先に私に気づいた。賢一にべったり寄り添う私を見て、彼の表情が険しくなる。黒いレースの下着を指先でぶら下げ、単刀直入に切り出した。「琴乃、別れたのにこんなものが俺の所に残ってるのはまずいだろ?」以前、正幸が出張する時は私の肌着を持参する癖があった。私の物がないと眠れない、と言っていた。この下着は整理の時に見つからず、もう捨てられたと思っていた。正幸の鞄にずっとしまわれていたのかと思うと、急に吐き気がした。別れるつもりでいたなら、なぜ私の物を保管していたのか?鼻の奥が熱くなるのを抑え、冷たい声で言った。「正幸、そんな些細な物のためにわざわざ北の都まで?」正幸は軽く笑い、私が拳を握って怒りを堪えているのを見て満足そうに足を組み、純子を引
助手席に戻された時、賢一は淡々と言い放った。「十年間、あの男は君をちゃんと守れなかったようだな」疑問形ではなく、断定の調子。強がりの反論を口にしようとして、不甲斐なく鼻がツンとした。靴底から伝わるカーぺットの温もりが、禁断の依存症のように染み渡る。今すぐ賢一の懐に飛び込んで泣きじゃくりたくなる衝動に駆られた。車は雨の幕を突き破り、前へと進み続ける。私の瞼を赤く腫らした様子を見て、賢一が穏やかに囁く。「お嬢様、過去を忘れる一番の方法は新しい恋ですよ」彼の前では思いついたら即行動が私の流儀だ。言葉が消えないうちに命じた。「車を止めなさい」ハンドルを握る手が一瞬止まった。疑問そうな表情を浮かべながらも、彼は路肩に停車した。サイドブレーキを引いた瞬間、私はコンソールを跨いで彼の膝の上に座った。賢一の太腿が緊張で硬くなるのが分かる。背もたれに体を預けようとする後退りが、かえって私の独占欲を掻き立てた。赤くなった目で彼のネクタイを握りしめ、気取ったような弱々しい声で命令した。「賢一、私を抱きなさい」男の手が私の太腿の横で震えた。ふっと笑い声が漏れ、睫毛の奥に光るものが見えた。「まだ僕を嫌ってないのかい?」昔の私は賢一の温和さも堅物ぶりも大嫌いだった。整然とした仮面を剥がしてやるのが楽しみで仕方なかった。だが今、ワイシャツの襟元から覗く鎖骨の紅潮や、上下する喉仏を見ていると、この氷山が別の色気を放っていることに気付いた。神壇から転落する聖人こそ、最もたまらない光景なのだ。腕の力を徐々に強め、互いの隙間を消していく。賢一の冷たい唇が触れた瞬間、思考が一瞬白くなった。次の瞬間には欲情が勝り、彼の首にしがみついてシートへ押し倒した。感情をぶつけるように賢一の唇を噛む。すると主導権を奪い返された。両手を背中で束ねられ、ハンドルに押し付けられた。乱れた息が車内に響く中、コンソールのスマホが鳴り始めた。切ろうとした指が誤って通話ボタンを押した。荒川正幸の硬い声が炸裂する。「琴乃、忘れ物だ。明後日北の都に行くから届ける」絡み合う唇の音と切ない吐息が受話器に拾われた。賢一の額に触れながら電話を切るよう促すと、向こうでガラスの割れる音がした。「矢崎琴乃!返事しろ!」ま
ความคิดเห็น