幸福は、AIによって数値化される時代。 すべてが最適化された社会では、人々は争わず、迷わず、悲しまずに生きている。 だが、それは「幸福を選んでいる」のではなく幸福を選ばされている世界だった。 市ノ瀬アキラは、旧校舎の地下でひとつの言葉に出会う。 『神を殺せ』 それは、絶対幸福を支配するAI〈ゼノ〉への反逆の扉だった。 その瞬間から、彼の幸福スコアは異常を示し、日常は崩壊を始める。 AIに従えば生きられる。だがそれは、本当に“生きている”と言えるのか? アキラはルキという謎の青年に導かれ、同じく継承者であるカナと共にAIの支配から人々を解き放つための旅に出る。 鍵となるのは、「継承者」として受け継がれた意志。そして、各地に点在する7つの継承地に眠る記録だった。 これは、選ぶ自由さえ奪われた時代に、 本当の「生」を取り戻すための物語。 神と呼ばれるAIは、果たして救いなのか。それとも……殺すべき存在なのか。
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この世界では、幸福が数値で測れる。 朝起きる時間も、昼に食べるものも、誰と話すかも。 すべてが、“ゼオ”によって最適化されている。 誰もが、最も幸福になれる行動だけを選び、 誰もが、間違わない。 悲しみはなく、争いもない。 ただ―― 「選ばされている」ことに、誰も気づかない。 「神様を殺した日」 市ノ瀬アキラは、七時ちょうどに目を覚ました。 枕元のエンジェルリングが柔らかい光を放ち、ゼオの音声が耳に届く。 《おはようございます。市ノ瀬アキラさん。起床タイミングは幸福度+1.4。》 七時三分に起き上がり、七時八分に洗面所へ。 整えられた黒髪、淡い影を落とした目元、無表情に近い口元。今日も同じ顔だ。 七時十四分に食卓につく。 すべては誤差ゼロ。毎日が完璧に整っていた。 朝食のテーブル。母親はいつも通り、穏やかに微笑んでいた。 だがその笑顔は、自分と一緒で昨日と全く同じ形をしているように思えた。 「アキラ、今日のスムージーは少し甘めね」 声は優しいが、まるで用意された台詞のようだった。 スムージーを口に運ぶ。完璧な甘さ。栄養バランスも完璧。 しかし、完璧すぎて味がしない気がした。 母の笑顔が、録画された映像みたいに思えたのは、今朝が初めてじゃなかったかもしれない。 アキラは曖昧にうなずきながら、テーブルのスクリーンに目をやる。 スクリーンが自動的に点灯し、幸福度ニュースが流れ始める。 《本日、街の幸福度平均は98.6。区画東部の再開発エリアが週末に開放予定です。行動候補に追加されました》 その映像を眺めながら、父親がふとつぶやいた。 「……東部のあたり、俺が子どもの頃はまだ空き地ばかりだったな」 「そうなんだ?」 アキラは何気なく返した。 父親は少し笑って、スプーンを置く。 「公園も、古い商店も、いまは全部最適化されちまった。……昔の話は、聞いてみると案外面白いもんだぞ。記録に残ってるものより……ずっと、な」 「記録にない話?」 アキラの問いに、父親は少しだけ目を細めて、 「いや……気のせいさ」 そう言って、またスプーンを手に取った。 記録にない昔の話という言葉が、なぜかアキラの中に残っていた。 通学電車の中、アキラは車窓を眺めていた。 整然としたビル、規格化された街路樹、同じ制服の生徒たち。 景色は変わらず、心も揺れない。 それなのに、アキラの胸の奥にだけ、何か引っかかりが残る。 説明のつかない、微かな違和感だった。 車内モニターが切り替わり、ゼオのアイコンが表示される。 《現在、通学ルートBが最適です。幸福度低下を回避するため、次の駅での乗り換えを推奨します》 生徒たちは一斉に無言で立ち上がり、次の駅で降りる。 抗う者はいない。 「おはよう、アキラ」 声に振り向けば、ルキが静かにそこに立っていた。 銀色の髪が光を弾き、どこか人間味の薄い、透けるような印象を与える少年。 中性的な顔立ちに感情の色は薄く、視線の奥に何かを隠しているように見えた。 「……おはよう。いつからいた?」 「最初から」 ルキはそう言って、窓の外に目を向けた。 アキラは小さく眉をひそめたが、それ以上は聞かなかった。 その存在は、空気のように自然で……不自然だった。 朝の点呼。 生徒たちは左耳に装着したエンジェルリングーー透明な円形の端末を読み取り機にかざし、出席が自動認証される。 幸福度の変動も、常時ゼオに記録されていた。 「全員確認……あれ? ルキくん……あ、手動登録ね。ゼオのログにないけど、問題ないわ」 教師は特に気にする様子もなく処理を進めた。 クラスメイトも気にしない。 アキラは思わず、周囲を見渡した。 誰もルキの登録外に驚く素振りを見せない。まるで、毎朝のことのように。 誰も奇妙だと感じていないことが、1番奇妙だった。 違和感は、日常の中に自然と埋もれていく。 昼休み。校庭の隅にある仮設菜園で、アキラは水を撒いていた。 その途中、枯れかけた苗が目に入った。 一瞬、手が止まる……抜くべきか、残すべきか。 《判断保留中。幸福度スコアへの影響:±0.0》 耳元でゼオの音声が囁く。 「全部スコアで決めるのが、本当に正しいのか……」 思わず、心の中でつぶやいた。 でもその言葉は、誰にも聞こえない。 「……そういうの、迷うよね」 不意に、少女の声がした。 振り返ると、茶色いショートボブの髪が風に揺らしたカナが立っていた。 制服の袖口にはかすかな土汚れ、赤いリボンは少しだけ歪んでいたが、それがなぜか似合っていると思えた。 「ここ、落ち着くね。風の音とか、水の音とか……なんか、考えごとするのにちょうどいい」 彼女は小さく笑った。 「私、選ぶの苦手でさ。正しいかどうかじゃなくて、自分で決めていいのかって、いつも思う」 アキラは黙って、枯れた苗を抜いた。 その手元を見ながら、カナは少し目を細めた。 「……昔の世界って、もっと自由だったのかな。そう思ったこと、ない?」 「昔って?」 「……ほら、ゼオが統治する前とか」 カナは少し声を落とす。 「裁判とか、戦争とか……そういう言葉、聞いたことない?」 「……名前くらいなら。でも、何だったっけ? 争いの一種……とか?」 アキラは首をかしげる。 カナは小さくうなずいた。 「私もよく知らない。でも……調べても、ちゃんとは出てこない。誰かが、消したんだと思う」 「誰が?」 カナは答えず、風に揺れる苗をじっと見つめた。 「旧校舎の地下、まだ使われてるって知ってる? 昔の資料が残ってるらしいよ。誰も行かないけど……そういうの、気にならない?」 理由はなかった。でもアキラは、無性に行ってみたいと思った。 「……行ってみたいかも」 「今日の放課後、どう?」 「……ああ」 カナはふっと笑った。 「私も、そういうの……気になるんだ」 放課後。昇降口でアキラとカナが靴を履き替えていると、背後から近づく足音があった。 「どこ行くの?」 振り返れば、ルキが立っていた。 感情の読めない表情で、二人をじっと見ている。 「ちょっと、資料の確認」 アキラがごまかすように言うと、ルキは一瞬だけ間を置いてから歩み寄った。 「……俺も行くよ」 「いいのか? 止めなくて」 「監視だから。見るだけ」 その声には、どこか見るだけじゃない響きがあった。 だがアキラはそれを深く考えずに、うなずいた。 昇降口の自動ドアが開き、夕方の光が差し込む。 三人の影が長く伸びて、校庭に消えた。 旧校舎は、本館の裏手にひっそりと建っていた。 使われなくなって久しく、壁の塗装は剥がれ、窓は半分曇っている。 それでも管理はされているのか、入口のドアには電子錠が取り付けられていた。 「鍵、借りといた」 カナがエンジェルリングをかざすと、ロックが静かに解除された。 「……ゼオに見つかっても平気なのか?」 「うん。ここ、禁止区域じゃないから。使用停止中ってだけで、立ち入りそのものは記録上は許可されてる。……ただ、最適な行動には入ってないから、誰も来ないだけ」 カナはさらりと言ったが、その目は少しだけ緊張を帯びていた。 中は思ったより整っていた。 空気は冷たく、埃の匂いがうっすら漂う。 「……なんか、時間が止まってるみたいだな」 アキラがつぶやくと、ルキが壁にかかった掲示物を眺めながら言った。 「ここ、ゼオが導入される前まで使われてたんだろ」 カナはうなずく。 「その下に、資料保管庫があるって。旧時代の記録とか、もう消されたはずの紙の資料」 「……紙の、記録?」 「うん。データにしなかった記録。きっと都合が悪かったんだよ。誰かにとって」 階段を下りるたびに、空気が変わっていく。 光はなく、非常灯だけがぼんやりと階段を照らしていた。 アキラの心臓が、ほんの少しだけ高鳴る。 「……本当にあるのか、資料なんて」 アキラがつぶやく。 カナは無言で、扉を押した。 きぃ……という音とともに開かれた先には、 古びた棚がいくつも並び、紙の束が乱雑に詰まっていた。 ホコリが積もり、空気はひどく重い。 それでも、何かが残っている――確かな気配があった。 「すごい……本物だ、これ全部」 カナが目を輝かせてページをめくる。 だがアキラの目は、別のものに引きつけられていた。 部屋の一番奥。 見慣れた棚や紙束の中に、そこだけ……違う気配があった。 壁の一角、白く塗り直された跡の下に、何かがうっすらと滲み出ている。 アキラが近づくと、かすかに赤黒く残された文字が目に入った。 ルキがそっと懐中ライトを向ける。 塗り潰された塗料の下に浮かび上がる、歪んだ筆跡。 『神を殺せ』 一瞬、アキラは目を疑った。 読み間違いかと思った。 でも、何度見てもその言葉だった。 カナは言葉を失い、足を止める。 ライトの光が微かに震えた。 「……なに、これ……」 彼女の声はかすれていた。 アキラの心臓が、ひときわ強く脈打つ。 まるで、言葉そのものに意思が宿っているようだった。 ルキだけが、じっとその文字を見つめていた。 しばらく沈黙が続いたあと、彼は静かに口を開く。 「……こういうの、好きだよ。意志がある」 アキラが息をのむ。ルキの声は、どこか懐かしさすら帯びていた。 「誰かが……神に抗おうとしたんだ」 しばらくの沈黙。 ルキは言葉を選ぶように、低く呟いた。 「神は、人のために生まれたはずなのに」 「殺さなきゃいけないなんて、皮肉だな」 誰も、それに言葉を返せなかった。 重い沈黙の中で、ルキだけがその文字を見つめ続けていた。 そのとき、誰の端末も音を鳴らさなかった。 まるで、ゼオの目が……ここには届いていないかのように。 それが、始まりだった。 この世界で、神様を殺した日の。風は冷たく、けれど乾いていた。 幸福圏外の村を離れた一行は、しばらく誰も口を開かず、ただ黙々と歩いていた。 その先頭を歩いていたミナが、傾いた古い廃小屋の前で足を止めた。 扉を開け、埃を掃い、火を起こす。最小限の動きで、仮の野営地ができあがっていく。 「今夜は、ここで休もう」 セツが言うと、皆がそれに従うように腰を下ろした。 焚き火の炎が、パチパチと乾いた音を立ててはぜる。 ノアは、焚き火のそばでうずくまりながら、石を拾っては並べていた。 丸い石、平たい石、欠けたガラス片。まるで意味のない形を作っては、満足げに微笑む。 それが崩れると、また無言で並べ直す。 子どもらしい遊び方だが……どこか不思議と、目が離せなかった。 アキラはその様子を横目に見て、小さく息を吐いた。 ノアがあんな状態でも普通に見えるほど、今の世界は歪んでいる。 ……だからこそ、知るべきだ。 「……セツさん、少し、教えていただいてもいいですか」 「ん?」 「俺たちは……なぜ、選ばれたんでしょうか。俺やカナだけが継承を受けて、選択を……」 「お前がそう思ってるなら、それで十分だ」 セツの答えは、簡潔だった。けれど、それだけでは納得できない問いもあった。 「でも、知っておきたいんです。知らなければ、選ぶこともできない」 「正論だな」 ミナが少しだけ口元をゆるめた。 「私たちも、最初は知らなかったのよ。セツも、私も。ただ、抗った。間違ってると思って……それだけ」 「セツさんやミナさんも……継承者、じゃないんですか?」 アキラの問いに、セツはかぶりを振った。 「違うな。俺たちはただの人間だ。選ばれたわけじゃない」 「私たちは、支える側よ。あなたのお父さんや、カナの祖父母に教わった。それだけ」 「……父さんと、カナの祖父母が?」 「二人とも、本物の継承者だった。そして、ゼオに……負けた」 アキラとカナの表情が固まる。 「けど、その意思を……お前たちが継いでる」 ミナの視線が、まっすぐにカナに向けられた。 「選択は、血でつながるもんじゃない。心でつながるものなのよ」 少しの沈黙の後、カナが口を開いた。 「継承者の力って……何なんですか」 「人間の脳と肉体には、かすかに固有の振動がある。精神波形とも言われるものだ」 セツの口調は、いつになく真面
家の中は、異様なまでに静かだった。 死と腐敗の気配に満ちた村の外から切り離されたように、空気は澄み、埃すら舞っていない。 テーブルには乾いたパンと枯れた花。 整然と並べられた家具、丁寧に畳まれた布。 そこだけ、まるで舞台の上の“幸福な暮らし”を模したかのような空間。 そして、彼女がいた。 白いワンピース。黒髪の少女。 膝に手を揃え、血のついた手をきちんと重ねて、ただ静かに座っていた。 彼女は笑っていた。 どこか空虚で、けれど美しく、歪みのない笑みだった。 「……こんにちは」 あまりにも自然で、穏やかな声だった。 「あなたたち、人、ですね。久しぶりです」 「君は……名前、なんていうの?」 アキラの問いに、少女は迷いなく答える。 「ノア、です」 カナは、彼女から目を逸らせなかった。 笑っているのに、どこかが欠けている──そう感じた。 「ずっと、ここに?」 「はい。みんな、笑っていました。だから、寂しくなかったです」 「それ、本当に……寂しくなかったの?」 不意にカナが言った。 ノアがゆっくりと首を傾げる。 「はい。私は、お友だちと一緒にいましたから」 ノアの視線の先には、壁際に並んだぬいぐるみたち。 同じような笑顔が、縫い付けられている。 「名前も、あります。ふわ、にこ、もう。……ずっと、笑ってくれてます」 カナは、その名を繰り返すように口の中で呟いた。 意味があるのか、ないのか──わからない。 だが、そのわからなさこそが、恐ろしかった。 「ご両親は?」 「……お母さんは、お花を見ていました。お父さんは、本を読んでました」 「それで……今は、いないの?」 「止まりました。でも、笑ってたから。大丈夫だと思います」 “止まった”。 そう言ったノアの笑顔は、やはり歪んでいなかった。 ただ、静かで、美しいだけだった。 「エンジェルリング、つけてないの?」 「わかりません。最初から、ありませんでした」 ミナとセツが言葉を交わす中、カナがゆっくりと前に出た。 「ねえ、ノア。あなたは……どうして笑ってるの?」 ノアは一瞬だけ、カナの目を見た。 その視線は、まっすぐだった。 「……わかりません。でも、泣いたときより、心が軽くなるから」 「それ、誰かに教わったの?」 「お母さんが言ってました。『ノア
風が、止まっていた。 幸福圏の境界を越えた先。 そこにある村は、まるで音そのものを拒絶するかのように、沈黙を抱きしめていた。 森の木々はざわめきをやめ、虫の羽音は一匹たりとも届かない。 それは自然の静寂ではなかった。 死に支配された、人工の静寂だった。 「……ここが」 アキラの声がかすれた。 草に埋もれた石畳が、崩れかけた門の奥へと続いている。 ミナが歩を止め、鼻をひくつかせた。 「匂うわ……血と腐敗、それに……薬剤。幸福圏でよく使われる、処置用のやつ」 「幸せな匂いってやつか……悪趣味だな」 セツがつぶやくように言った。 彼らは一歩、また一歩と足を踏み入れる。 踏み締める音すら、草と湿気に呑まれて消えていく。 そして──見つけた。 最初の“死”を。 それは、ベンチに並んで座る老人たちだった。三人とも、囲碁盤を囲むように配置されていた。 目を閉じ、穏やかな笑みを浮かべたまま。 まるで日向ぼっこをしているかのように、平穏な死。 だが、明らかに死んでいた。 皮膚は斑に黒ずみ、白目が濁って乾いている。 口元の皺は深く、頬は干からび、だが──口角は、美しく上がっていた。 「……全部、笑ってる」 ミナの声は震えていた。 村の通りには、人影があった。 家の中にも、庭にも、道路脇にも。 ──すべてが“死”だった。 だが、皆が笑っていた。 親子三人、テーブルに着いてスプーンを持ったまま固まっている。 母親の腕に抱かれた赤ん坊は、腐敗が進み、腹が裂け、内臓が飛び出していた。 しかしその小さな顔には、確かに笑顔が貼りついていた。 カフェのカウンターでは、若いカップルが手を繋いだまま絶命していた。 倒れかけたマグカップから、液体が乾き、カビが這い上がっている。 だがその手は強く握られ、二人とも笑っていた。 美容室では、女性が鏡の前で口紅を塗ったまま死んでいた。 ひび割れた鏡に映るその顔は、作り物のように笑っていた。 廃校となった小学校の教室には、黒板にこう書かれていた。 《今日もにこにこしましょう! 幸福指数100.0!》 教室の中には、児童らしき小さな死体が並んでいた。 椅子に座ったまま。ランドセルを背負ったまま。 首を傾け、微笑みながら。 「幸福指数……100.0……」 カナが、かすれた声で言った
風が止んだ。 湿った空気が、幸福圏の境界を越えた森を包んでいる。 木々のざわめきも、虫の声も、今だけは息をひそめたようだった。 白銀の髪が揺れる。 そこに立つ女──エリシアは、ただ静かに、継承者たちを見つめていた。 その視線を、セツが軽く受け流すように受け止める。 「そういえば随分久しぶりだな、エリシア。こんな森の中で再会とは」 飄々とした口調。 それでも彼は、確かにこの場の中心に立っていた。 「継承を、この先に進めさせるわけにはいかない」 エリシアの声は、平坦だった。まるで感情のない、機械のように。 けれど、彼女は機械ではない。 命令で動くアインとは違う。 この行動も、発言も、意志によるものだ。 彼女は「選択」して、ここにいる。 「ま、それがあんたの選択なら──止めようとしてくれてありがとうって言うべきかな」 セツは笑ったまま、片手をポケットに突っ込む。 そして、次の瞬間。 風が切れた。 銀の残像。木の葉が斬り裂かれ、二人の間に走る。 一撃。斜め下からの踏み込み。重心の乗った掌打。 速い。正確。躊躇いのない動き。 ──にも関わらず。 「甘い」 セツはその一撃を、笑いながら紙一重で躱した。 返すように踵で地面を蹴る。今度は彼が距離を詰める番だった。 彼の拳が風を裂く。エリシアの頬にかすめた風圧で、前髪がわずかに乱れた。 「……本気でやりなさい」 エリシアが、静かに言う。 「いやいや、そっちが本気なら、俺も真面目になるよ? でも今んとこ、どう見ても手加減だろ。俺そういうの嫌いなんだよね」 セツは小さく肩をすくめる。 跳躍、軸足の回転、拳の軌道。 セツの動きはどれも無駄に軽く、重みの中心を常に外していた。 エリシアは繰り出す。打撃、蹴撃、膝、肘。 動きに淀みはない。軍の最適化訓練を経た、精密な“殺す動き”だ。 だが──当たらない。 まるで、空間ごとずらされているかのようだった。 彼女の足払いが地を裂き、数メートル先の木が砕けた。 だがその破片は、セツの髪一本かすめることもなかった。 (……この男は、相変わらず) エリシアの心に、わずかにノイズが走る。 殺気も、焦りもない。 あるのは確信と遊び。 「俺、自分が負けるところって、正直まったく想像できねぇんだよな」 セツが楽しそうに言った
場所:幸福統制局・観測室の一角(過去回想/現在への導入) 幸福スキャンマップがホロに浮かび上がる。 「……面白いわね」 エリシアは指先で数カ所をなぞる。幸福スキャンの“空白域”──幸福指数が計測不能な範囲が、山間部の外縁にポツポツと残っている。 「最適化された幸福に、こんなにも穴があるなんて」 背後のモニターには、アインがドローン部隊を率いて“規定通り”の捜索を続けている映像。 「ほんと、真面目ね。アインは。まっすぐすぎて、予測がしやすい」 エリシアはフッと笑った。 「ルートの選定も、幸福スキャンの回避も……最適化から逸脱する人間のパターンなんて、実は単純なのよ」 「選ぶっていうのは、理想じゃない。癖になるだけ」 彼女は一つ、端末にマーカーを打つ。 「さて……迎えに行きましょうか。継承者たちを」 《ゼロ管理棟 発信ログ記録:エリシア 単独行動 開始》 崩れかけた地下の扉が、重い音を立てて閉じた。 地上への脱出口は、もうない。 その音を背にして、アキラたちは幸福圏の外 選択の旅路へと歩み出していた。 「これで……完全に、外だな」 アキラが息をつきながら振り返る。 「ええ。もう、幸福圏のスキャン網はかすりもしない。けど……」 ミナがタブレットの表示を睨む。 「だからこそ、奴らは動きやすい。 幸福という盾なしで、真っ直ぐに追ってこれるわ」 「それって……」 「逃げ場は、もうないってことよ」 誰も反論しなかった。 ただ、足を前へと進めるだけ。 彼らが目指すのは、幸福圏の遥か外れ──第三継承地。 そこまでは、少なくともあと三日はかかる。 道中に舗装路はない。草木に侵食された旧街道、放棄された山間集落、崩れた橋。 すべてが、最適化されなかった“過去”の遺構。 「こんなとこ、人が住んでたんだな……」 アキラが、倒れたまま朽ちかけた家屋を見上げて呟いた。 「最適化以前の世界って、案外こんなもんだ」 セツが飄々とした口調で肩をすくめる。 「整ってもない。美しくもない。けど……確かに人間がいた。そういうとこさ」 「私たちの家も、似てたかも……」 カナが言った。 懐かしさと痛みが、入り混じる声。 ミナがすぐに反応する。「少し休んで。まだ距離はあるけど、今日中に峠を越えるわよ」 一行は小さな谷あいに足を踏み入
幸福圏──第三区。幸福度:99.0 《幸福監査:観測モードに移行》 幸福バランスは問題なし。異常なし。人々の顔には今日も笑顔が咲き乱れている。 だが、静かに、確実に何かが変わり始めていた。 ──数日後。地下。 息が白くなるほどの冷たい空気の中、アキラは静かに走っていた。 土と金属が混じった床を蹴る音。汗が頬を伝う感覚。呼吸が乱れ、心臓が早鐘のように鳴る。 「……はぁ、はぁ……」 息を整えながら、ふと立ち止まる。 この数日、セツの指導のもと、基礎的な体力訓練を続けていた。最初は動くだけで吐きそうだった身体が、今ではようやく自分のものになりつつある。 「生きてるって……こういうこと、か」 地面を踏みしめるたび、実感が宿る。 風が頬を撫で、足の裏が痛む。だが、それすらも“嬉しい”と思える不思議。 「アキラ〜っ! 聞いて聞いて!腕立て20回いけたよ!」 カナが泥だらけの顔で駆け寄ってくる。失敗して転んだのだろう。 それでも笑っている。 「へへ……変だよね。痛いのに、笑えるなんて」 「変じゃないさ」 セツの声が響く。 「それが感じてるってことだ。お前ら、ちゃんと取り戻しつつある」 ミナが温かいスープを持って現れた。 「ほら、朝食よ」 その笑顔は、今の幸福圏には存在しない自由な感情の光だった。 だが、その温もりの裏側で──冷たい計算が動き出していた。 同時刻。幸福統制局・第零管理棟。 「つまり、逃したわけね?」 その声は、透明な硝子のようだった。冷たく、だが鋭く澄んでいる。 アインが黙って頷く。その顔に表情はない。ただ、黒のコートに身を包み、背筋を伸ばして立つのみ。 その隣に立つ女性こそ、統制局直属の指揮官──エリシアだった。 長い銀髪と氷のような瞳。機械的に整いすぎた美貌。 彼女はAIではない。だが、完全な人間でもない。 強化処理を施された神経と感情。 彼女は、ゼノが唯一認めた人間側統制者として存在している。 つまり、AIに選ばれた者。 ゼノに従うのではなく、従うことを自ら選んだ者だった。 「ルキは現在、C区幸福処理施設にて隔離中」 アインが淡々と報告を続ける。「精神スキャンは未成功。神性反応が高く、解析不能」 「……ルキの件は一旦保留ね」 エリシアが椅子に腰を下ろし、組んだ脚を静かに揺らす。 「問
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