この世界の魔法は、本に記された“言葉”を読むことで発動する。 同じ詩でも、読む者の感情や記憶によって、まったく異なる魔法が咲く。 中でも“花紋”を持つ者は、書かれていない言葉すら咲かせる特別な存在――。 幼き日の魔法事故で親友を喪った少年・ユウリは、ただ一つの願いを胸に旅に出る。 「もしどこかに、“言葉で死をほどく魔法”があるなら——」 たった一人の親友が残した“読めなかった言葉”を、もう一度届けるために。 伝えられなかった想い。咲かなかった詩。 その全てを抱えて、少年は“読む”旅を始める。 魔法と言葉が織りなす、やさしくも苛烈な異世界ファンタジー──。
ดูเพิ่มเติม朝の光が、町の広場をやわらかく照らしていた。
土で舗装された訓練場では、数人の少年少女が輪を作り、それぞれ手元の魔導書を読み上げている。 「花が開け、風が流れよ——《風舞の一節》!」 少女の声が響くと同時に、風の花弁がくるりと舞い上がり、目の前の的をそっと撫でた。 周囲から歓声が上がる。彼女は恥ずかしそうに笑いながら本を閉じた。 その光景の少し外れで、一人の少年が立っていた。 ユウリ。優しい金の髪と、少し気弱そうな目元。魔導書を胸に抱え、目を閉じる。 深く息を吸って——声を発した。 「炎よ、目覚めて……」 「……」 魔導書は何も反応しない。ページが風にめくられるだけ。魔法の兆しは、一片もなかった。 しばし沈黙。やがて、近くにいた教官の男が眉をひそめて歩み寄ってくる。 「またか。ユウリ、お前、読むときの“解釈”が甘すぎるんだよ」 「……はい」 「ただ読んだって魔法は出ねえ。“感じる”んだ、言葉を。魔導書は機械じゃない」 ユウリはただ、小さくうなずいた。 ——わかってる。そんなことは、何度も言われてきた。 彼の手の中にあるのは、古びた魔導書だった。他の子たちのように学校で与えられた本ではない。 数年前、魔法事故で命を落とした親友が残した、世界に一冊だけの魔導書。 ページの端は焦げ、ところどころ文字がにじんで読めない。 それでもユウリは、この本だけは手放せなかった。 「……また、咲かなかったな」 小さく呟いた声は、誰の耳にも届かなかった。 少年の周囲では今日も、魔法の花が軽やかに咲き誇っていた。 夜の静けさが広がる部屋の隅、ユウリは一人、灯の消えた魔導書を膝に置いていた。 ページを指でなぞる。焼け焦げた跡の先には、もう読めなくなった詩文の断片だけが残っていた。 「……これ、何て書いてあったっけな」 問いかけは、当然誰にも返されない。けれどユウリの脳裏には、あの日の光景がはっきりと浮かんでいた。 あいつは笑っていた。 魔法の訓練中、みんなの前で堂々と詩を読み上げ、綺麗に咲かせた花を見て、「どうだ」と胸を張っていた。 ユウリは、そんな親友の背を少しだけ羨ましく思いながら、心から尊敬していた。 でも、それは一瞬で終わった。 読み間違い。魔導書の暴走。封印魔法の不発。 真っ白な花が咲いた瞬間、それは爆ぜた。誰も対処できなかった。 ユウリは、ただその場に立ち尽くしていた。何もできなかった。ただ、声をかけることすらできなかった。 「こわくて……動けなかったんだ、あのとき……」 震える声で呟くと、喉の奥が痛くなった。情けないほどに、今も昨日のことのように思い出せる。 思い出の中で、親友は最期に言っていた。 「なあユウリ。魔法図書館って知ってるか?世界に一冊、“死をほどく言葉”があるかもしれないってさ」 それは冗談だったのか、本気だったのかもわからない。 けれど、ユウリの胸にはずっと残っていた。 「死をほどく魔法……そんなもん、本当にあるわけ……」 それでも、言葉はあった。 “言えなかった”自分と、“届かなかった”想いの中に。 彼は本をそっと閉じ、目を伏せた。咲かなかった花のように。 でも、まだ手は離さなかった。あの日からずっと、ただの一度も。 その日は、静かに始まった。朝の空気に混じって、どこか遠くで鐘の音が鳴っていた。 ユウリは市場の外れ、荷運びの手伝いをしていた。咲かない魔法でも、肉体労働はできる。 魔導書を胸に抱えたまま、荷台を引いていたときだった。 空が、一瞬だけ赤く染まった。 次の瞬間、広場の方向から地鳴りのような音が響く。誰かの悲鳴が、風を裂いた。 「魔法の暴走だ!!」 叫び声に背を向けて人々が逃げていく。その群れに逆らうように、ユウリは走った。 本能だった。考えるより先に足が動いた。 広場に辿り着いたとき、そこは火の海だった。 魔導書を読み間違えたのか、詩蝕寸前の暴走魔法が、周囲の建物を焼いていた。 中心には、幼い女の子が一人。泣きながら動けずにいた。 「くそっ……!」 ユウリは咄嗟に駆け寄る。魔法は止まらない。誰も咲かせる言葉を持たず、近づこうともしなかった。 でも、彼には——あの日から、ずっと胸に残っていた言葉があった。 炎の壁の前で、ユウリはボロボロの魔導書を開いた。 喉が焼けそうに乾いていた。でも、声を出した。 「……もし、どこかに“死をほどく魔法”があるなら」 「——今ここで咲いてくれ。……頼むから……!」 ページが震えた。風が巻いた。 ユウリの手の中で、本が光を放つ。 「《還雷の詩・未詩篇》……!」 その言葉と共に、空に花が咲いた。 雷の花。咆哮と共に放たれた一閃が、暴走魔法の中心を貫き、世界を浄化するかのように炎を消し去った。 広場が静寂に包まれた。 ユウリは、まだ咲いたばかりの花の残滓の中で、呆然と立ち尽くしていた。 静けさの中、光がゆっくりと消えていく。 その中心にいたユウリは、自分の手を見つめていた。 掌が、わずかに震えていた。けれど恐怖ではない。何かが、確かに変わった感触があった。 胸元が熱い。 シャツをずらすと、肌の上に淡く浮かぶ文様が見えた。 それは花のようであり、雷のようであり、けして誰かと同じ形ではない—— 「……花紋……」 誰かの声が広場の片隅から漏れる。 次々に人が集まり、ユウリを取り囲む。視線の色が変わった。 「見たか、今の……」 「あれ、花紋じゃないか……?」 「まさか、こんな田舎に……」 ざわめきはすぐに、恐れと警戒に変わる。 花紋者。国家によっては“兵器”として徴用され、あるいは“禁忌”として排除される存在。 多くの者にとって、それは「関わってはいけないもの」だった。 「通報しろ。あれは“登録されてない”花紋者だ」 「本部に連絡を……!」 ユウリは一歩、後ずさった。 誰かを救ったはずなのに、向けられるのは称賛ではなかった。 それでも、花が咲いたのだ。彼自身の言葉で。 小さな手が、ユウリの袖を掴んだ。あの時、魔法の中に取り残されていた少女だった。 「……ありがとう、おにいちゃん」 その声に背を押されるように、ユウリは走り出した。 人々の視線を背に受けながら、魔導書を胸に抱きしめる。 もう、ここにはいられない。 でも、もう逃げるだけの自分ではない。 親友が遺した言葉が、再び頭をよぎる。 “魔法図書館には、“死をほどく言葉”があるかもしれない” だったら探す。 もし、どこかにそんな詩があるなら—— 「今度こそ、咲かせてみせる。あの時、伝えられなかった言葉を」 夜の街を抜けて、ユウリは旅に出た。 魔導書を抱きしめ、まだ咲かぬ言葉を胸に抱いて。靄の奥で、エスティアが両手を広げた。「——《咎読詩・二節》」その声と同時に、谷全体の靄が震え、無数の詩文の花弁が空中に咲き乱れた。花弁は触れた瞬間、冷たい液体のように皮膚へ染み込み、脳裏に過去の映像を押し流してくる。幼い自分が泣いている姿、言えなかった言葉、閉じたままの頁——。思考が過去に引きずられ、足の感覚が鈍くなる。「くっ……!」ユウリは花紋を前にかざし、防御詩の結界を厚く展開した。だが、守りを強めるほど攻撃詩の構築が遅れ、じわじわと押し込まれていく。背後で、トアが短く息を呑む。花紋の欠けた部分が、まるで熱を持った鉄のように脈打ち、痛みが全身に走る。その痛みは歩を進める力を奪い、靄の中で立ち尽くすしかなかった。エスティアは足を止め、楽しげに視線を流す。「いいわ……その苦しみ。まだ咲かない花の痛みは、美しい」靄はさらに濃くなり、花弁の舞いが暴風のように渦を描き始めた。谷全体が、彼女の詩の舞台へと変わっていく。「……ただの詩じゃない。これは——」セリアは靄の流れを凝視しながら、花弁の中で形を変える文字列を追った。それらは一つとして同じものがなく、全てが相手の心に基づいて生成されている。「対象の記憶を直接参照して、詩文を作ってる……だから防御も突破されるのよ」彼女は低く吐き捨てた。「でも、その仕組みは裏返せる。記憶から詩を奪うなら、即興で“こちらの言葉”を流し込み、上書きすればいい」ユウリが花弁を払いながら振り返る。「即興詩なんて、普通は精度が低すぎるだろ」「ええ、未完成の詩は暴発する危険もある。でも——」セリアの視線が鋭く光る。「私がやる。わざと狙わせて、その間にあなたたちは石碑へ」そう言うと、セリアは防御詩を一瞬緩め、自ら靄の濃い方へ踏み込んだ。花弁が彼女を包み、即座にエスティアの視線が移る。「……面白い。自分から読むつもり?」エスティアの口元に、ゆっくりと笑みが広
谷に一歩足を踏み入れた途端、空気が変わった。白い靄が視界を覆い、先は数メートル先までしか見えない。足音はすぐに霞み、代わりに耳の奥で、知らない声がささやき始める。——あの日、言えなかった言葉。——忘れたはずの名前。「……聞こえるか?」ユウリが低く問う。「……ええ、勝手に入り込んでくる」セリアは眉を寄せ、花紋を輝かせて防御詩を展開した。ユウリも花紋をかざし、周囲に薄い光の壁を張る。それでも、断片的な“聞いた覚えのない言葉”が、靄の奥から滴り落ちるように耳へ入り込んでくる。自分の声で、自分が知らない詩を読んでいるような、不気味な感覚。トアは額を押さえ、足取りを止めた。「……また、痛い……」彼女の花紋が強く脈打ち、光の色が淡い銀から血のような紅へと滲み変わっていく。セリアが彼女の肩を支え、険しい声で告げた。「未詩の濃度が高すぎる……この靄そのものが詩文を運んでる」谷の奥から、低く澄んだ声が響いた。——「歓迎するわ、“読めなかった言葉”を抱えた人たち」その声は靄を震わせ、詩そのもののように、胸の奥にまで直接響いてきた。ユウリは黒頁を抱え直し、足を一歩奥へ進めた。何かが、確実に彼らを待ち受けている。靄の向こうから、ゆっくりと人影が現れた。まだ幼さの残る顔立ち。トアと同じくらいの年頃に見えるが、その花紋は輪郭まで真っ黒に塗り潰されている。肌に触れる靄が、彼女の周囲だけは異様に濃く、まるで生き物のように絡みついていた。少女は一歩ごとに、宙へ詩文を咲かせていく。半透明の花弁のような文字列がひらひらと舞い、その一つ一つから、かすかな囁きが漏れていた。「……《咎読》のエスティア」セリアが低く呟く。その名を呼んだ瞬間、少女の唇に小さな笑みが浮かんだ。「ご存じなのね。嬉しいわ」声はやわらかいが、その温度は限りなく冷たい。「ここに来る人はみんな、“まだ読めていない言葉”を抱えてる。あなたたちも……そうでしょう?」ユウリは黒頁をわずかに握りしめ、警戒を隠さない。エスティアは視線を順に巡らせ、最後にトアで止まった。「……あら。その欠けた花……咲かせ甲斐がありそう」彼女の周囲を舞っていた詩文の花弁が、ふっと色を変えた。青、白、そして銀——トアの記憶にあった花畑と同じ色彩。トアの足が、知らず知らずのうちに前へ出てしまう。セリア
夕暮れの風が、荒野を渡って頬を撫でた。分館から離れたユウリたちは、赤く染まる地平線を背に、足を止める。背中の荷物から、ユウリは二枚の黒頁を取り出した。掌の上で並べると、互いの縁が微かに震え、淡い光が走る。「……動いてる……?」セリアが目を細める。黒頁は互いに引き合うように近づき、滲んでいた文字の一部が重なって形を成し始めた。その瞬間、金と銀、二色の光がユウリの指先を抜け、隣に立つトアの胸元へと流れ込んだ。彼女の欠けた花紋が脈打ち、輪郭の欠け目が一瞬だけ埋まる。息を詰めたトアの瞳が大きく揺れる。「……っ」言葉を紡ぐ前に、彼女の意識に映像が押し寄せた。暗い部屋。壁一面の書架と、中央の台に置かれた巨大な魔導書。白衣を着た数人の大人たちが、その詩文を囲んで何かを読み上げている。その端に——小さな自分がいた。幼いトアは椅子に座らされ、魔導書に刻まれた詩を見つめながら、泣いていた。誰も彼女の涙を止めようとはせず、ただページをめくる音だけが部屋に満ちていた。「……やめて……」無意識にそう呟いた瞬間、映像は霧のように消えた。夕暮れの荒野に戻ったトアは、荒い呼吸を整えながら、花紋を押さえた。ユウリとセリアが心配そうに覗き込む。だが彼女はかすかに首を振り、「……見たの。たぶん、昔の……私」とだけ告げた。「昔の……君?」ユウリが問いかけると、トアは唇を開きかけ——しかし次の瞬間、喉の奥で言葉が途切れた。「……っ」額に手を当て、身を屈める。瞳が揺れ、呼吸が乱れていく。「トア!」セリアが肩を支えたが、彼女は小さく首を振る。「話そうとしたら……頭が……痛い」ユウリは眉をひそめ、黒頁の欠片を見やった。二枚の欠片は、まだ薄く脈動している。その光は、まるでトアの花紋に向かって吸い込まれるようだ。セリアが険しい表情で分析する。「黒頁が……花紋の記憶領域に干渉してる。欠片が繋がるほど、君の中の“過去の詩”を引き出そうとしてるのよ」「……だったら……知りたい」トアの声は震えていたが、その奥には確かな意志があった。「思い出せないままじゃ……ずっと、この欠けた花は咲かない」ユウリはしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。「わかった。ただ、無理はするな」そのやりとりの直後、黒頁がふっと光を強めた。欠片の表面に淡い線が浮かび上がり、
転移の光が収まった瞬間、冷えた空気が頬を撫でた。ユウリたちは、崩れかけた大広間の中央に立っていた。天井の高い空間には、かつての威容を誇ったであろう書架が幾列も並び、その多くが傾き、棚板からは砕けた木片や劣化した紙が散乱している。わずかに差し込む光は天井の割れ目から射し込み、空気中には砂塵と紙片がゆっくりと漂っていた。落ちてくるそれは雪にも似ているが、近づけばインクの痕跡がまだ残る古い詩の断片だった。「……まだ、生きてる本がある」セリアが視線を奥へ向ける。長机の上に、他の本とは違う淡い光を帯びた魔導書が数冊並んでいた。ユウリは足を踏み入れる前に呼吸を整え、机へと近づいた。指先で表紙に触れた瞬間、魔導書がわずかに震え、ページが一枚、勝手に開く。そこに現れた文字を見て、彼は思わず息を呑んだ。——見覚えのある筆跡。親友が使っていた、癖のある字形。その字で、短い詩が綴られていた。「……これ、なんで……」ユウリが呟くと、反対側にいたトアも別の本を手に取っていた。彼女の瞳に映るページには、青い花畑の情景が細かく描かれている。彼女は小さく首を傾げ、「知らない……けど、懐かしい」と唇を動かした。セリアも別の一冊を開き、眉を寄せる。「この本……読む人によって、見える内容が変わってる。読み手の“最も読ませたい言葉”を映す仕組みね」三人は無言で互いの本を見比べたが、ページの内容はそれぞれにしか見えないらしい。ユウリは親友の筆跡を指でなぞりながら、胸の奥にじわりと熱いものが込み上げるのを感じた。——まるで、この本たちが、それぞれの心を覗いているようだった。机の上の本から視線を外したとき、ユウリはふと奥の書架に目を留めた。半ば倒れかけた棚の下、崩れた木材と古い巻物の隙間から、淡い脈動が漏れている。「……あれ、光ってないか?」声を潜めながら近づくと、セリアが息を呑んだ。「黒頁……! 間違いない、あの輝きは」慎重に瓦礫をどけると、そこには手のひらほどの黒い紙片があった。表面にはまだ解読不能な文字がびっしりと刻まれ、触れる前から微かなざわめきが指先をくすぐるように伝わってくる。トアが歩み寄ると、欠けた彼女の花紋が急に脈打ち、銀色の光が広がった。黒頁の欠片はそれに呼応し、花弁の欠けた輪郭を一瞬だけ埋めるように輝く。「……あたたかい……」トアの声は
夜明けの光が、草原の端に淡く降りていた。谷を抜けた風はまだ冷たく、靴底に触れる土は、夜露をたっぷりと含んでいる。ユウリは歩きながら、胸の奥に沈む黒頁の欠片をそっと指先で確かめた。指に伝わるひやりとした感触は、ただの紙のはずなのに、時折脈を打つように微かに震えている。横を歩くセリアが、ちらと彼を見た。「……まだ反応してる?」「うん。谷で拾ったときより弱まってはいるけど、完全には消えてない」ユウリはそう答え、視線を前方に移す。遠く、朝靄の向こうに広がるのは、草原と岩場が混じった荒涼地帯。そこだけ色彩が抜けたように見え、風も乾いている。その中央、緩やかな丘が盛り上がり、その上に黒く細い影が二つ並んでいた。木か、岩か、それとも——。「“二つの影が交わる丘”……黒頁の詩が示したのは、あそこかもしれない」ユウリの言葉に、セリアが頷く。だがその瞬間、後方から小さな吐息が聞こえた。トアが立ち止まり、両手で耳を押さえている。「……ざわめき、が……聞こえる」掠れた声が、風に溶けた。ユウリも耳を澄ます。はじめは何もなかったが、やがて微かな低音が、地面を通して響いてくる。人の声とも、風音とも違う。——詩が眠りから身じろぎする音。「黙詩派の仕業かもしれない」セリアは険しい表情になり、魔導書を抱き直す。「このざわめき、聞き続けると“読む前に意味を奪われる”わ。以前、報告書で読んだことがある」ユウリは唇を噛んだ。前回の詩の獣戦で掴んだ手応え——読むよりも語ることで未詩に抗える感覚——が脳裏をよぎる。しかしセリアの警告は重い。「敵は学習してくる」。ならば、今度は語ることすら許さない仕掛けを持ってくるはずだ。丘の黒い影が、朝靄の中でゆっくりと形を変えていく。まるで、誰かがこちらを待っているかのように。その輪郭が重なった瞬間、ざわめきが一段と大きくなった。「行こう。ここで立ち止まっても、向こうから来る」ユウリは短く告げ、歩みを早めた。背後で、トアの欠けた花紋が淡く光を放ち、その光が丘の方向を指し示していた。丘の頂には、きっと新たな頁が待っている——だが同時に、言葉を奪う敵もまた、そこにいる。丘を登るにつれ、草の色は徐々に褪せ、足元の土は灰色を帯びていった。風は弱まり、代わりにあの低いざわめきが耳を侵食するように強まっていく。まるで地面その
夜明け前、空がまだ青く眠っている頃。ユウリは目を覚ました。昨夜までの疲れが体に残っているはずなのに、不思議と意識は冴えていた。原因は、枕元に置いた小さな黒い紙片——分館で手に入れた黒頁の欠片だ。指先で触れる。ひやりとした感触のあと、視界の奥に一瞬だけ文字が浮かんだ。——“花は欠けても、咲く”短い詩の断片。意味をつかむ前に、その言葉は霧のように消える。「……なんだ、今の」呟いた瞬間、隣で眠っていたトアが身じろぎをした。そして——彼女の胸元に刻まれた花紋が、淡く光を帯びた。「……ユウリ?」まだ半分夢の中のような声。だが光は確かに、欠けた花弁の縁から脈動していた。その様子に気づいたセリアが、寝袋から顔を出す。「今、反応した……それ、黒頁に触れたときでしょ」ユウリはうなずく。「トアの花紋と繋がってるみたいだ」トアは不安そうに自分の胸元を押さえる。「痛くはないけど……あたたかい。呼ばれてる、みたい」光はまるで脈拍のように強弱を繰り返す。そして、ほんのわずかに方角を示すかのように揺れていた。「これは……導きだな」セリアは立ち上がり、周囲の地図を広げる。「でも反応が安定しない。このまま追っていいのかは……」「行くべきだ」ユウリは即答した。「これは偶然じゃない。何かに繋がってる」トアは短く息を吸い込み、ゆっくりとうなずいた。「なら……一緒に行く。怖いけど、知りたい」夜明けの光が地平から差し込み、黒頁の欠片に反射する。その輝きは、まるで次の物語の頁を開こうとしているようだった。黒頁の欠片が示す光の揺らぎを頼りに、三人は森を抜けた。朝靄の中、鳥の鳴き声が遠くで響く。しかし歩を進めるごとに、その音も少しずつ遠のいていく。代わりに耳に届き始めたのは——かすかな囁き。誰かがすぐそばで、本を読むような、淡い声。「……聞こえるか?」ユウリが振り返ると、トアもセリアも頷いた。「文字を読む音……でも、人じゃない」セリアは耳を澄ませたまま歩く速度を落とす。やがて木々が途切れ、目の前に荒れた丘陵地帯が広がった。大地はひび割れ、ところどころに灰色の花びらが積もっている。その花びらは乾いているのに、風が吹くたび微かに震え、何かをささやいているようだった。「……言葉の残響」セリアが低く呟く。「昔、誰かが読んだ詩が、
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