朝露に濡れた草葉が陽光にきらめき、鳥たちのさえずりが夜の静寂を押しのけて空へ舞い上がる。
その響きに応えるかのように――鐘が鳴った。 低く、けれど力強く。 空の高みにまで届くような荘厳な音色が、今日もまた、ベルノ王国の一日が始まったことを告げていた。 それは、王国の揺るぎない象徴。 民に平和と祝福を届ける“祈りの音”だ。 私は――その祈りを、誰よりも大切に受け止める者。 陽光を含んだ金色の髪、澄んだ碧の瞳。 王国に仕える、聖女見習いの少女。 まだ見習いとはいえ、人々の病や苦しみを祈りで癒す力を授かった私には、この国に生きる者としての、ひとつの使命がある。 それは、世界がほんの少しでも優しくあれるようにと、祈り続けること。 この手には何の武器も握っていない。 けれど私は、私にできることを信じて、今日も静かに祈りを捧げていた。 そのときだった。 「エレナ様っ!!」 バンッ! 教会の重厚な扉が凄まじい勢いで開け放たれ、息を切らした男性が、転がり込むようにして聖堂の中へ駆け込んできた。 扉が壁に激突し、石造りの空間に鈍い音が響き渡る。 ひんやりと肌を撫でる空気の中、ステンドグラスを透かした光が床に落とす虹色の欠片が揺れた。私は祈りを中断し、思わず顔を上げた。 額に汗をにじませ、肩で荒く息を吐くその男性の目は、恐怖に見開かれていた。 何かに怯えきったように、わずかに震えている。 「こんにちは。本日も、良いお天気ですね。……何か、お困りですか?」 私は穏やかに立ち上がり、声をかける。 少しでも、この人の心を覆う不安の影を、和らげられるように。 「さ、昨晩……! この街のすぐ近くの森に、グールが出たんです!!」 グール――人の生肉を喰らう魔物。 人間の体格を模した不気味な姿、緑の粘液に覆われた皮膚、鋭利な爪と牙を持った異形の怪物。 ベルノ王国にグールが現れるなど、本来なら万に一つもないはずだった。 なぜなら、国境は精鋭の騎士団によって厳重に守られており、魔物などは境界で排除されているはずだからだ。 「グール……でございますか。冒険者ギルドには、すでにご連絡を?」 「し、しました! でも、ギルドの方が言うには……どうも、様子が妙なんです! 討伐隊が出たというのに、奴らの痕跡がまるで見当たらなくて、まるで、霧か何かのように消えてしまったみたいで……!」 男性の声には、隠しきれない動揺と焦燥がにじんでいた。 (これは……ただのグールじゃない。突然変異か、あるいは知性を備えた個体か。騎士団が動いても痕跡がないなんて、まるで“誰か”が意図的に痕跡を消しているみたい……? ううん、考えすぎかな。でも、いずれにしても、ただ事じゃないのは確かだ) 「だから……どうか、“エレン”殿に……! ギルドより教会経由で依頼した方が早くて確実だと、街の者たちも皆……! どうか……!」 “エレン”――その名を聞いた瞬間、私は静かにまぶたを伏せた。 この国で、その名を知らぬ者はいない。 冒険者ギルドが誇るS級剣士。 魔法が力の主流となるこの時代に、ただ一振りの剣のみで魔物たちを討ち滅ぼしてきた、孤高の戦士。 けれど彼は、私にとって――ただの戦士ではない。 この身体に共に宿る、もうひとつの魂。 私と、“ふたりで生きている存在”。 (また、直接の依頼か……) 心の奥深く、まるで水面の底から響くように、もうひとつの声が静かに語りかけてくる。 エレンの声は、いつも落ち着いていて、それでいてどこか優しい。 (最近、ギルドを通さず教会に来る人が増えたよね) (仕方あるまい。人々は、藁にもすがる思いで、確かな“救い”を求めている。応えられるなら、応えるまでだ) (ふふ……そうだね。誰かの役に立てるのなら、それは素敵なことだよね) 「……わかりました。確かに、エレンに伝えておきます」 私が頷くと、男性は心から安堵したように頭を下げ、震える声で礼を述べて教会を後にした。 そんな彼の背中を、私はしばらく祈るような気持ちで見送っていた。 *** 日が傾き、空が茜色に染まりはじめる頃。 冒険者ギルドの中は、今日も活気に満ちていた。 ここは酒場としての機能も持ち、昼夜を問わず、騒がしさと麦酒の匂いが漂っている。 屈強な戦士たちが大声で笑いながらジョッキを呷り、魔導師たちが依頼書に目を通し、弓使いや剣士たちが仲間と次の作戦を練っている。 (……やっぱり、お酒の匂いが強いなあ。ちょっとクラクラしちゃうかも) (贅沢な悩みだな) エレンが、少し拗ねたような響きで応じる。 (も、もう少し待っててね? 私がお酒飲める歳になったら飲ませてあげるから…) (……ああ。楽しみにしておこう) 私たちは、ひとつの身体にふたつの魂を宿す、特異な存在。 昼は私――エレナが。 夜は彼――エレンが、この体を託される。 互いを理解し、信頼し合いながら、たったひとつの命を、ふたりで紡ぎながら生きている。 受付に向かうと、明るい笑顔の看板娘が私を見つけて声をかけてきた。 「エレナさん! ようこそ! 今日はどうしたんですか?」 「こんにちは。グールの件で、お話を伺いに参りました」 彼女の笑顔がふっと陰り、次の瞬間には引き締まった表情に変わる。小さく息を呑み、声を潜めて答えた。 「騎士団も動いているのですが、未だ痕跡は見つかっていません。まるで、最初から何もいなかったように――」 (……慎重な個体か、あるいは知能を持つ異種。どちらにしても、油断はできん) (ねぇ、エレン。騎士団の人たちって……街の外れにある下水道とか、見てくれてるかな? 本で読んだことがあるの。グールは日差しの届かない、湿った場所を好むって……) (ふむ……理には適っているな。だが、あてにはしない方がいい) (えっ……?) (騎士団は“体裁”を大事にする。装備が汚れるような場所は、優先順位が低い傾向がある。……それに、彼らには彼らの“正義”がある。我々とは、見る景色が少し違うだけだ。最初から我々で確認するつもりでいた方がいいだろう) (うん……わかった) 「その件、確かにエレンに伝えます。教会が引き受けましょう」 受付嬢の顔がぱっと明るくなり、声を落として囁く。 「本当に……ありがとうございます。正式な報酬もないのに、いつも命懸けで……ギルドマスターも、心から感謝しています」 (……ふむ。感謝か。悪くない) エレンの声に、いつもよりほんの少しだけ柔らかい響きが混じった。 私は、その声を胸の奥で受け止めるように、静かに微笑んだ。 やがて、空は紅から藍へと染まり、一番星がそっと瞬き始める。 夜の帳が降りれば、この身体は―― もうひとりの私、エレンへと託される。 祈りと剣。 聖女と戦士。 ふたつの魂は、たったひとつの命を分かち合いながら、誰かのために今日も歩き出す。「さてさて。私はパンを食べたら、少し町を調査してみますかねぇ。」ミストさんが、楽しげに周囲を見渡す。「おや! あそこ、座って食べるにはもってこいですよ!」彼女の指差した先には、小さな木造ベンチがぽつんと置いてある。ミストさんはベンチに腰を下ろすと、うれしそうに袋からパンを取り出し――ひとくち、頬張る。「ん~~~!!! 美味しいですねぇ~!」緊張感が全く無いその様子に、さっきまで胸にあった警戒心が、ふっとどこかへ消えていった。私も、ミストさんの隣に腰を下ろす。そして、三つ買ったうちのひとつを、そっと手渡した。「おや? これは??」「いつものお礼です。」そう言うと――「な、なんてお優しい……!!シイナ君なんて……長年一緒にいるのに、こんなことしてくれませんよ……!」ミストさんが大げさに、でも本当にうれしそうに喜んだ。その時。「ヘックシッ!!」遠くの方で、誰かのくしゃみが聞こえた。……たぶん、シイナさんだと思う…。私は思わず、くすりと笑った。「それより……私も調査するね。なにか、手伝えることはある?」私はミストさんに尋ねた。「ふむ。では、一緒に歩きましょう!まだこの結晶、完全に機能してるか怪しいところがあるので――エレンさんの感知が頼りになる時や、浄化をお願いする時があるかもしれませんから!」ミストさんは、パンを片手にそう答えた。***そして、私たちは調査を開始した。空は、雲ひとつない清々しい青。これから歩き回るには、もってこいの天気だった。「さぁ! じゃあ行きますよぉ!!」「お、おー!!」私も、右腕を空に伸ばして、ミストさんのノリに少しだけ合わせる。「まずは、聞き込み調査からですっ!」ちょうど、町民と思われる男性が通りかかった。「すみませーん! 少しお伺いしたいのですが!!」ミストさんが元気よく、男性の方へ駆けていく。「お、おお? なんかの調査かい?」「そうなんですよ~。ところで……お兄さん! なにか最近、困ったこととかありませんか!?」ミストさんが、自然な笑顔で尋ねた。「うーん……困ったことかぁ……特にはないかな?」「そうですか~! いえ、なら結構です!!」元気よく一礼するミストさんに、男性が「はは、元気だね」と笑いながら、私にも手を振って去っていった。私はぺこりと
野営地のテントへと戻ると、朝の柔らかな光が木々の葉を透かし、きらきらと地面で揺れていた。夜の冷気はもうどこにもなく、空気に暖かさが満ち始めている。「ん…おはよう」焚き火の番をしていたらしいシイナさんが、私の足音に気づいて顔を上げた。「うん、おはようございます」私も同じように手を振って、笑顔で返す。少しずつ、本当に少しずつだけど、仲間たちに敬語を使わずに話すことに慣れてきた気がする。「朝から出かけていたのか? 珍しいな」「ダンジョンを見つけて……ちょっとだけ、中に入ってみたの」言った瞬間、シイナさんの穏やかだった表情が僅かに固まった。「…ダンジョン? 一人で…?」彼の声のトーンが、少しだけ低くなる。彼が純粋に心配してくれているのが痛いほどわかったから、私はできるだけ落ち着いた声で説明した。「エレンが、私の自身の護身のためにも戦闘の訓練が必要だって言うから……。本当に少しだけ潜って、様子を見てきただけなんだ」その言葉に、シイナさんは何かを考えるように少しだけ目を伏せた。「なるほど… エレンの判断か」彼は一度言葉を切り、私に向き直る。「そうだな、…いざという時もある。」「自身の護身の為の実戦経験も必要だろう。無事に戻ったから何も言わないが、次からは俺も同行させてもらうぞ? 心配だからな」私のことを心から案じてくれているのが伝わってくる、その真っ直ぐな言葉が、胸の奥にじんわりと温かく染みていく。そんなやり取りをしながら自分たちのテントへ戻ると、どうやら先に戻っていたらしい三人が、それぞれの形で迎えてくれた。「おっ、戻ってきたか、エレナ!」「待ってましたよぉ~!」「おかえりなさい」軽く手を振ってくれるその姿に、張り詰めていた肩の力が自然と抜けていくのを感じる。「グレン、ミスト。口だけじゃなくて、手も動かしてくれると助かるんだがな」シイナさんが、二人を見て、やれやれと首を振る。「一人だけ優雅に本を読んでるヤツに言われたかねぇよ!」「そーだそーだぁ! 我々が働いているというのに!」二人が示し合わせたように、息ぴったりにシイナさんを責め立てる。「…これは遊びで読んでる訳ではないんだが!??」「はぁ……」その深いため息だけが、朝の空気にやけに大きく響いた。***ほなんだかんだと騒がしくテントの片付けを終えた私たちは、
フードの奥、空洞であるはずの眼窩に、殺意そのものが紅い光となって灯った。憎悪に満ちたオーラが空間を圧し潰すように膨れ上がり、骸骨の魔物が床を蹴る。空間そのものを歪ませるような怒気をまき散らしながら、一直線に跳びかかってくる。刃のように鋭利な骨の鎌が、空気を引き裂く音を立てて横薙ぎに迫る――。(しゃがめ……っ!)エレンの声が、思考に直接打ち込まれるように鋭く響く。脊髄が命令を理解するより早く、私は地を這うように身を屈めた。鋭い鎌は私の髪を数本かすめ、背後の壁に深い傷を刻んだ。ぞっとするほどの空圧が通り過ぎていく。「今っ!」しゃがんだ姿勢のまま、短剣に宿した聖なる光を、祈りと共に前方へと突き出す。眩い光芒が圧縮され、白熱の刃となって一気に伸長。狙い過たず、がら空きになった魔物の胸郭を深々と貫いた。『オ、オオオオ……ッ!』音ならざる悲鳴が、魂に直接響く。「ていっ!」私は光の刃を握る手に力を込め、真横に薙ぎ払う。骨が砕ける物理的な感触ではない。魔物の霊体を構成する瘴気を焼き切るような、魂そのものが軋むおぞましい抵抗が手に伝わった。ザンッ――!聖なる軌跡を残し、特異個体の魔物は霊的な繋がりを断たれたかのようにガクンと崩れ落ち、動かなくなった。「……あれ?特異個体って、もっと手強いんじゃ……?」(違う。君が、強くなったのだ)「えっ……?」(この旅が、君の眠っていた身体能力を目覚めさせている。そして……その身に宿す聖属性の純度は、以前とは比較にならんほど高まっている)知らなかった。でも、エレンの言葉がじんわりと胸に染みてくる。内側から、確かな熱が生まれるのを感じた。「私も、成長してるんだ…」その感慨に浸る、ほんの刹那。(エレナ――ッ!後ろだ!!)エレンの警告が、警鐘のように頭蓋を揺らす。「えっ……!?」――死角。いつの間に回り込んでいたのか。二体目の魔物が振り上げた骨の鎌が、すでに眼前に迫っていた。その瞬間。カチィンッ――!私の意志とは無関係に、左手が勝手に腰の短剣を抜き放ち、眼前の鎌を弾き返していた。金属と骨がぶつかる甲高い音が響く。「ええっ!?」(ふう……どうにか防げたな)「すごい……エレン! こんな真似ができるなんて……!」(私の方も、君という器と馴染み、日々できる事が増えている……ということだ)――
鳥のさえずりが、静かに朝の訪れを告げてくれる。 風は優しく、テントの幕を揺らしていた。私は、ゆっくりと身を起こす。 (おはよう、エレナ) 「……おはよう、エレン」 彼の名を、声に出して呟く。 今となっては、仲間たち全員が、私たちの“秘密”を知っている。もう、このやり取りを、何かに怯えながら行う必要はないんだ。その事実が、胸を温かくする。 私はテントの入口を開け、外の様子を覗き込んだ。夜の間に降りた朝露に濡れた、ひやりと冷たい空気が、頬を撫でる。 「まだ、みんな寝てるかな……。着替えて、少し散歩に行こう」 (いい案だな) 私はそう呟いて、ゆっくりと立ち上がる。 寝間着姿のまま荷物へ手を伸ばし、清潔に畳まれた服を取り出した。柔らかな素材の白いシャツを身にまとい、次に、金の刺繍があしらわれたスカートを丁寧に履く。 司祭様から貰った、聖女としての衣服。袖を通すと、自然と背筋が伸びる気がした。 心配をかけないよう、簡単な置き手紙を書き残し、私はそっと、キャンプ地を離れた。 *** 朝靄に包まれた森の中を、私は一人、歩いていた。 「ここ、綺麗……。川の水も澄んでるし、なにより、自然の匂いがする」 (ああ、そうだな) 木々のざわめき、川のせせらぎ、遠くで響く鳥の声。そのすべてが、メモリスでの戦いで張り詰めていた心を、浄化してくれるようだった。 そんな、穏やかな時間の中―― (……エレナ) 「ん? どうしたの?」 (左前方だ。……何か、感じないか?) 言われた方へ視線を移す。最初は、木々と下草しか見えなかった。 けれど、ゆっくりと近づいていくと―― 「……あっ」 落ち葉の陰に隠れるように、古びた石造りの“階段”が、黒い口を開けていた。まるで、大地に空いた、古い傷跡のようだ。 (……ダンジョン、だな) エレンの声が、低く呟く。 ダンジョン……。魔力が自然に溜まった場所に生まれる、魔物の棲み処。その構造は一つとして同じものがなく、冒険者にとっては未知の試練と言われている。 「ど、どうする……?」 (魔物の気配はする。……だが、大した強さではないな) 「じゃあ……行ってみようかな? ……エレン、代わる?」 (ふむ……いや、このまま行こう) 「えっ!?」 (昨日、エレナに対して“甘そう”だと、シイナに言われてしまってな。ち
「……次は、ナヴィス・ノストラだ」シイナさんが指した、地図の一点。その地名に、私の心臓が、とくん、と小さく跳ねた。「ナヴィス・ノストラ……」ぽつりと呟いた私の声に、ミストさんが「おお〜」と声を上げる。「さすがシイナ君。確かにそのルートなら、禁足地までの距離も縮まりますね」ナヴィス・ノストラ。私も、その名は知っている。歴史の影に、隠れるように存在する――小さな港。そして、その海の先にあるのは……聖女の地下墓を擁する国。「エレナ。察しはついていると思うが、ナヴィス・ノストラの先には“へレフィア王国”がある」「うん……。私のお母様も、そこに眠っているから……」その一言で、ほんの少しだけ、場の空気が澄んだように静かになる。大丈夫。悲しいけれど、私はもう、それに縛られないと決めている。お母様は、その命を、祈りと共に国のために捧げたのだから。その誇りを、私が受け継ぐ。「ああ。道中、近くを通るなら……君もきっと、先代の聖女様のお墓参りに行きたいと思ってな」シイナさんの、不器用だが、温かい気遣いが、胸にじんわりと染み込んでいく。「……ありがとう」私はそっと微笑んで、みんなの顔を見た。「では、へレフィア王国が次の目的地……そして“隠れ港”は、そこへ向かうための中継地ということですね?」シオンの確認に、シイナが頷く。「ああ。準備ができ次第、出発するぞ」その言葉で、私たちの新しい旅路が、確かに定まった。***メモリスを発って数時間後、私たちは、久しぶりに“野宿”をすることになった。空が茜色から深い藍へと移り変わり、一番星が瞬き始める。焚き火を起こし、その火の番をするグレンさん。黙々と、しかし手際よくキャンプの準備をするシイナさん。夜の森で薪を集めるシオンさん。今日の食料を吟味し、下ごしらえをするミストさん。そして私は、この小さな営みを守るため、周囲に四方結界を張っていた。「よし……ここで、最後」私が最後の一角に祈りを重ね、結界が淡い光のドームとして完成した、その瞬間だった。――誰かに、見られている。敵意ではない。殺気でもない。ただ、静かで、理知的な、何かの視線。顔を上げ、結界の向こう側の闇に目を凝らすと――それは、いた。闇よりも深い夜に溶ける、白銀の毛並み。燃えるような、赤い双眸。体躯は人ほどもあるだろうか。けれどその
──────エレナの視点──────翌日――ラムザスさんの暴走を止めた私たちは、メモリスの領主から、正式な呼び出しを受けていた。案内されたのは、街の庁舎にある、静かで、どこか無機質な応接室。そこにいたのは、白い研究衣をまとった一人の女性だった。長く艶やかな黒髪を後ろで一つに束ね、理知的な眼鏡の奥から、疲労と安堵が入り混じった眼差しを、私たちに向けてくる。「皆さん、この度は……ラムザスを止めていただき、本当にありがとうございました」彼女――この街の正式な代表である領主が、深々と頭を下げた。「言い訳になるかもしれませんが……私も、家族を人質に取られておりました。ラムザスの狂気には、逆らうことができなかったのです……」「事情は、分かりました。ですが……あなたの命令だと言っていた者たちに、ソウコ君…被験者の一人が襲われかけました。あれは、一体?」私は、あの路地裏での出来事を思い出しながら、尋ねる。その声に、棘はなかった。ただ、事実が知りたかった。「それも全て、ラムザスが私の名を騙り、衛兵や傭兵を操っていたのです……。私は、私の専属の衛兵に、あの少年をあくまで“保護”するよう、命じておりました」その声は震えていて、決して演技ではないと分かる。形式上はこの女性が“長”であったものの、実質的にこの街を支配していたのは、やはりラムザスさんだったのだろう。「なるほど…それで、ソウコ君を……」私が頷くと、それまで黙っていたシイナさんが、一歩前に出た。その瞬間、場の空気が、友人との会話から、公的な交渉へと変わる。「あなたの苦境、致し方ない部分もあったと理解します。なので、まずは“被験者”たちの保護を優先させていただきたい。彼らは今後、ベルノ王国の魔法研究所が、責任を持って引き取ります」その口調は明快で、けれど決して感情的ではない、落ち着いた圧力を纏っていた。「ええっ……! それは……! ぜひ、お願いいたします……!」領主は胸に手を当てて、心からの安堵の吐息を漏らす。シイナさんは、淡々と続けた。「次に、この街の技術について。完全に封印すれば、民の生活基盤が崩れるでしょう。よって、一定の条件を飲むのであれば、記憶の取り扱いを、今後も王国は許可します」「ほ、ほんとうですか!? し、して、その条件とは……!?」身を乗り出す領主に、シイナさんは