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あなたは南へ、私は北へ

あなたは南へ、私は北へ

By:  七々Completed
Language: Japanese
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千葉夕子(ちば ゆうこ)には、鹿野景祐(しかの けいすけ)を何回許したかを記録するノートがある。 半年前、景祐は夕子の誕生日に、彼女を置き去りにして白石遥(しらいし はるか)に会いに行った。夕子が彼を許したのは今回93回目だ。 三ヶ月前、遥の「猫アレルギーがある」の一言だけで、景祐は夕子が長年飼っていた猫を他人に譲った。夕子は94回目の許しを彼に与えた。 一ヶ月前、景祐は酔っ払って、遥と一緒のベッドで目を覚ましたにもかかわらず、「何も起こらなかった」と言い張り、逆に夕子の心が汚いからそんなことが思いつくと言い放った。これで夕子が彼を許すのは95回目となった。

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Chapter 1

第1話

千葉夕子(ちば ゆうこ)には、鹿野景祐(しかの けいすけ)を何回許したかを記録するノートがある。

半年前、景祐は夕子の誕生日に、彼女を置き去りにして白石遥(しらいし はるか)に会いに行った。夕子が彼を許すのは今回93回目だ。

三ヶ月前、遥の「猫アレルギーがある」の一言だけで、景祐は夕子が長年飼っていた猫を他人に譲った。夕子は94回目の許しを彼に与えた。

一ヶ月前、景祐は酔っ払って、遥と一緒のベッドで目を覚ましたにもかかわらず、「何も起こらなかった」と言い張り、逆に夕子の心が汚いからそんなことが思いつくと言い放った。これで彼を許すのは95回目だ。

そして今日、夕子は病院のベッドに横たわり、遥に轢かれて負傷した右足を見つめながら、事故の瞬間に真っ先に遥のもとへ駆け寄った景祐の姿を思い出し、再びノートを開いてこう書いた。

【96回目 景祐を許す】

このノートは99ページしかない。まるで彼女が心で決めたように、景祐を許せるのは99回までだ。

99回目に達したら、それは彼女が去る時だ。

夕子は深く息を吸い、そっとノートを閉じた。

ちょうどノートをしまおうとしたその時、隣のソファで眠っていた景祐が目を覚まし、夕子の動きに気づいて目を擦りながら掠れた声で聞いた。

「何を隠してるんだ?」

「別に、仕事のメモよ」

夕子は話題を逸らして、ごまかした。

景祐はそれ以上追及せず、近寄って夕子の点滴を確認した。

交通事故に遭ってから今まで、景祐は不眠不休で夕子の世話を一日中してきて、ほんの二十分前にようやくソファで、束の間の眠りについたのだった。

夕子は彼の赤くなった目を見て、ついに我慢できずに口を開いた。

「お医者さんも大したことないって言ってたから、先に戻って休んでいてよ」

「そんなことできるわけないだろ?」

景祐は思わず否定した。

「お前は病人だ。そんなお前を一分たりとも一人きりにしておくなんて、不安でできない」

そう言いながら、景祐は立ち上がって夕子の布団をかけ直し、背もたれの角度を整えた。細心の気配りが全身からにじみ出ているようだ。

目の前の男の、情深く痛々しい様子を見て、夕子の脳裏に二日前の遥が傲然と彼女を見つめる表情がよみがえった。

「夕子、三年前、景祐のために自分のお兄さんと喧嘩して、縁を切ってまで景祐と一緒に西京に来ることを選んだって聞いた。景祐もその原因であんたを命がけで愛してるよね。

でもさ、もし私たちが同時に事故に遭ったら、景祐は真っ先にどちらに駆け寄ると思う?」

遥はそう言い終えると、夕子に反応する間も与えず、アクセルを踏み込んで突っ込んできた。

不意を突かれ、車がぶつかってきた瞬間に夕子は片足が挟まれ、血まみれになった。

少し離れた場所にいた景祐も音を聞いて駆けつけたが、彼が真っ先に向かったのは夕子ではなく、遥の方だった。

この瞬間、夕子がずっと自分に言い聞かせてきた「景祐はまだ自分を愛している」という甘い夢は、完全に打ち砕かれた。

人間の最初の反応は、偽れないものだ。

生死がかかったその瞬間、景祐が選んだのは、別の人だった。

そんなことを思い出しながら、夕子が彼に戻って休んでと声をかけようとしたその時、景祐の携帯が鳴った。彼は番号を一瞥して、少しためらいながら夕子を見た。

「会社からの電話だ。ちょっと出てくる」

そう言って、彼は背を向けて出て行った。

数秒も経たないうちに、看護師が回診に訪れ、ちょうど病室のドアを開けた。すると、入り口に立つ景祐の電話の声がはっきりと聞こえてきた──

「景祐、どうしよう、また悪夢を見た……ずっと夕子に轢き殺される気がするの……早く来て……」

この言葉を聞いた途端、景祐の表情が一変し、瞳の奥に痛々しい色が浮かんだ。

彼は声をひそめて優しくなだめた。

「遥、怖がらないで。すぐ行くから」

数分後、景祐が再び戻ってきて夕子の額にキスをした。

「ごめん、ハニー。会社にちょっと急用ができて、すぐ戻らなきゃ。あとでまた来る」

そう言って、夕子の返事も待たずに慌ただしく病室を後にした。

しばらくすると、若い看護師が、ニヤニヤと笑いを浮かべながら部屋に駆け込んで来て、小声でゴシップを囁いた。

「さっきこの病室から出ていった男の人、すっごくイケメンね。イケメンなだけじゃなくて、すごく優しくて、電話でずっと『ハニー、ハニー』って呼んでたの。きっと彼女をなだめてたんでしょうね。あんなに彼女思いの彼氏がいるなんて、超羨ましい……」

病室には夕子と景祐の関係を知っている年配の看護師がいて、彼女を軽く肘で突いた。それでようやくまずいことに気づき、彼女はすぐに口を閉じて病室を出ていった。

夕子はそれを聞くと唇を噛みしめ、しまったばかりのノートを再び取り出して、改めて書き記した。

【96回目景祐を許す。私だけを『ハニー』と呼ぶって約束したのに、嘘だった】
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Comments

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蘇枋美郷
99回も我慢できるのが凄いなとやっぱり思ってしまった。クズ達の結末は自業自得。主人公はお幸せに♡
2025-09-14 14:13:43
0
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松坂 美枝
安定のクズカップルの末路であった
2025-09-14 11:35:51
1
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第1話
千葉夕子(ちば ゆうこ)には、鹿野景祐(しかの けいすけ)を何回許したかを記録するノートがある。半年前、景祐は夕子の誕生日に、彼女を置き去りにして白石遥(しらいし はるか)に会いに行った。夕子が彼を許すのは今回93回目だ。三ヶ月前、遥の「猫アレルギーがある」の一言だけで、景祐は夕子が長年飼っていた猫を他人に譲った。夕子は94回目の許しを彼に与えた。一ヶ月前、景祐は酔っ払って、遥と一緒のベッドで目を覚ましたにもかかわらず、「何も起こらなかった」と言い張り、逆に夕子の心が汚いからそんなことが思いつくと言い放った。これで彼を許すのは95回目だ。そして今日、夕子は病院のベッドに横たわり、遥に轢かれて負傷した右足を見つめながら、事故の瞬間に真っ先に遥のもとへ駆け寄った景祐の姿を思い出し、再びノートを開いてこう書いた。【96回目 景祐を許す】このノートは99ページしかない。まるで彼女が心で決めたように、景祐を許せるのは99回までだ。99回目に達したら、それは彼女が去る時だ。夕子は深く息を吸い、そっとノートを閉じた。ちょうどノートをしまおうとしたその時、隣のソファで眠っていた景祐が目を覚まし、夕子の動きに気づいて目を擦りながら掠れた声で聞いた。 「何を隠してるんだ?」 「別に、仕事のメモよ」 夕子は話題を逸らして、ごまかした。 景祐はそれ以上追及せず、近寄って夕子の点滴を確認した。 交通事故に遭ってから今まで、景祐は不眠不休で夕子の世話を一日中してきて、ほんの二十分前にようやくソファで、束の間の眠りについたのだった。夕子は彼の赤くなった目を見て、ついに我慢できずに口を開いた。 「お医者さんも大したことないって言ってたから、先に戻って休んでいてよ」「そんなことできるわけないだろ?」景祐は思わず否定した。「お前は病人だ。そんなお前を一分たりとも一人きりにしておくなんて、不安でできない」そう言いながら、景祐は立ち上がって夕子の布団をかけ直し、背もたれの角度を整えた。細心の気配りが全身からにじみ出ているようだ。目の前の男の、情深く痛々しい様子を見て、夕子の脳裏に二日前の遥が傲然と彼女を見つめる表情がよみがえった。「夕子、三年前、景祐のために自分のお兄さんと喧嘩して、縁を切ってまで景祐と一緒に
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第6話
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第7話
景祐がなぜ突然こんなことを言い出したのか、自分でもわからなかった。ただ、夕子が確実に自分から離れようとしている強い焦りを感じて、たとえ結婚という形であっても、彼女を引き留めなければならないと思ったのだ。 夕子はその言葉を聞いて、一瞬体が硬直した。彼女はまだ景祐に背を向けたまま、数秒間沈黙した後、静かに尋ねた。 「……どうして?」これまで何度もプロポーズする機会はあったのに、彼は一度も真剣に考えた様子もなかった。なのに、なぜ今、こんなにも露骨に裏切った後に、結婚を口にするのか? 景祐は夕子が承諾したものと勘違いし、笑顔で近づいてきた。「どうしても何もないよ。俺たちは長年付き合ってるんだから、いつかは結婚するはずだ。今がちょうどいいタイミングだ」 夕子はその言葉を聞いても、心が少しも動かなかった。ただ、淡々と答えた。 「……そう」 景祐は夕子の拍子抜けするほど冷静な反応に面喰らい、自分がおざなりな態度を取っていると誤解されたのだと思った。 そこで、すぐにまた口を開いた。 「夕子、安心しろ。お前が必要なものは、何一つとして欠かさない」その後、夕子が再び何か言う前に、彼は病室を出ていった。 夕子はうとうとと眠りに落ち、目を覚ますとすでに夜になっていた。会社から連絡が入り、西京を離れる飛行機のチケットについて確認してきた。ちょうど2週間後だ。 情報を確認した後、医者に会いに行くと、1週間もすれば退院できると言われた。 夕子はようやく安堵の息をつき、病室に戻ろうとした。しかし、廊下の曲がり角に着いた瞬間、突然バラの花を持った人々が現れ、彼女を取り囲んで歓声を上げた。「千葉さん、おめでとうございます!」 夕子は一瞬呆然としたが、その中心でスーツを着てダイヤモンドの指輪を持っている男が景祐だと気づいた。彼女は思わずくしゃみを連発し、鼻を押さえた。 しかし、景祐は我を忘れてその場の空気に浸ったまま、片膝をついて指輪を高く掲げた。「夕子、結婚してくれ!」 夕子は眉をひそめた。花の香りが強すぎて、鼻がむずむずする。彼女は手を上げて景祐に立ち上がるよう促そうとしたが、景祐はすぐに指輪を彼女の指にはめ、興奮して叫んだ。「夕子、やっと俺のプロポーズを受け入れてくれた!
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第8話
夕子の視線がダイヤの指輪に落ちると、突然呼吸が苦しくなった。まるで、また花粉アレルギーの発作に襲われたかのように。 遥はその様子を見てさらに得意げになり、わざと半步下がって自分のお腹をさすりながら言った。「夕子、本当にあなたの忍耐力には感心するわ。こんなに露骨に浮気されても、まだ結婚を考えてるなんて!たとえ『鹿野夫人』の肩書きを手に入れたって、何の意味があるの? 昨日、景祐が私の妊娠を知って、どれだけ喜んだかあなたにはわからないでしょうね!」 まさか景祐が昨日ずっと姿を見せなかったのは、遥と親になった祝いをしていたからだったのか。夕子は目の前のその厚かましい女を見て、唇をわずかに歪ませた。「それは、本当におめでとう」 そう言い終えると、彼女は振り向いて立ち去ろうとした。しかし、その瞬間、景祐が駆けつけてきた。彼は夕子を背後に守り、冷たい目で遥を睨んだ。「お前、ここで何をしている?さっさと帰れ!」 遥は景祐の態度を見るなり、すぐに涙ぐんだ表情を作り、小さな声で訴えた。「景祐、私……ちょっと体調が悪くて、病院に検査に来たの……お腹がずっとチクチク痛くて、怖くて……」 彼女の目に浮かべたその芝居がかりはあまりに明らかで、誰が見ても即座に「演技」と見抜けるほどだった。だが、景祐は抑えきれない心配を覚え、眉をひそめて言った。「だったら早く医者に診てもらえ! なぜここでぐずぐずしている!」 遥はさらに涙をぽろぽろと流し始めた。「でも一人じゃ怖いの……だって私、初めてで……初めて……」 もう少しで「妊娠」という言葉が出そうになった。景祐は思わず前に出ようとしたが、振り返って青ざめた夕子の顔を見て、ぐっと踏みとどまった。「自分で医者に行け。検査くらい、何が怖いんだ」 そう言うと、夕子を抱きかかえるようにして病室に戻った。 しかし、病室に入った景祐はますます落ち着きを失い、心はすでに遥のもとへ飛んでいるようだ。彼は何度も病室の外を見やり、携帯をチェックしてはメッセージを待つ。明らかに気が気でない様子だ。 夕子はそんな景祐を見て、西京に来たばかりの頃を思い出した。気候になじめず何度も熱を出した彼女を、景祐は心配そうにずっと見つめていた。今、その心配はもう別の人に向けられて
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第9話
景祐はその後1週間、病院に来なかった。夕子は回復すると、自分で退院手続きを済ませた。二人のアパートに戻ると、彼女は自分のものをすべて整理し、いらないものは清掃員に捨てさせた。必要なものは宅配便で海崎に送った。西京に来る前から海崎に自分の家があったので、戻っても荷物の置き場所に困ることはない。その後、夕子はアパート内で二人で買ったものをすべて捨てた。以前使っていたペアのコーヒーカップやペアのパジャマも含めて。もう自分はいなくなるのだから、これらの痕跡もきれいに消すべきだ。景祐の新しい恋人のために、場所を空けてあげるべきだ。すべてを片付けた後、夕子は携帯で飛行機のチケットを確認しようとしたが、その時、遥のインスタ投稿が表示された。【産検に付き添ってくれる人がいるって最高。赤ちゃんも大人しいし、パパもとっても優しい】添付された写真には、2つの大きな手が握り合っていた。その手のほくろの位置は、まさに景祐のものだった。 夕子は遥のプロフィールを開き、この1週間で彼女がこんなにも多くの投稿をしていたことに気づいた。【お腹に新しい命が宿っている。感動で泣いちゃった……】【どれだけ愛されてれば、子供を産むことを許されるのか。ある人には一生わからないでしょうね】【どんなにしがみついたって、彼の心も体も私のものよ】どの写真にも、遥を世話する景祐の姿が写っていた。顔は写っていなかったが、写り込んだ腕時計や服装から、夕子にはすぐにそれが景祐だとわかった。 夕子はそれらの写真をじっと見続け、気づけば夜になっていた。 ドアが開き、明かりが灯った瞬間、景祐は夕子の姿に驚いた。 「夕子! 退院したのか? いつ帰ったんだ?」 夕子は携帯をしまい、淡々と答えた。「今朝」 「ならなんで連絡してこなかったんだ? ごめん、この1週間本当に忙しくて、会社の仕事が——」 景祐はいそいそと言い訳を並べたが、途中で気づいた。夕子は一度も自分を見ようとしていなかった。まるで、彼がどこに行き、何をしていたか、全く気にしていないかのように。 「シャワーを浴びてくる」と言って、夕子は寝室に入った。 景祐の不安は少しずつ膨らんでいった。その後数日、彼は仕事が終わるとすぐに帰宅し、夕子も家にいた。しかし、それ
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第10話
予約したフライトの日は、景祐が婚姻届を提出すると言った日でもあった。夕子は早々に身支度を整え、このアパートに残した最後のバッグを手に取り、玄関で4年間住んだ部屋を振り返り、何も言わずに立ち去った。彼女は景祐と婚姻届を出すつもりはなかったが、かつて愛し合ったことへの区切りとして、自分自身に答えを出したかった。彼女は朝早くから役所の婚姻届の受付に座り、景祐を待っていた。8時、彼からラインが届く。【ごめん夕子、渋滞で遅れる】9時、遥がインスタに投稿。【ごめんね、赤ちゃん。パパとママがちゃんとした家庭を作れないなら、産まない方がいいよね……】中絶手術の予約票の写真付き。10時、夕子が景祐に電話をかけたが切られ、運転手に連絡すると、言葉を濁しながら「社長は病院に……」と答えた。11時、SNSに動画が拡散されている。タイトル:【上場企業社長、妊娠中の恋人を優しく介抱】動画の中の景祐は、遥のお腹を手で護りながら「階段気をつけて、ゆっくり降りて、いい子だね……」と囁いていた。その傍らで遥は満面の笑みを浮かべていた。12時、遥からラインが届いた。景祐が彼女を抱きしめた写真だ。【まだ役所で待ってるの?ふふ、じゃあ一人で永遠に待ってなさい!】永遠には待てない。夕子の飛行機は午後2時。もう空港に向かわないと間に合わない。そう思い、彼女はノートを取り出し、最後の空白ページに書き込んだ。【99回目景祐を許す。私を愛していないことを許す】少し考えて、さらに一行を追加した。【チャンスは全部使い切った。もう二度と景祐を許さない】書き終えるとノートを閉じ、以前の指輪と一緒に置いた。近くの職員が一人でいる彼女に声をかける。「お嬢さん、婚姻届のお手続きですか?ご主人様は何か……」「そうかもしれませんね」夕子は薄く笑い、職員を見上げた。「すみません、このノートと指輪を『景祐』という人に渡してもらえませんか?」「ご主人様ですか?」「いいえ、見知らぬ人です」そう言うと、彼女は躊躇いなく立ち上がり、外へ出た。西京はいつも雨で、今日も例外ではなかった。夕子はしとしと降る雨の中、顔を上げて歩き、すぐに人混みに消えていった。さよなら、西京。この街とは、これからもう何の関わりもないだろう
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