Masuk良太の記憶を取り戻して、六年の歳月が過ぎた。
あれからアデーレの性格は、徐々に良太の人間性に引っ張られてしまった。
しかし彼女も元来おとなしい性格だったためか、周囲から違和感を抱かれたことは数えるほどしかない。
また、両親に恵まれなかった良太とは違い、アデーレの両親であるヴェネリオ、サンドラ夫妻は深い愛情を持っていた。
一人娘故の溺愛ともいえるが、農民なりに女性として満足のいく生活を送らせてあげようと、アデーレに着飾る機会などを与えてくれた。
今のアデーレは、良太が送った二十一年の人生と地続きになったような状態だ。
純粋なアデーレ・サウダーテとして育てられた十年の月日があったためか、幸いにも性別が変わったことを受け入れるのにそれほど時間が掛かることはなかった。
むしろ、そうでなければ……そんなことをふと思いつつ、着替え中の自身を鏡に映す。
「
そう言って、肌着越しに自分の胸に手をやる。
佐伯 良太としての率直な感想は、でかい。町でも上の方の大きさである。
おかげで町の男共の視線を集めるし、コルセットやら何やらは息が詰まる。
自分が女性であるという自覚があるからまだよかったが、着替える度に毎度ガチガチに抑え込むのは苦痛だった。
また、身長もかつての良太に比べれば低いとはいえ、女性としては高い方だろう。
東洋人では考えられない脚の長さについては、初めて気づいたときに感動してしまったほどだ。
とはいえ、男の頃の生活を思い出すと、今の身だしなみに気を遣わなければいけない生活は窮屈で仕方がない。
髪は伸ばした方が似合うと母に言われ、現在は長い髪を腰の上あたりで切りそろえている。
これを毎度キャップが収まるようまとめるのが、とにかく面倒なのだ。
大体これでは伸ばした意味があるのかと、アデーレとしては常日頃疑問に思っていた。
「アデーレ、ちょっと来てくれないかしらー?」
扉越しに聞こえる母の声。
さすがに下着姿のまま自室を出る訳にもいかない。
「ちょっと待っててー」
扉に向けて返事をするアデーレ。
そのまま周囲の衣服を手に取り、手早く朝の着替えを済ませるのだった。
◇
十六歳になったアデーレの仕事は、主に農作業の手伝いだ。サウダーテ家の農場は港町から少し離れた丘の中腹にあり、主にトマトを栽培している。
季節は初夏。
ロントゥーサ島では乾いた夏風が吹き、支柱に巻き付いたつるが風に揺れ、赤く実ったトマトが……。
というのはあくまで例年の話。
残念ながら今年の夏は悪天候が続き、日照不足と季節外れの雨が乾燥に強い農作物の生育に悪影響を及ぼしていた。
サウダーテ家の畑に植えられたトマトも、つるの生長は鈍く、また花も少なかった。
緑が失われ、色の悪い葉も見受けられる。
「参ったな……」
アデーレの父ヴェネリオが、頭を掻きながら生育の悪い畑を眺める。
日焼けした肌が印象的な、茶髪の優男だ。
「元気なさそうだね、トマト」
「ああ。本当にな」
隣に立つアデーレの言葉を受けて、ヴェネリオはがっくりと肩を落としてしまう。
ロントゥーサ島の農作物は、環境的に日光と乾燥を好むものが特に多い。
故に不作なのはヴェネリオの畑だけではない。
むしろロントゥーサ島だけではなく、周辺の島々でも同じ問題が起きている。
念のためと用意した食料備蓄は十分だ。
一回不作が起きたからといって、急に
漁業だって発達しているのだから、食料に関してはむしろ恵まれた環境にあると言える。
問題は、日々の生活費や税金である。
基本的に作物は売り物だ。食べることに困らずとも、売り物がなければ結局貧しくなる。
また税についても江戸時代のような物納とは違い、忌々しくも馴染み深い金納の方式だ。
かつて暮らしていた日本と同じく、食べられるものがあればそれでよいとはいかない。
「今年の収穫は諦めるしかないか……そうなると本島で出稼ぎだなぁ、父さんは」
本島とは、ロントゥーサ島の南西に位置する大きな島、【シシリューア島】のことである。
ロントゥーサ島を含む周辺の島々は、シシリューア島に首都を擁する【シシリューア共和国】という国に属している。
つまりこの島にはないような仕事も、本島ならば引く手あまたということもあり得る。
さて、出稼ぎを覚悟しなければならない状況になったヴェネリオは、涙目でアデーレの方を見ていた。
「……寂しくなるなぁ」
娘や妻と離れ離れになることを想像してしまったのか、見て分かるくらいに落ち込んでいた。
ヴェネリオは分かりやすほどに子煩悩であり、誰よりも妻を愛している。
最悪半年以上……一年近く家族と会えない状況に耐えられるのか、アデーレも懐疑的だ。
また良太の人生において、このように愛されたのは祖父母と過ごしたごく一部の期間のみだ。
この深い愛情に戸惑うこともあるが、素直に感謝していた。
同時に、アデーレというもう一人の自分を、羨ましく思うこともあったのだが。
何はともあれ、良太の心情としても今のヴェネリオは不憫に思えて仕方なかったのだ。
ところで、十六歳になるとこの世界では社会に出て仕事に就くことも珍しくない年齢である。
「何なら、私も働くから」
このまま父を出稼ぎに送るのは、忍びないを通り越して心配すら付きまとう。
何より家に母と娘二人というのも物騒である。
そういう考えもあって、自らこの島で別の仕事を見つける提案をしたのだ。
島外に出ずとも、必要な金を稼ぐくらいの仕事はあるはずだから。
「アデーレ……いいのかい?」
「うん。だって私、もう十六だよ」
「ああ、年齢なんて関係ないよ。アデーレはいつまでも私達の娘なのだからっ」
今にも自分を抱きしめてきそうなヴェネリオを制止するように手をかざすアデーレ。
「うんうん。分かったから落ち着いて」
この父親、娘を家業以外の仕事に出すことに抵抗があるのだろうか。
目頭を押さえ、涙をこらえる父の背中を撫でてやるアデーレ。
とはいえ、果たしてこの島でアデーレが就ける仕事はあるのだろうか。
「職探し、か」
ふと思い出すのは、かつて祖父母に迷惑をかけないようにとバイトを探していた頃の自分。
あの頃とは性別も年齢も、何なら世界だって違う。
一体どんな仕事があるのだろうか。
(せめて、奴隷みたいなのは勘弁だなぁ)
よくあるフィクションの展開を思い出しつつ、アデーレは曇天の空を見上げるのだった。
◇
「……マジかぁ」アデーレは係留用のロープを繋ぐ短い柱の上に座り、深くうなだれていた。
職に関する見立ては、間違っていなかった。
実際漁港は盛況だし、市場だって新鮮な魚の取引で賑わっている。
だが、仕事を求めているのはサウダーテ家だけではないのだ。
他の農家たちも今年の不作で仕事を求め、当然港までやってくる。
こうなると、力のある男達が優先され、女性が割り込むのは実質不可能だ。
性別とはかくも高く険しい壁なのか。
うつむき、深いため息を漏らすアデーレ。
家族と一緒にいたいという父の願いを叶えてあげたい。そう考えてはいるのだが。
そんな落ち込むアデーレに、日を遮るように人影が差し込む。
「あら、アデーレじゃない」
頭上から掛けられる声。
見上げるとそこには、黒い地味なドレスを身にまとった女性が立っていた。
「元気なさそうね。暑さにやられたの?」
茶色のポニーテールを揺らしながらしゃがみ、アデーレの顔を覗き込む女性。
彼女の白く細い手が、アデーレの額に当てられる。
「ああ……おはよう、メリナさん」
「うん、おはよ。それで体の方は?」
「大丈夫です。うん、大丈夫」
メリナと呼んだ女性に、アデーレは苦笑を返す。
彼女はメリナ・バラッツィ。アデーレとは六年前に知り合った年上の友人だ。
六年前……あの時エスティラに責められていた茶髪の使用人が、お嬢様に付いて日の浅いメリナだった。
あの後町で偶然再会し、それ以来彼女は何かとアデーレを気にかけてくれている。
ちなみに現在も使用人の仕事を続けており、アデーレが聞くには菓子を作る仕事をしているらしい。
「大丈夫って顔じゃないでしょ。何があったの?」
それなりに長い付き合いであるメリナに、ごまかしはあまり通用しない。
こちらが話すまで、隣で寄り添い続けるだろう。
それでは逆にメリナの迷惑になると思い、アデーレは職探し中であることを簡潔に話した。
「そっかぁ。やっぱアデーレは優しいね」
「そんなことは……」
「謙遜しないの。でも仕事ねぇ」
アデーレの隣に立ち、腕を組むメリナ。
「そういう事情だと、探すのも一苦労だ」
「力仕事でも平気なんですけど、やっぱり男優先なもので」
「平気って、相変わらずアデーレは男らしいねぇ」
男らしいとはいうが、実際に前世では男をやっていた。
それに農家の娘ということで、多少の力仕事も慣れたものである。
また、この世界での学業は読み書きや必要な計算を教わった程度だが、前世では現代日本での義務教育を受けてきた身。
それに入試を真面目に意識してからは、それなりに学んできたつもりだ。
故にこの世界の水準ならば、平均以上の教育を受けてきた扱いでも不思議ではないだろう。
それを活かす仕事が、この狭い島にはそれほど多くないのだが。
「でもそうだよね、アデーレは器用な子だし。家事の手伝いもしてきたよね?」
「ほどほどには」
掃除や洗濯、台所仕事は一通り経験してきた。
これもまた、過去の良太が劣悪な環境にあったために、必要最低限はやってきたことだ。
「んー……アデーレ、ちょっと立ってみて」
アデーレに向けて、メリナの右手が差し伸べられた。
突然だったが、アデーレは特に何の疑問も持たず、向けられた手を借りて立ち上がる。
すると、メリナはアデーレの真正面に向き合い、頭頂からつま先までを数回見渡し始める。
「アデーレって年下だけど、私より身長高いんだよねぇ。羨ましい」
「身長高くても、それほど得なことはないんじゃ?」
「いやいや、使用人っていうのは見た目大事だから。高身長だとできる仕事が増えるんだよ」
「そういうものですか……ひゃっ!」
痺れるような感覚がアデーレの背中から頭頂に向け一直線に突き抜ける。
アデーレが油断したところに、メリナの両手が彼女の胸を持ち上げたのだ。
突然のことで声が出てしまい、肩をすくめる。
女性同士のスキンシップではあるのだが、男性としての経験の方が長いと未だに違和感を覚えてしまう。
「ああ、ごめんごめん。可愛い声だねぇ」
にやりと笑うメリナ。
そんな彼女を、アデーレは呆れたように見つめ返す。
「なんなんですか、一体」
「まぁまぁ怒んないでって。でもやっぱ、うん。いいね」
顎に手を当て、メリナがうんうんとうなずく。
アデーレには、彼女が一体何に納得したのか、いまいち理解が及ばない。
発言からしても、ただのいたずらなセクハラ行為にしか思えなかった。
そんな困惑するアデーレをよそに、メリナが口を開く。
「せっかくこれだけ恵まれてるんだし……アデーレ、お屋敷で使用人やってみない?」
使用人。その言葉を受け、アデーレは目を丸くする。
メリナが言うお屋敷というのは、港町の小高い丘の上に建つ、一際大きな豪邸のことだ。
その豪邸は、島の者達から【バルダート家の別荘】として認知されている。
夏場の避暑地として建てられたもので、メリナがここに来ているということは、今年もバルダート家の一族が別荘に来ているのだろう。
ちなみに、メリナが今の格好をしているときは、休憩か休暇のどちらかで町に来ているということだ。
しかし、彼女の提案にアデーレは驚きを隠せなかった。
農家の娘が使用人として屋敷に仕えるのは珍しくないが、アデーレにその気は一切ないのだ。
何せ、過去に険悪な間柄になった娘の家だ。
距離を置こうとするのは当然だし、メリナもその理由を知らないはずがない。
「使用人って……私が行くと、お嬢様が」
「御付きでもない限り、顔を合わせる機会なんてほぼないよ?」
案の定、アデーレが屋敷を避けていることはメリナも理解していたようだ。
その言葉で、アデーレが安心できるかは別の話だが。
「それに、今年はちょっと色々あってね。人手を紹介できないかって私も言われてて」
「えっ、どうしたんですか?」
小さくため息を漏らすメリナ。
そして周囲には聞かれないよう、口元に手をやりアデーレに耳打ちをする。
「エスティラお嬢様がね、今年からここのお屋敷で暮らすことになったのよ」
あのお嬢様が屋敷で暮らす。
それはすなわち、ロントゥーサ島での永住を意味する。
その言葉に、アデーレは一瞬目の前が真っ暗になった。
「それで、どうかな? 使用人の仕事」
おそらく、内情は相当大変なことになっているのだろう。
普段通りに見えるメリナも、本心では切羽詰まっているように感じられた。
現在求職中で、世話になっている人からの誘い。
そして今まで避けて来た人物が、今後島で永住するという事実。
こうなると、断りづらいというよりは、断ってもさほど意味がないようにも感じられてしまう。
「……まずは、話を聞いてみるってことで」
アデーレは心の中でつぶやく。
さらば、平穏な我が生活よ、と。
果たして彼女は、実の祖父に対しどれほどの怒りを抱いているのか。 緊張の面持ちで様子を見守るメリナが、自身の右手首を軽く握りしめた。「アメリアを殺め、こともあろうに彼女に成り代わり私の傍にいた魔女が言ってましたわ。王党派の者と取引をしたと」「ほほ? それはまたよくないね。アメリアとは……ああ、あの家政婦の。そうか殺されたのか」「ええ」 どこか他人事にも見えるグラツィオだが、そんな彼の態度にエスティラは表情一つ変える様子を見せない。 あくまで祖父との再会を喜ぶ孫娘の風を保ち、老人特有のテンポが悪い会話に合わせる。「ティーラはあの家政婦によく懐いていたか。そうかそうか、痛ましい話だね」 それが本心からの言葉なのか。 どこか感情に乏しいグラツィオの声色には、エスティラの身に起きた悲劇をなんてことない軽薄なものと考えているのではと疑念すら抱かせる。「ドゥランの奴も随分と鬼気迫る様子だったが、そういうことか」「お父様にはアルを守る義務がありますから」「おかげでたまには顔を見せろとあれほど言うとるのに、さっぱり顔を見せん」 同じ血筋にありながら、現在の共和制を守るドゥランと王政復古を目指すグラツィオの間には、既に大きな確執が生まれていた。 そのことを理解しているはずである目の前の老人は、まるでそのことを気にせず孫に会わせろと普通の祖父の体を装い続ける。 ロントゥーサ島でのことを思えば、誰しもその姿に軽薄という印象を抱かずにはいられないだろう。「まるで何も存じていない……関係ないという口ぶりですのね」 エスティラの怒りがわずかに浮かび上がったか。 わずかに棘を含む言葉をグラツィオに投げかけつつ、彼女は笑顔を保ち続ける。「王党派は大きな組織。こちらの目の届かぬところに何か起きていてもおかしくない」「そうですね。ですがおじい様ほどの方が今回の件に知らぬ存ぜぬというのは不思議な話ですわ」「傑物などと呼ばれてたのは昔の話だ。今は見ての通りのおいぼれよ」 皮肉を込めた笑みを浮かべ、グラツィオは孫を思う優しい眼差しでエスティラを見る。「しかしね、ティーラとアルに偉大な王国を残したいというのは本心だ。そしてバルダートの者ならば、偉大なる我が王も認めてくださるだろうに」 我が王の肖像へと視線を向けるグラツィオ。 過去を慈しむ
シシリューア共和国最大の島、シシリューア島。 内陸部に山々がそびえており、鉱山都市などを含むいくつかの都がこの島には点在している。 共和国の首都【パルハムス】は、そんな島の北部沿岸の平野一帯に広がる古都だ。 古くから貿易港として栄えるこの都市の貴族街に、バルダート家の本家が存在する。 豪華絢爛、贅を尽くした煌びやかな廊下。 白と金が彩るアーチの芸術の下を、二人の人物が黙々と進む。 背中にかかるほどに長いボリュームのある金髪を揺らし進む先頭の少女。 バルダート家長女、エスティラ・エレ・バルダートは、青い瞳に鋭さを漂わせながら廊下を歩く。 身に纏うのは気に入っているピンク色のドレスではなく、気品と優美さを漂わせる格式高い白色のドレスだ。「お嬢様、大丈夫ですか?」 肩にやや力のこもるエスティラに対し、背後に続く制服姿の使用人……メリナ・バラッツィが不安げに声をかける。 彼女は黒いドレスに白いエプロンドレス、そして白いキャップというお決まりの格好だ。 メリナに声を掛けられたエスティラは立ち止まり、毅然とした様子を崩さず背後を振り返る。「大丈夫って、何が?」「いえ……このような場に、付き添いが私一人というのはどうかと思いまして」「問題ないわ。これは私一人でやらなきゃいけないことだもの」 心配するメリナに対し、安心しろといわんばかりにエスティラが不敵に笑う。 しかしメリナには分かってしまうのだ。今の彼女の体は相当にこわばり、緊張を隠せずにいることに。 着替えを手伝う関係で、体に触れる機会も多い熟達した使用人にとって、主人の状態は目で見るだけでもある程度把握できる。 だが、心配はすれどもエスティラを止めることはできない。 彼女はこの場に赴くにあたり、相当の覚悟を持って挑んでいるのだ。「メリナ、あなたは私の傍にいればいいの。それがメイドの仕事でしょ?」「それは、そうですけど」 自身に指差すエスティラに対し、メリナは戸惑いつつわずかに後ずさる。「ま、うちに仕えてずいぶん経つんだし、そんなこと言うのも今更ね」 軽く首をかしげながらエスティラが笑う。 それもほどほどに彼女は再び前を向き直り、そしてメリナを引き連れ再び廊下を進む。 赤いカーペットによりくぐもった足音が廊下に響く。 その歩みに迷いはなく、足音も規則正しく優美さすら感
段階を駆け下り、崩壊した中庭へ向かったアデーレ。 先程までヴェスティリアとして立っていたこの場所に、彼女は初見のように驚きながら立ち入る。 そこには姿をくらました時と変わらず、空を見上げヴェスティリアの姿を探す人々の姿が。 そして、指揮官に無事を確認されているエスティラとメリナの姿を見つけると。「お嬢様! メリナさん!」 二人の後姿に、アデーレはたまらず声をかける。 その声を受けて、二人が驚愕の表情で彼女の方を振り返った。「アデーレ! あなた……っ」 最初に声を上げたメリナが、アデーレの姿を前にして涙を流す。 感極まってか言葉を詰まらせ、それ以上は口元を押さえ声も出せない様子だ。「ああ……」 同時に、隣にいたエスティラも五体満足のアデーレを前に目を丸くし、声を漏らす。 傍に立っていた指揮官も、驚きと同時に安堵の表情を浮かべていることが窺える。 アデーレは息を切らしながら、三人の前まで駆け寄る。 が、突如エスティラが襲いかからんという勢いでアデーレの前に詰め寄り、彼女の両腕を掴む。「アンタ!!」 先ほどまでヴェスティリアに向けていた笑顔から一転。 涙交じりの、怒りに満ちた表情を浮かべつつアデーレを睨みつけるエスティラ。 しかし、一言怒鳴りつけたところで言葉を詰まらせ、顎を震わせる。「無事だった……無事だったんなら、もっと早く…………バカッ!!」 言葉を選ぶ余裕もなかったのだろう。 アデーレの身体を渾身の力で揺さぶりながら、エスティラは子供っぽい罵倒を繰り返す。 だがその気迫は相当のもので、傍にいる者は誰も彼女を止めることが出来ずにいた。「私に心配かけるなんて……百年早いんだから…………」 そしてエスティラは、アデーレを抱きしめるわけでもなくそのまま突き放す。 その後アデーレに顔を見せまいといった様子で、そっぽを向いてしまった。 先ほどまでとは正反対の態度。 そのギャップに、アデーレの顔に笑顔がこぼれてしまう。 だが、それでいい。これが互いの関係なのだから。 最悪の出会い。 突然訪れた再会。 覆ることのない身分の差を突きつけながらも、その端々で見えてくる人柄。 二つの姿を持つからこそ、知ることの出来た本心。「ありがとうございます」 心配してくれたエスティラに、アデーレは礼を述べる。 も
全ての力なき人々のために。 アデーレが思う正義の在り方を重んじるならば、その決意だけは貫き通さねばならない。 たとえそれが、自身の存在に縋りたいと涙する少女の気持ちに背くとしてもだ。 だが、果たして切実な思いに背くことだけが、正しき行いなのだろうか。 自問自答を頭の中で繰り返すアデーレの頬を、裏門側からのかすかに湿り気を帯びた風が撫でる。 そんな風に誘われるように、彼女は再び背後を振り返る。「お嬢様ーっ!!」 そのとき、建物の陰からアデーレたちの方へと駆け寄ってくる人々の足音が聞こえてくる。 アデーレがそちらの方へ目を向けると、ちょうど中庭へと踏み込んできた指揮官と目が合った。「おおっ、お嬢様! ヴェスティリア殿たちもご無事でしたかッ」 指揮官の声に呼応するように、彼の部下が続々と中庭へと姿を現す。 しかし何を思ったか、先頭に立っていた指揮官がアデーレと顔を合わせた瞬間、彼女たちから離れた位置で足を止める。 後方に続く部下にも手振りで立ち止まるよう指示を出し、彼らもそれに従い立ち止まる。 場の雰囲気をアデーレの表情から悟ったのだろうか。 どちらにせよ、ただならない様子のエスティラに気を遣い、指揮官たちは遠巻きからアデーレたちの様子を見守る。 そんな彼らに向け、アデーレは無言で頭を下げる。 そして促されるように、涙をこぼすエスティラと向き合うために振り返る。 エスティラの眼差しは、アデーレの言葉を受けてもなお懇願に満ちていた。「私は完璧なんかじゃない。彼らがいなければ守れない命もあった」 両親を救ってくれた指揮官の雄姿を思い浮かべつつ、アデーレは少し寂し気に笑う。「あなたの傍には、私すらも助けてくれる心強い人たちがいる。それはあなたにとって、必ず頼りになる存在だから」「ヴェスティリア……でも私は失敗して…………」「誰しも完璧ではないし、失敗をすることだってある」 「だけど」と間を挟み、アデーレは言葉を続ける。「失敗っていうのは、そこで立ち止まってしまったということ。省みて前へ進むことが出来れば、また新しい結果につなげることが出来る」 それは間違いなく、良太がフィクションの英雄たちから学んだことだった。 世界が変わろうとも決して裏切ることのなかった心の支えであり、アデーレの中にあるヴェスティリアという存在
半壊した屋敷。荒らされた芝生。 中庭に敷かれた石畳の道はその大半が砕け、東屋は屋根が半分崩れてしまった。 生垣や花々は折られ、散らされている。 しかし、どこにも焼けた跡がないのは、ヴェスティリアに宿る聖火の万能さを物語っている。 燃え散った魔獣たちの亡骸も、召喚者であるイェキュブが敗北したためか、すでにその場から消失していた。 修繕にどれほどの時間を要するだろうと、周囲を見渡しながら感慨深げに思うアデーレ。 彼女が中庭の中を進んでいると、やがて結界に守られたエスティラとメリナの姿が目に入る。 アデーレが戦っている最中にメリナは意識を取り戻したらしく、今はエスティラの肩を借りて立ち上がっているようだ。「あっ」 不安げな表情でメリナを支えるエスティラが、自分達に歩み寄ってくるヴェスティリアの姿を確認し、明るい表情を見せる。 二人の体には、結界を展開する以前の負傷以外に外傷は見当たらない。 結界は最後まで無事に役目を果たし、二人の安全を守り切ったようだ。 気づかれぬよう安堵のため息をついたアデーレは、その結界を解くために……。(あれって、どうやって解くの?)(ああ、うん。待ってて) 脳内での会話の後、アンロックンの力によって結界が解除される。 ちなみに、結界を張る際に剣を頭上で回したのは雰囲気でやっていただけであり、必要な動作ではない。 このような超常の力は、アンロックンに頼らなければ行使することができない。 ヴェスティリアという存在が神との協力によって成り立っていることを、アデーレは改めて痛感する。 そんなことを思いながら、アデーレはヴェスティリアの姿のまま、担いだ剣を下ろして二人の前に立つ。「傷だらけ……大丈夫なの?」「ええ、もう全ては片付いたから」「そう……」 不安げに尋ねてくるエスティラに対し、アデーレはうなずいて答える。 それを見たエスティラとメリナは、安堵ではなく複雑な表情を浮かべていた。 仕方のないことだ。 アデーレが倒したのは、二人にとって無二の存在であるアメリアを殺害した魔女。 屋敷を破壊するほどの激闘の末、志半ばで命を奪われた彼女の無念を晴らすことは出来ただろう。 だが生き残った者達には喪失感が残り、各々がそれと向き合っていかなければならない。 この悲劇に折り合いをつけるには、長い時間が必要
多くの人によって育まれたアデーレの正義。 それは確かな力へと昇華され、悪意ある魔女を打倒さんと燃え上がる。 「世間知らずのクソガキめぇ!」 「そうやって見下すばかりが、お前の限界なんだッ!!」 イェキュブの魔法が、ドラゴンの黒炎が、間合いを詰めようと空を駆けるアデーレに迫る。 それに立ち向かうアデーレの周囲は、彼女が放つ熱でより一層温度が高まっていく。 砕かれた氷の粒は一瞬で雨へと変わり、最後には空中で蒸発する。 拳の風圧と合わせて巻き起こる強烈な気流は、ドラゴンの放つ黒炎を一切寄せ付けない。 滞空していたドラゴンが大きく翼を広げ、両腕を振り上げながらアデーレへと迫る。 彼女に向け巨大な爪が振り下ろされるも、アデーレはそこに真正面から拳を叩き込み、逆に巨大なドラゴンを押し返した。 アデーレが身を振るうたびに、周囲に輝く火の粉が舞い散る。 「お前が馬鹿にした正義があるから、今の私はここにいる……」 この場に存在する何者よりも猛りながら、アデーレは静かに言葉を続ける。 「私から言わせれば」 彼女の声に力がこもり、それに合わせるかのように周囲の熱がより一層その温度を上げていく。 揺らめく空気は周囲の空気を屈折させ、足場にした氷塊が一瞬で水へと溶ける。 ついにはドラゴンよりも高い位置まで飛び上がり、眼下のイ