玲奈は本来すらりとした体つきをしており、引き締まったボディーラインは同性の目をも引きつけるほどだった。彼女は腰をかがめ、スキンケアをしている。タオル一枚の布に収まりきらない胸元が覗き、智也は思わず息をのんだ。鏡越しにその視線に気づいた玲奈は、体を起こして嫌そうに言った。「......何かご用?」その声には、かつての柔らかさも従順さもなく、まるで全身を針で覆ったハリネズミのようなとげとげしさがあった。智也は彼女の体に怪我がないか目で確かめながら問いかける。「机に血のついたティッシュがあった。怪我をしたのか?」玲奈は淡々と答える。「大したことないわ。もう処置したから」涼真を叩いた時、彼の耳飾りで指先を切ってしまったのだ。傷は浅いが、血がにじんでいた。それでも智也は心配を隠せず尋ねる。「病院に行くか?」玲奈は眉をひそめ、横顔だけを向けて冷たく言った。「そんなふうに気を遣う必要ないわ」その優しさが、かえって空虚に思える。ここが新垣家でなければ、余計な勘ぐりをしてしまっただろう。だがこの場所では、彼の言葉も行動も割り切って受け取るしかない。智也はそれ以上言葉を続けず、ただじっと彼女を見ていた。玲奈もまた気に留めず、顔にクリームを塗り終えると切り出した。「......ひとつ、聞きたいことがあるわ」離婚の件。彼はあまりにも長く引き延ばしている。どうすれば穏やかに終わらせられるのか、彼の本心を確かめたかった。だが口を開くより先に、智也の携帯が鳴り響いた。画面には「沙羅」の文字。玲奈は、彼が動揺する様子を見て笑う。「......先に出たら?」呼び出し音が切れる寸前、智也は電話を取った。浴室を出て、居間へ移動する。玲奈はその背を見送りつつ耳を澄ます。すぐに電話口から、愛莉の弾んだ声が響いた。「パパ、見て!ララちゃんと一緒に描いた小さなおうちだよ!」智也は画面を凝視する。動画に映る絵には三人の姿があった。「愛莉、これは誰を描いたんだ?」愛莉は嬉しそうに答える。「パパと、ララちゃんと、それから私!三人で日向ぼっこしてるの!」智也の顔に笑みが広がる。「よく描けてるな。とても上手だ」「パパ、今日はおじいちゃん、楽しそうだった?」
窓が半分開いたままの車内に涼しい風が吹き込む。そこへさきほどのビールの酔いも回って、玲奈は頭がぼんやりとしてきた。智也の言葉を思い返したところで、結局むなしいだけだ。彼女は考えるのをやめ、背もたれに身を預けて目を閉じ、うつらうつらとしたふりをした。かなり酔ったせいで表情が険しくなり、咳まで込み上げる。その咳に気づいた智也は彼女の方を見ると、不快そうな様子を見て窓を閉めた。窓が上がる音に玲奈は目を開き、映り込んだ彼の横顔を見た。真剣な眼差しでハンドルを握る姿は、端正で凛々しい。かつて自分が惹かれたままの面影だ。今も胸の奥にときめきは残るが、もうあの頃の感情とは違っていた。赤信号で車が停まると、智也は再び彼女に目をやる。上半身を横にして眠る姿勢のまま、腕が赤らんでいる。冷えたせいだろう。彼はシートベルトを外し、身を傾けると、自分の上着をそっと玲奈の膝にかけた。彼女は目をふせ、上着に気づくと首を振る。「......ありがとう。でも寒くないわ」そう言って、膝から払いのけた。信号が青に変わり車が動き出す。智也は何も言わず、上着を取り戻すこともしなかった。玲奈はそれを畳んで隣に置く。それ以上触れることもなかった。智也は違和感を覚えずにはいられなかった。昔の彼女なら、自分の上着を抱きしめるだけで嬉しそうに微笑んだはずなのに。今の玲奈は、彼に関わるものすべてを拒んでいるように見えた。やがて車は新垣家に着いた。清花は涼真を迎えに出ていたらしく、門前でじっと待っていた。車が止まると、彼女は安堵の笑みを浮かべて駆け寄る。後部座席のドアを開け、涼真の無事な姿を確認すると、大きなため息をついた。「全く......あんたって子は。兄さんや私からの電話すら無視するなんて」そう言って頭を軽く叩く。だが涼真は嫌そうに彼女の手を払いのけた。「髪型が崩れるだろ、触るな」清花は呆れた顔で、言い返そうとしたときにふと気づく。「涼真、その顔、どうしたの?」彼の頬にはいくつか赤い痕が浮かんでいた。手を伸ばして確かめようとしたが、涼真はその手を乱暴に振り払う。「犬に噛まれただけだ!」涼真は怒鳴り声を残し、足早に屋敷へと入っていった。清花は戸惑いを隠せず、横に立つ智也を見上
涼真は彼女の態度にますます苛立ち、吐き捨てた。「芝居なんかして誰に見せたいんだ?感謝されると思ってんのか」その言葉も、玲奈は気に留めなかった。顔をそらし涼真を相手にせず、他の連中に向かって静かに言う。「今夜の代金は私が払います。この聞き分けのない弟は、私が連れて帰ります」彼女がビールを一本飲み干したのを目の当たりにした彼らは、敬意を示すように頷き、場の空気も和らいだ。これで済んだかと思った矢先、涼真がまた声を荒げる。「玲奈!誰が頼んだ?お前はいつも勝手に首を突っ込みやがって、自惚れるにもほどがある!」玲奈はただ淡々と告げた。「......お兄さんが外で待っているわ」だが涼真は頑なに首を振る。「俺は絶対にお前と帰らない!」仕方なく玲奈は彼を諦め、他の連中を見た。「......それなら、皆さん先にお帰りください。今夜はご無礼をすみません」相手ももう事を荒立てる気はなく、言葉を軽く交わすと出ていった。残されたのは玲奈と涼真だけ。涼真は怒りに任せて、テーブルの上の瓶やグラスをなぎ倒した。「ガシャーン!」という音に、玲奈は思わず目を閉じる。次の瞬間、彼は怒鳴り声を上げた。「玲奈!お前は自分の立場がわかってるのか?俺に指図できると思ってるのか?お前なんざ新垣家の道具にすぎない!家政婦以下の存在だ!俺を叱れるのは沙羅姉ちゃんだけだ!出て行け!」だが玲奈は笑みを浮かべ、彼の目の前に歩み寄ると、躊躇なくその頬に平手打ちをした。「涼真、よく聞きなさい。私がこの家にどれだけ尽くしてきたか。感謝されなくても構わない。けれど、罵倒される筋合いはないわ。もしあなたの身に何かあったら困ると思ったから来ただけだよ。本当なら、知らぬ顔で放置したってよかったのよ」そう言い捨てると、玲奈は部屋を出ようとした。しかし涼真がそれを許すはずもない。怒り狂った彼は立ち上がり、玲奈の腕を乱暴に掴む。「俺に手を上げるなんて......死にてぇのか!」涼真が手を振り上げ、殴りつけようとしたその瞬間、玲奈は目を閉じ、衝撃に備えた。だが頬に痛みは走らず、代わりに風を感じた。恐る恐る目を開けると、そこには智也が立ち、涼真の腕をがっちりと押さえていた。「兄さん!」涼真はすぐさま訴える。「この女に教えない
玲奈もまた、涼真が何か事件を起こすのではと不安だった。もし万一のことが起これば、美由紀は必ずその責任をすべて自分に押しつけてくるだろう。そう考えるだけで、心底うんざりする。ともかく、今は探し出すことが先だ。クラブに足を踏み入れると、耳をさすような音楽が鼓膜を打ち、フロアでは男女が腰をくねらせ、蛇のようにうごいている。智也は前を歩きながら玲奈を気にかける。彼の背を追いながら、玲奈は足元だけに意識を向ければよかった。奥へ進むと、個室が並ぶ廊下に出る。だが涼真がどの部屋にいるか、智也にも見当がつかない。沈黙が続いた末、玲奈が提案する。「左右に分かれて探しましょう」「分かった」智也は頷き、念を押すように言った。「もし何かあったら大声で呼べ。すぐ駆けつける」玲奈は返事をせず、数秒後には向きを変え右の廊下へと進んだ。そこでは下品な笑い声や叫び声が飛び交っていた。玲奈は耳を塞ぎたい思いを押し殺し、一つずつ扉を叩いていく。開いた扉から顔を出した男は、彼女の容姿を値踏みし、顎に手を当て話し始めた。「どこの客がよこしたんだ?暇なら俺んちに来いよ。飼い猫を見せてやるぜ」別の部屋では罵声を浴びせられる。「誰だお前?押し売りなんて要らねぇんだよ、頭イカれてんのか!」ほとんどの部屋を回り終えたころ、玲奈は「ここにはいない」と結論づけようとしていた。だがその時、廊下の奥の部屋から怒号と物音が響いた。「てめぇ何様のつもりだ!俺に向かってその口の利き方はなんだ!」間違いない。涼真の声だ。続いて別の男の怒鳴り声が重なる。「てめぇこそ何様だ!俺の女に手を出すとはいい度胸だな、ぶっ殺されてぇのか!」今にも殴り合いになりそうな状況に、玲奈は慌てて駆け出した。勢いよく扉を蹴り開けると、中にいた全員が動きを止め、入り口に振り向いた。すでに涼真は袖をまくり上げ、相手の男はポケットから何かを取り出そうとしている。それがろくな物でないことは明らかだ。部屋の人数は多くない。だが、涼真は一人。相手は三人の男と女が一人。このままいけば、涼真が劣勢になるのは目に見えていた。玲奈は必死に冷静を装い、低く鋭い声で涼真を呼んだ。「涼真、こっちに来なさい」だが彼は逆に怒りを爆発させる。
玲奈はおじいさんに向かって穏やかに言った。「おじいさん、智也は私を苦しめていません」だが彼はまだ疑っている。「誤魔化すな。私の方がずっと長く生きているんだ。見抜けないと思うか?」どれほど問い詰められても、玲奈は一歩も譲らなかった。「本当です。智也は私によくしてくれています。決して私を苦しめたりなんてしません」その言葉がどこまで事実で、偽りを含むのか、彼には分からない。だが、孫の嫁を思う気持ちに変わりはなかった。しばし考えた末、彼はそれ以上追及せず、手を伸ばして彼女の頭を撫で、振り絞るように言った。「......玲奈さん、辛い思いをさせたな」玲奈は微笑み、首を横に振る。「いいえ、おじいさん。私は少しも辛くありません」これ以上何も聞き出せないと悟り、おじいさんは彼女を解放した。部屋を出た玲奈は、すぐに廊下の縁側の欄干にもたれている智也の姿を見つけた。手には一本のタバコを挟んでいるが、火はつけられていない。眉間の皺が、苛立ちを隠せない彼の心境を物語っていた。玲奈が現れると智也は姿勢を正して言った。「外へ出るぞ」抑揚のない声だった。冷たい彼の声に、玲奈は身構える。やはり、私に腹を立てているのだろうか。さっき大広間で、彼の意向に逆らって「泊まります」と答えてしまったのだから。だが智也は彼女に弁明の余地すら与えず、そのまま大広間の外へと歩き出す。玲奈は仕方なく後を追った。屋敷を出ると同時に、彼女は気を引き締め、警戒した声で言った。「智也、言いたいことがあるならここで言って」その言葉に足を止め、振り返った智也と、前へ歩み寄る玲奈の距離が一気に縮まる。次の瞬間、彼が振り返った拍子に、玲奈の額が彼の胸にぶつかった。硬く引き締まった体の感触に、玲奈は顔を赤らめた。智也は彼女を見下ろし、端的に告げた。「涼真がいない。電話をしても出ない」普段ならあり得ないことだ。相手が誰であれ、涼真は智也からの電話だけは必ず取る。嫌でも、その圧に屈してしまうのだ。それを分かったうえで玲奈は応じた。「涼真はもう大人だよ。自分の行動には責任を負える。たったひと言叱られたくらいで取り乱すようなら、彼の気が弱すぎるだけ」その冷めた返事に、智也の語気が強まる。「もし今夜、あいつに何かあったら......責任をお前が負えるのか?」玲奈は言葉を
新垣家一同が揃う場で、おじいさんは涼真を厳しく叱りつけ、その場でメンツを潰した。若さゆえの盛んさもあって、涼真は大勢の前で恥をかかされたことに耐えられず、手にしていた箸を乱暴に投げ捨てると、「ガタッ」と音を立てて立ち上がり、そのまま一言も発せずに憤然と大広間を出て行った。美由紀が慌てて立ち上がり、「涼真!」と追いかけようとする。だがおじいさんはそれを咎め、苛立ちを露わにした。「今日は誰もあいつを構うな。もし追いかける者がいれば、二度とこの屋敷の敷居をまたがせん!」美由紀は踏み出しかけた足を戻すことしかできなかった。相手は新垣家の長だ。無下にはできないし、夫の実にとっても彼は絶対的な存在だ。美由紀が従ったのを見て、彼はさらに吐き捨てるように言った。「甘やかしてきたせいだ。もち上げるように寵愛するから、ああなる」玲奈は箸を動かすこともなく、黙って席に座り続けていた。智也も、清花も同じく沈黙を守った。ただ実だけが場をなだめようと、言葉を挟んだ。「父さん、子ども相手に本気になることはないよ。今日は誕生日、まずは食事を」その言葉に、おじいさんはようやく気を鎮めようと、目を玲奈へと向けた。「玲奈さん、食べなさい。たくさん召し上がって」穏やかな口調に戻った声に、玲奈は顔を上げ、にっこりと笑みで応じる。「ありがとうございます、おじいさん」涼真が席を立った後も、食事は続いた。だが誰も口を開かず、箸の音だけが静かに響き、重苦しい空気が漂っていた。その間も、玲奈は美由紀の視線が時折自分に向けられているのを感じ取っていた。「覚えていろ」とでも言いたげな眼差し。だが玲奈は気にも留めず、そっちを見る事すらしなかった。麺を食べ終えるとおじいさんは口元を拭い、玲奈と智也に向かって言った。「玲奈さん、智也。今夜はここに泊まっていきなさい。二人の部屋は用意させてある」玲奈は断ろうと口を開きかけた。だがその前に智也が一足早く言葉を発した。「じいちゃん、玲奈に聞いてください。彼女の意向に従います」一見すると仲睦まじい夫婦のような言い回し。だが、智也の本音は明らかだった。自分が断れば叱責を受けるかもしれない。だから判断を玲奈に託した。彼女が「泊まらない」と言えば、おじいさんは無理強