LOGINそう言い終えると、玲奈は手を上げてタクシーを止めた。車が路肩に寄ると、玲奈はそのまま乗り込もうとする。だが背後から、低い声が飛んできた。「玲奈」玲奈は一度目を閉じた。正直、もう面倒くさい。それでも振り返らないわけにはいかず、ため息を飲み込んで智也を見る。「......なに?」風に声が細かく散る。けれど言っていることは聞き取れた。「愛莉がああいう態度を取るの、少しは自分にも原因があるって思わないのか?」玲奈はふっと笑う。そして逆に聞き返した。「じゃあ教えて。私に何の問題があるの?」智也は言い切るように答える。「前みたいに、愛莉を気にかけなくなった」口調には妙な確信まで混じっていた。玲奈はまた笑った。弁解する気はない。だから短く返した。「うん。全部あなたの言う通り」その冷めた返しに、智也は不快そうに眉を寄せた。「......どうしてそんな態度なんだ」玲奈は淡々と言った。「あなたがそう思うなら、私が何を言っても同じでしょ」それ以上続ける気はなく、玲奈は智也の言葉を待たずにタクシーへ乗り込んだ。タクシーが走り去ったあと、智也はしばらくその場に立ち尽くした。胸の中が、言葉にできないものでざらつく。煙草を一本出しかけたが、風が強すぎて諦めた。冷たい風に十分ほど晒されてから、智也はようやく病院へ戻った。入院棟に戻ると、ちょうど沙羅が愛莉を寝かしつけ終え、病室から出てくるところだった。戻ってきた智也の顔を見るなり、沙羅は不安げに歩み寄る。「智也......機嫌、悪いの?」智也は沙羅を一瞥し、短く答えた。「......ああ」沙羅は柔らかく笑い、気遣うように言う。「愛莉ちゃんはもう寝たよ。少し外、歩こう?一緒に」だが智也は首を振った。「いい。大したことじゃない」沙羅の胸のざわつきは消えない。さらに探る。「仕事のこと?」智也はもう会話を続けたくなかった。沙羅に言う。「もう遅い。先に戻って休め」そう言い残し、智也は廊下の奥へ歩き出した。胸が重い。煙草を吸いたかった。背後から沙羅の声が追いかけてくる。「智也、どこ行くの?」智也は足を止めて答えた。「一本吸ってくる。すぐ
智也は愛莉を支えながら、そっと頭頂に頬を寄せた。声を落として問いかける。「前は具合が悪いと、いつもママにそばにいてほしがっただろ?」その言葉に、愛莉は小さく嗚咽した。熱でぐずる力もなく、暴れたり抵抗したりはできない。ただ涙を流して、必死に嫌だを示すしかなかった。智也は娘の様子に、どうしようもなくため息をついた。玲奈は少し離れたところに立ったまま、近づこうともしない。愛莉に声をかけることすらなかった。子どもが熱を出すのは珍しくない。流行りの風邪が落ち着けば、いずれ治る――玲奈にはそう分かっている。重い状態ではないと判断できるからこそ、心を動かさずにいられた。智也は玲奈を一瞥した。まるで他人事みたいに立っている。少し考えた末、智也は愛莉を抱いたまま玲奈のほうへ歩み寄り、言った。「お前が抱け。愛莉を」愛莉はそれを察したのか、どこから出たのかと思うほどの力で突然暴れ出した。声を張り上げて拒む。「やだ!ママに抱っこされたくない!ララちゃんがいい!ララちゃんがいいの!」そう叫びながら、愛莉は智也の体を蹴り、叩き、必死に抵抗した。智也の眉がきつく寄る。怒りがこみ上げ、叱り飛ばす言葉が喉まで出かかった。けれど、熱で青白くなった頬を見た瞬間、それは飲み込んだ。すると沙羅が、愛莉の反応の激しさを見て前へ出た。両腕を伸ばして言う。「智也、私が抱くわ」沙羅の声を聞いた途端、愛莉はその胸へ飛び込むように身を寄せた。智也は仕方なく腕を緩める。沙羅は愛莉をしっかり抱き、背中を優しく叩いて落ち着かせた。すると愛莉は泣き止み、驚くほど静かになった。愛莉が落ち着いたのを見て、沙羅は顔を上げ、智也にやわらかく言った。「子どもの好きなものって年齢で変わるでしょ。あまり無理をさせないで。熱もあるんだし」智也は反論もしない。肯定もしない。ただ黙っていた。玲奈も同じだった。横で一言も挟まず、表情も動かさない。二人の沈黙を埋めるように、沙羅は微笑み、愛莉に囁く。「愛莉ちゃん、私が寝かしつけてあげようか?」愛莉は沙羅の肩に頬を押しつけたまま、もごもごと答えた。「......うん」沙羅は愛莉をベッドに戻し、そのまま寝かしつけを続けた
「着いた」と智也に言われた瞬間、玲奈は反射的にスマホをしまった。隠すような仕草は、明らかに何かを隠している。けれど智也は、それ以上は何も言わなかった。玲奈はシートベルトを外し、車を降りた。智也を待たず、そのまま一人で病院へ向かおうとする。だが二歩ほど歩いたところで、背後から呼び止められた。「玲奈」玲奈は足を止め、振り返って智也を見つめる。「......なに?」智也も車を降りてきた。ロングコートは前を開けたまま。整った顔立ちに、肩の力の抜けた雰囲気。風がコートの裾を揺らし、中の無地のシャツが体格の良さを引き立てている。けれど今の玲奈には、彼に対する余計な感情は何もなかった。智也が近づいてくる。そして玲奈の前で身をかがめ、急に真面目で、どこか誠実な声で尋ねた。「......俺たち、もう一度やり直せると思うか?」その言葉に、玲奈は息を呑んだ。呆然として、その場で固まった。何を言いたいのか分からない。何を求めているのかも分からない。分からないから、答えなかった。玲奈はただ言った。「......愛莉に、会いに行かないの?」智也も少し戸惑ったように目を瞬かせた。自分がなぜあんなことを口にしたのか、本人にも分からなかったのだろう。我に返ったように、智也は言う。「......ああ。行こう」玲奈は道中ずっと落ち着かなかった。智也の言葉の意味を探ろうとしてしまう。あれは一体、何だったのか。けれど玲奈には、結局彼の意図が掴めなかった。病院へ着くと、智也が先を歩き、玲奈は無言で後ろに続いた。ほどなくして、愛莉が入院している階に着く。病室に入る前から、愛莉の泣き声が聞こえた。続いて、沙羅の声もする。「愛莉ちゃん、パパはママを迎えに行ったの。私がここにいるから、泣かないで。ね?」愛莉は頷いた。それでも涙は止まらず、頬を伝い続けていた。ドアの外で沙羅が言い終えた、その直後。智也が扉を押して入った。病室に入ると、智也は沙羅が愛莉を抱いているのを見た。片腕でお尻を支え、もう片方で背中を抱きしめている。沙羅の顔は疲れ切っていて、血の気も薄い。智也は迷わず近づき、沙羅に言った。「沙羅、愛莉を俺に」智也が戻り、しかも
智也が「俺と一緒に家に帰れ」と言ったとき、その表情は真剣で、目にも軽薄さはなかった。だから玲奈は、変な勘ぐりはしなかった。けれどやはり、抵抗はある。玲奈はきっぱり言った。「小燕邸も白鷺邸も、あなたの家でしょ。私の家じゃない。帰らない」拒まれると、智也の顔が冷える。声を落として言った。「俺が前に何て言ったか、忘れたのか」玲奈は少し呆けた。「......何て言ったの?」そのとき、信号が青に変わった。車の流れは多く、智也の車も列の中に挟まれ、スピードは出ない。玲奈は智也の横顔を見つめた。すると、彼の冷たく落ち着いた声が返ってくる。「――もう一回、やる」智也が言わなくても、玲奈だって察しはつく。ただ、さっきの真面目な顔があったから、そんなことを言うとは思わなかった。それに、二人の間にもう一回なんて必要はない。結局、またそれか――意図が分かった途端、玲奈はもう、心晴の件が誰から漏れたのか知りたい気持ちも薄れた。智也が知っているのは、単に彼にその力があるからだろう。もし本当に噂が広まっているなら、心晴ほどの影響力なら、多少はトレンドに上がるはずだ。でもニュースには、彼女の名前なんて一つも出ていない。そこまで考えて、玲奈はようやく気持ちを落ち着けた。そして智也に淡々と言う。「運転中でしょ。今ここで言い争うつもりはないわ。今夜、私があなたの車に乗ってるのは......愛莉のため。それだけよ」そう言って、玲奈はそれ以上何も話さなかった。智也は時折、横目で玲奈を見る。――やっぱり、変わった。そんな確信が胸に残った。玲奈は俯き、拓海からまだ返信が来ていないのを見て、【?】を送った。それでも返事がない。玲奈は続けて打ち込む。【さっき言ったことは、緊急だったからそう言っただけ。気にしないで。嫌な思いさせたならごめん】一方、拓海の車はまだその場に停まっていた。玲奈の「?」は見た。だが返す気になれない。そこへ、またメッセージが届く。拓海は背筋を伸ばしてスマホを取り、画面を見た。そこには玲奈の説明が並んでいる。それを読んだ瞬間、頭上のもやが一気に晴れた。嬉しくて跳ね上がりそうになった拓海は、勢い余って頭を車の
そのときの拓海は、目に入るものすべてが癪に障った。何を見ても腹が立つ。何を見ても気分が悪い。道端を横切った猫にさえ、思わず悪態をつく。「何見てんだよ。さっさと帰れ!」怒鳴られた猫は、びくっとして一目散に走り去った。拓海は振り返り、自分の車へ戻る。ドアを乱暴に閉め、車内でひとり、拗ねた怒りを膨らませた。そのとき、スマホが短く鳴った。ラインの通知音だ。拓海は慌てて手に取り、画面を見る。案の定、玲奈からだった。通知を見た瞬間、頭上にかかっていた霧は一気に晴れた。だが内容を読んだ途端、また雲が差す。玲奈のメッセージはこうだ。【心晴に伝えて。用事ができたから先に帰る。明日またお見舞いに行くって】そこには拓海の名前も、気遣いの一言もない。彼のことには一切触れていなかった。拓海は返信しなかった。それどころか玲奈のプロフィールを開き、「連絡先を削除」の項目まで押しかけた。一瞬、本気で消してやりたいと思った。――でも、指が止まる。消して、もう二度と追加してくれなかったら?拓海は結局押せなかった。見なければいい。そう自分に言い聞かせ、画面を消してスマホを助手席に放り投げた。一方その頃、智也が車を運転し、玲奈はその隙に拓海へメッセージを送っていた。送信できたのを確認してから、彼の返信を待ち続けた。待っても待っても――返事が来ない。その瞬間、玲奈の胸の奥に、かすかな不安が芽生えた。拓海はきっと、怒っているのだろう。本当は少し説明したかった。けれどちょうどそのとき、車が交差点で停まった。赤信号だ。ブレーキがかかった瞬間、智也が横を向いて玲奈を見た。何か考え込んでいる様子に気づき、彼はふっと玲奈のスマホにも視線を落とす。だが画面を見切る前に、玲奈のスマホはちょうどスリープになった。それでも智也は探るように尋ねた。「誰にメッセージしてた?」玲奈は我に返り、無言でスマホを裏返して膝の上に置くと、答えた。「心晴よ」智也は続けて聞く。「......彼女、何かあったんだって?」「誰から聞いたの?」玲奈は驚いた。心晴の件は、知っている人はそう多くないはずだ。智也ははっきり言わず、意味ありげに言う。「世の中に、
智也は体を起こさず、なおも身をかがめたまま、玲奈を深く見つめていた。彼女は明らかに動揺しているのに、平気なふりをしている――それが可笑しくて、智也はふっと口元を緩めた。「......なんだ。俺が怖いのか?」これまで何年も、智也は玲奈の目に恐れなんて見たことがなかった。だが今夜は違う。その瞬間、智也はどこか見慣れない感覚に襲われ、ぼんやりとした眩暈のようなものまで覚えた。彼が見てきた女は多い。誰もが智也を持ち上げ、媚び、へつらった。かつての玲奈もまた、姿勢を低くして彼に合わせる側だった。智也の問いに、玲奈はゆっくり顔を正面へ戻し、堂々と視線を合わせた。声は驚くほど平静だ。「智也、あなたが怖いわけじゃない。ただ......私たちの間に、そんなことをする必要はないって思うだけ」智也は目を細め、腑に落ちない様子で追う。「......どうしてだ?」玲奈は彼を見つめながら、彼が以前よりずっと知らない人みたいに感じられた。少し間を置いてから口を開く。「前みたいに......前と同じように接してくれればいい」二人の関係を、今さら変える必要なんてない――玲奈はそう思っていた。だが智也は眉を寄せ、軽く眉を上げて言う。「俺がもっと優しくしたら、だめなのか?」玲奈の拒絶はきっぱりしている。「だめ」智也の目の光がふっと落ちた。それ以上は追及しなかったが、玲奈の艶のある唇を見た瞬間、胸の奥に小さな衝動が生まれる。――キスしたい。そう思った次の瞬間、体はもう動いていた。智也はわずかに身を寄せ、玲奈の唇へ口づけようとする。玲奈も彼の意図を察したのだろう。ちょうどいいタイミングで、静かに言った。「......早く病院に行かないと、愛莉が泣いちゃうんじゃない?」その言葉で、智也の体がぴたりと固まった。智也は玲奈を見下ろし、何も言わない。けれどその瞳は、探るように彼女を測っていた。智也が黙ったまま、なおも体を起こさないので、玲奈は可笑しそうに聞いた。「智也。私とこんなことして......沙羅は知ってるの?」そこでようやく智也は少しだけ上体を起こした。それでも彼の影が外の光を遮り、玲奈はまだ暗がりに包まれている。智也は、はっきり見えない玲奈の顔を見
だから、智也は玲奈に渡したあのカードの利用を停止させることにしたのだ。勝はそれを聞いてとても驚いていた。しかし、その理由を尋ねることはなく、ただ大人しく「かしこまりました、新垣社長」とそれに従うことにした。そして玲奈のほうはというと、花壇に座り、昂輝が彼女の靴を脱がせて足首をやさしくマッサージしてくれるのを見て、緊張して恐縮していた。「先輩、そんなことしていただかなくて大丈夫です。病院はすぐそこだから、薬を塗れば問題ないですから」彼女はそう言いながら、体を傾けて昂輝を引っ張って立ち上がらせようとした。昂輝が顔を上げると、ちょうど彼女の目線とぶつかった。二人の距離はとても近く
彼女の言った言葉は怒りに任せたものではなく、結構前から決めていたことだった。智也は鋭い視線で彼女を見つめ、眉間に深いしわを寄せ、暗い顔をしていた。愛莉は玲奈の言葉を聞き、智也の肩から顔をあげた。二人が喧嘩になるのを恐れたのか、それとも本当に母親に見捨てられることを恐れたのか、小声で「ママ」と呼んだ。玲奈は娘を見つめ、胸が締め付けられたが、前に陽葵に言われたことを思い出し、一歩前に踏み出した。智也は彼女が近づいても愛莉を抱いて遠ざけようとしなかったが、彼女を見なかった。玲奈は手を伸ばし、優しく愛莉の顔を撫でながら言った。「愛莉。ママは言ったわよね、他人を虐めたり、見下した
翌日、玲奈は昼休みに、近くのレストランに行った。彼女は一人で行動するのに慣れていて、いつも一人で動き回っていた。店に入ると、店員が出迎えた。「お客様、おひとり様でしょうか」玲奈は「ええ」と答え、それから「窓際の席をお願いします」と言った。言い終わり、ふと窓側の席を見やると、ちょうど院長が席から立ち上がるのを目撃した。院長の座った席にもう一人が座っていた。後ろ姿だけでも、玲奈はその人が昂輝だと気付いた。二人は何を話したか知らないが、院長が離れた時、顔に暗い表情を浮かべていた。玲奈は院長に挨拶せず、こっそり隠れて、院長が店を出てから、昂輝のいる席を指しながら店員に言った
沙羅のピアノ演奏は確かに文句なく素晴らしく、そのオーダーメイドのドレスも目を引くものだった。しかし、今日は幼稚園のイベントで、主役はあくまで子供たちだった。愛莉は旋律に合わせられず、ステップを乱し、動きもだんだんおかしくなっていった。観客席からまた囁き声が聞こえた。「あのお母さん、確かにきれいだけど、自分だけが目立ちすぎなんじゃない?今日の主役は子供たちなのに、彼女一人で全部持っていかれてるわ」「私もそう思うわ。あの子、もうついていけないのに、全然止まらないし。これお母さんたちが競い合う試合みたいになってる」「見て見て、あの子もう止まってるのに、お母さんはまだ弾き続けて