朝の光が、壊れかけた窓の隙間から差し込んでいた。
リアは毛布にくるまったまま、目を閉じたふりをしていた。 身体が、まだ昨日の余韻を覚えている。 吐息、指先、熱の重なり、あの行為。 思い出すたび、身体の奥が疼く。 自分でも信じたくなかったが――あの一夜を、心のどこかで“気持ちよかった”と感じてしまった。 その事実が、何よりも恐ろしかった。 (どうかしてる。あんなの、赦しじゃない) 罪をなかったことにして、快楽で上書きするなんて。 わかっているはずなのに、心が逃げ道を探している。 そして身体は、その逃げ道にすがるように、カイルのぬくもりを欲している。 「おはよう、リア」 背後から届いた低い声に、肩がぴくりと震えた。 「……ん」 返事にならない返事をしながら、リアはゆっくりと身体を起こした。 振り向けば、カイルが焚き火の残りに木を足していた。 穏やかな微笑み。優しいまなざし。 それはまるで、昨夜の出来事が“恋人同士の自然な流れ”だったと信じているような表情だった。 リアは視線をそらし、毛布を強く握りしめた。 (違う、そんな顔しないで) あなたは、私を殺した人間。 それなのに、どうして――そんな無垢な目で私を見られるの。 「スープ、温め直したよ。……まだちょっと冷えるからさ」 「……ありがとう」 ぎこちない声でそう言うと、カイルは満足げに頷いた。 彼の中では、もう“和解”したつもりなのだろうか。 リアは、黙ってスープを受け取った。 その温もりが、なぜか泣きたくなるほど優しかった。 スープの湯気が揺れる小屋の中、カイルはふいに口を開いた。 「リア、そろそろ町へ下りよう」 リアは思わずスプーンを止めた。 「……町?」 「うん。森を抜けた先に、小さな集落がある。君の身体も、ちゃんと診てもらったほうがいいし……ここにずっといるのも、限界があるだろ?」 言葉のひとつひとつは、優しさに満ちていた。 それが、逆に胸を締めつけた。 町――人の目のある場所。 騎士団の巡回もあるかもしれない。 過去を知る者がいれば、カイルの素性が暴かれてしまう。 いや、それ以上に。 (あの場所で、何かを思い出されたら――) 心の奥底で、リアは怯えていた。 彼の中に埋もれている“あの夜の記憶”。 それが蘇った時、この優しさはどうなるのだろう。 「……いや」 「え?」 「行きたくない。まだ……身体も完全じゃないし」 「でも、ここは安全じゃない。それに、君がまた倒れたら……」 カイルは焦るように言葉を重ねる。 リアは目を伏せ、唇を噛んだ。 「……ここがいいの」 カイルはしばらく黙っていた。 その沈黙が痛かった。 彼はなぜ拒まれたのか理解していない。 当然だ。リアが抱えている恐れも、過去も、何も知らない。 「……わかった。無理には言わないよ」 ようやくそう告げて、カイルは微笑んだ。 リアはその笑顔から、逃げるように目を逸らした。 (これ以上、あなたの“今”に触れたくない。でも、触れていたいって、思ってしまう) 矛盾が、胸の奥で音を立てていた。 昼を過ぎても、小屋の中は静かだった。 リアは焚き火の前に座り、カイルが作ってくれた薄いシチューを口に運んでいた。 温かくて、やさしい味がした。 だが、そのやさしさが喉を通るたび、胸の奥がかすかに痛んだ。 カイルはいつも通りだった。 いや、それ以上に優しかった。 朝からずっと気を遣ってくれているのがわかる。 薪を割り、火を起こし、慣れない手つきで料理をし、たまに何かを口ずさみながら、彼はリアをちらりと見る。 その視線には不安も、警戒もない。 あるのはただ、恋人を想うような、穏やかな好意だけ。 「君って、好きな食べ物とかあるのかな?」 唐突な問いに、リアは顔を上げた。 カイルは笑っていた。 まるで、本当に“恋人”同士のように。 「好きなもの……?」 「うん。今度、君のために作ってみたい。まだ下手だけど、がんばるよ」 リアは答えられなかった。 その笑顔が、痛いほどまっすぐだったから。 (ずるいよ、そんな顔……) 本当は言いたかった。 「私はあなたを許してなんかいない」 「昨夜のことだって、絆なんかじゃない」 だけど、言葉は喉で絡まり、出てこなかった。 代わりにこぼれたのは、かすかな笑み。 「……カイルって、ほんと器用だね」 曖昧な言葉で濁すことしかできなかった。 カイルはその言葉に照れたように笑って、またスープをかき混ぜた。 リアは、自分の指先が震えていることに気づいた。 思い出す。昨夜、彼に触れられた感覚。 優しかった手。熱を孕んだ眼差し。 心も、身体も、溶かされるようだった。 (あんなの……間違ってるのに) でも、あの時――自分は彼に、抱かれたがっていた。 その事実が、いまも胸の奥で疼いていた。 夕暮れが迫る頃、小屋の外は薄暗い影に包まれていた。 森のざわめきが静まり、空には星の光がぽつりぽつりと灯りはじめる。 リアは焚き火の前で、膝を抱えて座っていた。 その隣に、カイルが腰を下ろす。 彼は何も言わなかった。 ただ隣にいて、火を見つめている。 しばらくして、カイルがゆっくりと口を開いた。 「……リア。俺は、何も覚えてないけど、それでも一つだけわかることがある」 リアは黙ったまま、火を見つめ続ける。 その声は、優しく、けれど芯が通っていた。 「君を、守りたいって思った。その気持ちは、嘘じゃない」 カイルがそっと手を差し出す。 「だから、どこまでも一緒に行こう。君が望むなら、俺はどこへでもついていく」 リアの呼吸が止まりそうになった。 差し出された手。あの夜、剣を突き立てた手。 今はこんなにも優しく、ぬくもりを含んでいる。 リアはその手を見つめたまま、動けなかった。 震える指先が、かすかに浮かび上がる火の明かりに照らされていた。 (その手は、私の命を奪った。でも……今の私は、その手を求めてしまっている) 触れたい。でも、触れてはいけない。 葛藤が胸を裂く。 「……あなたが私を殺したこと、私は忘れていない」 絞り出すような声だった。 カイルは一瞬、眉をひそめた。 けれどすぐに、わずかに微笑んだ。 「それでもいい。忘れなくていい。俺は、それでも君のそばにいたい」 リアの胸が音を立てた。 その言葉が、どこまでも優しく、残酷だった。 触れれば、壊れる。 けれど――壊れてしまっても、もういいと思ってしまいそうだった。 彼の手に、そっと、自分の指先を添える。 その瞬間、心の奥で、何かが静かに崩れた。朝の光が、小屋の中をやわらかく包んでいた。リアは起き上がっていなかった。毛布の中で目を覚ましながらも、瞼は重く、身体も言うことをきかない。何もしたくなかった。何も、考えたくなかった。だがその静けさを破るように、扉がゆっくり開いた。柔らかな足音とともに、カイルが入ってくる。「おはよう、リア。これ、見つけたんだ」彼の手には、白く小さな花束があった。野に咲く素朴な花たち。けれど丁寧に組まれていて、それを渡す彼の目は、どこまでもまっすぐだった。「……君に、似合うと思って」リアは何も言えなかった。喉が塞がれているみたいに、言葉が出てこない。花束を見つめる。震えそうになる手。伸ばせない腕。受け取ったら――それを“愛の証”だと思ってしまいそうで。けれど、断れば――この人を傷つけてしまう気がした。葛藤の末に、リアは手を伸ばした。そっと、花を受け取る。「……ありがとう」ようやく絞り出したその声に、カイルはふっと笑った。無邪気で、優しい、少年のような笑顔。(違う。この人は、そんな顔をする人間じゃないはずなのに)頭の中で警鐘が鳴る。あの夜、自分を殺したその手。血の匂い、痛み、絶望。なのに今、その同じ手が、花を差し出している。優しさに溺れそうになる。心のどこかが、もう崩れ始めている。この人は“過去”を忘れている。だからこそ、こんなにも自然に愛を向けてくる。それが――何よりも罪深かった。リアは、胸の奥にできたひび割れを、そっと押さえるように花を抱いた。森の小道を、二人で歩いていた。空は高く澄み、風はやさしく木々を揺らしている。カイルは前を歩きながら、時折後ろを振り返ってリアに笑いかけた。「足、痛くないか?」「……大丈夫」小さく答えると、カイルは安心したようにまた前を向いた。その背中を見つめながら、リアは無意識に指先をぎゅっと握っていた。花束は、もう持っていない。けれど、代わりに――カイルの手が、ふいにリアの手を取った。「危ないから、段差気をつけて」自然な仕草だった。ごく当たり前に、大切な人を支えるような動き。だがリアの身体は、その一瞬で硬直した。あの日、自分を殺した手。その感触を、身体は忘れていなかった。なのに今、その手が、自分の手を優しく包んでいる。(わからない……)リアは足を止めそうに
空が白み始めていた。鳥の声が遠く、かすかに響いてくる。リアは目を覚ましたまま、動かずにいた。背後にある体温が、ぴたりと寄り添っている。腕が腹のあたりに回されていて、浅い寝息が耳元にかかる。鼓動が背中越しに伝わってくる。静かで、穏やかで、やさしくて――(ここは地獄だ)そう思った。夜のうちに離れることもできたのに、自分はその腕に抗えなかった。痛みは癒えていないはずなのに、どこかで心が安らいでしまったのも事実だった。「……リア……好きだよ……」夢の中にいるような、低くかすれた声。寝言のように囁いたその言葉が、心臓を鋭く突いた。リアは、息を呑んだ。思わず身をこわばらせる。けれど、腕はほどけなかった。むしろ、より強く抱きしめられるように感じた。ああ、こんな風に抱かれる資格なんて、自分にはないのに。「やめてよ……」声に出せたかどうかもわからないほどの呟きだった。でもそれすら、彼には届いていない。カイルはまだ夢の中だ。記憶も、罪も、すべて眠ったままで。リアの頬に、ひとすじ、涙が伝った。(私、何をしてるの……)殺された。胸を貫かれた。血を吐いて、意識が遠のいて――それでも、今こうして彼の腕の中にいる。赦してない、はずだった。でも、心の奥がこんなにも彼を求めていることが、恐ろしくて仕方がなかった。彼の囁く“愛してる”は、きっと本心だ。記憶がないからこその、まっすぐな思い。けれど、それが一番、残酷だった。昼近くになって、二人は小屋を出た。森の奥に流れる細い清流――澄んだ水音が、空気の重さを少しだけ和らげてくれる。カイルは洗濯物を担ぎ、リアは水桶を手に持っていた。光の中で、彼は眩しいほどだった。長めの髪を結び、額に浮かぶ汗を無造作に拭っている。その仕草ひとつひとつが、罪とは無縁な青年のそれで。石の上に洗濯物を並べながら、カイルは当たり前のように笑っていた。「今日は天気がいいな。すぐ乾きそうだ」リアは返事をしなかった。けれど、その横顔から視線を逸らせなかった。風に揺れる髪、まっすぐなまなざし、自然に動く手のひら。すべてが、無害で、優しくて――“彼ではない”ように見えた。でも、同じ顔。同じ声。同じ背中。彼女を殺した“あの男”と、何ひとつ違わない。「……やめて」思わず口の中で呟いた。自分でも、誰
朝の光が、壊れかけた窓の隙間から差し込んでいた。リアは毛布にくるまったまま、目を閉じたふりをしていた。身体が、まだ昨日の余韻を覚えている。吐息、指先、熱の重なり、あの行為。思い出すたび、身体の奥が疼く。自分でも信じたくなかったが――あの一夜を、心のどこかで“気持ちよかった”と感じてしまった。その事実が、何よりも恐ろしかった。(どうかしてる。あんなの、赦しじゃない)罪をなかったことにして、快楽で上書きするなんて。わかっているはずなのに、心が逃げ道を探している。そして身体は、その逃げ道にすがるように、カイルのぬくもりを欲している。「おはよう、リア」背後から届いた低い声に、肩がぴくりと震えた。「……ん」返事にならない返事をしながら、リアはゆっくりと身体を起こした。振り向けば、カイルが焚き火の残りに木を足していた。穏やかな微笑み。優しいまなざし。それはまるで、昨夜の出来事が“恋人同士の自然な流れ”だったと信じているような表情だった。リアは視線をそらし、毛布を強く握りしめた。(違う、そんな顔しないで)あなたは、私を殺した人間。それなのに、どうして――そんな無垢な目で私を見られるの。「スープ、温め直したよ。……まだちょっと冷えるからさ」「……ありがとう」ぎこちない声でそう言うと、カイルは満足げに頷いた。彼の中では、もう“和解”したつもりなのだろうか。リアは、黙ってスープを受け取った。その温もりが、なぜか泣きたくなるほど優しかった。スープの湯気が揺れる小屋の中、カイルはふいに口を開いた。「リア、そろそろ町へ下りよう」リアは思わずスプーンを止めた。「……町?」「うん。森を抜けた先に、小さな集落がある。君の身体も、ちゃんと診てもらったほうがいいし……ここにずっといるのも、限界があるだろ?」言葉のひとつひとつは、優しさに満ちていた。それが、逆に胸を締めつけた。町――人の目のある場所。騎士団の巡回もあるかもしれない。過去を知る者がいれば、カイルの素性が暴かれてしまう。いや、それ以上に。(あの場所で、何かを思い出されたら――)心の奥底で、リアは怯えていた。彼の中に埋もれている“あの夜の記憶”。それが蘇った時、この優しさはどうなるのだろう。「……いや」「え?」「行きたくない。まだ……身体も完全じゃない
淡い光が、小屋の割れた窓から差し込んでいた。焚き火はすでに消えかけ、室内には静かな朝の気配が漂っている。リアは毛布の中でまどろみながら、身体の重みを感じた。それは隣にいるカイルの腕だった。彼の腕が、自分の腰に優しく回っている。息を詰めた。逃げようとする体が動かない。怖いわけじゃない。けれど、あまりに“穏やかすぎて”怖かった。彼の寝息は規則正しく、安らかだった。その横顔を、リアはそっと見つめた。整った輪郭。長い睫毛。静かに閉じられたまぶた。その顔には、あの夜の残酷な面影はなかった。まるで別人のようだった。──いや、記憶を失った彼にとっては、今の姿こそが本物なのかもしれない。リアは胸元に手を当てた。自分の心音が、どくん、どくん、と速くなるのがわかった。これは何? 恐怖? 怒り? それとも……愛情なんて、あるはずない。けれど、彼の体温がまだ自分の肌に残っている気がした。それが消えてしまうことを、ほんの少し、惜しいと感じてしまった自分に、ゾッとする。目を閉じれば、思い出すのは彼に殺された瞬間。でも今、隣にいる彼は、そんな罪を知らないまま、自分を守るように腕を回して眠っている。──この安らぎは嘘だ。全部、まやかしだ。わかってる。けれど、それでも、今だけは。リアはそっと目を閉じた。逃げないで、この体温をもう少しだけ感じていたかった。冷たい空気が、朝の山肌を撫でていた。リアはカイルを起こさぬよう、そっと毛布を抜け出すと、小屋の扉を押し開けた。きしんだ音が響く。深い森の中、吐く息は白く、鳥の声すらまだ遠い。静かすぎる朝だった。バケツを手に、小屋の裏手にある細い小川へ向かう。冷たい水をすくいながら、ふと川辺の茂みに目を向けた。その瞬間、心臓が跳ねた。草の間に、何かが落ちている。濡れた地面に貼りついた、それは──白い布。だが、ただの布ではなかった。見覚えのある刺繍が、そこにあった。──騎士団の紋章。リアの手が止まる。こんな場所に、なぜ。ここは人里離れた山奥。誰の目にもつかず、逃げ延びたはずだった。けれど、見つかりつつある。現実が、静かに彼女たちを追い詰め始めていた。「……こんなに早く……」リアは布をそっと拾い、指先で刺繍をなぞった。間違いない。あの組織が動いている。もしかすると、すでに近くに追手がいるのかもしれない。胸が苦しくなる。助け? 違う。彼
静寂が、耳の奥を刺すようだった。リアはぼんやりと天井を見つめていた。薄暗い山小屋の中、焚き火はまだ消えていない。けれど、寒い。身体の芯が冷えている。いや、違う。震えているのだ。理由は、わかっていた。「……はぁ……」かすれた吐息と共に身を起こそうとして、痛みが走る。胸の奥、鋭くえぐられたような痕跡が、まだ彼女の身体に残っていた。熱を帯びる皮膚。冷や汗が背筋を伝う。夢を見た。いや──思い出した。あの剣が、自分の胸を貫いた瞬間。倒れる感覚。空気の抜けるような息。あの男の目、血の匂い、すべてが生々しく蘇ってくる。「……リア?」背後から、男の声。静かで、優しい。なのに、それが何よりも恐ろしい。「起きたのか? 無理しない方が……」カイルだった。記憶を失った、自分を殺した男。リアは反射的に身を引こうとしたが、身体がついてこない。息だけが荒くなる。「おい、大丈夫か……?」ゆっくりと、カイルが近づいてくる。彼の手が伸びる。その角度、その速度、その仕草。──すべてが、あの時と同じだった。見えないはずの“殺された記憶”が、まるで現実のようにフラッシュバックする。リアの胸が軋んだ。焼け付くように熱く、苦しくて、息が詰まるほどに。カイルの手が、そっとリアの額に触れた。「熱がある……無理しない方がいい」低く落ち着いた声。まるで恋人に触れるようなその仕草に、リアはぞくりと背筋を震わせた。自分を殺した男のはずなのに──その手は、優しくて、あたたかい。「少し……休んでいろ」リアが拒絶の言葉を口にする前に、カイルは彼女の背中に手を回し、そっと抱き寄せた。逃げようとする身体は力を失い、彼の胸元に寄りかかる形になる。「……っ、やめて……」微かな抵抗をよそに、カイルは膝をつき、リアを自分の足に抱き上げる。膝枕のような姿勢。リアの頬に彼の息がかかるほどの距離。「安心しろ、変なことはしない。ただ……少しでも、君の痛みをやわらげたい」その声は、偽りのない優しさを帯びていた。だからこそ、リアの心は壊れそうになる。震えが止まらない。あの時も、こんなふうに触れてきたのか──いや、違う。あの時は、剣だった。なのに今は、腕が、手が、熱が、優しさが、私を包もうとしている。彼の指が、頬から耳の裏をなぞる。火照るようなその感触に、リアは身体をこわばらせる。心臓がうるさくて、呼吸
痛みが、まだ生々しく身体に残っていた。熱に浮かされたような視界の向こうで、誰かが私の名前を呼んでいる。その声が、優しかった。信じられないほどに。「……リア、目を覚ましてくれ」私の額に触れる手。男の声。低く、少し掠れていて、けれどどこか懐かしい響き。まぶたを押し上げると、目の前に一人の男がいた。漆黒の髪と鋭い輪郭。凛々しい目元。見覚えがある――でも、その顔は私にとって、最も見たくなかった顔だった。「……なんで、あんたがここに……」声がかすれる。痛みと混乱で、頭がうまく回らない。でも私は確かに、この男に殺されたのだ。胸に深く、鋭く突き立てられた剣の感触。今も、身体の奥にその記憶が刻まれている。「よかった、助かって……本当に……」男――〈カイル〉は、まるで恋人に再会したかのような顔で笑っていた。その表情が、なによりも恐ろしかった。リアは首を振ることもできなかった。傷は深く、意識はかすれていく。それでも、この状況が夢や幻ではないと、理性のどこかが告げていた。「気をつけろ。まだ完全に治ってない。しばらくは寝てた方がいい」カイルはそう言って、壊れ物を扱うように慎重にブランケットをかけ直した。その動作一つひとつが優しくて――優しすぎて、気が狂いそうだった。(どうして、こんな顔をするの? 私を殺したくせに……)涙が勝手ににじんだ。声を出す力はなかった。けれど、カイルはそれを誤解したのだろう。彼の手が、そっとリアの頬に触れた。「ごめん……怖かったよな。でも、もう大丈夫だ。俺がいるから……」その言葉が、刃よりも鋭く胸を貫いた。この男は、覚えていない。私を殺した記憶を――リアは目を閉じた。見たくなかった。あの男の顔も、声も、聞きたくなかった。「俺は……なぜ君と一緒にいるのか、よくわからない。でも……顔を見た瞬間、守らなきゃって思った」静かに語るその声音が、酷く優しい。あまりにもまっすぐで、残酷なほどに無垢だった。私を殺したあんたが、そんな顔するなんて。リアの中に、記憶が蘇る。血の匂い。倒れた感覚。剣が胸を貫いた時の衝撃。そして、崩れ落ちる意識。「……本当に、何も覚えてないの?」絞るような声で問いかけると、カイルは眉をひそめて目を伏せた。「夢を見た気がするんだ。君が泣いてて……俺は、血まみれの剣を持って……でもぼやけてて、