ANMELDEN「……亮子って女友達じゃなかったわけ?」「彼女は急に仕事になってしまったようで……代わりを見つけてくれたみたいなんです」夜になって帰宅した神楽に予定の変更を伝えた。するとタイミングよく、窓の向こうで車が停まる音がする。神楽はカーテンの隙間から、やってくる人を確認しながら言う。「冷蔵庫、ほとんど減ってなかったぞ?」神楽に言われた通り、1日のほとんどをソファで横になって過ごした。水分を多めに取りながら……パックのトマトサラダとレトルトの鶏のおかゆを食べたが?「1人で1食しか食べてないんだから、そりゃ減りませんよ」「紅が行っちゃうと、食材が余って困るな……」「買いすぎです。それは神楽さんのミス」玄関のチャイムが鳴り、紅は荷物を手に玄関に向かう。不機嫌の塊と化した神楽が後からついてきた。「……紅、火事って聞いて驚いたよ」「ご心配をおかけして、ごめんなさい」やってきたのは芹沢専務だった。仕事で出張になってしまった亮子が、芹沢専務に私の災難を伝え、助けてやってくれと頼んだらしい。会ってから話そうと、神楽の家にいるとは話していなかった。だからきっと、ホテルでひとりぼっちで苦しんでいるとでも思ったのだろう。「遠慮しなくていいよ。使ってないマンションだから」ふと、背後で腕を組む神楽に目をやる芹沢専務。「紅のことは責任を持って私が面倒を見るので、ご心配なく」「いや、怪我の手当てもありますし、彼女は療養中です。明日には戻ってもらわないと」「手当てと療養中の見守りなら、うちの産業医に看護師を手配するよう伝えます。神楽先生には逐一、彼女の状態を伝えますのでご安心ください」「……っ!」紅は張り詰めた空気に気づかないふりをして靴をはいた。そんな彼女に手を貸す芹沢専務。「……わぁっ!びっくりした」ドアを開けようとしたところで、谷村先生に出くわした。「え……あれ、片桐さん……お出かけ?」「はい。……いろいろあって。谷村先生、仕事に復帰したら改めてご挨拶に行きます」その間、母のことをよろしく頼む、という意味で頭を下げる。「それはもちろん。じゃあ、あの……行ってらっしゃい、?」神楽の表情をチラ見しながら、困った顔で見送る谷村先生。とりあえずこちらの意図は伝わったようで安心した。「掃除も買い物もすべて手配したから。紅は主寝室ですぐに横になるとい
……何が「出すわけにいかない」だ?!「お2人の邪魔になるんじゃありません?私だってそれくらいの配慮はできますよ?」「俺にとって邪魔だとするならそれは京香だ。紅は……ここにいなさい。手当もあるって言っただろ?」「でも、谷村先生もお疲れでしょうし」ずっと神楽の後ろで小さく笑っていた谷村先生。名前を呼ばれて顔を上げた。笑いすぎて涙を流してる……?「ほんとほんと……!邪魔は私の方よ?ホテルにでも泊まるから、ちょっと、荷物だけ持って行かせて」遠慮なく室内に入っていく彼女の背に、紅は思わず声をかける。「だったら、2人とも泊めてもらいましょうよ」谷村先生は神楽に遠慮するような視線を向け、神楽は冷静を保とうとしているように見える。「部屋はありますよね」「あぁ。確かにある。京香なら別にリビングの床に転がしてもいいしな……」ぼんやりした表情で言う神楽の腕を、またも遠慮なく叩く谷村先生。友達……らしいが、とても仲が良さそうだ。「……幼なじみ、ですか」「あぁ。だから本当に何でもない。どうでもいい女だ」夕食を食べながら、神楽は谷村先生との関係を力説する。「どうでもいいって……神楽さんにとってどうでもよくない女性なんているんですか?」「いるさ!……それくらい」「契約結婚した妻をセフレにしてきたくせに……クズの言うことは信じられないなぁ」椅子から立ち上がりながら遠慮なく言って……「あ、ごめんなさい?」と一応謝罪してやった。ぐうの音も出ない神楽……困ったような顔をしている。「でも今回の火事は、そんなクズに助けられました。本当に、感謝しかありません」笑顔で言う紅に、なんとも言えない表情をして見せる神楽の皿も一緒に下げ、洗い始める。……京香は一足先に入浴中だ。「ごめんね、お風呂お先に」出てきた姿を見て驚いた。肩がむき出しのワンピース……パジャマ代わりにしているのだろうが、普段のイメージとは違って、そこはかとない大人の色気がまぶしい。「俺は学会が控えてるから、ちょっと作業をする」女の私でもハッとするほど色っぽい谷村先生に見向きもせず、神楽は部屋に入ってしまった。「あー、昨日は勝って終わったから、今日はやりたくないんだな?!……ったく、神楽のやつ」ボソッとつぶやく谷村先生の言葉が聞こえてしまった。「何か、勝負でもしていたんですか?」「アハ
「……契約妻っ?!」「声がデカいぞ」「だって……まさか3回もそんなこと繰り返すなんて思わなかったから」アパート火災で紅を背負って出てきた俺は、京香が呼んでくれた救急車で病院に来た。すぐに紅の処置をして、その後軽い火傷をした京香の手当てをしながら紅との関係を問い詰められ……しかたなく本当のことを話したところだ。「……まぁ。出会っちゃっだんだから、仕方ないよな」俺だって、紅でなければ3回目はなかったかもしれないと、最近思う。ちょっといい女だと思った。どこかミステリアスで、物事を見抜くような強いまなざしを、気づけば目で追っていた。だが、契約結婚を匂わせたらすぐに乗ってきたから、これまでの女と同じだと思ったんだ。……結局、知らぬ間に復讐をされていたところを見ると、やはり俺の目に狂いはなかったというわけだ。「……私と結婚させられるの、そんなに嫌だったの?」「別に京香が嫌だってわけじゃないが、院長の言う通りになりたくなかったんだよ」「私とでも契約できたのに!1年で離婚してくれれば、お金なんかいらなかったよ?」承諾も紹介もなく結婚して1年で離婚して、それを2回繰り返した時、継父である院長は俺に言った。3回目は谷村京香と結婚しろ、と。「悪評がつかないように京香を使いたかったんだろ。別に俺を守るためじゃなく、病院の評判を気にしてのことだ」「だとしてもさ。言い方悪いけど、片桐さんの戸籍に離婚っていう傷をつけたのよ?これから普通に結婚していくだろう人に……」「趣旨は全部説明した。彼女もこの先結婚するつもりはなくて、戸籍が傷つくとか気にしてなかったんだよ?」……だとしても、と食い下がる京香に言ってやる。「京香こそ、戸籍に傷をつけたくないだろ?……颯真、帰ってくるみたいだしな」「……その件についてはノーコメント」「怒ってやれよ、思いっきり。どうして自分を連れて行かなかったんだ、って」京香とは同い年で、実家は院長の邸宅のごく近所だった。母の連れ子としてあの家に住むようになってから、よく顔を合わせるようになった幼なじみだ。 品行方正で、いわゆるお嬢様学校に進んだ彼女は院長のお気に入りで、両親と一緒によく家に呼んでは、俺や颯真に相手をさせた。そんなことから、京香は兄妹のような間柄で家族に近い。「付き合ってたんだろ?颯真と」「……いいよもう、そ
「……片桐さん、気がついた?」白い天井とベッドを囲むカーテンレールが、おぼろげに瞳に映る。声のする方へ顔を傾けると、坂谷さんが心配そうに顔を覗き込んでいた。「私、どうして?……」「お住まいのアパートが火事になったのよ!」「火事、」そうだった。目が覚めて異常に気づいて、貴重品と母の服を抱えて、ドアを開けようとしたら熱くて……「……服、お母さんの服、」起き上がろうとする紅を、慌てて止める坂谷。「今神楽先生が来るから、まずは状態を診てもらいましょ」神楽がくる……?そういえばドアを蹴破ってくれたのは神楽だった。そのへんから記憶がないということは、私は気を失ったのか……「目が覚めましたか」そこへガラっと扉が開いて、神楽と処置のためのワゴンを引いた看護師が入ってきた。坂谷は2人に会釈をして、またね……と言って出て行く。神楽が近づいてきて初めて、自分が酸素マスクをしていていることに気づいた。「先生、少し心拍数が上がったようですが」ピッ、ピッ、ピッ……という電子音。どうやら心電図もつけられているらしい。「うん。ちょっと口の中を見せてもらうぞ」そっとマスクを外され「口を開けて」と至近距離で言われると、心電図の電子音がさらに速くなった気がする。「もう、大丈夫、なので」「あぁ、声は出るな。だが喉の奥が腫れていたり|煤《すす》がついていると危険だ」指先で頬に触れ、親指で下唇を少し押し下げる神楽。のどの奥をペンライトで照らし、ホッと息をつく。「うん、大丈夫だろう。……あとは、手のひらの火傷か」ドアノブを回して開けようとして、熱くてとっさに離したのを思い出した。看護師が神楽に代わって酸素マスクを取り付けようとしたが、それを止める神楽。「あぁ、俺がやるから大丈夫だ」「……先生、手の処置は、」「俺がやる。君は河野先生のところへ行って」シッシッ……っと指先で追い払う仕草。看護師は憮然とした表情で立ち去る。……復帰したら私が嫌味を言われそうなんだけど。「消毒をして、薬を塗るからな」包帯を外す手つきが意外にも優しくて調子が狂う。何か言ってやりたいが、酸素マスクをつけているので喋れない……包帯から解放された手のひらは、赤くなっているがそんなにひどい火傷には見えない。けれど神楽の処置は丁寧だった。それは素人目には、大げさとも思えるほど
「……この辺で、停めてください」 送ると言って聞かない神楽を置いてタクシーに乗り込み、少し遠回りして自宅アパートの近くで降りた。 送りオオカミを心配したわけではないが、神楽に住まいを知られたら何かと面倒だ。 「……あ、」 足取りも軽やかにアパートの敷地に入ると、少し先に女性が歩いているのが見えた。 「谷村先生……」 そっと駆け寄り、小声で声をかければ、驚いた表情で振り向く人。 「あら……今帰ったのね?偶然!」 「先生は……もしかしたら、」 デートかと思った。だってスカートをはいていたから。 「仕事帰りよ?!」 妙に張り切って言う様子に笑みがこぼれる。……まぁ、先生のプライベートに口を挟む気はないけれど。 ふと、約束の前に母に会いに行った分院で、神楽と話していた谷村先生の姿を思い出した。 爽やかで、清廉潔白な印象を与える谷村先生と神楽。 意外な取り合わせながら、とても親しく楽しそうだった。 おやすみなさいの挨拶をして、紅は自分の部屋に入る。 少しだけ揺れている視界……神楽と一緒だったわりに、ずいぶん飲んでしまったかな。 「……何がプロポーズする、よ?」 バスタブに入るのは諦めて、シャワーだけ浴びることにした。 服を脱ぎながら、目の前でタクシーの扉が閉まり、唖然とした表情の神楽を思い出す。 『よしっ!それじゃ俺も、君にプロポーズしようじゃないかっ!』 結婚したくなくて3回も契約結婚を繰り返したくせに、どうして芹沢専務のプロポーズに対抗したくなったのか…… 「……負けず嫌い発動か?」 神楽にはあんなふうに言ったが、男嫌いを克服するために、芹沢専務のプロポーズを受けるつもりなどない。 真剣な表情で結婚を匂わされ、これは困ったと思ったのは本当だが、退職したのは別の理由が大きかった。 父親が私の職場を知っていて、会社も私の父親が、トオキ屋の後継ぎだと知っていたから。 家族だからと、取引の仲介を頼まれるのが嫌だった。 父親にそんなことで頭を下げたくない。けれど私ではない社員が頭を下げ、取引が始まったら? 自分がトオキ屋の担当にさせられる可能性がある。だから会社を辞めた。 そこに……ほんのわずかでも、迷いなんてものは存在しなかった。 シャワーから出てTシャツとハーフパンツに着替え、素肌に化粧水を叩き込む。続けて塗り込む
「話の内容と店があまりにもミスマッチじゃないか?」 神楽に真剣な表情で言われ、驚いた。 別の店に行こう誘われ、豚串と生ビールの美味しさは堪能したので、素直について行くことにする。 「言い訳をするわけじゃないが、あの頃の俺は荒れててな。多分、かなりの人に嫌な思いをさせたと思う」 次の店は半個室の落ち着いた店。 お酒を注文したところで、神楽が口を開いた。 「荒れていた理由は?」 当時の神楽は、男子高校生ながら、誰もが注目してしまうほどのビジュアルを兼ね備えていた。 取り巻きも多く、華やかで、全校生徒の憧れだったと思う。 そんな人がなぜ、心を荒らして安易に人を傷つけたのか、それが知りたかった。 「母親が、より良い生活を求めて父親と離婚して……俺を連れて医者の男と再婚した。12歳の時だ」 「噂は本当だったんですね?」 「噂になってたの?」 「はい。戻ってくる颯真さんという方が、院長の本当の息子だと」 神楽は少し笑って、ワインをひとくち飲んだ。 「母親に連れられて行った先に、確かに颯真がいたよ。ひとつ年下で、俺とはまったく違うタイプ」 「連れ子同士、ってことなんですね。成長過程は置いといて、2人とも医者になったのはすごいです」 「父親の考えだよ。だから母親は高校を卒業して家を出ようとした俺を許さなかった。……反抗するのも面倒で医者になったけど、学費は出してくれるし悪い話じゃなかったよな」 そう言いながら、心ここにあらず、といった様子の神楽。 「反抗してる最中だったんですね?高校時代は」 あの頃の神楽は、鋭利なナイフのような面が確かにあった。 関わる人を傷つけるのに、その綺麗な見た目が人を集めてしまう…… 「子供の頃からサッカーをやっててな。父親はチームのコーチだった。母親に言わせれば稼ぎが悪かったらしいが……俺にはいい父親だったんだ」 「本当は、離れたくなかった?」 「友達もたくさんいたし、子供ならではの話だけど、サッカー選手になりたいって夢もあった。けど……母親はそのすべてを突然奪ったんだよ」 言葉にはならない悲しみが伝わってくる。継父や連れ子の颯真との関係も、決して心安らぐものではなかったのだろう。 「わかりました」 「……は?」 紅は生ビールを2つ頼み、ドンッと神楽の
「契約期間は1年。親への挨拶はしなくていい。新築した家が都内にあるから引っ越してきてくれ。契約結婚にかかわるすべての経費はこちらで持つ」車の中で行われた話はとてもスムーズで、簡潔だった。「仕事関係者や交友関係に君を紹介することはない。ただ、結婚した事実だけが欲しい。婚姻届は出し、同居することで、実態を伴った結婚だったと後になって周りが認めればいい」「……わかりました。私も両親とは距離を置いていますので、挨拶などの心配はいりません。ひとりっ子ですし」「それは助かる。……あの料亭で働けるということは、それなりに信用のおける人物だと理解しているが、一応身分証を見せてくれるか」求められるま
「今夜の料理も美味いな」「本当ですか?嬉し……」「玉ねぎが入ってなきゃね。言わなかったっけ?俺、玉ねぎが苦手だって」ピリっと張りつめる空気……とても仲良し夫婦の夕食風景には見えない。射抜くように向けられた視線から逃れたくて、反射的に下を向いた。ガラスのダイニングテーブルは透明で……夫が足を組み替えたのが見える。「そうでしたね。……ごめんなさい」「いやいいよ。普通の男なら満足する味だ。……普通の男ならね?」頬杖をついて私に向ける視線は……確実に不愉快だと伝えている。「明日は必ず……満足していただけるように頑張ります。私、料理は得意なので、今度こそ」リベンジを誓う私を見つめ返
「事務全般の責任者を務めております、山中といいます」 「片桐紅です。よろしくお願いします」 履歴書を確認されているうちに、50代後半の男性が入ってきて、神楽に会釈して隣に座った。 「ええっと……採用でもう、決まりなんですよね?」 「そうですね。詳細は伝えた通りなので……あとはお願いします」 入れ替わるように立ち上がり、通りすがりに紅の肩をポンと叩く。 ……視線を感じるが、別に用はないので見上げたりしない。 その視線の意味を知るのは、この直後のことだった。 「片桐さんには、外科の病棟クラークとしてお仕事していただきます」 「病棟、クラーク……」 クラークと
意味深な指の動きと見下ろす視線の色気に気づいて……紅はパッと手を引っ込める。油断も隙もない、遊び人のかまってちゃんめ……「それでは午後、病院に伺いますのでよろしくお願いいたします」「あぁ……もし本院にいなかったら、絆ハートメディカルって、裏にある分院に来てくれ」「……あ、わかりました」玄関ドアを開けながら、今言われたことを心の中で繰り返す。絆ハートメディカル病院は、母が入院している病院だ。……まさか、二階堂総合病院の分院だったとは。コインロッカーにスーツケースを預け、定食チェーン店で朝食を食べることにする。目玉焼きをつつきながら、仕事はこれでほぼ決まったとして、住まいをどうす







