聖暦1580年
「ハア、ハア、ハア!」
走る。
走る、走る、走る。
薄暗い夜の森の中を2人の少女が駆け抜けていく。
一体どれだけ走り続けただろうか。
行き先も分からず、何が起こったのかも分からず、ただ手を引かれながら足元の悪い森の中をひたすらに走るこの状況は6歳の少女には流石に過酷過ぎた。
「も、もう走れないわ!」
「もう少しの辛抱ですレイミス様!あと少しで国境に辿り着きます!それ迄走り続けてください!」
それでも足を止める事は許されない。
足を止めてしまえば待っているのは死、のみだ。
幼い少女でもそれ位は分かる。
何せ目の前で父も兄も殺されたのだから。
逃げる時に国民の悲鳴が聞こえてきたのだから。
国が燃やされるところを見てきたのだから。
だから分かっているのだ。
自分も見付かったら殺されてしまうことに。
だから逃げるしかないのだ。
たとえ一緒に逃げていた母と妹がはぐれてしまっても、幼い自分が探しに戻ることなど出来ようはずもないのだと。
そう必死に自分に言い聞かせここまで逃げてきたが、いよいよ体力の限界が来てしまったらしい。
「あう!」
レイミスと呼ばれた少女が足を取られ転んでしまう。
疲労なのか恐怖なのかそれとも両方か、足もガクガクと震えており立ち上がる事が出来ない。
「レイミス様!大丈夫ですか!?」
心配してくれるこの少女に、
「もう無理よぉ…走れない…お母様ぁ…」
と、泣き言をぶつける事しか出来ない。
泣いていないで走れと言うには6歳の少女にはあまりに酷な出来事が多すぎた。
体力も気力も限界のレイミスの心はもう折れかかっていた。
「大丈夫です!レイミス様!」
と、そんなレイミスを励ますように務めて明るく少女は声を掛けた。
「レイミス様なら大丈夫です!ちょっとお休みすればまた走り出せます!なんせエレナート家始まって以来の才女と呼ばれた方なのですから!」
「そんなの今関係な…」
「大アリです!ですからちょっと休んで動ける様になったら、先にこの先の国境に行っていてください。必ず合流しますから!」
と、少女はレイミスを木の影に横たわらせた。
「な!?どこに行こうというの!?私を置いていかないで!」
「私はこれからはぐれてしまったお二方を探してきます。大丈夫です!必ずお二方を連れてレイミス様の元に帰ってきますから!」
「なら私も一緒に…!」
それを聞き無理矢理起き上がろうとするレイミスを諭す様に言った。
「私が強いのはご存知でしょう?だから大丈夫です」
そういう彼女にレイミスは首を横に振りながら…
「貴方は私の侍女じゃない!私から離れないで!」
と、泣きついてしまう。
そんなレイミスの頭を撫でながら安心させるように微笑んだ。
「確かに私はレイミス様の侍女ですが、それ以前にエレナート家に拾われた身です。エレナート家の皆様にお仕えするのが私達の恩返しなのです」
それに、と、まるで妹を見る様な目をしながら続ける。
「不敬ではありますがレイミス様の事をまるで妹の様に思っておりました。私には家族が居ませんでしたが、家族とはこんな感じなんだろうと思ったのです。だからこそ家族を教えてくれたレイミス様の家族を私も守りたいと思うのです」
そう言って立ち上がり元来た場所へ戻ろうとする。
「それなら!貴方ももう家族じゃない!居なくなっちゃヤダ!」
溢れる涙を止められずレイミスは幼子の様に言った。
そんなレイミスに少し目を潤ませながら少女は言う。
「ならお姉ちゃんの最期のワガママ聞いて頂戴?そしてちゃんと最後まで生き抜いてねレイミス」
そう言い残し元来た道を走って行った。
「いやぁぁぁぁぁ!お姉ちゃぁぁぁぁん!」
2人共分かっているのだ。
ここで戻ったら殺されてしまうだろう事を。
だからこそレイミスは止めたかった、止めたかったのに…!
どれだけ泣いていただろう。
涙も枯れた頃ようやく足も動くようになった。
レイミスも元来た道を戻ろうかとも考えたが…
しかしそんな事をしてしまえば姉の最期の願いを踏みにじってしまう。
「生きなくちゃ」
そう決意を口にし先を進む。
これから先、どんな過酷な事が起きようと決して諦めず生き抜く事を誓った。
そう、姉の最期の願いと自分達をこんな目に合わせた奴らに復讐するまで絶対に生き抜いてみせる、と。
数時間後、国境に辿り着き3人を待っていたが…
誰1人レイミスの元に現れる事は無かった。
全てが終わりレイ達4人がいつもの宿に戻った時には、太陽が昇り始める時間になっていた。朝日に目を細めると緊張が解れたのか、途端に空腹と眠気がレイを襲う。(そういえばご飯もまだだったわね)仕事終わりの食事をするつもりがここまでの騒動になってしまった事に、つい苦笑してしまうレイ。今すぐにでもベッドに飛び込みたい欲求を堪えて、まずはニイルの部屋でレイとニイルの治療を行う事となった。治療と言っても例の如く、ニイルの用意した魔法薬を飲むだけなのだが。しかしそこで一悶着起きた。ニイルから差し出された魔法薬を見た瞬間、今迄の鬱憤が爆発したのだろう、レイが以前苦言を呈した時以上の怒りでもってニイルに詰め寄ったのだ。「魔力は治癒魔法では回復しないからこれを飲むのは分かるわ。でもいい加減この地獄を何とかしないと耐えられない」と、今迄ニイルに向けた事の無い剣幕でそう告げたのだ。「以前貴方は言ったわね?飲んだ事が無いから分からない、と。なら今すぐ貴方も飲むべきだわ。そうすればいかに貴方が悪逆非道な行いをしてきたのか分かる筈よ」その迫力は、フィオやランシュでさえもレイを止めるのを躊躇わせる程。流石のニイルもその雰囲気に呑まれつつ、抵抗を試みる。「い、いえ…私も飲みたくないから飲まない訳では無く、飲・ん・で・
「一体…何が起こってるの…?」震える声で囁くレイ。誰かに対して言った言葉では無い。ただひとりでに、無意識の内に出た言葉であった。レイは全てを目撃していた。スコルフィオの周囲に突然現れた騎士達も。その騎士達と戦うマーガも。スコルフィオが燃やされ、しかし何故か死なずにマーガ諸共斬られる所も。そして、意識を取り戻したマーガの首が刎ねられる所も…その全てが、ま・る・で・現・実・の・上・か・ら・重・な・っ・て・流・れ・る・映・像・の・様・に・、半・透・明・
「『神性アルカヌム』?それに『惑わす淫魔アスモデウス』って…」聞き慣れない単語を耳にし、1人呟くレイ。だがその圧力プレッシャーはどこか身近で、しかしその何倍も大きくて…「『神性アルカヌム』とは、簡単に説明するならば神性付与ギフトの上位互換です。か・つ・て・存・在・し・た・神の権能、その半分程が人間と混ざり合い新たに名を得たのが『神性アルカヌム』、その保持者達を『神性保持者ファルサ』と呼びます」ニイルの説明に愕然とするレイ。かつてレイが勝てなかったベルリや、序列大会で会ったルヴィーネ、レイが出会い戦った相手はどちらも尋常では無い強さを有していた。しかしその『神性付与保持者セルヴィ』達でさえも、『神性保持者ファルサ』の前では劣るのだという。にわかには信じがたいが、そもそもレイはこの力の事をよく知らない。
土煙の中から姿を現すマーガ。今にも倒れそうな様相で意識も朦朧としているが、その瞳には確たる意志を宿していた。横で倒れているブレイズに目を向けるマーガ。意識は無いが呼吸は辛うじてしている状態だった。しかしその状態も長くは続かないだろう、最早一刻を争う状態であろう事は傍から見ても理解出来た。(魔法障壁のお陰で、何とかお互い一命は取り留めた。敵の増援が来た以上本来なら部下を呼んで撤退するべきなんだろうけど…)周囲に意識を向けるが戦闘の音が全く聞こえない。最後に見たのは部下全員がたった1人を相手に向かって行った時。それから一向に助けに来ないところを見るに、想像したくは無いが全員やられたのだろう。(敵の増援が来た以上、早々にこの場を切り抜けなければならない。僕の魔力ももう空だけど、何とか君だけは逃がしてみせるよ)内心でブレイズに語り掛けるマーガ。彼を喪う事はセストリアの、いや世界にとっての損失だ。それ程この『剣聖』は人類にとっての希望なのである。
「さぁ、そろそろ決着をつけましょうか?」挑発する様にそう告げるレイだったが、決して勝算の目処が立ったからでは無い。寧ろその逆で、いよいよレイの魔力の底が見えてきたからである。これ以上長引けば、2人を削り切る前に確実にレイが魔力切れを引き起こす。当初想定していた最悪のシナリオ通りに進む事が予想出来た。故にレイらしからぬ挑発も兼ねた宣言を行ったのである。しかしその挑発を受けても、対する2人の冷静さが失われる事は無かった。勿論、状況的に追い込まれている事は重々承知の上だがそれでも尚、2人は勝利を諦めてなどいない。この程度の苦境、英雄と呼ばれるようになってから今まで、いやそれ以前からも、幾度となく乗り越えてきたのだから。「しかし追い込まれてるのもまた事実…ってね。そっちはどう?」わざと明るい雰囲気を醸しながら言ってのけるマーガ。ここで悲観した所で状況は好転しない、それ故の態度だった。「確かに早々に決着を付けたいのはこちらも同じだがな。だがこちらも奴を殺れるだけの決め手が無い。持久戦に持ち込まれればこちらの敗北は目に見えている」マーガなりの気遣いに感謝しつつ、しかし厳しい現状を冷静に突き付けるブレイズ。マーガの魔力も、ブレイズの体力も限界に近い今の状況では短期決着を狙うレイと同じではある。しかしこちらの手の内を全て晒し、その上で互角である。
流石に嘘だと信じたかった。しかし現実と共に思い知らされる。英雄と呼ばれる者の恐ろしさを―(たった1回、それも目で追えない様な速度だったのに…たったそれだけで対応してきた。そもそも雷に追い付くなんて、人間に出来る芸当じゃ無いのだけれど…)いくら100%の『雷装』ほんとうのぜんりょくでは無かったのだとしても、この技はレイにとっての切り札。速度も、本物の雷に劣るが決して並の人間が捉えられる速度では無い。身近に師匠バケモノが居るから錯覚してしまうが、英雄と呼ばれるブレイズとマーガも、バケモノになる事を選んだレイも、本来なら人類では最強格なのである。(そういえば、いつだって御伽噺では、バケモノは退治される側だったわね)幼い頃、妹と共に読んでいた御伽噺を思い出すレイ。世界各地で伝えられている物語は様々で、ある者は怪物を、ある者はドラゴンを…そしてある者は神すらも屠り、英雄と崇められていた。レイ達はそのどれもが好きであり色々と読み漁ったものだが、思い起こせばそのどれもが、人間がその上位の存在を打ち破る話だった。だからこそ人類は絶望に負けず希望を見出し、ここまで繁栄して来れたのだろう。その希望の象徴たる『英雄』の称号を与えられた人間が弱い筈は無く、その相手はバケモノ未満であるレイ。