その日、俺はいつものように印刷所からの帰り道、会社に戻る途中で昼飯を済ませようとしていた。
スクランブル交差点を渡り切る瞬間、雑踏の中から細身の影がふらりと俺にぶつかってきた。 信号は点滅し、赤に変わる寸前。なのにそいつは、周りを押しのけるように突っ込んでくる。足元がふらつき、まるで今にも倒れそうな様子に、咄嗟に声を上げた。
「おい、危ねえぞ!」腕を掴むと、そいつはぐらりと俺に倒れ込んでくる。
「っ……なんだ!?」驚きつつもそいつの体をしっかりと抱きとめ、慌てて交差点を渡り切った。抱えた腕から伝わる異常な熱。これはただ事じゃねえ。
「大丈夫か? めっちゃ熱があるぞ」
人混みをうまく避け、路地裏の静かな場所まで連れていき、そいつをそっとしゃがませた。
「大丈夫……です。締め切りが……もうすぐで、行かなきゃ」掠れた声で呟いた瞬間、そいつは力尽きたように俺にもたれかかり、荒い息を繰り返す。その声は、どこか中性的に耳に聞こえた。
「女かと思ったら男か。締め切りって郵便局か?」
支えながら視線を落とすと、そいつの手に握られた茶封筒。そこにはライバル出版社「緑泉社」のライトノベルコンテスト応募先の文字。出版社勤めとしては、複雑な気分に陥った。
とりあえずそいつを背負い、知り合いの医者が経営する病院へ向かった。「ももちん、昼休みなのに! 大人の急患連れ込むのやめてよ~!」
高校の同級生で、アレルギー専門の小児科医、周防武(すおう・たけし)が不満げに迎えた。
「いい加減、ももちんって呼ぶのやめろ。コイツ、めっちゃ熱あるんだ。診てくれ」
周防の文句を無視して診察室に踏み込み、そいつをベッドにそっと下ろした。
「うわ、これは……」
「な? かなりヤバそうだろ」 「ドストライクだね」聴診器も当てず、腕を組んでそいつをしげしげと眺める周防。
「流行りの病気か?」
「いやいや、ももちんのタイプでしょ? 清楚で綺麗な美青年って感じ♪」そう言って、なぜか俺の頬をつんつん突いてくる。長年の付き合いで、俺の好みを熟知してるこいつ。確かに、そいつの顔は悪くねえ。
「ドストライクってほどじゃねえよ」
そっぽを向くと、周防はニヤリと笑い、ようやく聴診器を手に取った。
「でもさ、似てるよね。高校んとき、ももちんが好きだった中学生に」
「あ? そうだったか?」 「似てる似てる! あっちはもっと気品漂う、私立中の制服だったけどね」楽しげに言いながら、体温計をそいつの脇に差し込む。
「ちなみにどこで拾ったの? 相変わらず面倒見いいな~」
「スクランブル交差点でぶつかってきたんだ。ふらふらしてたから、病気だろって連れてきただけ」肩を竦めたタイミングで体温計がピピッと鳴り、周防が眉をひそめた。
「病気もドストライクだよ。インフルエンザ。子どもらの間で流行ってるからね」
「マジかよ……」 予防接種はしてるが、感染しない保証はねえ。やべえな。「点滴と解熱剤の座薬、すぐ用意するよ」
周防が手際よく準備を始めるのを見ながら、俺は手を差し出した。
「なに? 手伝うの?」
「当たり前だろ。周防の昼休みを潰しちまったんだ。座薬くらいなら俺でもできる」俺としては真剣に言ったのに、周防のやつはなぜか顔を赤らめる。
「もしかして、ももちんのナニを座薬と一緒に」
「アホか! インフル患者を襲うわけねえだろ!」そいつのジーンズと下着を膝まで下ろし、ゴム手袋を手早くはめて、ワセリンを塗った座薬をさっと挿入してやった。
「ん……っ、ぁ――」
つらそうな表情のまま、掠れた声が漏れる。
「薬入れたからな。もうちょっと頑張れ」
ジーンズを履かせ直し、布団をかけてやる。その間に周防は点滴を準備し、細い腕に針を刺して液を調整。普段はなよっとした話し方だが、医者としての手際はさすがだ。思わず見惚れる。
「よし、できた。……って、ももちん、じっと見すぎ! どうしたの?」
「白衣ってだけで、カッコよさが2割増しだよな」 「ふふ、でしょ? ももちんが白衣を着たら、ママさんたちが子どもを無理やり病気にして連れてきそう」笑いながら肘でつついてくる周防。
「隣の点滴室に移すから、ベッドを押してくれる?」 「了解」キャスターのロックを外し、ゆっくりベッドを移動させる。隣の部屋で椅子を引き寄せ、そいつのそばに腰掛けた。
「ももちん、仕事はどうすんの?」
「病人と接触しちまったし、今日はこのまま休む」 うんざり気味に言うと、周防はなぜかニヤニヤした。「じゃあ、なにかあったらナースコール押してね。襲っちゃダメだぞ~」
意味不明な忠告を残し、周防は病室を出て行った。
「だから、病人襲わねえって!」
聞こえねえだろうけど、ついデカい声で叫んだ。
(……っと、病人がいるんだった )
とりあえず仕事を休むために、編集長に連絡しなきゃと思い直し、病室を出て三木編集長に電話をかける。インフル患者を病院に運んだ話をした途端に、
「危険人物! 今日の用はねえ! とっとと帰れ!」
危険人物扱いになったことがおかしくて、苦笑いしながら電話を切り、病室に戻ると、そいつがうんうん唸ってる姿が目に留まった。
「おい、どうした? 苦しいのか?」慌てて抱き起こすと、うっすら目を開けたそいつが掠れた声で呟く。
「水……喉が、苦しくて」
「わかった。すぐ持ってくる。ちょっと待ってろ」自販機で水を買い、病室に戻る。ペットボトルの蓋を開け、抱き起こして手渡すが、そいつの手は震えてうまく持てない。
「すみません。体が、言うこときかなくて」
「しょうがねえ。こんな熱じゃな。飲ませてやる」ペットボトルを口元に持っていくが、飲み込むのも辛そうだった。ちびちびしか飲めねえ。肩で荒い息をする姿を見て、このまま起こしてるのは可哀想に思える。
(――編集長、悪い。忙しい時に休むかも……) 「ちまちま飲むと体力使うぞ。目をつぶれ」 「はい?」 「いいから、言うこと聞け。なにも考えるな」怪訝な顔で大きな瞳を閉じるそいつ。俺はペットボトルの水を口に含み、形のいい唇にそっと重ねた。そしてゆっくり水を流し込む。
「っ……ん」
驚いた様子だが、冷たい水を受け入れてくれる。
「悪い。こっちのが楽だろ?」
零れた水を手で拭ってやると、そいつは熱のせいか、顔を真っ赤にして俯いた。
「す、すみませんでした……見ず知らずなのに、こんなに世話かけて」
「いいって。俺、桃瀬郁也。お前は?」 「小田桐涼一です。助けてくれて……ありがとうございます」水のおかげか、声が少しハッキリした。
「まだ飲むか?」
俺が顔を覗くと小田桐は視線を泳がせ、なぜか俺の唇を見つめた。
「遠慮すんな。飲めるときに飲んどけ」
「じゃ、じゃあお願いします!」慌てて両手で口を押さえる小田桐。素直で可愛い反応に、つい笑っちまう。
「はは、素直なヤツは嫌いじゃねえよ」
頭をぐしゃっと撫でると、小田桐はますます赤くさせた。
「じゃ、さっきと同じ。目をつぶって」今度はわかってるだけに、ぎゅっと目を閉じる。肩に力が入ってるのが見て取れた。
「おい、力抜けよ。唇、ちょっと開けてくれ」 笑いながらお願いすると、言うとおりに体の力を抜く。そっと肩を抱き寄せ、唇を重ねた。冷たい水が流れ込み、触れ合う唇の感触に、俺まで少しドキリとした。 水を飲み終えて唇が離れる瞬間、小田桐の瞳が揺れる。 「ん……っ?」水が止まり、ただ唇が触れ合ってる状態に、小田桐が小さく声を漏らす。俺はつい、角度を変えて唇を重ね、そっと舌を絡めた。
「っ、んん!」
驚く小田桐の口に、ミントタブレットを滑り込ませる。
「どうだ? ミンティア。熱で口の中が熱いだろ。スーパークール味、サービスな」
「これ、わざわざ口移ししなくても……手で渡せば」小田桐がぼそっと呟く。確かにその通りだが、つい意地悪したくなった。
「これくらいのサービス、受けてくれてもいいだろ」
「何かいろいろ、ありがとうございます」少し警戒した目で俺を見る小田桐。でも行き倒れを助けた俺を、悪い奴だとは思ってねえよな?
「あのさ」
「は、はい?」なぜかビクッと体を竦ませる。怯えなくてもいいのに。
「お前が持ってた緑泉社の封筒。ライトノベルの原稿だろ?」
「はい、明日が締め切りで……速達で出そうとしたら倒れちゃって」 「それさ、ウチのコンテストに出さねえ?」背広のポケットから名刺を差し出す。
「桃瀬さんって、ジュエリーノベルの編集者?」
小田桐の目が驚きで丸くなる。
「俺、人を見た目で判断できる。お前の顔、面白いもん書けそうなツラだ」
「 作品を読まずにそんなこと……」 「だから、ウチに出せよ。緑泉社の締め切り、間に合わねえだろ?」 「でも――」 「俺に頼めば、緑泉社に間に合うよう出してやる。けど、俺としてはウチに欲しい。どうする?」封筒を揺らしながら、小田桐の顔をじっと見つめた。俺の視線を感じて、目の前でゴクリと喉を鳴らす。
「桃瀬さんは審査員なんですか?」
「いや、今回は編集長と他の奴らがやる」 「じゃあ……今ここでその原稿を読んで、感想を教えてください。そしたら、どこに出すか決めます」(――なるほど。面白いことを言うじゃねえか )
「編集者を試すなんて、いい度胸だな」
「偶然の出会いに、賭けてみたくなっただけです」小説家志望の小田桐と編集者の俺。偶然か、運命か。胸がざわつく。
「わかった。読んでやる。覚悟しろよ」
笑いながら封筒を開け、原稿を取り出し、眼鏡をかける。小田桐がじっと俺を見つめる視線を感じながら、ページをめくり始めた。
*** 気だるい――だけど嫌な気だるさじゃない。満たされて、ふわふわした幸福感が確かにある。「……大丈夫か?」 掠れた声で、郁也さんが聞いてくる。「うん、大丈夫。ありがと……」 僕も掠れた声で答える。久しぶりだったから、思った以上に乱れちゃって……それがすっごく恥ずかしい。「大丈夫か。なら、もう一回な」 「え?」 「お前、自分の言ったこと忘れてねえよな? 『好きなだけ食べていい』って言っただろ」 (確かに……そんなこと言っちゃった!)「もっと感じさせてやる。覚悟しろよ」 艶っぽく笑う郁也さんの顔が、ぐっと近づく。慌ててその顔を両手で押さえた。「ま、待って! 締め切り!」 「はぁ?」 「今ここで体力を使い果たしたら、締め切りに間に合わなくなっちゃうよ!」 編集者の郁也さんを止めるには、これが一番効くはず! 説得力ありまくりの言葉を聞いた郁也さんが一瞬固まり、じとっとした目で僕を見る。「……わかった。締め切りが優先だ」 かくてその後、コンテストの締め切りまで情事を封印した僕たち。必死で書き上げて、なんとか間に合わせた! しかも郁也さんとの恋愛のおかげか、応募した作品が大賞を受賞! 作家としてデビューが決まった。 デビューを機に、郁也さんと一緒に暮らすことになったけど―― 。「もうこれで、うだうだ言わせねえぞ。締め切りに間に合わせつつ、しっかりお前の体も堪能させてもらうからな」 ニヤリと笑う郁也さん、ものすごく恐ろしいこと言う! 「えっと……ほどほどにしないと、書けなくなっちゃうかもよ?」 「大丈夫。ほどほどの力加減で、たっぷり抱いてやる。ふふ」 お預けしてた分を、徴収する気が満々らしい。しょうがないと諦めてこの身を差し出したけど、その影響で執筆した作品の糖度が爆上がりしたのは、言うまでもない。
「お先に風呂、頂きました。どうもありがとう」 カレーをお腹いっぱい食べて風呂を先に済ませ、パジャマ姿でリビングに戻った僕。それまで「アレ」を意識しないように、料理に夢中になったり、つい喋りすぎたりしてた。でも郁也さんがどんどん無口になって難しい顔をするから、どうしていいかわからなくて……。(――正直、この状況を持て余してる!)「ビール飲むか?」 「えっ⁉ いや、えっと大丈夫です」 あたふたする僕を見て、郁也さんが口元を綻ばせる。柔らかい笑みを浮かべて「じゃあこれな」とオレンジジュースのペットボトルを手渡してくれた。 「それ飲んで、待っててくれ」 頬をそっと撫でるように触れて、浴室へ消えていく。触れられた頬が、じんわり熱い。ちょっと触られただけで、ドキドキが止まらない。体がカッと熱くなる。 さっきだって、調理中にキッチンでいきなりキスされた――「今すぐお前が欲しい」って、ひしひし伝わる、気持ちのこもったキスだった。 口では「気持ちの整理ができてる」って言ったけど、完全にはできていない。抱かれたい思いと不安が、ごちゃ混ぜになってる。 キレイじゃない僕を、郁也さんはどんなふうに抱いてくれるんだろ。いや違う。どんな気持ちで、僕を愛してくれるんだろうな。 はぁっと深いため息をつき、不安を振り切るようにペットボトルの蓋を開け、オレンジジュースを一口飲む。甘酸っぱさが体に沁みまくった。「やだやだ、考えすぎて頭がぐるぐるしてる。こういうのは、なるようにしかならないのに」 テーブルにペットボトルを置き、ソファの上で膝を抱えたまま横になる。 すごく居心地がいい――この家に来てから、妙な安心感がある。きっと、家中に郁也さんの香りがするから。まるで体と心を包み込んでくれるみたいな感じ。 自分の家より落ち着けるなんて、ほんとにすごいな。「……幸せって、こんな身近にあるんだ」 お風呂上がりのポカポカ感と安心感で、うつらうつらしてしまう。「げっ! こんなとこでガチ寝してるし!」 遠くで郁也さんの声が聞こえた。あ、もうお風呂からあがったんだ。「涼一、慣れないことして疲れたんだな。困ったヤツ……」 文句を言いながらも、その声はすっごく優しい。つい口元が緩む。 「なんの夢を見てんだ? 随分と幸せそうな顔をして」 僕の顔を覗き
真剣な顔でジャガイモを握り、ピーラーを使ってちまちま皮を剥く涼一。隣で肉を切りながら、すっげぇ可愛いなとつい見惚れてしまう。 「どうしてだろ、郁也さんみたいに大きく皮が剥けないよ。ピーラーの角度が悪いのかな?」 スーパーでたくさん話をしたら、涼一の敬語口調が抜けて、今は自然に会話することができた。それが嬉しくて微笑まずにはいられない。「ほら、こうやるんだ」 後ろに回り、涼一の両手をそっと握って、ゆっくりピーラーを動かして見せた。 「わ、すごい! 郁也さん、すっごく上手!」 涼一はジャガイモの皮がスルッと剥けただけで、大はしゃぎする。そのことに思わず笑い出したら、振り返って唇を尖らせた。「そんなふうに笑わないでよ! すっごく嬉しかったのに!」 「可愛い顔して怒るなって、な?」 尖った唇に、ちゅっとキスを落とす。 「んっ……」 両手にジャガイモとピーラーを握ったまま動けない涼一を、後ろからぎゅっと抱きしめ、そのまま深いキスに持ち込んだ。 「ん~っ、んんっ!」 なにやら文句を言ってるみたいだけど、そんなもんは華麗にスルー。今まで我慢してきた分、思いっきり味わってやる! ここぞとばかりに舌を絡ませ、吸いあげるように翻弄しようとした瞬間だった。 ガンッ! 「痛っ!」 涼一が俺の足の甲を思い切り踏んできた。あまりの痛さに仰け反るしかない。 「もう! 僕が真面目にやってるのに、邪魔しないでよ!」 「ご、ごめん……つい、な」 怒られても、なんか楽しくて仕方ない。でも容赦ない涼一、ちょっと怖えかも……。「僕、ちゃんと気持ちの整理ができてる。だから逃げも隠れもしないよ。いきなり襲うのやめてよね」 「ああ、わかった」 「味見はカレーだけでいいんだから。あとで好きなだけ、僕のことを食べればいいじゃん」 そう言って、またジャガイモの皮を剥き始める涼一。(コイツ、今めっちゃ大胆なことを言った自覚あんのか? 俺、ほんとに好きなだけ食べちまうぞ!) その言葉を想像しただけで、体がムダに熱くなる。やばい、困ったことになった。「顔を真っ赤にしてないでさっさと肉を切らないと、晩ご飯が間に合わないよ。大丈夫、郁也さん?」 調理中の俺に、ため口で偉そうに指示する涼一。(なんだこの関係……これからの俺たち、
善は急げってことで僕はお泊り道具を手に、郁也さんの家に向かうことになった。 「晩メシ、なにが食いたい?」 「んー、ベタだけど……カレーかな」 「了解。じゃあ帰りに、スーパーで買い物してくぞ」 ふたり並んで近所のスーパーへ。真剣な顔で野菜を手に取る郁也さんを、ついじっと見つめてしまう。 (やっぱり、すごくかっこいいな。このニンジンになりたい、なんて……) そんなバカなこと考えてたら―― 。「お前、普段のメシってどうしてんの?」 郁也さんからの唐突な質問に、ちょっと迷った。こんなことを言ったら、絶対ドン引きされること間違いなし!「えっとですね……お腹がすいたら、冷蔵庫のスポーツドリンクで誤魔化したり、みたいな?」 「は⁉」 「大丈夫です。ちゃんとカロリーメイトとかで、栄養も摂ってますので!」 慌てて付け加えると、郁也さんは呆れた顔で僕を見る。「それ、メシじゃねえだろ。どうりで顔色が悪いわけだ。ったく……」 でも、その口調はすごく優しい。責めてるんじゃなくて、なんか心配してくれてるみたい。「涼一、野菜で嫌いなもん、なにかある?」 「基本、好き嫌いはないです」 「そっか、よかった。今夜のカレーは、野菜たっぷりの栄養満点なやつにするからな」 ふわりと笑って、僕の頬をそっと撫でてくれる。その手だけで、顔がカッと熱くなった。 「郁也さん」 「ん?」 「ありがとう。ほんと、なにからなにまでお世話をかけてしまって」 恥ずかしくて顔を上げられないけど、ちゃんと伝えなきゃ。「これは俺のエゴだ。好きな奴の世話をして、喜ぶ顔が見たいだけだから」 「僕、郁也さんのそういうところ、すっごく好きです」 「ぶっ! お前、急に直球投げんなよ! 心臓がいくつあっても足りねえ!」 苦笑いしながら、カートをガラガラ押して咳払い。照れ隠しがバレバレで、なんか可愛い。 (いや、さっきの言葉って、ベタすぎると思うのにな。正直なところ、直球ってほどでもないのに)「家に着いたら、お前も料理手伝えよ。一緒に作ると、うまさが倍するからな」 嬉しそうに言う郁也さんに、「はい!」って即答した。その後もふたりで並びながらいろんな話をし、買い物を楽しんだのだった。
前回よりも部屋を汚していなかったのに、今日も郁也さんに部屋から追い出された。 「涼一、いつものお散歩、制限時間は30分な!」 桃瀬さんだって自分の仕事があるのに、僕に気を遣って部屋の掃除までしてくれる。本当に、ありがたすぎる。 ノートPCを手にしょぼんと自宅を出て、目の前の児童公園へ移動。曇り空の下のベンチにひとり腰掛けて、膝にPCを置いたまま大きなため息を吐いた。「桃瀬さんともっと仲良くなりたいのに……どうすればいいんだろう」 もっと彼に近づくには――ない知恵を総動員していろいろ考えた結果、名前で呼んでみるのはどうかなって思いついた。桃瀬さんはいつのまにか僕を”涼一”って呼んでくれてる。同じように”郁也さん”って呼べば、ちょっとは距離が縮まるかな?(でもなんか……編集者の彼を名前で呼ぶのが、恐れ多い気がしてならない)「いっ、郁也さん――」 呟いた瞬間、頬がカッと熱くなった。 ただ口にしただけでこのザマ。本人を前にして言ったら、興奮しすぎて頭が爆発するかもしれない。「でも、いつか呼べたらいいな」 「なにを呼ぶって?」 「わっ!」 いきなり首筋にヒヤッとした感触がして、ぎゅっと肩を竦めた。 「おいこら、全然進んでねえじゃん。いったいなにをやってたんだ?」 桃瀬さんは苦笑いしながら、ミルクティーのペットボトルを手渡してくれる。(さっきの冷たさの原因、これだったのか――)「いろいろ……考え事をしてて」 「で、なにを呼ぶんだ?」 意味深にニヤリと笑い、隣に腰掛ける桃瀬さん。 (やばい、本人が急に現れるなんて! でも、タイミング的には今しかない) 顔を少し背けながら、思いきって口を開く。顔全部が熱くて、どうにかなってしまいそうだった。 「えっとその、桃瀬さんのこと、名前で呼んでみようかな、って……考えてました。郁也さんって」 「そんなくだらねえことで、原稿が進まなかったのか?」 (くだらない⁉ 僕が勇気を出して言ったのに、くだらないって言われちゃった!)「締め切り迫ってんだぞ。いい加減、真面目にやれよ、涼一」 ばこんと後頭部を叩かれたので、ムッとして横を見ると――郁也さんの目の下がほんのり赤くなっているのが目に留まる。「郁也さん、顔が赤いですよ」 思わず指摘すると、さらに赤くなる。
いつものように背中を丸めて、自宅傍にある児童公園へ向かった。目に映る青空が眩しく映る。午後3時過ぎという時間帯なれど、公園で遊ぶ子どもたちはまったくいなくて、誰も遊んでいない遊具が寂しそうに見えてしまった。 それは今の僕の心情にとても近しい。「はぁ……桃瀬さんに、気を遣わせてばっかりだよ」 ジュエリーノベルのコンテストの締め切りは、もう一ヶ月を切ってる。作品の大幅な書き直しに頭を抱えてるけど、それ以上に―― 。『こんな汚ねえとこじゃ、お前を抱く気にもなれねえからだ。つべこべ言わずに、とっとと行け!』 桃瀬さんの本音が、胸にぐさっと刺さったまま抜けない。僕の過去を知ってるからこそ、大事にしてくれてるのは、痛いほどわかる。でも腫れ物に触るみたいなこの距離感が、すっごくもどかしい。もっと近くにいたいのに。もっと触れてほしいのに。 「いっそのこと、僕から桃瀬さんを押し倒しちゃうとか? って、絶対無理無理!」 そんなことばっかり考えてしまうせいで、原稿の修正がまるで進まない。公園のベンチに腰を下ろし、ため息ばかり吐いてる。 そうこうしてる内に、無駄に時間だけが過ぎていった。頭の中は桃瀬さんのあの真剣な目と、病室で垣間見たちょっと意地悪な笑顔でいっぱいだった。