ログイン明里はバックミラー越しに綾を見た。「健吾からだけど、出る?」「出て。今あなたと一緒にいるから大丈夫って伝えて」綾はひどく動揺していた。健吾とどう向き合えばいいのか分からない。けれど、無用な心配をかけるわけにはいかない。「もしもし?」明里が電話に出て、スピーカーにした。「綾とは連絡取れたか?」健吾の声は落ち着いている。それでも隠しきれない焦りが伝わってきた。「今、一緒にいるけど。何か用なの?」「綾は、無事なのか?」明里は一瞬綾の方を見て、「気分が沈んでるみたいだけど、他は大丈夫だよ。心配しないで」と返した。「頼む、面倒を見てやってくれ」「分かってるって」明里は待ちきれずに電話を切った。車内の沈んだ雰囲気の中でも、好奇心は抑えられそうになかった。「健吾と、どうなってんの?」美羽の葬儀で気づいたのだ。健吾が綾を見つめる瞳が、以前とは明らかに変わっていたことに。澄み切っているのに底が深い。二人が熱烈に愛し合っていたあの頃と同じ瞳だ。「分からないの」綾は、美羽の死後、健吾がずっと傍らにいてくれたことを話し始めた。「絶対にもう綾のこと許してるよ。それどころか、また愛し始めちゃってるんじゃない?さすがは健吾だね。都合のいい男の役回りだって受け入れちゃうなんて」明里は興奮を隠せなかった。もちろん綾と健吾が別れた時、明里自身も彼と大喧嘩をして絶交状態だった。だが、二人の愛を目の当たりにしてきた明里にとって、綾の意志よりも健吾の意志が強固なものだと分かっていた。「私、湊とは離婚したの。でも……」綾が最後まで言い終わらないうちに、明里が鋭い声で遮った。「綾!」明里は怒っていた。離婚という大問題について、綾が一切明かさなかったからだ。「お願い、説明させて」と綾は力なく言った。「私が納得する説明をしなさいよ」念のため、明里は車を路肩に止めると、シートベルトを外し、後部座席の綾の隣に滑り込んだ。「さあ話しな。全部話してから、帰宅しよう」綾は水筒に目をやって「水」と言った。明里が蓋を開けてやった。一口飲んでから、綾はこれまでの全てを包み隠さず打ち明けた。「今は私が中野グループのトップに立ってる。凪も自業自得の結果を迎えたし、もう離婚を隠す理由はないの」「綾、まだ許せ
綾は憤慨して言った。「私は一人の大人として自分の考えで動いている。誰かに勝手に決められる覚えはないわ」達也は、また何か言いくるめられるのかと身構えつつ、探るように問い返した。「何を知ったんだ?」「湊が全身不随になって、療養所へ行くなんて……私が知らないことが他にもあるなら、教えてくれない?」綾の口調が少しだけ和らいだ。どれほど傷ついても、どうしても冷徹になれない優しい心の持ち主だった。達也は少しの間沈黙してから、隠し事はせず、湊の余命があと6年かもしれないという事実を告げた。隠し通して万が一のことがあったら、綾が一生トラウマを抱えることになると思ったからだ。「綾、湊には知らせるなよ。彼は君を心配するから」「分かったわ」綾は電話を切った。車の中にいたが、まるで雪山に一人放り出されたような心境だった。寒くて、寂しくて、途方に暮れていた。悲しむ力すら残っていない。体も心も凍りついていた。自分は、死神そのものだ。18年前のあの冬の夜に、凍えて死んで親の元へ行くべきだったのだ。その時、スマホの着信音で我に返った。健吾からだ。出ようとしても指一本も動かせない。時間がここで止まってしまえばいいのにとすら思った。健吾から立て続けに何回も電話が来たが、体が言うことを聞かなかった。ついには、通知が届いた。【大丈夫か?見たら返事をしてくれ】【大丈夫よ】力の入らない手で必死にそう返すと、綾は明里に電話をかけた。「明里、迎えに来てくれる?」20分後、明里が駆けつけてきた。「綾、一体どうしたの?」綾は弱々しく微笑んだ。「なんでもないわ。ただ、体が少し動かなくなっちゃっただけ」「先生を呼んでくる!」車はちょうど黒崎病院の前に停まっていた。パニックになった明里が中へ走ろうとするのを、綾が呼び止めた。「ダメ。そのうち治るから。家まで送って」明里は頷くと、綾を後部座席に乗せた。「私の家に行くわよ。ニコさんも今は出張中だしね」「お願い」頭の中では思考が駆け巡っていたが、体は氷のように冷えていた。「綾、一体何があったの?」明里が不安そうに尋ねた。毎年健康診断も受けている綾が、原因不明で動けなくなるなんておかしい。見たところ、ただの身体的な病気ではなさそうだった。綾は、湊の
「君は足が不自由だし、訴えられる身だろう?海斗を幸せに育てられるのは、この俺しかいない!」誠は諦めきれない。凪が民事裁判を抱えて危機にある今こそ、海斗が彼女から離れるチャンスだ。凪は無視し、大声で叫んだ。「看護師さん、体が痛いんです」二人の看護師が入ってきて、誠に言った。「すみません、お引き取りください」誠は追い出され、秘書に電話して海斗の行方を探させることにした。凪はシーツを強く握りしめ、胸が苦しくてたまらなかった。海斗を誠に渡してしまったら、この子を完全に失うことになる。誠は湊よりずっと冷酷で、自分のことしか考えていない人間だ。凪は歯を食いしばり、知り合いの記者に連絡を取った。「中野グループの会長が浮気してるネタがあるわ。安く売るわよ」相手は半信半疑だ。「あの人って、凪さんの元婚約者のお兄さんだろう?」「浮気相手は私よ。正妻を追い詰めて自殺させた挙句、子供まで捨てたの。これなら十分じゃない?」凪の目は冷徹に濁った。海斗さえ無事なら、もう何もいらない。誠を売って金を手に入れ、同時に社会的な立場も壊してやる。一石二鳥だ。しかし、凪が暴露する前に、先に誠に関するニュースが世に出た。スマホの急上昇ワードを見た綾の目に、喜びは一切なかった。和子には申し訳ないが、美羽を死に追いやった誠をのうのうとさせてはおけない。誠のDVと浮気、隠し子の発覚と妻の死が報じられ、中野グループで臨時株主総会が開かれた。第一株主である綾は総会を主宰し、誠の解任議案に投票した。結果、誠は解任され、任期中の職権乱用について、グループの法務部が法的措置を取ることになった。同日午後の取締役会で、綾は圧倒的な票数を集め、新会長兼社長に選ばれた。綾は驚いた。中野グループ内でこれといった地盤があるわけでもない。持ち株を除けば、何も優位な要素はないからだ。特に湊が辞任したと聞いたとき、胸の奥がざわついた。鋭い直感が、湊が何かを隠していると告げていた。その夜、達也や湊に黙って、こっそりと病院に向かった。病室の外から、真司の声が聞こえてくる。「ご指示の通り役員会へ通達しました。綾さんが新会長兼社長です」綾はドアにかけた手を止め、固まった。「彼女になら任せられる。達也に言っておけ。明日、療養所へ向かう」
「達也さん、湊に伝えて。退職したから、しばらく海外で生活する予定だって。湊の体調については、達也さん、どうかよろしくね」そう言って、綾はエレベーターへと歩いていった。1階へ下りると、康弘と加奈子に出くわした。康弘は宏介を抱きかかえ、加奈子の手には薬の袋が提げられている。綾はその場を通り過ぎようと努めたが、加奈子に呼び止められてしまう。「綾さん、あなたと凪との間であったことは、これでもう帳消しってことでいいでしょう?あなたが青木社長と組んで私たち二宮家を陥れたこと、そして海斗の出生の秘密をバラしたこと。凪があなたを車で轢こうとしたのも、結果的に中野社長が身を挺して止めてくれたんですから」綾は無表情で加奈子を見つめ、「言いたいことがあるなら、はっきり言ってください」と冷たく返した。「これで過去のことは水に流してくれませんか?中野社長が、二宮家に報復するようなことはさせないでほしいのです。第一、そんなに恨みがあるなら、凪との個人的ないざこざでしょう。矛先を誤らないでください」加奈子の言い回しを聞き、綾はその裏の意図を察した。つまりは、宏介をトラブルに巻き込むなということだ。綾は二人を軽く一瞥して、「二宮家に興味はないですから」と冷めた言葉を返した。二宮家は薄情な連中だ、なるべく関わらないのが一番だ。その午後、綾は弁護士との面会に向かった。凪による計画的な犯行を、法的に裁いてもらうためだ。凪のもとに法廷への召喚状が届いたのは、彼女がリハビリをしている時だった。足はもう二度と動かないと言われているが、わずかな望みを捨てられずにいた。看護師が「念花グループのエンジニアさんが開発した製品なら、お役に立てるかもしれませんよ」と言った。「死んでもごめんだわ。地面を這ってでも、あの女が作ったものなんて使わない」凪がそう叫んで、両手で体を支え前に動こうとしたが、無残に床へと転がり落ちた。治りきっていない傷口が痛み、顔が歪む。そんな折に、タイミング悪く召喚状が届いたのだ。綾は、「計画的に殺そうとした」として訴えてきた。足が不自由になった時点で全て許されると思っていた凪は、震えを抑えられなかった。いつも大人しさを装っている綾が、いざとなればこれほど非情になるとは。病室へ入ってきた誠は、
綾は仕事を終え、3時間ほど仮眠をとった。達也から湊はまだ食事ができないと聞いていたため、朝食の準備はしなかった。病院に行くと、湊は病床に横たわり、看護師が点滴の準備をしていた。綾は、枯れ木のようにやせ細った湊の姿を見て言葉を失った。綾が来たことに気づいた湊は、青白い顔をさらに曇らせた。「何しに来た?」湊は鋭い声で言い放ち、視線を天井に吊るされた点滴の袋に向けたままだった。綾は、ただ体調が悪いせいで機嫌が悪いのだと思い、特に気に留めなかった。「湊、様子を見に来たの。大丈夫?」湊は鼻で笑った。「お前がいなければ、俺はこんなことにはなっていない」綾は無理をして笑顔を作り、尋ねた。「どうしたの?」「なぜ海斗の正体をバラした?」湊は初めて綾に目を向けたが、その瞳は冷たく凍りついていた。綾はあっけにとられ、なんと答えるべきか迷った。なぜ、と聞かれても。当然、凪を暴くためであり、湊がこれ以上騙されないようにするためだ。しかし、湊の言い分から察するに、答えを求めているのではなく、ただ自分を責めたいだけだった。「事実を知りたくなかったの?」湊が凪の車から自分をかばい、今こうしてベッドから起き上がることもできない状態を見ると、もしや事故のせいで頭でも打ったのか、と聞きたくなった。「時に、真実は残酷で、何の意味も持たないこともある。お前が真実を語ったせいで、俺はすべてを失い、凪も自制心を失ったんだ」湊は顔を背けた。その声は、最大限に抑え込まれていた。綾は憤りを覚え、怒鳴った。「ごめんね、余計なお世話だったわね。あなたの大事な息子を失わせることになっちゃって!」被害者は自分のはずなのに、すべての原因を自分のせいにされ、本当に湊の頭がおかしいのではないかと疑った。「出て行け。もう二度と顔を見たくない」湊は深呼吸をし、両目を閉じた。胸の痛みに耐えかね、眉間にしわを寄せる。綾は驚愕した。以前どれだけ言い争っても、湊がこれほど無情な言葉を口にしたことは一度もなかったからだ。「湊、本気でそう思ってるの?」「ああ、お前といると不幸になる。お前がいなければ、もっと幸せになれた」湊は少しの間を置いて続けた。「そもそも俺たちは既に離婚している。赤の他人だ」綾が見た湊は、以前よりも一層暗い影
「仕事、辞めようと思ってるの」墓地を出て駐車場へ向かう途中、綾はふとそう口にした。美羽の一件を経て、綾は杉本家と一切関わりを持ちたくないと思った。念花での仕事も含め、もう未練はなかった。健吾は少しも驚いた様子はなく、落ち着いた声で言った。「お前の実力ならどこへ行っても問題ない……ただ、よければ青菊へ来ないか?」「辞めたら、少し外の世界を見てみたいの」もう年末だ。綾は来年から新しい仕事を探そうと考えていた。ただし、青菊に行くことは考えていない。明里と協力して、ペット関係の仕事をするかもしれない。マンションの下まで健吾が送ってくれ、綾は彼に礼を言った。「最近は色々と気遣ってくれてありがとう。あなたもお疲れ様。ゆっくり休んでね」「ああ。何かあったらすぐ連絡してくれ」健吾は頷き、綾がエレベーターに消えるのを見届けてから車を出した。綾は夜の7時か8時までぐっすりと眠り、目が覚めると達也に電話をかけた。「達也さん、湊の様子はどう?」ここ最近は美羽の供養で忙しく、湊のことを直接尋ねる暇がなかった。達也がいれば、こっちが過度に心配する必要もなかった。「意識は戻ったよ。今は回復に努めている最中だ」達也は、湊からの釘刺しもあり、全身不随になったことは伏せておいた。「明日お見舞いに行っても大丈夫?」と綾は尋ねた。湊の容態について深く聞くのが怖かった。悪い知らせを聞かされるのではないかと、心臓が痛かったからだ。「大丈夫だよ」何の思惑があったのか、達也は湊に代わって応じた。湊は退院したらすぐに療養所へ向かう計画を立てていた。その前に、綾と顔を合わせるべきだと思ったのだろう。黙って姿を消すことも一種の裏切りだ。話せるうちにしっかり話しておいた方がいい。綾はお風呂に入り、夕食はデリバリーを頼んだ。食事が終わる頃には夜11時を回っており、健吾からメッセージが届いていた。【まだ起きてるか?】【起きてる。夜の7時頃に起きたばかりだから】綾はパソコンに向かい、退職届を書いていた。退職届を仕上げたら、手持ちの案件を引き継ぐ準備も整えなければならない。樹は綾を信用していたので、契約書に違約金について明記していなかった。そのため、いつ辞めても違約金を払う必要はない。確かに樹からは特別扱い
そのハイヒールは、綾のお気に入りのブランドのもので、とても履きやすいと評判だった。こんな偶然、あるはずがない……「健吾、大変なの!」明里の震える声が、受話器の向こうから聞こえてきた。次の瞬間、健吾はシェパードにリードをつけると、車に駆け込んだ。……「くだらないいたずらだろう」湊は、凪が見せてきたネットニュースを一瞥すると、うんざりした様子で無関心にそう言った。「でも、本当に誰かが危ない目に遭ってるのかもしれないじゃない。それに綾も、こんなハイヒールを持ってた気がするわ」湊は画像に目をやり、答えた。「あいつは同じような靴を何足も持っている。履き心地がいいとかで
綾は眉をひそめて綾を見ていた。綾の左には颯太、右には健吾が座っている。颯太が慌てて説明した。「青木社長はこっちが招待したんです。仕事のパートナーなので」颯太は、どうも湊が健吾に敵意を持っているように感じていた。健吾のほうも、湊のことが気に入らないようだ。この二人がいつから険悪なのかは分からないけど、とりあえず今は問題が起きないようにするしかない。「中野社長、この席にどうぞ」颯太が自分から席を譲ると、湊は遠慮なくその席に座った。綾は湊と健吾の間に挟まれる形になり、ものすごく気まずかった。二人が来るって分かってたら、絶対に来なかったのに。凪が湊の隣に座ったので、颯太
綾は海斗を病室に引き入れ、不満そうに凪を一瞥した。「どうして海斗くんを連れてきたの?」わざとらしくて、みんなに知らせて回りたいみたいじゃない。「この子は湊の子供よ。もし湊に万が一のことがあったら……」「黙りなさい!」綾は凪の言葉を鋭く遮った。「ふん。私の前で得意げな顔をしないで。海斗は湊のたった一人の子供で、中野家の血を引いてるのよ。誰かさんみたいな他人より、ずっと大事な存在なんだから」凪は綾を軽蔑するように睨みつけ、海斗の涙を拭いてあげた。「いい子だから、もう泣かないで。中野おじさんは、きっと大丈夫だからね」綾は凪と口論する気にもなれなかった。下手に外で騒
幸子はスープだけでなく、綾のために簡単な料理まで作ってくれた。湊はいつの間にか向かいに座り、取り皿を用意してあげた。「海斗が急にお腹を酷く痛がって、それで病院に駆けつけたんだ」綾は「うん」と頷いた。「別に何もなかった?」彼女は湊のことは見ずに、料理を口に運んだ。「特に何も見つからなくて、病院に着く頃にはもうすっかり良くなってたんだ」湊の声は穏やかで、この光景はなんとも奇妙だった。食卓で向かい合う夫婦。夫が愛人との子供を心配し、妻がそれを穏やかに聞いている、実に和やかな一場面だ。「さっきお前からの着信とメッセージに気づいたんだ。海斗を驚かせないように、スマホをマナ