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崩れゆく七年間の夢

崩れゆく七年間の夢

作家:  ジュウイチ完了
言語: Japanese
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概要

切ない恋

愛人

ひいき/自己中

クズ男

後悔

不倫

妻を取り戻す修羅場

半年前、夫・椎名尚季(しいな なおき)が見知らぬ女を組み敷いている現場を目撃して以来、星野しずく(ほしの しずく)は重度の潔癖症を患っていた――彼に少しでも触れられると、吐き気を催すほど気持ちが悪くなるのだ。 広々とした新居は、それ以来、冷たい牢獄へと変わった。 この半年、尚季は彼女に合わせるため、何をするにも何度も消毒を繰り返さねばならなかった。 夜の営みでさえ、幾重にも予防の措置を施し、決められた時間を一秒たりとも超えてはならない。 少しでも時間を過ぎれば、しずくは吐き気に全身を震わせ、なりふり構わず彼を部屋から追い出した。 それでも尚季は、文句ひとつ口にしなかった。 「俺が悪かった。少しずつ、埋め合わせをしていくから……」 何事もないように半年が過ぎ、潔癖症の症状も和らいできたのではないかと感じ始めた頃、しずくは尚季と和解しようと考え始めていた。 だがその矢先、書斎の外から、声を潜めて愚痴をこぼす尚季の声が聞こえてきた。 「お前は経験してないから分からないんだ。果物を渡すのに手袋をつけさせられて、ソファに触れば消毒液で三度も拭かされる。もううんざりだ!」

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第1話

第1話

「星野さん、あなたはもともとお体が強いほうではありません。

もしこのお子さんを堕ろしてしまえば、今後、妊娠が難しくなる可能性があります。それでも手術をお受けになりますか」

星野しずく(ほしの しずく)は、微塵の迷いも見せずに答えた。

「はい。一週間後で、手術の予約をお願いします」

通りすがりの妊婦たちは、なんて冷酷な人なのだろうと、ひそひそ声で囁き合った。しずくはただ口の端をわずかに吊り上げ、笑みともつかぬ表情を浮かべて病院を後にした。

半年前、夫・椎名尚季(しいな なおき)が見知らぬ女を組み敷いている現場を目撃して以来、しずくは重度の潔癖症を患っていた――彼に少しでも触れられると、吐き気を催すほど気持ちが悪くなるのだ。

広々とした新居は、それ以来、冷たい牢獄へと変わった。

この半年、尚季は彼女に合わせるため、何をするにも何度も消毒を繰り返さねばならなかった。

夜の営みでさえ、幾重にも予防の措置を施し、決められた時間を一秒たりとも超えてはならない。

少しでも時間を過ぎれば、しずくは吐き気に全身を震わせ、なりふり構わず彼を部屋から追い出した。

それでも尚季は、文句ひとつ口にしなかった。

「俺が悪かった。少しずつ、埋め合わせをしていくから……」

何事もないように半年が過ぎ、潔癖症の症状も和らいできたのではないかと感じ始めた頃、しずくは尚季と和解しようと考え始めていた。

だがその矢先、書斎の外から、声を潜めて愚痴をこぼす尚季の声が聞こえてきた。

「お前は経験してないから分からないんだ。果物を渡すのに手袋をつけさせられて、ソファに触れば消毒液で三度も拭かされる。

ベッドに入る前だって、三十分もバスルームで体を洗わされる始末だ。俺に触れたら、汚い病気がうつるとでも言いたいみたいに」

電話の向こうが何かを言ったのだろう。尚季は、鼻で笑うように冷たく息を吐いた。

「確かに、最初は俺が馬鹿な過ちを犯した。でも謝ったし、向こうとはとっくに切れてる。それなのに、いつまでも根に持って、俺を疫病神みたいに扱うんだ。

もううんざりだ、本当に。毎日が操り人形みたいで、何をするにも彼女の顔色を窺わなきゃならない。

……まだ愛してる。でもその愛も、あいつのあの神経質な様子で、すっかりすり減ってしまいそうだ」

世界から、すっと音が消えた。

ただ、「もううんざりだ」という言葉だけが、しずくの耳の奥で反響していた。

「神経質」――尚季は、自分のことをそう言ったのか。

しずくは視線を自分の手に落とした。清潔で、細く長い指。だが長いあいだ消毒液に晒されてきたせいで、病的なほど白く、指の腹はふやけて皺が寄っている。

こんな「神経質」な自分になったのは、一体誰のせいだというのか。

体調がもう少し良くなったら、妊娠のことを彼に告げ、過去はすべて水に流して、もう一度やり直そう――そんな未来さえ、思い描いていた。

今となっては、それもただの独りよがりに過ぎなかったのだ。

しずくは口の端を引きつらせたが、笑うことはできなかった。ただ心の底から冷気が這い上がり、全身が凍りついたように強張っていく。

ピンポーン――

不意に鳴り響いたドアベルが、家の静寂を切り裂いた。

しずくは歩み寄り、ドアを開ける。

ドアの外には、精緻な化粧を施した女が立っていた。仕立ての良いビジネススーツに身を包み、腕にファイルを抱え、穏やかでそつのない微笑を浮かべている。

「奥様、こんにちは。椎名社長の秘書をしております、白石真綾(しらいし まあや)と申します。緊急の書類をお届けに参りました」

しずくの瞳孔が、きゅっと収縮した。

その女だ。

半年前、尚季の体の下で、媚びるような眼差しを向け、乱れていたのは、紛れもなくその女だった。

笑わせてくれる。尚季の言う「とっくに切れた」とは、ただ場所を変えて、そばに置いただけのことだったのか。

真綾は、しずくの異変に気づいていないのか、完璧な微笑みを崩さない。

そのとき、書斎から尚季が姿を現した。玄関に立つ真綾を見ても、少しも驚いた様子はない。

「真綾、書類を」

彼はごく自然に書類を受け取ると、腕時計に目を落とした。

「ご苦労さま。ちょうど食事時だ。よかったら、一緒に食べていかないか」

しずくは何も言わず、黙って踵を返し、ダイニングへと戻った。

食卓には、三人を包む空気が凍りついたかのように張り詰めていた。

尚季はその重苦しさを和らげようとしたのか、骨をきれいに取り除いた魚の身を、真綾の皿に取り分けた。

「たくさん食べなさい。魚、好きだっただろう?お手伝いさんに頼んで作ってもらったんだ」

真綾は恐縮したように、しずくを一瞥し、小声で言った。

「ありがとうございます、社長。そんなにお気遣いいただかなくても……」

しずくの手の中で、箸がぴたりと止まった。

しずくは顔を上げ、尚季を見据える。声は穏やかだったが、そこには確かな棘が含まれていた。

「本当に部下思いなのね。白石さんが魚好きだなんてことまで、よく覚えているわ」

尚季の動きが止まり、眉間に、気づかれないほど微かな皺が寄った。

しずくはそれに気づかぬふりをして、ゆっくりと言葉を重ねる。

「そういえば、私、あなたの好きなものが何だったか忘れてしまったわ。この半年、消毒液と向き合ってばかりで、頭の働きも鈍ってしまって。

だって、もし消毒が不十分で、触れてはいけないものに触れてしまって、何か汚い病気でもうつされたら大変だものね」

しずくは一度言葉を切ると、強張った尚季の顔から、みるみる青ざめていく真綾の顔へと視線を移し、口元に氷のような笑みを浮かべた。

「そう思わない?椎名社長?」

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レビュー

あーきよいち
あーきよいち
男性の悔恨物語は多いけれど、ここまで年月を追う彼らのその後を書いているのは珍しいと思いました。 年月を経て二人ともちょっとずつ変わっていく心情は見応えあります。
2026-01-26 06:42:21
1
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松坂 美枝
松坂 美枝
結婚してる時に何故この献身が出来なかったのか(泣) ふたりの縁は切れたけど、うっすら何かがあるような終わりだった
2026-01-26 09:56:50
0
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第1話
「星野さん、あなたはもともとお体が強いほうではありません。もしこのお子さんを堕ろしてしまえば、今後、妊娠が難しくなる可能性があります。それでも手術をお受けになりますか」星野しずく(ほしの しずく)は、微塵の迷いも見せずに答えた。「はい。一週間後で、手術の予約をお願いします」通りすがりの妊婦たちは、なんて冷酷な人なのだろうと、ひそひそ声で囁き合った。しずくはただ口の端をわずかに吊り上げ、笑みともつかぬ表情を浮かべて病院を後にした。半年前、夫・椎名尚季(しいな なおき)が見知らぬ女を組み敷いている現場を目撃して以来、しずくは重度の潔癖症を患っていた――彼に少しでも触れられると、吐き気を催すほど気持ちが悪くなるのだ。広々とした新居は、それ以来、冷たい牢獄へと変わった。この半年、尚季は彼女に合わせるため、何をするにも何度も消毒を繰り返さねばならなかった。夜の営みでさえ、幾重にも予防の措置を施し、決められた時間を一秒たりとも超えてはならない。少しでも時間を過ぎれば、しずくは吐き気に全身を震わせ、なりふり構わず彼を部屋から追い出した。それでも尚季は、文句ひとつ口にしなかった。「俺が悪かった。少しずつ、埋め合わせをしていくから……」何事もないように半年が過ぎ、潔癖症の症状も和らいできたのではないかと感じ始めた頃、しずくは尚季と和解しようと考え始めていた。だがその矢先、書斎の外から、声を潜めて愚痴をこぼす尚季の声が聞こえてきた。「お前は経験してないから分からないんだ。果物を渡すのに手袋をつけさせられて、ソファに触れば消毒液で三度も拭かされる。ベッドに入る前だって、三十分もバスルームで体を洗わされる始末だ。俺に触れたら、汚い病気がうつるとでも言いたいみたいに」電話の向こうが何かを言ったのだろう。尚季は、鼻で笑うように冷たく息を吐いた。「確かに、最初は俺が馬鹿な過ちを犯した。でも謝ったし、向こうとはとっくに切れてる。それなのに、いつまでも根に持って、俺を疫病神みたいに扱うんだ。もううんざりだ、本当に。毎日が操り人形みたいで、何をするにも彼女の顔色を窺わなきゃならない。……まだ愛してる。でもその愛も、あいつのあの神経質な様子で、すっかりすり減ってしまいそうだ」世界から、すっと音が消えた。ただ、「もううんざ
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第2話
尚季の顔色が、瞬く間に曇った。彼は箸を置き、真綾に向かって言った。「真綾、先に帰ってくれ。また今度、ご馳走するから」真綾は驚いた兎のように慌てて立ち上がり、おずおずとしずくを一瞥した。「社長、奥様……それでは失礼いたします」ドアが閉まった瞬間、ダイニングに辛うじて残っていた偽りの平和も、音を立てて砕け散った。「しずく、いつまでそんなふて腐れた態度を取るつもりだ」尚季は怒りを押し殺すように言った。「真綾はただの部下だ。彼女の前であんなことを言って、どう思われるか考えなかったのか」「ただの部下?不倫相手、の間違いでしょう」しずくは冷ややかに笑った。「きれいさっぱり別れたって言ってたくせに……あなた、私が馬鹿だとでも思ってるの?半年前、あなたの下で喘いでた女があの子だって、わからないとでも?」尚季はしずくの手を取って握り、声を和らげた。「半年前に、確かに真綾とは別れた。ただ、三か月前に人事部が彼女を採用して、能力が優秀だったから残しただけだ。今は本当に、上司と部下の関係だ。考えすぎるな」しずくは尚季を見上げた。「そう?じゃあ社長も大変ね。何千人もいる社員一人ひとりの好物まで覚えているなんて、本当にお疲れ様。でも妻として、忠告しておくわ。自分の衛生には気をつけて。体液で感染る病気もあるから」「もういい加減にしろ」尚季は勢いよく立ち上がり、しずくを見下ろして睨みつけた。「今の自分がどんな様か見てみろ。偏執的で、疑り深い。真綾はお前より、ずっと物分かりがいいぞ」しずくは笑い、まだ平らな自分の腹を、そっと撫でた。物分かりがいい。確かにそうかもしれない。半年前、尚季の体の下で喘いでいた真綾は、とても「物分かりが良かった」。しずくの沈黙は、尚季の怒りに最後の火を注いだ。彼は苛立たしげにネクタイを緩めると、踵を返して大股で去っていった。ドアが凄まじい音を立てて閉められる。世界は、再び静寂に包まれた。しずくはテーブルいっぱいの料理を見つめ、胃が裏返るような吐き気に襲われた。尚季の血を半分受け継いだこの子を、産むべきか否か。まだその答えの前で立ち尽くしているというのに。あの人はもう、別の女のもとへ、慰めと理解を求めに行ってしまった。しずくはスマホを取り出し、病院に電話をかけた。
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第3話
翌日、尚季が出勤すると、家は再び、いつもの静寂を取り戻した。しずくは自分の荷物を片付け始めた。クローゼットの引き出しを開けると、そこにはきちんと畳まれたスカーフが何枚も並んでいる。一番上には、少し色褪せたアヤメ柄の一枚があった。それは、しずくが十八歳の誕生日を迎えたとき、尚季が贈ってくれた最初のプレゼントだった。当時の彼は、まだ貧しい学生だった。この絶版のスカーフを買うために、二か月間カップラーメンを食べ続け、さらに工事現場で働き、手の皮はすっかり擦り切れていた。尚季がスカーフを差し出したとき、その瞳は星空よりも輝いていた。「しずく、これから俺が、世界の一番いいものを全部、お前にやる」しずくはそのスカーフを手に取った。柔らかな生地が指先をすべり、まるで色褪せた夢に触れているようだった。かつては、自分が世界のすべてを手に入れたのだと信じていた。だが今となっては、それもただの笑い話にすぎない。しずくはスカーフを、引き出しにしまわれていた彼から贈られたすべてのアクセサリーや腕時計とともに、一つずつ取り出し、未練の欠片もなく、すべて別の箱へと移した。夜、尚季はまた申し訳なさそうな顔で帰宅した。今回はお菓子の代わりに、別の言い訳を用意してきた。「しずく、昨日は俺が悪かった。こうしよう。明日、一緒に会社に来てくれ。俺と真綾が本当にただの仕事関係だってことを、見てほしい」こんな形で潔白を証明しようとすること自体が、あまりにも滑稽だった。しずくは静かに彼の芝居を見つめた。心は、もう何一つ揺れなかった。まあ、行こうじゃないか。行かない理由も、もうない。たとえそれが、この七年間の関係に、最後の別れを告げに行くことだったとしても。「いいわ」しずくは静かに頷いた。翌日、しずくは尚季とともに、彼の会社へ向かった。社長室では、真綾がウエストを絞った白いワンピース姿で、優雅にコーヒーを運んできた。業務用の笑顔を浮かべて言う。「奥様、コーヒーをどうぞ」次の瞬間、彼女の手首が傾き、熱いコーヒーがしずくの淡い色のスカートの裾にすべてこぼれ落ちた。「あっ……ごめんなさい、奥様!」真綾は声を上げ、慌ててティッシュを取り出して拭こうとする。「つい手元が滑ってしまって……奥様が潔癖症だって分かっているのに……ど
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第4話
尚季は真綾を背負ったまま、足早にしずくの傍を通り過ぎた。広い背中には張りつめた筋肉の線が浮かび上がり、その屈強な体つきがはっきりと刻まれている。しずくはかつて、幾度となくその背中に腕を回し、自分だけのものだったはずの安心感に身を委ねてきた。だが今、その温もりは、彼によって別の女に与えられている。すれ違う瞬間、尚季はしずくを一瞥すらせず、ただ冷えた声で言い放った。「真綾がひどく捻挫した。病院へ連れていく。お前はタクシーで帰れ」エレベーターの扉が無言のまま閉まり、磨かれた扉面に、焦点の定まらないしずくの姿が映り込んだ。周囲の人々から向けられる視線は、探るようであり、同情めいてもおり、どこか面白がる色も含んで、容赦なくしずくに降り注ぐ。尚季は言っていた。真綾はただの部下で、他人だと証明するために、しずくを会社へ連れてきたのだと。だが今、彼の行動がすべてを明らかにしていた。本当に「他人」だったのは、しずくのほうだった。椎名実業の本社ビルを出る頃には、空はいつの間にか厚い雲に覆われ、どんよりと重く垂れ込めていた。しずくが道端に立ち、手を伸ばした瞬間、大粒の雨が叩きつけるように落ちてきて、あっという間に巨大な水の幕へと変わった。世界全体が滲み、輪郭を失っていく。タクシーは一台も止まらなかった。雨水が髪を伝って流れ落ち、襟元に染み込み、しずくは冷たさに小さく身を震わせた。スマホを取り出し、画面に表示された尚季の名前を見つめたまま、しばらく動けずにいた。もしかしたら、彼は真綾を落ち着かせたかもしれない。あるいは、私がまだここに置き去りにされていることを、思い出してくれるかもしれない。通話ボタンを押した。二度の呼び出し音のあと、相手が出た。「尚季……」しずくの声は、激しく降り続く雨音にかき消されそうになりながら震えていた。「ひどい雨で、タクシーが捕まらないの」電話の向こうは静かで、かすかに、真綾のすすり泣くような低い声が混じっている。すぐに、尚季の苛立った声が返ってきた。「医者が入院して経過を見るって言った。真綾が一人だと怖がるから、俺は離れられない」傘を持っているかも尋ねず、どうやって帰るのかも聞かず、気遣いの言葉ひとつなかった。しずくの胸にかろうじて残っていた希望の火は、この土
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第5話
「行きましょう」しずくは視線を伏せ、吐息のようにか細い声で呟いた。その光景に胸を締めつけられた唯は、悔しさに歯を噛みしめながら、しずくを支えて別の通路へと向かおうとした。「あら、奥様?ご気分でも悪いんですか?」目ざとい真綾が、真っ先に二人の姿に気づいていた。そしてくるりと矛先を変え、悪意を隠しもしない視線を向ける。「でも、ここは中絶手術をするところですよね。奥様、まさか他の人の子を妊娠して、こっそり堕ろしに来たんじゃないでしょうね。社長が知ったら、さぞお傷つきになるでしょうに」見ていられなくなった唯が、冷ややかに言い放つ。「しずくが病院に来るのに、いちいち社長秘書に報告する必要があるとでも?それより、足を捻ったくらいで社長直々に付き添ってもらえるなんて、ずいぶん恵まれた職場ね」真綾はわずかに顔色を変え、傷ついたふりをして尚季を見上げた。「社長、私、そんなつもりじゃ……ただ、奥様のことが心配で……」尚季は眉をひそめ、唯を見た。「真綾に悪気はない。そんな棘のある言い方をするな」そしてしずくへ向き直り、口調を和らげる。「どうしたんだ?送っていこうか?」しずくは吐き気を覚え、首を振って立ち去ろうとした。だが次の瞬間、真綾が甲高い悲鳴を上げ、その場に崩れ落ちた。「きゃっ!」床に倒れ込んだ真綾は、震える指で唯を指差す。「あ、あなた……私を押したのね!」尚季は血相を変えてしゃがみ込み、真綾の足を確かめると、怒りに顔を歪めて唯を睨みつけた。「正気か?真綾はもともと足を怪我してるんだぞ!」唯は鼻で笑った。「軽く触れただけなのに、あんな大げさに転ぶなんて。椎名さん、まさか演技だって見抜けないわけじゃないでしょう?」廊下にいた看護師や患者たちが集まり、その場は一時、騒然となった。医師が再診察した結果、怪我は悪化しており、入院して経過観察が必要だと告げられた。尚季はその場でVIP病室の手配を済ませたが、その間、しずくには一度も視線を向けなかった。真綾はベッドに横たわり、涙ながらに訴えた。「社長、奥様が私のことをよく思っていないのは分かっています。でも、私は本当に、ただ真面目に仕事がしたいだけで……この街には身寄りもなくて、今、足までこんなことになって……」尚季は真綾を慰め、安心し
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第6話
翌朝早く、目を覚ましたしずくがキッチンへ向かうと、そこには忙しなく立ち働く尚季の姿があった。まるで夢でも見ているかのようだった。彼が自分のために手料理を振る舞うなど、もう随分と久しぶりのことだ。しずくの気配に気づいた尚季は、彼女の好物である玉子焼きの皿を手に取り、申し訳なさそうな表情で言った。「しずく、昨日は俺が悪かった。もう怒るなよ」目の前に並べられた朝食を見ても、しずくの胸には一切の食欲が湧かなかった。黙って箸を伸ばし、玉子焼きを一切れ取って機械的に口へ運ぶ。砂を噛むような味しかしなかった。ピンポーン――玄関のチャイムが鳴り、尚季が立ち上がって向かった。「社長……」立っていたのは真綾だった。松葉杖を一本つき、もう片方の手には大小の紙袋を提げ、罪悪感と心配が入り混じった表情を浮かべている。「奥様、私……謝罪に参りました」真綾は足を引きずりながら中へ入ると、栄養ドリンク類を玄関の棚の脇に置き、ダイニングテーブルのそばに立った。「昨日の病院でのことは、すべて私のせいです。どうか社長のせいだなんて思わないでください。社長は板挟みになって、とてもお辛かったんですから。奥様が……流産されたと聞きました。社長はそれを知って、ひどくショックを受けていました」そこで言葉を切り、尚季へ視線を移す。心底から心配しているかのような眼差しだった。「ご覧になってください。私たちの両方の面倒を見るために、すっかり痩せてしまって……」しずくは思わず吹き出しそうになった。そう、本妻である自分の世話をして、それから愛人の世話もする。本当にご苦労なことだ。しずくが何も答えないのを見て、真綾は構わず話し続けた。「社長はお仕事のプレッシャーが本当に大きいんです。奥様も、もっと社長のことを理解してあげないと。いつも癇癪を起こして、彼を困らせてばかりではいけません」しずくはようやく真綾に視線を向けた。その瞳は、凪いだ水面のように静まり返っていた。「私たち夫婦のことに、秘書のあなたが気を遣う必要はないわ」その瞬間、尚季の顔色が変わった。「しずく、そんなに刺々しい言い方をしなくてもいいだろう。真綾は善意で謝りに来てくれたんだ」しずくは、もはや二人の顔を見ることすら耐え難くなり、荷物をまとめるため寝室へ行こうと立ち上が
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第7話
再び目を覚ましたとき、頭上の照明が眩しく、病室には消毒液の匂いが濃く満ちていた。しずくはこわばった首をわずかに動かす。彼女が意識を取り戻したことに気づいた医師が、重々しい口調で告げた。「星野さん、今回は非常に危険な状態でした。中絶手術のあとに雨に濡れて体を冷やし、重度の感染症を引き起こしています。高熱は一時、四十度にまで達し、あと少し遅ければ手遅れになるところでした」医師はさらに彼女の膝を指さした。そこには厚くガーゼが巻かれ、赤い染みが点々と滲んでいる。「膝の傷は深く、陶器の破片で切ったものですね。洗浄して縫合しましたが、傷痕が残るのは避けられないでしょう。退院後は定期的に消毒・包帯交換を行ってください。決して再感染させないように気を付けてください」しずくは、鈍い刃物で胸を何度も抉られるような感覚に襲われた。目を閉じると、涙が音もなく目尻を伝って落ちていく。病室のドアが開き、百合の花束を抱えている真綾と尚季が入ってきた。「しずく、目が覚めたのか」尚季が歩み寄ってきた。「真綾がすごく心配してたんだ。わざわざ見舞いに来てくれた」そう言って、彼は真綾を指さした。真綾はすぐに一歩前へ出て、百合をベッドサイドのテーブルに置き、柔らかな声で言った。「奥様、ご無事で本当によかったです。本当に心配しました。この前のことは……もう許しますから。どうか気にしないでくださいね」「聞いたか、しずく」尚季はしずくの手を握った。「真綾が許すって言ってくれてるんだ。お前が謝れば、それで終わりだ」しずくは勢いよく手を振り払った。「私を嵌めた女に、どうして謝らなきゃいけないのよ!」尚季の顔が瞬時に曇る。眉をひそめ、声を荒らげた。「まだそんなたわごとを言っているのか!真綾がこんなにいい子なのに、お前を嵌めるわけがないだろう。本当に優しくなければ、わざわざ見舞いに来たり、許すなんて言ったりしない。しずく、お前は偏屈になりすぎだ。真綾はこんなに心が広くて、昔のことも水に流そうとしてくれているのに、これ以上どうしろって言うんだ」隣で真綾がそっと尚季の袖を引いた。囁くように言う。「社長、奥様を責めないであげてください。病気で、きっと情緒不安定なんですわ」尚季は真綾を見ると、途端にその眼差しを和らげた。彼女の
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第8話
尚季が真綾を連れて家に戻ると、彼を迎えたのは、部屋中に満ちる不気味なほどの静寂だった。思わず眉をひそめ、誰もいないリビングに視線を巡らせ、やがてテーブルの上の書類に目が留まる。――離婚協議書。鼻で笑い、歩み寄ってそれを手に取ると、ただ馬鹿げている、としか思えなかった。またこの手の焦らし戦術か、と軽く鼻を鳴らし、離婚協議書をソファに放り投げる。真綾はその後ろに続き、離婚協議書を目にした瞬間、瞳に一瞬だけ得意げな色を閃かせたが、すぐに心配そうな表情を作った。「尚季さん、これ……しずくさんも、あまりにわがままだわ。離婚を遊びみたいに持ち出すなんて」尚季の顔色を窺いながら、慎重に言葉を継ぐ。「私も女だから、女心は分かるの。女が離婚を口にするのは、夫に謝らせるための作戦にすぎない。こんな時こそ甘やかしてはだめよ。少し放っておいて、尚季さんが簡単に妥協するような人間じゃないって、分からせないと」尚季は胸の奥で漠然とした違和感を覚えながらも、真綾の言葉は、度重なる挑発で燻っていた彼の傲慢さを、心地よくくすぐった。この半年、ずっとしずくのわがままに振り回されてきた。だが、そろそろ我慢も限界だ。この関係の主導権を、取り戻さなければ。「ああ、その通りだ」尚季は頷き、真綾の意見に同意した。「いい加減、あいつにも冷静になってもらわないとな」彼は離婚協議書にはもう目もくれず、真綾を連れて家を後にした。しずくが反省し、謝りに戻ってくるのを待つつもりだった。そのまま、三日が過ぎた。電話も、メッセージもない。しずくはまるで神隠しに遭ったかのように、音沙汰がなかった。尚季は頻繁にスマホを確認するようになり、理由の分からない焦燥感ばかりが募っていく。会議中でさえ、アシスタントの報告の声が雑音のように耳についた。ついに我慢できなくなり、しずくの番号に電話をかける。受話口から流れたのは、無機質なアナウンスだった。「おかけになった電話をお呼びしましたがお出になりません……」「しずくめ、いつまで意地を張るつもりだ!」スマホをデスクに叩きつけ、胸の奥の焦燥は、ますます濃くなる。さらに一週間が過ぎた。その焦りは、もはや無視できない不安へと変わっていた。尚季はじっとしていられず、車を飛ばして家へ戻ると、玄
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第9話
尚季は一晩中ほとんど眠れず、翌朝、目の下に濃い隈を刻んだまま出社した。真綾はすでに社長室で待っており、彼の姿を認めるや否や、すぐに駆け寄ってきた。「社長、お顔色がとても悪いですわ。朝食にお好きなサンドイッチをご用意しましたの。どうか、きちんと召し上がってください」その気遣わしげな表情を見た瞬間、尚季の胸の奥に言いようのない苛立ちが込み上げた。彼は差し出されたものに一切手をつけず、冷ややかに手を振った。「出ていけ」真綾の笑顔は凍りつき、みるみるうちに目頭が赤く染まる。彼女は傷ついた様子で踵を返し、静かに部屋を後にした。午前の取締役会でも、尚季は終始心ここにあらずだった。海外市場における今後二年間の収益予測という重要なデータを、彼は言い間違えてしまう。会議室にかすかな動揺が走り、何人かの取締役が訝しげな視線を交わした。こんな失態は、これまで一度もなかった。「申し訳ありません。社長はここ数日、お疲れが溜まっているようです」真綾はすぐに立ち上がり、予備の資料を配り始めた。「正しいデータはこちらにございます。私の不手際で、事前に社長と再確認しておりませんでした」彼女は巧みに責任を引き取り、さりげなく尚季の窮地を救った。以前の尚季なら、その手腕を高く評価していたに違いない。だが今の彼の心は、姿を消したしずくへの不安で塞がれており、真綾の振る舞いなど目にも入らなかった。社長室に戻ると、尚季はすぐにアシスタントに命じ、しずくのクレジットカードの利用履歴を調べさせた。三十分後、ノックとともに入ってきたアシスタントは、一枚の報告書をデスクに置いた。「社長、確認しましたが、奥様は社長名義の家族カードを一切お使いになっておりません。したがって、こちらから照会する権限がございません」尚季は呆然とした。この七年間、しずくが「椎名尚季の妻」という身分の象徴ともいえるそのカードに、一度も手を伸ばしていなかったことを、彼は初めて知ったのだ。しずくは一度たりとも経済的に彼に依存したことがなかった。すべてを与えてきたつもりでいたのは、結局、自分の独りよがりに過ぎなかったのだ。午後、真綾が栄養ドリンクを手に社長室へ入ってきた。「社長、お体にいいかと思いまして。ずいぶんお痩せになりましたから」尚季はその瓶をじっと見つ
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第10話
街全体が夜の色に沈み、尚季はあの広く、がらんとした家には帰らなかった。車は、彼としずくが初めてデートしたフレンチレストランの前で静かに停まった。彼は一人で店に入り、いつも二人で座っていた窓際の席に腰を下ろすと、しずくがいちばん好きだった塩キャラメルミルクレープを注文した。運ばれてきたミルクレープをフォークで小さく切り取り、口へ運ぶ。甘く濃厚なクリームが舌の上でとろける。だが、胸を満たしたはずのときめきはどこにもなく、残ったのは苦みだけだった。それ以上、彼は一口も食べられなかった。異変に気づいた店員が、恐る恐る声をかける。「お客様、今日は奥様とご一緒ではないのですか。もうずいぶんお見かけしていませんね」尚季はフォークを握る手を固めたまま、ぎこちなく首を横に振った。店員は彼の顔色を見て、小さく息をついた。「残念です。奥様は本当に素敵な方でした。私たちの名前を一人ひとり覚えてくださって……うちの娘が美大を受けると知った時も、わざわざ高価な画材セットを贈ってくださって。『娘さんに渡して、夢を諦めないでって励ましてあげて』と……」そのとき尚季は、初めて知った。しずくが店員一人ひとりの好みを覚え、誰かの誕生日には小さな手作りケーキをこの店に頼んで届けてもらっていたことを。彼が一度も気にも留めなかったその細やかな心配りこそが、しずくがこの世界にそっと差し出していた優しさだったのだ。車に戻ると、尚季は運転席にもたれ、疲れたように眉間を押さえた。なぜか指は勝手に動き、しずくとのチャット履歴を開いて上へと滑っていく。この半年のやり取りは、見るだけで胸が詰まるほどだった。画面には彼女の気遣いと日常の報告がびっしり並び、彼の返信は冷たい「ああ」「分かった」「了解」ばかり。既読スルーの方が多い。さらに遡ると、まだ二人が甘い関係だった頃の会話が現れた。しずくは道端の子猫の写真を送り、こう書いていた。【今日たまたま出会ったちっちゃい茶トラ。飼いたいなぁ。この子、尚季みたいに澄んだ目をしてる】あのとき、自分は何と返したのか。【分かった。仕事帰りに猫の餌とトイレ、買って帰る】そして、どうなった。残業に追われ、結局彼は何も買わなかった。しずくは二度とその猫の話をしなかったし、彼自身もまた、その存在を
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