Masuk結局、私はどうしても落ち着かず、自室のクローゼットを開けた。
亮介の家で着ていたような、体のラインが出る窮屈なドレスやフォーマルなワンピースは選ばなかった。代わりに、少しゆとりのあるシンプルなブラウスと、落ち着いた色合いのロングスカートに袖を通す。 いくらなんでも、あの部屋着のままでディナーの席につくのは気が引けた。 バスルームから出てきた智哉さんは、着替えた私の姿を視界の端に捉えたけど、特に何も言わなかった。 せっかく必要ないと言ったのに、それても体裁を気にする私に内心呆れているのかもしれない。 言い訳をするタイミングを逸してしまい、私はただ気まずく視線を落としていた。 それから間もなくして、手配されていたシェフが家にやってきた。 シェフは手短に挨拶を済ませてキッチンへ向かうと、無駄のない手つきで準備を進めた。 静まり返ったリビングに、微かな調理の音や「え、でも……」思わず口を突いて出た私の声は、ひどく頼りなく震えていた。私たちはお互いの利益のために結ばれただけの関係で、契約書にはこの関係が偽装であることを外部に悟られてはいけないという絶対的な条件が含まれている。もし、こんな風に会話も交わさない冷え切った二人を見てシェフが怪しんだらどうなるだろう。見えない誰かに常に監視され、妻としての価値を評価されているような気がして、心臓が嫌な音を立てて早鐘を打っていた。「気にする必要はない。彼はうちの専属シェフだ」焦る私を落ち着かせるように、彼は静かに、けれど揺るぎない口調で言葉を継いだ。「専属、シェフ……?」「あぁ。もちろん、厳格な契約も交わしている」契約ということは、私と交わしたような守秘義務が彼との間にも存在しているということだろうか。私と同じように、彼もまたビジネスとして。私の同じ…。そこまで考えて、私は急いでぶんぶんと頭を振った。私の契約には、『親密な振る舞いに応じなければならない』という恥ずかしい条件まで含まれていたことを、ふいに思い出してしまったから。「ここで俺たちがどんな態度でいようと、彼がそれを外で話すことはない」彼の絶対的な自信が滲む言葉を聞いて、私は胸を撫で下ろし、小さく息を吐き出した。「……なるほど。そう、だったんですね」亮介の家で常にまとわりついていた、息の詰まるような監視の目は、ここにはない。体裁を気にして、必死に完璧を演じる必要もない。「無駄な気遣いはいい。冷めないうちに食べろ」そう言い捨てると彼は再び銀のフォークを手に取り、私への関心をすっぱりと切るように手元の料理へと視線を戻した。「はい。……ですが、幸せというのは私の本心でしたよ」静寂を取り戻した食卓で、私はふと湧き上がった素直な気持ちを口にしていた。そう言うと、ナイフを動かそうとしていた彼の動きがピタ
結局、私はどうしても落ち着かず、自室のクローゼットを開けた。 亮介の家で着ていたような、体のラインが出る窮屈なドレスやフォーマルなワンピースは選ばなかった。代わりに、少しゆとりのあるシンプルなブラウスと、落ち着いた色合いのロングスカートに袖を通す。 いくらなんでも、あの部屋着のままでディナーの席につくのは気が引けた。 バスルームから出てきた智哉さんは、着替えた私の姿を視界の端に捉えたけど、特に何も言わなかった。 せっかく必要ないと言ったのに、それても体裁を気にする私に内心呆れているのかもしれない。 言い訳をするタイミングを逸してしまい、私はただ気まずく視線を落としていた。 それから間もなくして、手配されていたシェフが家にやってきた。 シェフは手短に挨拶を済ませてキッチンへ向かうと、無駄のない手つきで準備を進めた。 静まり返ったリビングに、微かな調理の音や、食欲をそそる香ばしい匂いが漂い始める。 やがて、シェフが料理とボトルを載せたサービングワゴンとともに、ダイニングテーブルへとやってきた。 料理が並べられるより先に重厚なボトルから、芳醇な香りを放つ赤ワインが二人のグラスへと静かに注がれる。トクトクという控えめな音が耳に心地よく、照明の光を反射した深紅の液体が、薄張りのグラスの中で美しく揺れた。 そして広々としたテーブルの上に、繊細な手仕事で色鮮やかに盛り付けられた料理が手際よく並べられていく。 「お待たせいたしました。本日の前菜は、真鯛と彩り野菜のカルパッチョでございます。柚子とホワイトバルサミコのソースで仕上げております」 穏やかで耳障りの良い声で、流れるように料理の説明をしていく。一通りの説明を終えると、「ごゆっくりどうぞ」と深く一礼し、再びキッチンへと下がっていった。 二人きりになったダイニングで、智哉さんは無言のまま、手元のワイングラスを軽く上に掲げ
それから数時間が経ち、窓の外がすっかり暗くなった頃。玄関のドアを解錠する重たい電子音が響き、私はびくっと肩を揺らした。急いで玄関へと向かうと、そこには少し疲れた表情でネクタイを緩める智哉の姿があった。「おかえりなさい」努めて平坦な声を意識したつもりだったが、少しだけ上ずってしまった。彼はこちらをちらりと一瞥すると、短く応えた。「……あぁ」ジャケットを脱ぎながらリビングへと向かう彼の背中に、私はおずおずと声をかける。「あの、お風呂、もう沸かしているんですけど……先に入られますか?」その言葉に、彼の動きがピタリと止まった。振り返った彼の鋭い視線が、私を真っ直ぐに射抜く。「……お前、何もしなくていいと秘書から言われなかったのか?」呆れたようなその低い声に、私は思わず身を縮めた。「言われました。けど……一日中ここにいて、お風呂の準備くらいなら私にもできると思って……」言い訳がましく言葉を濁す私を見て、彼は何かを探るように目を細めた。彼の手が、頭痛を堪えるように眉間を押さえる。「……まさか、掃除までしたのか」その静かな追及に、私は図星を突かれて気まずく視線を泳がせた。ピカピカに拭き上げられたローテーブルと、整然と片付けられたクッションの存在が、今さらになってひどく目につく。「……リビング、だけ」私が消え入るような声で白状すると、彼は深々と溜息をついた。「……勝手な真似を。それで足を痛ませても知らないからな」「はい」冷たく言い放たれた言葉に、私は短く頷いた。そして彼はネクタイを緩めながら、思い出したように告げる。「あとからシェフがくる」「あ、伺っています。急いで着替えます」私が慌てて自室へ向かおうとすると、彼は怪訝そうに眉をひそめた
「あら。私たちが幼馴染みだということ、お聞きになっていらっしゃらなかったの?」彼女のその思いがけない言葉に、私は完全に虚を突かれてしまった。ひどく乾燥した喉を動かし、ごくりと息を呑んで、私はようやく声を絞り出す。「いえ……今、初めて……」私が言葉を濁し、明らかに動揺している様子を見て、彼女は少しだけ気の毒そうな表情を浮かべた。「あの方は昔から、ご自分のことについては多くを語りたがらない性格でしたから」ただ純粋に、私が作り出してしまった気まずい空気を、彼女の方から積極的に和らげようとしてくれているのが伝わってくる。「そうですか」消え入りそうなほどの声しか出せなかった。それでも、声が震えるのを防ぐには、こうして短く返すのが精一杯だった。「私も驚きましたのよ。婚約者がいらっしゃるなんて、一言も伺っておりませんでしたから」丁寧に手入れされた美しい指先が、彼女の白い頬にそっと触れる。「あの時は…婚約発表の席で、あんなこと、すみませんでした。お詫びをするのも遅くなってしまって」あの日の光景が、まぶたの裏に鮮明に蘇り、どうしようもない羞恥心で顔が赤くなる。「どうかお謝りにならないで。ひよりさんもご不本意だったことでしょう。人目のある場所であのような……」彼女の声はどこまでも柔らかく、深い同情と哀愁を帯びていて、私の心の武装をいとも簡単に解除してしまった。「時々強引な時がありますので」その言葉を口にした瞬間、私の唇の端に自嘲気味な苦笑いが浮かぶのを止められなかった。強引、という言葉では到底足りない。けれど彼女に向かってそう言い訳をしながら、私は自分がその「強引さ」を都合のいい盾として利用していることに気づいていた。私たちの婚約がいかに歪で、スキャンダラスな嘘にまみれているかという事実から目を逸らさせるための、格好の隠れ蓑として。「ところで、お二人はいつ頃、どのようなご縁で?」
深呼吸を一つして、幾重にもかかっている頑丈な鍵を開け、重いドアをゆっくりと手前に引く。「どうぞ」「突然のお伺い、お許しくださいませ。お邪魔いたします」彼女が足を踏み入れると、ふわりと上品なフローラルの香りが鼻先をかすめた。画面越しでも伝わっていた彼女の纏う洗練された空気は、対面するとより一層際立って感じられ、私の胸の奥に小さな劣等感をチクリと刺す。私は来客用のスリッパを差し出し、そのまま広々としたリビングの方へと案内しようと身を翻した。「あ……どうか、お構いなく。私、こちらで失礼いたしますので」背後からかけられた静かな声に、私はハッとして足を止める。「え…でも、立ち話というわけにもいきませんし」慌てて振り返る私に対し、彼女は靴を脱ぐことなく、玄関のたたきに立ったまま控えめに微笑んだ。「お気遣いいただき、ありがとうございます。ですが、不躾に伺ってしまいましたし、これ以上長居をしてはかえってご迷惑になりますから。本日は、こちらの招待状を直接お渡しできれば十分ですので」そう言って、彼女は両手で丁寧にあの封筒を差し出してきた。「……そうですか。わざわざ、ありがとうございます」私は戸惑いながらも手を伸ばし、美しい装飾が施された封筒を受け取った。上質な和紙のざらりとした感触が指先に伝わる。そして彼女はふと思い出したように言葉を紡いだ。「智哉には、もう渡してありますの」「え……智哉さんに、ですか?」思いがけない名前に、私は思わず目を丸くして聞き返した。私のその反応を見て、彼女は小さく息をつき、困ったように微笑む。「やっぱり、あの人ったら何も言わなかったのね」智哉さんは、このパーティーのことを意図的に隠したのだろうか。それとも、ただ忘れていただけ?「……はい。パーティーのことなら、何も伺っていません」私が誤魔化すことなく正直に事実を告げると、彼女の整った
午後を少し回った頃、絶対に外へは出ないようにと何度も念を押して、秘書はようやく出かけて行った。私が一人で留守番をする間、少しでも退屈して余計なことを考えないようにという、彼らなりの配慮なのだろう。リビングの壁を占拠する巨大なモニターには動画配信サービスの画面がすでに映し出され、高級感のあるローテーブルの上には最新のゲーム機が。お菓子や飲み物まで手の届く範囲に完璧にセットされており、そのあまりにも不自然で過保護すぎる光景に、私は思わず深い溜息をついてしまった。「至れり尽くせり……」誰もいない広すぎるリビングで、私の皮肉交じりの呟きは虚しく空気を震わせただけで吸い込まれていった。私がこの部屋から逃げ出すと疑っているのだろうか。お互いの利害が完全に一致した上での、納得のいく契約だったはずなのに、彼らに信用されていないらしい。ふかふかのソファに深く身を沈め、適当な映画でも再生して時間を潰そうとリモコンに手を伸ばしたその時だった。ピンポーン静寂を切り裂くような無機質なインターホンの電子音が鳴り響き、心臓が大きく跳ね上がった。ひどく嫌な予感が胸の奥からせり上がってくる。忘れ物でもした秘書が戻ってきたのかと安堵しかけたが、すぐにその考えを打ち消す。いまドアの向こうにいるのは間違いなく部外者だ。私はごくりと固唾を呑み込んだ。大丈夫、私が内側から鍵を開けない限り、誰であろうと絶対に入ってこられないのだから。震える足を叱咤し、恐る恐る壁に備え付けられたモニターへと近づく。「亮介の、婚約者……?」画面の向こう側に立っていたのは、私が最も警戒していた亮介ではなく、あろうことか彼の婚約者だった。完璧にセットされた髪に、一目で高級ブランドのものだとわかる上品なベージュのワンピース。亮介の差し金…?自分が直接来ても、私が絶対にドアを開けないと分かっているから、警戒心を解くために婚約者を利用した……? 背筋にべっとりと冷たい汗が伝うのを感じる。考えを巡ら







