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第3話

Author: 黒紅嵐樹
あの時のことは、今でも忘れられない。

病室の外に現れた冬真の、あの冷たい声――

「……よかったんじゃないか。もともと、いるはずのなかった子だ」

それ以来、私たちはまるで何かの「了解」を交わしたように、互いに干渉しなくなった。

彼はそのままプレイボーイを続けた。

稲留家が……完全に潰れさえしなければ、それでいい。

彼がどれだけ恋人を作ろうが、結婚さえしなければ、それでいい。

少なくとも――「命」に関わるようなことが起きなければ。

……なのに、約束を破ったのは、冬真の方だった。

稲留家はもう、とっくに両親を失い、空っぽの殻だけが残ってる。

もう、無理して守る意味なんてなかった。

私の額には熱がこもり、車窓にもたれかかると、吐息すら火照っている。

冬真は凛花を落ち着かせると、戻ってきて私の側へ。

ドアを開け、私の手を取って首の後ろにまわし、そのまま抱きかかえるようにして救急へ向かった。

彼の肩越しに、私は凛花の表情を見た。

鼻をすすりながら、私の方を憎らしげににらみつけていた。

すれ違うとき、彼女は彼の服を掴もうとした――けれど、それも空振りだった。

冬真は迷いのない足取りで進む。

どんな名彫刻家でも再現できない、その整った顔に険しい影を浮かべて。

彼はいつも、私に「錯覚」をくれる。

どれだけ他の誰かに傾いても、いずれは、私の元に帰ってくるんじゃないか――って。

でも、今回は違った。

私は首を小さく振る。

目が覚めたのは、今度こそ私の方だった。

「……冬真、私たち、離婚しよう」

その言葉に、彼の歩みが一瞬止まる。

けれど視線は、私に向けられなかった。

「……え?」

「離婚、してくれる?」

彼の顔には、複雑な感情が交錯していた。

重く沈んだ表情から、困惑、そして――やがて苦笑。

「もう少し待てばよかったんじゃない?あと数年すれば……」

彼は私をひと目見て、口元をゆがめた。

その笑みに込められていたのは、からかいの色。

「俺が更生して、まともになるかもよ?」

私も笑った。けど、目の奥がじんわり熱くなる。

たぶん、熱がまた上がってきたんだと思う。

「……そしたらどうしようね?新鮮味もないし――じゃあ、兄妹ってことで仲良くしよっか?」

その瞬間、冬真の顔がピクリと固まった。

噛みしめた奥歯にぎゅっと力が入って、頬の筋肉が引きつる。

「……まだ『新鮮味』足りない?」

視界がじんわり滲んでいく中、私は無理に笑みを浮かべ続けた。

「最初から結婚なんてすべきじゃなかったんだよ。

あなたが昔言ってた通りにしておけばよかった。

『心音?笑わせんな!兄妹のほうがまだいいかも』」

でも――冬真は、そもそも私と兄妹ごっこをする必要なんてなかった。

この十年、稲留家はずっと九条家に世話になりっぱなしだった。

すでに「お荷物」以外の何者でもなかった。

だから、私たちが離婚するって噂が広まったとき――

九条家の誰もが、どこかホッとしたような顔をしていた。

私は高熱を抱えたまま、意識が朦朧とする中で離婚届にサインした。

そしてそのまま、丸二日昏睡した。

目を覚ましたとき、ベッドの脇に置かれた書類の最後のページに――

冬真の名前が加わっているのを見て、私は数秒間、呆然とした。

そして、その茫然の奥に、少しだけ罪悪感が生まれた。

あの離婚協議書は、決して誠実なものではなかった。

潔くなんて、到底言えなかった。

この十年、彼の元カノたちの「後始末」をするたびに、彼からの送金があった。

私はそれを一筆一筆、きちんと貯めてきた。

そして今、財産分与の項目にも、あらかじめいくつも逃げ道を作っておいた。

冬真ほど頭の回る人間が、私のこの「がめつさ」に気づかないはずがない。

それでも、彼は何も言わずに、すぐにサインしてくれた。

……どこか、胸の奥が虚しくなった。

もしかしたら、冬真はずっと――

私から「離婚しよう」って言い出すのを、待ってたのかもしれない。

お金で全部片づけられるなら、この先また十年、だらだらと一緒にいるより、ずっとマシだったんだろう。

熱がようやく引いた頃、

私はまだ少しふらつく体で、荷物をまとめはじめた。

十年分の結婚生活を片づけてみれば、スーツケースふたつ。どちらもパンパンにはならなかった。

階下へ降りると、家の中と外で、執事と運転手がこちらを見ていた。

「おく……稲留さん、旦那様に、出て行かれるって伝えましょうか?」

私は首を振った。

「いいわ。伝えなくて」

誰も「さようなら」とは言わなかった。

誰も近づいてきたりもしなかった。

ただ、ほんの数秒だけ時が止まり、そして、またいつものように彼らは持ち場へ戻っていった。

……寂しくはなかった。

彼らですら、とっくに分かってたのだ。

私は――この家の中で、ずっと「仮住まいの人間」だったって。

九条家の門をくぐって車が走り出すとき、私は一度も振り返らなかった。

幼いころから積み重ねてきた記憶たちが、ようやくここで、終わりを迎えた。

しばらくの沈黙の中で、運転手がふいに聞いてきた。

「……ハンカチ、いりますか?」

その時になって、私は自分の顔が涙で濡れていることに気づいた。

――解放されたはずなのに。

でも、檻の中に長くいた鳥は、

急に自由になったって、すぐには飛び立てないものなんだ。

空港について、搭乗手続きを終えたあと、私はすぐにカードも切り替えた。

そして機内に乗り込むと、深い眠りに落ちた。

この数日間、私はずっと――

どうしようもない眠気に取り憑かれていた。

何かが崩れて、重心を失ったように。

現実の中ではもう、傷を隠すこともできないから、せめて夢の中だけでも、静かに痛みを抱いていたかった。

十数時間のフライトの果て、ようやく私は――

海の向こうの異国の地に、降り立った。

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